雨が止み始め―――
廃墟ビルを見上げる二人が居る。その二人―――男女は、高校の制服を着ている。その
制服を知るものが居るとすると、甚大高校とすぐに判るだろう。
『どうする?―――雪菜。今なら介入出来る』
長身の漢の問いに、小柄な女子は小さく頭を振る。揺れる髪より僅かに水滴が弾く。
『まだです。まだ気は熟していないと・・“鏡”は告げていますから』
『そうか。分かった』
『―――はい』
女子は強みを籠めてはっきりと答えた。その答えを漢は了承する。一歩右足を前に踏み
出すなり、急に踵を返した。そして、歩き去って行く。
漢が去ろうとするのを、女子は暫く見守り続け、そして、もう暫くすると漢を追い掛け
る様にしてその場を立ち去って行った。
廃墟ビル・1F―――
高い天井に落書きが酷い壁。薄暗く埃臭い空気が沈黙を齎して重くする。
雨音が先程よりも遠退いている。もう暫くすれば雨も止むだろうと、悠也は予測した。
『・・・(ここは・・)』
両足は縛られていないが、両腕は左右に引っ張られて縄で手首が縛り付けられている。
痛みはある。特に腹部に痛みが残るのを感じながら、目の前の忍の黒識を睨む。
『オレをどうするつもりだ・・』
問い掛けながら、相手の出方、仕草、感情の変化を具に探ろうとする。しかし、それも
全身黒ずくめの忍装束と頭巾によって素顔を隠している為に把握し辛い。
黒識の右手には黒の布地・頭巾(マスク)が握られている。それが悠也の素顔を暴いた
証拠になる。
また、上半身の上衣は脱がされて垂らされている。肌に密着する黒薄地のスーツが肉体
の強みを―――筋肉の凹凸を映えさせて見せる。
強靭に引き締まった肉体に密着するスーツは、かなり薄い布地で出来ている様で、呼吸
する度に筋肉の躍動が良く分かった。また、雨に濡れている所為で、まるでしっとりとし
た色と艶やかさを放つかのようである。
黒識が左手を伸ばし、悠也の胸に触れる。悠也がきつい視線を投げ掛けてくるのを、ま
るで何も気にしない様子で触り続ける。
『鍛えている肉体だ。強く、柔軟性に長ける』
『・・・・くっ。触るな』
触れる事に屈辱感を抱く。両手首に巻きつく縄を手で握り締め、更に強く握る。
『若いな。まだ・・』
『・・・・・・』
触り続ける黒識の手を意識しながら、悠也は目を瞑る。怒りに身を任せる事はせず、冷
静に心を静めていく。
『霧生悠。全てはお前次第・・・何を成すべきか。その問いに答えて貰おう』
『・・・・・・・』
黒識の言葉に悠也は静かに目を開ける。冷静に満ちる中で、精悍で若々しい顔を黒識へ
と向ける。
『お前は・・・・お前は誰だ』
『――――――闇(黒)を知る者(識)・・』
『・・・黒識・・』
『このまま敗北を認めるか?―――守るべき者を失い行くお前に同情はしない。ならば、
大人しく一族の下へと帰るが良い・・それがお前の進むべき運命だ』
『・・・・』
黒識が手を悠也の身体から離す。右手に握り締めていたマスクを捨て去る。そして、踵
を返した時だった。
悠也が声を出そうとする直前に、このフロアに変化は起こった。空気が汚れていくのを
知る。それは明らかに埃などの所為では無かった。
『お前は・・ショウキ―――か』
『・・・・(オレの神技を受けたはず、何故だ・・)』
『うぃぃいりぃぃ・・とうしゅぅぅ~~~、ようやぉくぅ・・・みつれておれおし・・』
よたよたと両足を縺れさせながら歩いてくるのは、紛れも無く悠也が倒したはずのショ
ウキだった。
不穏な風の匂いと共に、呂律が完全に回っていない声が聴こえてくる。そして、何より
も近付くに連れて、ショウキの姿が全身焼け爛れているのが分かった。
