二章・一話:水月
雨止まぬ薄暗い昼間・甚大総合病院―――
IFAOのエージェント・佐伯隆一郎に呼び出された各務悠也は、昼間にも拘らず静け
さが漂う病院の廊下を共に歩いている。
『休み中に悪かったな。不満か?』
『・・別に問題ない。ただ今日が日曜だっただけだ』
タンクトップの二枚重ねの服装の悠也は、佐伯には一切の視線を向けず、前だけを見据
えて淡々と答える。その答えに佐伯は含みの笑いで応じる。悠也の家庭環境を知っている
からこその笑みだった。
『ユウ。一週間前に起きた“姉妹の事件”を知っているか?』
『―――ああ。高校生の姉妹が誘拐された事件だな・・事件としては、新聞の片隅程度の
内容に過ぎなかったはずだが・・・・・』
近年では多発する未成年が起こす事件に報道関係は集中している。その所為でマスコミ
は眼中に無いといった風だ。しかし、日本では誘拐事件を単なる一事件として片付けられ
る問題ではないのは確かである。
『・・・介入したのか?』
『・・そう思うか?』
『・・・』
佐伯は曖昧に笑う。肯定も否定も示さない笑いに悠也は納得しかねる表情を僅かに出す
が、それもすぐに消し去り、元の表情へと戻す。
『話を続けるぞ。姉妹は高校生・・両親は資産家ではないが、会社経営で比較的裕福だ』
『・・・・』
悠也は鋭い視線を前方に投げ掛けながら、佐伯の言葉を無視する様な表面上の姿勢を見
せた。
『両親は現在、海外出張中という話だ。事件を聞いて明後日には帰国予定になる』
『・・・・』
廊下の角を右に曲がる。その先にあるエレベーターへと向かう。そのエレベーター前で
立っている看護師が悠也と佐伯に視線を向けてくる。
『彼女は看護師の二階堂瀬名さんだ。我々に協力してくれる。一応、私達は警察関係者で
あると伝えてあるから心配は無用だ』
『・・っ、・・・そうか』
看護師の女性の顔を見て、また佐伯が看護師の名前を言った瞬間、悠也が僅かに両目を
細める。
エレベーター前に来ると、看護師が悠也を見る。悠也は看護師の瞳を見つめながら、挨
拶程度にそっと頭を下げる。
『二階堂さん。彼の事なら心配なさらずに・・彼は私の部下の・・・』
『草柳(クサナギ)です。宜しく。二階堂さん・・』
『・・こちらこそ。では、ご案内致します。院長には予め言われておりましたから』
『申し訳ない』
看護師がエレベーターのボタンを押して扉を開ける。悠也と佐伯の二人が乗り込んだの
を確認すると、5階のボタンを押した。
『何処へ?』
静かな駆動音が響く中、ゆっくりとした動きでエレベーターは5階へと向かう。その向
かう最中で悠也は佐伯に聞くが、それに答えたのが看護師だった。
『藤島さんの病室です。506号室になります』
『ユウ。先に言うのを忘れていたが、姉妹のうち姉が昨日の昼間に解放されている。その
彼女を警察は保護する目的も含めて入院させた訳だ』
『そうか。それで怪我は?』
悠也の質問にやはり佐伯より早く看護師が答える。
『ほぼありません。膝を擦り剥いている程度です。・・ですが精神面で相当の恐怖感情が
見られます様で・・・よほど怖い目にあったんでしょうね・・』
『そうか・・』
『・・・・・・・・』
悠也があまりにも自然に看護師と会話している。そんな様子に見えた佐伯が、二人の顔
を交互に見つめる。しかし、二人共、視線を交わし合うという雰囲気も無い。
『すまんが・・―――ユウ。二階堂さんとは知り合いなのか?』
『さあな』
『いえ、知りません』
『そうか・・すまないな。仕事上、どうしても疑い深くなる。癖だ』
唐突なまでに気になった佐伯の質問に、悠也と看護師はさらりと答えた。
エレベーターが5階に到着する。扉が開き、外の雨景色もあって、廊下の静まりが静寂
を齎している。
ナースステーションに常勤する看護婦の二人の若い女性が、エレベーターを出たばかり
の佐伯と悠也の姿を見て囁き合う。
その看護師二人は、佐伯の黒スーツ姿に不信感を抱く視線を向ける。しかし、悠也には
