若干、薄曇の空の下―――
甚大高校には多目的ホールと呼ばれる建物がある。普段は使われる事なく封鎖されてい
るが、悠也にとっては格好の隠れ場所である。
屋上で仰向けになって空を見上げている。
『雲が多いな―――また、雨かよ』
「悠様っ・・・話を誤魔化さないで下さい」
『別に誤魔化してねぇよ。ったく、小姑過ぎるってンだよ、キョウジ―――』
携帯電話を面倒臭そうに耳に当てて、やはり面倒臭そうに喋る。
『オレの暇に付き合うより、練習に励めよ』
「悠様。どうかご自重下さい。授業が終わったら、出来れば旧校舎に・・・おれ達の誰か
で家まで送りますから」
『大丈夫だって。学校にまで手を出す霧生じゃねぇよ・・・手ェ出すンならとっくにして
るはずだ。だろ?』
「た、確かにそうですが・・・ですが!―――今の悠様は力が使えません、いつ敵に襲わ
れたらと思うと・・!!」
必死に携帯電話の向こう側で告げるが、声だけでは必死さは伝わっていない。
『オレは強ぇってンだよ。そン時は素手で戦ってやる。体力的には問題ねぇしな!』
「悠様!!」
『冗談だよ。オレはそんな馬鹿じゃねぇし!―――それに今日は補修ってンだ、そっちに
は行けねぇからな・・・じゃあ、切るからな!』
「あっ!?・・悠様!!」
電話を切る。その後は二回ほど掛かってきたが敢えて出なかった。五月蝿い携帯電話を
ズボンに入れる。
『ふぅ!―――オレを誰だと思ってやがる。ったく・・ただでさえ、水泳補修でウンザリ
してンだ。ちぃっとは気を利かせろってンだよ』
身体を起こすと、ズボンから小さな財布を取り出して開く。中身を覗くと、千円札が二
枚だけ入っている。
『絆ァ、小遣いアップしてくれよなぁ・・・ハァ・・水着なんて買えば、金が無くなっち
まうってンだよ・・・ハァ。しゃーねぇな・・・購買部に行くか』
立ち上がり、多目的ホールを出て行こうと、何故か手摺の向こう側へ飛び越え出る。
この多目的ホールは校舎棟の二階の高さがあるが、悠也は気にする様子が全く無い。
風が舞い上がって悠也の前髪を荒らす。真下を見つめ、平然とした表情で右足を前に出
した。そこには足を付く場所が無く――――
軽々と着地する―――
『よっと!着地成功っ』
『――じゃないぜ、悠也!』
武道場の傍に上手く着地したと思った矢先、身近で声を掛けられる。声の主は姿を見て
から霧島壱哉であると判った。
『わわっ!?―――壱哉ッ』
振り返りながら慌てる悠也。忍の感覚を失っている所為である。
『おいおい、誰かに見られたらどうするんだ―――全く、お前って奴は』
『別にいいだろ!―――まぁ、見つかった時はオレの飛技ッ、って事にするってンだ!』
『はぁ、やれやれ、お前は相変わらずだぜ・・・それよりも珍しいな、ここに(武道場)
に用か。昼はもう食べたのか?』
壱哉は、後方の武道場を親指で指差す。昼を誘ったが、それを悠也はあっさりと断る。
『そこ(武道場)じゃなくて、あそこ(多目的ホール)ってンだ。―――ったく、弁当っ
てンだよ・・恥ずかしくて一緒に食えっか!』
『全く羨ましい限りだぜ、お前―――愛妹弁当に恵まれてるぜ』
『って・・・ふざけんじゃねぇよ、壱哉!』
悠也との会話で壱哉が笑う。それに釣られて悠也は苦笑いを浮かべた。
「愛妹」と言われて、はっきりと否定出来ないのは確かだ。恥ずかしくもあるが、事実
であると心が既に認めてしまっている。
『それよりも壱哉。お前こそ、ここで何やってンだよ?』
『ん?―――あ、ああ・・人を・・・待っている所なんだ』
『人ぉ?―――って、まさか、神代雪菜かよっ!?―――って、おいおい、壱哉っ、こん
な所でちぃっとばかりマジぃだろが!!!―――少しは自重しろって!』
