四章・一話:切なる時間
甚大高校・保健室―――
快晴だった朝とは違い、昼には天候が崩れ出し、放課後の今の時間帯になると雨が強く
降り続く状態となっている。
『いつも雨って感じね・・晴れの続く日はまだ先になりそうだわ』
デスクで日誌を書いている白衣の女性―――保険医の三嶋桐子が、作業を中断して窓の
外を見て、鬱陶しそうに雨に告げる。
ボールペンを置き、暫く窓に当たる雨粒を眺める。
遠くで生徒達の声がする。雨音が保健室内を包み込んでいる。刻む時計の針の音が雨音
で消える。
『さてと、様子を見て、家に送らなきゃね・・・どうせ悠也クンは居ないでしょうから』
後ろを振り返り、カーテンで仕切られた場所へと視線を向ける。そこには二台のベッド
が置かれてあり、その一つを今は使用中である。
椅子から立ち上がり、ベッドで眠る女子生徒の様子を見ようと・・・
『先生、宜しいですか?』
引き戸の扉をノックと同時に外から女子生徒の声がした。この女子生徒の声を桐子は知
っており、椅子に再び座り直すと、
『どうぞ。神代さん』
『はい。失礼します』
礼儀正しく挨拶する声が聞こえ、レール音が保健室内の静寂を壊す。
扉を開けて顔を見せるのは繊細な顔立ちの美少女と言っても過言でない女子生徒・神代
雪菜である。
雪菜は扉を閉めて頭を下げる。そして、顔を上げて桐子を見る時には不安そうな表情を
出していた。
『平気よ。絆ちゃ・・各務さんは安定しているわ、今は眠ってるはずよ』
『そうですか・・・良かった。お昼休みに急に倒れるから心配して・・すいません。三嶋
先生。保健委員の私が何もせずに・・・』
雪菜の言葉の後、静寂が戻って来る。静かに流れる空気が更なる静寂を生む。その中に
桐子と雪菜は向かい合った。
『別に構わなくて。貴女はクラス委員も兼ねていて忙しいでしょう?』
『本当にすいません。・・きずなの様子は見れますか?』
『ええ、構わないわ。どうぞ』
桐子が立ち上がり、ベッドを覆い隠すカーテンを開く。
雪菜が桐子の後ろからベッドを覗き込むと、穏やかな寝息を立てて眠っている各務絆を
見た。
『良かった。もう―――心配したんだから』
『大丈夫と思うわ。いつもの発作よ』
安堵の表情を浮かべる雪菜に、桐子は穏やかな笑みを湛えながら前髪を掻き上げた。
『発作・・?』
『何でも無いのよ、気にしないで。それよりも神代さん。各務さんのお兄さんとは連絡が
取れたのかしら?』
『あ、いえ・・・各務先輩、どうやら今日は来ていないらしくて、それで一応、壱哉さ、
―――霧島先輩に携帯で連絡を取って貰おうと思って掛けて貰ったんですけど、・・通じ
ないらしくて・・・』
『そう・・だったら駄目ね、きっと夜か朝まで連絡は取れないと思うわ』
『先生・・?』
雪菜が小首を傾げているのは、桐子が考え込みながら呟くのを隣で聴いたからだ。
『何でもないのよ。彼の事だから、どうせどこかで遊んでいるんでしょう?―――ふふ、
どうせ後で各務さんに叱られるのよ。きっと』
『ふふ。そうですね。けれど・・みんな不思議がっているんですよ。各務先輩を恐れる人
は多いし、勝てる人も居ないくらい強いって有名ですけど、妹(きずな)には絶対に敵わ
ないって事も有名なくらいですから』
『うふふ。そこに魅力を感じる女の子は多いって聞いてるわよ』
『らしいですね』
あっさりと桐子に答える雪菜である。雪菜の恋人もまた有名な・・・
『雪ぃ。居るか?』
扉の外側より漢の声が聞こえた。その声を聞いた途端、雪菜の頬が赤くなる。ハッとし
た驚きで顔を上げて扉の方へと向ける。
『・・・うふふ(―――可愛い子)』
扉を強めに開けて入ってくる男子生徒。非常に体格が良く、精悍な容姿も悪くない、む
しろ格好良いと言える。
『壱哉さん・・!?―――あ、・・』
いつもの呼び方をついしてしまう雪菜が、隣に立つ桐子に聞かれたと顔を更に赤らめる。
『うふふ。いいのよ、知ってるわ。有名だものね』
『・・すいません・・』
『うふふ』
更に顔を赤くして恥ずかしがる雪菜の、そんな表情が可愛らしい。そして、顔を赤らめ
る雪菜を心配する男子生徒―――霧島壱哉が、
『雪、どうした?―――顔、赤いぜ?』
『あ。はい・・何でもないの。ごめんなさい』
『・・ん?―――6月でも風邪は結構流行ってるって聞くぜ。気を付けろよ』
