ちゃぽん――
バスタブに跳ねる滴が、波紋を立て、静けさを打ち消す。
まるで今の千佳が、心穏やかでないように。
憧れだった片思いの恋人が、実は自分を全く見ていなかった。その事実に胸が痛む。
ごまかすように、ビッチが告げたささやきを何度も
――私と、付き合わない? もちろん、恋人として。
ブクブクブク……
湯に顔をしずめ、思いっきり息を吐いた。いくつもの泡がはじけていく。もわっと湯けむりが立ち、半眼が曇ったタイルをにらむ。そしていぶかしんだ。
(本当に――)
何を言っているのだろうか、と。
(女の子同士……なんだよ?)
しかも彼女の名前だってうろ覚え。言い換えれば、その程度の関係でしかない。
そもそも、自分を好きだという言葉は本物か?
とまどいながらも、千佳は答えを探ろうとする。
いきなり唇を奪われたショックにとまどいながら。
ファーストキスだった。本当なら、先輩としたはずの初体験。
(それを、あいつは――)
恥ずかしさとくやしさでもいっぱいだった。なのに怖さから上手くそれを言葉にできない苛立ちをつのらせる。
(ちっとも、消えない……)
千佳は口元を指でぬぐいながら、うめく。舌で
あの後、何度も歯を
なのにどれだけ口をゆすいでも、ハミガキしても、取れないのだ。
けど、それもそのはず。
だって、初めての体験だったのだから。
そう――本来なら、先輩に捧げるはずだったキス。
「うぅ……」
でも彼を思い出してしまったからだろうか?
教室での情事がよみがえってくる。あたかも、目に焼きついたかのように。
顔を赤らめ、息をはずませ、あられもない格好で絡まり合う一コマ。
(そ、そうよ――)
きっと先輩の乱れた姿を見て、おかしな気分になっていただけ!
ビッチだってきっとそうだったんだ――そう無理やり納得しようと試みた。
常識で考えれば、ただのわいせつ事件でしかない、と。
キスなんてしたくはなかったはずだ。ましてやベロチューなど!
しかも胸まで触って、乳首も摘まれた。
(こわい……)
ぎゅっと肩を抱きしめる。
(わたし……)
どうすればよかったのだろう?
それにこれから、どうすればいいのか?
問いが浮かんでは消えていく。
なのに……
何かちがう。そう直感が告げる。認めたくないのにもかかわらず。
「……」
よぎるのはビッチの姿。問いかけるような眼が、こちらを覗きこむ。
ふるまいこそ
少なくとも冗談とは思えない、と千佳は吐息する。まさしく『恋する少女のまなざし』だ、と。
(だ、けど――)
自分と彼女は
誰かを好きという感情は、どんな場面でも拒否されない特権ではないのだから。
心の奥底で、それを拒む気持ちがあっても、誰が責められるというのか?
(期限は、明後日……)
――まあ、すぐには無理っぽいから、二日だけ返事を待つよ。
ビッチは
でも、どう返事をしたらいいのか、それが全く分からなかったのだけれど。
(だって――)
なんと言われようと、彼女にとって女同士が恋人の関係になるなど、受け入れられない話だ。
いわゆる、『ウソはつきたくないけど、本音を言うとあなたを傷つける』ってやつ。
だから考えるべきは、ただひとつ。
どうやって傷つけずに断るか、なのだが世の中そんな上手い話はない。
断ることは、相手を拒むことを意味する。つまりはそれで傷つかない人間なんているのか?
(分からない……分からないよ)
少なくとも、意中の相手にある意味で振られたばかり。
だからなのか、ビッチのささやきがよみがえる。
――だって、水橋さんのことが好きだから。
思わずギュッと目をつむり、耳をふさぐ。
だけどそれは幻聴。そこにビッチはいない。いないはずなのに、彼女の幻影は語るのをやめてくれなかった。
――好きなヒトに拒まれるのってつらいよね? だって、今の私がそうだから……
罪悪感をあおる言葉が、心を突き刺していく。
(どうしたらいいの……)
おそらくビッチの求める正答はひとつだけだ。
――自分の意思で、私と付き合え。つまりは恋人になれ。
それ以外にないだろう。
だが、千佳の探る
それらに
それから二日後。期限の日。土曜日の朝。
ぼ~っとする日々を終え、千佳は待ち合わせの場所へと向かう。
指定されたのは、なぜかショッピングモールの休憩所だった。
時刻はまだ10:00になる前。客の姿もほぼなく、騒がしさのないひとときだ。
けれど。
スマホの画面をにらみながら、彼女はため息をつく。
(どう、返事したらいいんだろ……)
世の中は思い通りにはならない。それはそのとおりだが、でも少しは
(わたしも……)
十日ほど前に見た、ビッチの姿が目に浮かぶ。
――イヤったら、ヤっ!!