何か嬉しそうな顔をし、聞こえてくる会話からして好印象を抱いている様子だった。
『人気者だな。ユウ』
『・・鬱陶しいだけだ』
軽い冗談の交わし合いであるが、そんな風には看護師には到底見えていない。
それから三人は東側廊下を歩いて行く。三人の足音と雨音が静かに響き渡る。そして、
506号室の前で止まる。
『精神的に不安定ですから、あまり長居は無用にして下さい』
『二階堂さん。有難う。ここからは私達二人で対応します。何かあればナースステーショ
ンへ連絡を入れますから』
『分かりました。くれぐれも宜しくお願いします』
『・・・・』
悠也は無言で頷いた。それに対して看護師も頷き返すと、踵を静かに返してナースステ
ーションへと歩き出して行った。
『入るぞ?』
『・・分かった』
悠也の了解を得てから、佐伯はドアノブに手を掛けて回した。扉を開けるなり、
『来ないで!!!!――――――――いやっぁぁ!!』
泣き声を含んだ少女の叫び声が飛んでくる。それと同時にお椀が投げられる。お椀には
ご飯が入っており、ご飯の塊が飛んでくる。
『ッ・・・』
咄嗟に悠也が反応した。右腕を前に出してお椀を取ると、そのお椀ごと右手を左から右
へと強く振るう。ご飯が一瞬にして消え去る。
『おっと・・』
『え・・―――えっ!?』
空中で一瞬にして消え去ったご飯が、見事にお椀の中にきちんと納まっている。
『食べ物は大事にした方が良いな』
諭す様に言う悠也であり、佐伯は驚きながらその後で笑い、この病室の少女はきょとん
としていた。
悠也がゆっくりと少女のベッドに近付いて、引き出し型のテーブルに乗せる。
『あ、あ・・』
悠也が間近に迫るのを、少女は恐怖を見せる。その恐怖をじっと見据える悠也。
『彼女の名は?』
『―――藤島優奈(ふじしまゆな)。甚聖学園の三年・・・事件の事は、ほとんど覚えて
いない・・そうだ』
通っている学校の事を名前よりも誇張して言う。その事から佐伯の言わんとする事を悠
也は察する。
『・・(甚聖学園か・・)―――そうか・・分かった』
『頼んだぞ』
佐伯の言葉に無言で頷く。その悠也の反応を確認した佐伯はドア付近で立つ。
優奈は目前の悠也に対して身体を小刻みに震わせている。
『あ・・・あ・・』
『問題無い。すぐ楽になる』
『あ、・・あ・・・・・・え・・!?』
優奈の恐怖が驚きに変わる。悠也がそっと身体を曲げて抱き締めてきたからだ。
タンクトップの布地を通して、また露出する肌の部分より悠也の温もりが伝わってくる
のを優奈は感じ、そうして感じる内に恐怖感が次第に和らいでいくのを知る。
『あ・・・あ・・理奈、ぁ・・・理奈はぁ何処ぉ~・・あ、ぁ・・』
悠也の背中へと手を伸ばしてタンクトップの布地を掴み、顔は胸に埋めてくる。
嗚咽を漏らし、妹の名を呼び始めるのを、悠也は彼女の頭にそっと右手を添えて慰めな
がら聞いた。
『もう大丈夫だ・・・不安はすぐに消える・・――――――――――神技・思兼』
「おもいかね」と告げた瞬間、悠也の右手が淡い輝きに満ち、その輝きが女性の頭へと
吸収されて消えていった。
『・・・・・り、な・・』
光が無くなると、女性は急にぼんやりとする。両腕の力が無くなってだらりと下がる。
悠也がそっと離れ、佐伯が側に寄って来る。
『どうだ。上手くいったか?』
『ああ。―――「思兼」は記憶を操作する神技・・・上手く使えば、相手より事情を聴き
出せる』
『そうだったな。早速聞くとしようか・・・彼女の身に何が起こったのかを』
佐伯の言葉に悠也は頷いた。そして、優しく優奈へと問う。
優奈が悠也の言葉を受け入れ、コクンと人形の頭が垂れる様に頷くと、事件当日に起こ
った事を無感情で語り始めた。
藤島家―――
甚大総合病院とは道路を隔てたすぐ近くの場所にある。目の前にバス停もあり、交通に
は便利な場所である。
多少だけ小雨になった空。悠也も佐伯も既に傘を差していない。
藤島家前には警察官が一人だけ立っている。どうやら現場を保護する目的があるようだ。