桐子の目の前で雪菜の頬に自然な動作で触る。頬を軽く撫ぜる様にして触る。
『はい―――』
『うふふっ・・(あらあら、見せ付けてくれちゃって)』
この壱哉と雪菜は校内でも知られている恋人同士である。幼馴染であるとの事だが、仲
が良く周囲が羨むほどである。
『ん?―――そういえば、ベッドで寝てる奴って“悠也の妹”だろ?』
『あ、はい』
眠っている絆の側に寄る壱哉は、顔を覗き込むほどに近付ける。暫く眺め、何か納得し
た様子で二度ほど頷く。
『ふーん。結構・・可愛い子だな』
『――ッ!?壱哉さん!!・・むっ』
絆の容姿を評価した壱哉に対し、雪菜は嫉妬した表情をする。すると壱哉は慌てて絆か
ら顔を逸らし、
『違うって。悠也の妹って知っちゃいるけど見るのは初めてって事だ。誤解だぜ!』
『本当に?』
『本当だって!!―――言っとくが、俺は雪一筋だぜ。信じろよ』
『・・・もう。いつもそうやって真剣な顔で誤魔化す・・・』
雪菜が少しだけ呆れながら壱哉の側に寄る。壱哉の真剣そうな表情を見て、笑う頃にな
ると表情は柔らかいものになっていた。
雪菜の表情の緩和に、一息吐く壱哉が絆を再び見つめる。暫く寝顔を眺める。
『・・・きずなって名前、結構・・良い名前だよな。俺は好きだぜ・・なんでだろうな』
『え・・・?』
『あ、いや。悪い・・別に意味あって言ってる訳じゃ・・無いと思うぜ・・―――多分』
慎重に言葉を口から出しているのは、雪菜を気にしてだけでは無い様だ。絆の顔を深く
見つめる様子を雪菜は隣より見つめた。
雪菜の瞳には、壱哉が自分でも気付いていない感情が映っている。そんな壱哉を眺め、
寂しそうに微笑んだ。
『お二人さん。各務さんをこれから送ってくわ。お兄さんも居ないんじゃしょうがないで
しょう』
『あ、すいません・・お願いします』
雪菜はこれからクラス委員の集まりがあって忙しい。絆を家まで送って行きたいが、そ
れでは遅くなってしまう。
『だったら俺が送ってくぜ。悠也の家は知ってるしな』
『壱哉さん・・?』
壱哉は各務家のある場所を思い出す様に、顔をやや上に向けて天井を見る。その突然の
壱哉の発言に雪菜と桐子は不思議がった。
『あら、いいの―――部活は?』
『そうですよ。格闘技部の試合が近いから忙しいって、前に言って・・』
『ん?――ああ。今日は俺達の部は休みだぜ?―――なんだ、知らなかったのか?』
『え、そうなんですか?―――私は聞いてないけど』
『確か、・・武道場の修繕工事って今日だったわね?』
思い出す様に桐子が言うと、壱哉は桐子の顔を見ながら頷く。
『その関係で剣道部と格闘技部は休みになった。―――別に雨でグラウンドが使えなくて
も何処でも出来るんだけどな。俺としては試合も近いし休みたくないんだが、ここぞとば
かりに水泳部顧問の相澤先生の奴が五月蝿い』
水泳部と格闘技部はかなり気が合わない。喧嘩沙汰になった事もある。そして、事ある
毎に絆と雪菜の担任教師・相澤志郎が口を挟んでくる様にもなっている。
『けれど良いんですか?―――壱哉さんのマンションと絆の家って方向が違うし』
『別に構わないぜ。俺としては―――悠也の家に付く頃には携帯に連絡あるかもな。だっ
たら俺が一緒の方が便利じゃないか?』
『確かにそうね。霧島クンなら、むしろ神代さんや私が一緒よりも安全だと思うわ』
『先生・・』
壱哉にはあまり迷惑を掛けたくないと思っている雪菜なのか、はっきりとした答えが出
せないでいる。
『雪。最近の事、知ってるだろ?―――剣道部の三崎数馬』
『あ・・』
思い出す様にしてハッとする雪菜。今、三崎数馬は病院で入院している。
甚大高校内でも有名な事件である。三崎が突然に行方不明となり、そして、廃墟ビルで
発見された訳だが、その間の記憶の一切が無かったという奇妙な事件の事だ。
事件の犯人は未だ捕まっておらず、警察も動いてはいるが何の情報も無く進展していな
いのが現状だ。
『だったら、神代さんを一人で帰してもいいのかしら?―――霧島クンとしてはそっちの
方が不安じゃなくて?』
桐子の何気ないこの一言であったが、それが壱哉の表情を陰らせ、その壱哉の表情の変
化を見た雪菜が項垂れる。
『・・・?(私、変な事を言ったかしら・・)』