からかう手付きで、ニヤニヤと壱哉に笑って見せる。そんな悠也に壱哉は軽く笑って悠
也の会話を逸らすと、
『別に・・・それだったら良いんだけどな・・・俺としては』
『壱哉・・?』
『ん?――ああ、別に何でもないんだ。気にしないでくれ』
そう言うが、壱哉の表情は晴れずに雲っている。明らかに悩みを抱えている様子だ。
悠也は、壱哉の感情を読み取る事はせずに察した。
『壱哉。・・・・・・何かあればオレに話せ。力になる』
『悠也・・』
『命の恩人だからな、それに絆への恩もある。その恩にオレは報う』
真剣に壱哉に眼差しを向けて言う。その際には普段の陽気さは消えて、自信漲る表情へ
と変わっていた。
そして、壱哉をその場に残し、悠也は購買部へと向かった。
悠也の背中を見続ける。悠也は去り際に右手を上げる。
『悠也・・―――多分、お前にアニキの事は話せないぜ・・そうだろ?―――』
背後に立つ人物―――男子生徒が姿を見せる。どうやらずっと壱哉と悠也のやり取りを
監視していた様だったが、果たして悠也がその事に気付いていたかは・・・
『奴に関わるな―――“龍征”・・』
『俺は・・・「霧島壱哉」だ。あんたに弟(龍征)呼ばわりされる覚えは無いぜ・・』
壱哉は振り返り、憎しみを籠めてその生徒を見据えた。
二学年棟―――
四つある内のこの校舎―――二学年棟は、主に二学年の生徒の教室が集中している所か
らそう呼ばれている。そして、この校舎の一階より突き出た建物に購買部はある。
本来は人が集中しているが、何か物々しい雰囲気が購買部周辺を包んでいる。
各務絆は、クラスメイトで友人の大倉水瀬と一緒に購買部を訪れていた。廊下を歩く内
に、購買部へ迎えずにただ立ち竦んでいる生徒を何人も見かけて不審がる。
『きっずー?・・どうしたー?』
『え、うぅん・・何だか周りがぴりぴりしてるなって思って』
水瀬は溌剌として明るい可愛い子である。校内でも絶大な人気を誇る神代雪菜の前では
霞んでしまうが、目を付けている男子生徒は多い。
『確かにそうよね。購買部に何かあるって事?』
『え、うーん。解んないけど、とりあえず行ってみようよ』
絆の勇気はこういう時に発揮されるのか。恐れを知らない二人は、周囲から擦れば不自
然に見えて、その中を歩いて行った。
購買部前―――
『ダァァ!!!た、高いってンだっぁ!!!って、か、金が足りねぇぇ!!』
叫ぶ男子生徒。必死に訴える様相の逞しい身体をした生徒を見た瞬間、絆は額に手を付
けて思いっきり、
『ハァ~~~。そういう事か・・』
『やっン。各務先輩じゃん。ラッキ!』
『水瀬ぇ~、あの何処が嬉しいかの~?―――あの不良で“有名”な!!』
大声で誇張して言うが、水瀬の瞳は悠也に一心に向けられて煌いて、絆の言葉など耳に
入っていない様子である。
『おっ!?―――絆ぁ!!いい所に来たってンだ!!!』
『うわぁ・・・来る、くるぅ!』
近付いて来る悠也に、絆は後退りする。とにかく学校では悠也には会わない様にしてい
る絆だった。悠也の妹と言われるだけで怖がられて逃げ去る生徒も多いのだ。それほど悠
也は恐怖の対象として名が通っており、あの体育教師の大道寺義影を殴って入院させた事
だけでも校内で語り継がれる有名話だ。
悠也が歩けば、その通ってきた道は流血を彩るだろう。挑んできた相手は容赦なく殺す
だろう。そんな「勇名?」さえ持つ兄を絆は恥ずかしく思っていた。
背中を向けて逃げ出そうとする絆であるが、悠也の歩の方が早かった。
『おい!―――なんで逃げンだ!!!きずっ、お前なぁ~』
『ハァ・・・掴まっちゃった。また、私が恐怖対象になっちゃうよ~』
周囲を見渡せば、生徒達が絆をジロジロと見て囁き合っているのが見える。「私はこの
人とは関係ありません!」と豪語したい気分であるが、そうすれば悠也が五月蝿いだろう