険しい顔で、彼女はバスケ部だろう少年を、こっぴどく振った。
それでもすがりつくのを、何のためらいもなく拒んだだろう、と。
――うるさい、もう私に話しかけないで!!
崖《がけ》にしがみつく手を、踏みつけるかのような所業。
「……」
が、千佳は自問自答する。
(わたしに、それができるの……?)
理論上は、可能。
しかしそれはあくまで人格を無視した話でしかない。
(ううん……だって、わたし――)
乱れる先輩の姿がよぎり、口を真横に結んだ。
あの情景を目の当たりにした時から、何かがおかしかったから。
上手く思考がまとまらず、お腹のあたりがムズムズする。
「……」
と、気づく。
(――って、わたし!!)
エッチで、だらしない子なのではないか?
そんな疑念が浮かび、
(ち、ちがうっ!! こ、これは……そ、そう、どう傷つけずに断るかって、悩んでるだけよ。きっと!)
かたくなにそれを否認した。
そうこうしているうちにも、時間はすぎていくもの。
見れば時刻は約束の10時をとっくにすぎている。そわそわしながらも、千佳はあたりを見渡す。
が、見慣れたビッチの姿は見当たらない。
(……何してんだろ)
返事を要求し、期限を決めたのは彼女なのに!
不満げにほおをふくらませた、その時。
「あ、ご、ごめんなさい!」
千佳の足元にスマホがはずむ。隣に座っていた人のものだろうか?
それを取ろうと手を伸ばし――
「「っ!?」」
指先が触れる。
「あ、ご、ごめん――」
そう、言いかけ千佳は息を呑む。瞳に映し出された姿に見入ってしまったからだ。
きれいな印象。それにスタイルも抜群。大人しそうな、お姉さんっぽい雰囲気の清楚そうな女性。
水色のリボンで
ゆるふわっとした髪の毛が、風でふわりと舞う。
(……きれいな
と思った、そのせつな。
「ううん、こちらこそ。水橋さん」
「えっ!?」
名を呼ばれ、千佳が固まる。
なぜ、自分の名前を知っているのだろうか?
(知り合い? でも、こんな女性、知らないし……)
ニコッとほほ笑み、彼女がささやく。
「私だよ、水橋さん。
おどけたように。それにいたずらっぽくほおをゆるませて。
「???」
誰だろう、誰かしら?
まさにそんな感覚。
記憶の引き出しを探るも、すぐには出てこない。
けれど、どこか見覚えのある顔立ちにも思える。
では?
脳内モンタージュをかけていく。
「……………………」
しばし、いや十秒くらいの沈黙をへて、千佳はよく似た顔立ちの人物を思い出す。
(え、でも――)
すぐには理解できず、混乱で上手く思考がまとまらない。
つまり――ビッチによく似ていた。まるで生き写し。それもそのはず、本人なのだから。
(大原……恩?)
ついで彼女の名を
「……」
今までビッチと呼んでいたが、でもちゃんとした名前くらいあるはずだ。改めてそれを確認する。
「い、いつもと、ずいぶん――」
学校では見せることのなかった一面。全くちがう雰囲気。どころか別人といって差し支えないほどの変わりよう。
おどろき、まばたく千佳へ、恩が先読みした答えを口にした。
「だって、気の抜けた格好だと、水橋さんに嫌われちゃうじゃない?」
そういって彼女はいたずらっぽく笑う。
でも恐ろしいほど気合が入っている。まるで人生をかけているかのような?
たとえ演技だとしても、そこに情念を感じざるを得ない。
「……」
対する自分は――着ていた服へ目を向け、顔をくもらせる。
告白への返事で頭がいっぱいだったとしても、言い訳にもならないだろう。
一分袖のTシャツに、ベージュの猫耳フードつきオーバーオールのショーパン。それにニーハイとスニーカー。
有りなのか、それとも無しか、その判断に苦しむ。
千佳はほんのりと顔を赤らめ、恥ずかしさでいっぱいだった。
「ふふっ……」
なのにビッチ……いや大原恩はまじまじとこちらを見つめ、満足そうにうなずく。
「かわいいね、水橋さん。もしかして、私と会うの楽しみだったのかな?」
「――!?」
この二日間、ずっと彼女のことばかり考えていたのは事実。
だがそれは、どう返事するかを悩んでいたからだ、と千佳は顔を引きつらせる。
「まぁ、ここじゃなんだし――」
恩がニッコリとほほ笑み、手を叩く。ついで、
「少し歩こっか」
と千佳をうながす。
そして、二人はショッピングモールの雑踏へと吸い込まれていった。