明らかに悠也の攻撃が致命傷に達していたと判別出来る。悠也も黒識も尋常ならざるシ
ョウキの姿に警戒する。
『・・・あれは・・―――――――そうか、亡者と接触したか』
『・・・(亡者?)』
『そうか・・・良い機会か・・』
『・・・・・・』
黒識が呟くのを、悠也は理解出来ないまでも聞き取る。悠也が黒識の背中を見据えた瞬
間、一瞬だけ逆巻く風が起こり、その風が静まる頃には既に姿を消していた。
黒識の気配すら完全に感じられない。
『りぃぃぃ・・―――――――――――――こく、し・・・いぃ~~。やつれおうぉけい
けぃて・・・いおいれていとす』
『何だ・・・一体・・』
正気じゃないと悠也は判断する。先程、黒識が去り際に残した「亡者」という言葉が頭
の中に引っ掛かる。
何を喋っているのかもはや解らない。次第に近付いて来るショウキに対して、悠也は警
戒感以上に危険を感じた。
『悪いが・・ここでオレは負ける訳には――――――――ッ、神技・・ッ』
縄を握り締めていた両手に力を更に籠める。言下、握り締められている縄の部分が赤く
発光し始め、次の瞬間には轟々と炎を燃やした。
炎が縄を焼き切る。その時既にショウキは身体を前に押し倒す様にして悠也目掛けて駆
け出していた。
『りぃいぃぁあああ!!!!!!!!!!!』
『――――――――――――迦具土ッ!!!』
体勢をすぐさま切り替える。右拳に一気に力を集中させると、向かって来るショウキの
胸目掛けて右拳を突き出した。
『がっ!?――――がっ・・』
『ショウキ・・・』
鈍い音がした。正気が愕然とする表情で固まっている。
右拳を突き出す態勢の悠也は、静かに顔を上げた。その瞬間、右拳が触れているショウ
キの胸より炎が上がった。
炎が全身へと巡っていく。その中で悠也は右拳を引いて半歩下がった。
『ショウキ・・』
『・・・・・・・・・・ゆ、う・・・さま・・ワレあ・・・いったい・・・・・』
『静かなる闇を受け入れろ。ショウキ』
燃え盛る炎の中でショウキは、静寂の中で告げられる悠也の声を穏やかに聴いた。
そして、全てが無に帰すその時・・・ショウキは目の前に見える真実を垣間見る。
『ワレ等、を・・・お見捨て、か・・・・貴方様・・・は・・・・・・・・お許し、くだ
さ・・・・い。うんめ、い・・・・・・・・には、抗え・・・・・・・・ませ・・・』
『・・・・・・・・』
ショウキの身体が倒れる。肉を焼く酷い匂いに鼻が衝く中で、悠也は黙って見守り続け
た。それが当主としての・・・霧生一族の当主としての、まるで宿命の様に。
雨は止み、夜空が忍び寄る―――
悠也は、既に深夜の時間帯で誰も通らない道を、各務絆を背負って歩き続けている。時
折、絆を起こさない配慮をしながら背負い直す。
『絆・・・お前が無事なら・・』
廃墟ビルに残して来た三崎は、容態も悪くなく、既に呪詛が身体から消えている所から
して、朝になれば何事も無く目覚めるだろう。そして、その時には自分がどうしてここに
居るのかさえ“忘れている”はずである。
『ン・・ん・・』
絆が穏やかに眠っている。時折、可愛らしい声を漏らすのを、悠也は間近で聴いた。絆
の吐息が耳に掛かってくすぐったいが、それも安堵感の一つと思えてくる。
―――霧生悠。全てはお前次第・・・何を成すべきか。その問いに答えて貰おう
『成す必要も無い―――オレの覚悟は絆と共にある・・今を守るだけだ。絶対にな』
絆を背負いながら左手に持つ星辰剣が僅かに震えている気がしてならなかった。錯覚だ
と思いながらも、何か勇気付けられる気がした。
夜の闇は一層深く静けさを増していく。月光が二人を照らす。その闇の光明の様な道を
悠也は、妹―――絆と共に歩き続けた。
忍務「完了」