事は容易に想像が付く。
『あ、あの!!―――あたし、きっずーのクラスメイトの大倉水瀬(おおくらみなせ)っ
て言います。いつも、いっつもっ!きっずーと仲良くさせて貰ってます!』
『え、みな・・・せ?―――いきなり何を・・』
絆の動きがぴたりと止まる。ぎこちない動きで隣に立つ水瀬を見ると、まさに水瀬の瞳
はハートの様に輝いていた。
水瀬の元気の良さを悠也は気に入ったらしい。それに堂々と「絆の友人です」と言われ
て嬉しくもある様子で、ニッコリと笑って見せる。
『おう!お前が水瀬か!いつも絆が世話になってるな。家でよくお前のこと聞くぜ!』
『え!?――――えぇぇ!!!!!!!!!!きゃぁぁぁぁぁ!!!』
悠也の言葉に狂喜する水瀬。その狂気振りに周囲の生徒達が吃驚する。そして、悠也を
目の前にして恐ろし過ぎて発狂してしまったのだとヒソヒソと話し合った。
絆は周囲の生徒達の思う所を知り、半眼で悠也と水瀬を見る。
『お、おい。絆!?―――あいつ、どうしたってンだよ!』
『・・・ハァ・・』
『って、そこで溜息を吐くか?フツー』
『ああぁ、あたしって幸せ者ぉー。この。このぉ!』
『って、痛いよ、水瀬。痛いってば!!』
あまりの嬉しさに水瀬が絆の脇腹を何度も肘打ちする。そんな絆と水瀬のやり取りが理
解出来ない悠也は、ただ小首を傾げた。
水瀬が落ち着くのを待って―――
『ふぅん。水着を買うつもりだったんだ。てっきり、パンでも買いに来たと思ったけど』
『馬鹿言うンじゃねぇよ。お前はオレが弁当を授業中に食べたと思ってンだろ!』
『うん』
はっきりと頷く絆には迷う心が無かった。そんな絆に悠也は落ち込んで肩を落とす。
『授業中かぁ~、うふふっ、弁当をしゃかりきに隠れて食べる・・そんな各務先輩も・・
きゃっ』
『そこそこ、どうして照れるってンだ』
『・・・ハァ、水瀬ぇ、しっかりしてよー』
水瀬が悠也に見惚れている。そんな水瀬に引き気味な悠也であり、呆れている絆だった。
とりあえず呆けている水瀬を放って置いて・・・
『絆、わりぃ・・小遣いアップってンだ!』
頭を下げて、両手をパチンと叩いて“絆大明神”に祈る。絆は溜息を吐きながらも、財
布を出して開くと、三枚の千円札を出す。
『もう、今月は苦しんだからね!』
『しゃーねぇだろ!!大道寺の野郎が鬱陶しく言いやがるンだ!―――補修をサボれば留
年ってな!!しかも水泳ってンだ!!!だから水着も新しく買わなきゃならねぇしな!!
くゥ~~、考えただけでもムカついてくるってンだ!!!』
『・・ふーん・・水泳なんだ。―――へーき、お兄ちゃん?』
妹なりの心配する表情と眼差しだった。そんな絆に悠也はいつもの調子で、
『へへんだ!任せろ。へーきってンだよ!水泳なんてな、兄さんの直伝泳法(クロール)
でちょちょいのちょいってンだ!』
『うん。征司兄さんの水泳の凄さは知ってるけど・・・』
『へーきってンだろ。絆!―――オレは誰にも負けねぇってンだ!』
右腕を勇ましく上げて肘を曲げるのを絆に見せ付ける。腕の逞しさより身体の頑丈さと
丈夫さを示したい様だ。
『・・・・昔から身体だけが丈夫だったからね、お兄ちゃんは』
『身体だけ、は余計ってンだ!』
『はいはい。・・けど、本当に気を付けてね』
絆の心配を悠也は感じ取ると、照れた様子を見せる。少しだけそっぽを向いて、
『おぅ・・』
『うん・・・って、水瀬!?――――どどど、どうしたのっ!?』
悠也の言葉に応えてすぐだった。その場に居た水瀬が忽然と倒れているのを発見した。
『アァ・・麗しい兄妹愛・・・蕩けそぉ、あたし・・・』
『・・さっすが絆の「おトモダチ」ってンだ』
『お兄ちゃん!―――もう馬鹿にしてっ、怒るよ!!』