佐伯は、その警察官の目を気にせずに藤島家へと入ろうとすると、今まで立ち尽くして
いた警察官が急に動いて、無言の敬礼を向けてくる。
『――“彼”に話は通して貰っている所為だろう。問題は無さそうだな』
『まるで他人行儀な言い方だな』
『そうだな。そう言う事にしておけ・・今はな』
『・・・・』
佐伯の言葉を受け入れるか否かは別として、佐伯が堂々と家の中へと入って行くのを、
仕方なく付いて行く。
家の中―――
『何事も無く平然としているな・・』
『・・・・』
二人が靴を脱いで上がる。多少の埃が溜まって見えるのは、ここ一週間に渡り掃除をし
ていない所為だ。それ以外は別段と荒らされた形跡も無い。
ダイニング、浴室、トイレなどを見回るが、何処も整然としていた。
そして、ダイニングに再び戻り、
『彼女の言葉通りなら、夜中、眠ろうとする時に急に意識を失った。気付けば、何処か暗
い場所に閉じ込められ、隣には妹が居た気がすると・・・その後の事は視覚と聴覚を封じ
られていた所為と、ほとんど眠らされていた所為で、全く覚えていない・・だったな』
『・・・そして、姉だけは無事に帰って来た』
『解せんか?』
『ああ。目的が妹ならば姉は必要無い。それに慎重に事を運ぶならば、尚更、姉を無事に
帰す必要は無い』
『最もだが、結論はとりあえず姉妹の部屋を見てからでも悪くあるまい?』
『ああ』
了解した悠也は、佐伯と共に二階に上がり、姉の部屋に入った。
姉の優奈の部屋は、きちんと整頓されており、乱れた様子の一切が無い。乱れているも
のがあるとすれば、ベッドの布団が捲られているくらいだ。
『普通の女子高生の部屋だな。少し殺風景な気がするが』
『ああ。・・・・?』
『どうした、ユウ?』
悠也が急に動く。東の壁際に設置してあるテレビの台に注目する。
『これは動かしても問題ないか?』
悠也が佐伯の方へと半身向けて佐伯に問い掛ける。視線をテレビ台に置いてある小さな
鏡へと向ける。
『構わんぞ、警察の許可は取ってある』
『独断だろう?』
『・・・・かもな』
佐伯が見つめる中、悠也は小さな鏡を手に取る。朱色の円枠の中に填め込まれた鏡であ
り、鏡面には一切の指紋が付いていない。
『・・・・・』
手鏡程度の小ささでは悠也の手に余りある。摘む程度の感覚で軽く持つと、それを目の
高さで覗き込む。
『ユウ。何が見える?』
『いや、何も』
『・・・・?』
即決して答える悠也の行動も、その言葉の意味も今の佐伯には分からなかった。
悠也は鏡をジーンズのポケットの中に仕舞い込むと、
『次は妹の部屋か?』
『・・あ、ああ』
佐伯と共に隣の妹の理奈の部屋に向かった。
妹の部屋は、姉の部屋と違って雑然としている。明らかな違いに佐伯は不信感を抱く。
『こっちは荒らされている様だな』
『・・・・・違うな。これは“自分で散らかした”所為だろう』
『何故、分かる?』
『・・勘だ』
そう言いながら、雑誌などで散らかっている場所を探っている。
佐伯が悠也の行動を観察していると、悠也は埋もれた雑誌の中から何かを拾う。
『散らかしてあるという事は、荒らされてはいないという事か・・とすれば、まるで犯人
に侵入された訳じゃなく、自ら家を出て行った感じだな。ありえないが』
『・・意外とそうかもな』
『・・ん?』
悠也が拾った物―――手鏡を見せる。それは青い円枠内に納まった鏡であり、姉の部屋
にあった手鏡と対になっている様にも思える物だった。
『風呂場を使わせて貰うぞ』
『・・なんだ。風呂でも入るのか?』
『・・・・・オレは冗談を言ったつもりは無い』
悠也は佐伯に対して、僅かであるが苛立つ様子を見せる。
『ならばどうするつもりだ?』
『―――「水鏡」を使う。一階に戻るぞ』
先程、仕舞い込んだ赤い手鏡を取り出し、二つの手鏡を持って部屋を出て行った。
佐伯は、悠也の背中を見ながら頷く。
『・・水鏡(すいきょう)・・・確か、各務奥義の一つだったな』
呟きながら、先に部屋を出た悠也を追いかけた。