『雪には・・あいつが―――“あの野郎”が居るしな・・』
『・・・』
まるで憎しみを籠めて呟く壱哉であり、その感情を籠める表情からして普段の壱哉が見
せない隠された表情であると・・・雪菜は知っている。
雨音が強く聞こえてくる。その中で壱哉は窓の外へと顔を向けて雪菜から視線を逸らす。
壱哉が視線を逸らした事をそっと見る雪菜は、同じ様にして視線を窓の外へと向けた。
『壱哉さん・・・私・・』
『別に・・気にしてないぜ・・・・・別にな』
『・・・・・・はい』
声に苦味がどうしても出てしまうと、壱哉は反省している様子でもあったが、それでも
感情は隠せないとも思っているようだった。
『先生。俺、とりあえず帰り支度してきます』
『え、ええ・・そうね』
『じゃあ、私も―――きずなを宜しくお願いします。三嶋先生』
『了解よ』
二人は桐子に話し掛けると、お互いに語り合わない無言の重さを保ちつつ、保健室を出
て行ってしまう。
扉が閉められ、保健室内が静寂な雨音に包まれる。
『神代さんと霧島クン。きっと何かあるわね。ひょっとして・・・三角関係かしらね』
興味深げに考える桐子。全然緊張を感じさせない所が桐子の魅力とも言えるが。
桐子は、壱哉が来る前に所用を済ませる事にした。絆の担任である相澤に連絡を入れる
のを忘れなかった。
職員室―――
『はい・・・・そうですか。ぼくが送っていくつもりでしたが、そうですね、その方が無
駄は省けそうです。はい・・ありがとうございます。はい・・それでは・・・』
数人の教師がデスクで作業に従事している。その中の一人、相澤志郎は保健室からの電
話を終えて受話器を置く。
職員室内の様子を眺め、窓の外を見る。
雨粒の多さが目立つように窓に降り掛かっている。雨音も先程よりも酷く聞こえる。
『この雨じゃ、何が起こっても分かりませんね・・』
『え・・?―――相澤先生、何か言いました?』
デスクが隣り合う三年のクラスの担任を受け持つ国枝良子が、相澤のぼそっと呟いた事
を中途半端に聞き逃して尋ねてきた。
今、彼女は無断で休んだ悠也と連絡を取ろうと思って電話の受話器を握っていた。それ
を中断する仕草を見て、相澤が爽やかな笑顔を見せる。
『いいえ、何も。・・そういえば各務悠也は来ていませんね?―――今日も?』
『え、あ、はい。それで家にも居ませんし、携帯を学校に持って来るのはどうかと思いま
すけど、こういう時って便利ですよね。これから電話して見るつもりです。駄目なら、妹
さんに伝えます・・あ、確か妹の各務絆さんは先生が受け持つクラスの生徒でしたね?』
『はい。そうですが・・・恐らくは各務君は保健室で寝ていると思います。お昼に調子を
崩しましてね』
『そうですか・・・じゃあ、連絡はしない方が良いですね。悠也君、連絡が付けば良いで
すけど・・・』
『恐らく、・・無駄じゃないですか?連絡は付かないと思いますよ―――彼も“今は”忙
しいでしょうからね・・・』
『え・・・?』
『いえ、何でもありません。それではぼくはこれで・・・今日は雨ですから、水泳部は休
みにしましたので、折角なので帰ります――――』
相澤が立ち上がると、早々にデスクの上を片付けて職員室を笑顔で出て行った。その相
澤の後姿を暫く眺める国枝は、
『そういえば、相澤先生っていつからこの学校に赴任してたのかしら・・』
小首を傾げ、いつの間にか居たかの雰囲気を常に漂わせる相澤の事を考えた。
職員室を出て―――
廊下をすれ違う生徒に軽やかな笑みで挨拶する相澤は、窓が開けられている場所に立つ。
恐らくは掃除を担当していた生徒が閉め忘れたのだろうが、相澤はその窓を閉めもせず
に、振り込む雨にスーツを濡らしていった。
窓の外を眺めると、そこには二つの傘が見えた。どうやら男女の生徒の様で二人は寄り
添うようにして歩いている。
校門まで歩く二人を眺め、そして、校門で止まる二人を見て、
『おやおや・・・仲の良い事で、非常に・・・非常に結構な事ですか?―――ふっ』
一瞬、笑みが深い闇に包まれた様に変わった。その後は終始、爽やかな笑みを崩さず、
他の生徒が気付いて挨拶しようとすると、相澤は無視して歩き去って行った。
その生徒は、相澤の冷たい表情に不信感を持ってしまう。歩き去っていく姿から暫く視
線が外せなかった。