絆が右手を拳にして上げる。すると条件反射の様に反応して両手で頭を押さえ、すぐに
そんな自分に気付いて顔を赤くした。
『キャん・・可愛いぃ~~』
目が完全にハートマークになってしまっている。
『むっ・・・こいつは手強いってンだよ』
『う、うん』
二人の息の合った意見と頷きで、その場のやり取りは終わった。
悠也は、水瀬にジロジロと見られながら、買い辛そうに男子用・新競泳水着と水泳用具
一式を2,500円で買うと、逃げる様にして去っていってしまう。
『あぁ・・いいねぇ~、あのお尻・・じゃなくてぇ~~、後姿もカッコ良い~~』
『もう・・・何処が良いの!あんなお兄ちゃん!!!』
絆は呆れるが、水瀬は笑う。その笑みは嬉しそうに見えて切なそうにも見えた。
『きっずーは知らないだよ。兄妹だから・・・各務先輩って人気が結構あるんだよ』
『ふ、ふぅん』
『すまない・・ちょっといいか?』
『野生的とか精悍って意味で言えば、きっと3年の霧島先輩や桐生先輩の方が似合ってる
と思う。けど・・けど各務先輩はそう言う意味じゃなくて、素直な気持ちで凄くカッコ良
いって思えるんだよ。―――前に聴いたんだけど、あの大道寺先生に厭らしい事された女
の子が居たらしいんだけど、その子を庇って守ったりとかって、・・・不良ってイメージ
が大き過ぎてあんまり噂にならないけど、そういう優しさを持ってるんだよね。各務悠也
先輩って』
『ふぅん・・・そうなんだ・・』
水瀬がそこまで悠也の事を好きだとは知らなかった絆だった。その水瀬の言葉を嬉しく
も思いながら、自分の知らない悠也を知っている事を羨ましくも思った。
『すまない・・・すまないが!』
『え・・え!?―――ア、ごめんなさい!』
『きっずー。誰なの?』
『え・・・知らないけど・・』
先程から声を掛け続けていたらしいが、水瀬も絆も会話に集中してどうやら気付かなか
った様だ。
声を掛けてきた男子は、甚大高校の生徒では無いらしく普段着の姿である。
『あの・・何か?』
『――――事務所に行きたいが、広くて迷ってしまった、案内してくれると助かる』
『・・・え?』
『ひょっとして・・・貴方って、来月から転校して来るって噂の・・』
『え・・そんな噂あったのっ?』
『きっずーは疎いんだよ~。もう!!―――あたしは、パンを買って先に教室に戻ってる
から、きっずーは案内、案内!』
そう言うと水瀬は小走りに購買部へと向かって行く。悠也が去った購買部はようやく平
穏無事な様子を取り戻して普段の賑わいが戻って来ていた。
『えー、私一人で!!ちょっとっ!!―――みなっせってば!!!』
『じゃあねぇ!!!!よっしっ!やきそばパン、ゲットあるのみっ!!!』
豪快に生徒達の荒波に泳いで行く。もはや絆の声など聞こえていない必死さである。
『邪魔だったか?』
『あ・・・その・・すいません。事務所、ですよね・・・・こっちです。(ハァ・・)』
『頼む』
絆が先に歩き、その後を続く。やがて慣れてくると絆は隣を並んで歩いた。
『私、一年の各務です』
『・・かがみ・・』
『失礼ですけど、貴方は?』
絆が円らな瞳を向けると、
『相葉・・―――――相葉悠輔・・』
ぽつりと言う。その適当に刈り込んだ黒髪、引き締まった容貌の中で見せる若干の感情
の乱れの様な表れが、絆には印象的に映った。
『一緒のクラスになれると良いですね』
絆としてはごく自然に出した言葉だったが、それに伴う微笑を相葉悠輔に向けた時、悠
輔はそっぽを向いて、
『・・・別に・・』
『ふふっ』
悠輔の答えが、悠也と似ていると素直に思えて笑った。そんな絆の笑みが印象的に悠輔
には眩しく思えた。
結局、甚大高校内に不慣れな悠輔の案内をする事になった絆は、放課後も付き合う事に
なった。