■十一.
皇帝は優しかった。
王の穴となった乙女は皇帝の夜のために使われた。決して容易くはなかったが耐えられた。前執政官の邸宅でのことが酷すぎたのでそう想えたのかもしれない。
はじめて皇帝の尿を呑んだ時は吐いたが、やがて慣れた。入ってくるものを唇で軽く抑えて、後はじっとしていればいい。慣れるまでの間、皇帝は吐き出してしまう乙女の背を撫でていた。
夜の間中、乙女は皇帝の寝所の寝台近くの片隅にいた。皇帝は乙女がそこにいることが当然といった様子で尿瓶に使う他はわざとのように注意を払わなかったが、時々、その腕が伸びてきて寝台に乗せられた。
本来ならば乙女が皇帝にするべきことを、皇帝は乙女にした。
「身分高き者が下の者にこれをやるとひどく軽蔑されるのだが、そうせずにはいられない」
舌や指を使った陰部への愛撫は優しく、抱擁は熱く強かった。皇帝は乙女の穴を使ったが、それも耐えられた。胸にある二つの金環は皇帝と乙女のあいだで汗に濡れた。
皇帝は乙女を獄門の塔には入れなかった。「一度も抗うことのない大人しい子だから」そう云って慣例を唱える者たちを説き伏せ、寝所の続きに室をもうけてそこに乙女をすまわせた。そして籠に入れた鳥をくれた。
「言葉を失くした者のかわりに、歌ってくれるだろう」
鳥の羽根の色は空の色だった。いつしか乙女は鳥の歌にあわせて、吐息のようなかすかな音で音階を追うようになった。
『王の穴』がうたっている。傍仕えの者たちは囁いた。
冷たい石の床と高い天井。窓からは、昇る太陽と沈む夕陽に照らされながら空を渡るわたり鳥が見えた。流れる河と輝かしい街が眼下の一面にあった。
皇帝は皇妃を選び、皇妃は子を生み、皇妃は皇后になった。夜の訪れはある時とない時があったが、ない時も乙女は皇帝の寝所で朝まで控えていた。
乙女は待った。皇帝がいつしか乙女に飽きて、王の穴でなくなる日を。
乙女が皇帝の子を宿していることに気がついたのは乙女の世話をしている獄吏たちだった。それは皇帝に伝えられ、すぐさま乙女には堕胎の措置がとられた。
皇后に皇子が誕生したお祝いに国中が華やいでいた。
皇子生誕の祝宴が続くなか、乙女の胎内には冷たい金属が入れられて、宿っていたのもは人知れず掻き出されていった。
山の僧院しか知らぬ乙女には皇帝が神かなにかのように想われていた。巨大な都の巨大な柱が建ち並ぶ巨大な宮殿の中の偉大な王さま。錫杖と冠をいただくとても尊く偉い方。白く輝く雲の上の世界に迷い込んでいるような気がしていた。すべてが夢の中のようだった。だから何があってもさほど辛くはなかった。
多忙な皇帝とは夜の寝所でしか逢うことはなかったが、忙しくてしばらく逢えぬ日が続くと何かの儀式の合間に近くを通ることがあれば乙女にひとことふたこと言葉を与えるために顔を出すことがあった。そんな時も教えられたように両膝を床につけた乙女の頭に手をおいて皇帝はすぐに行ってしまった。
「様々な貝だよ。貝殻は海にあるのだ」
乙女が皇帝の衣の裾模様に眼を留めていると、立ち去り際にそう教えてくれた。皇帝は金の冠をつけていた。皇帝にしか許されぬ紫の長衣を翻して去って行く後ろ姿からは女奴隷のことなどきれいに忘れ去っているようにみえた。
乙女は皇帝に逆らう理由がなかった。いつか終わる、いつか飽きてもらえるのだとそれだけを信じた。白く光る雲の上の日々はすべてが流れるように過ぎていった。
空に花びらが舞い散っていた。皇帝と皇后、皇女と生まれたばかりの皇子は帝都の民衆の前に姿を現し祝福を受けていた。皇帝と皇后は宮殿の露台から帝国の民に手をふった。
乙女の身体を心配する皇帝は乙女の室を訪れ、なにかと優しさをかけ、股から術後の穢れが落ちる間はずっと休ませてくれていた。
分かっていたことだが、と懐妊が判明した時に皇帝は云った。その顔は曇っていた。
「このような想いをさせてしまうことは本当に辛いのだが、王の穴が皇帝の子を持てぬのは決まりなのだ。どうか赦して欲しい」
ただ一言、性奴隷の顔を見ることなく子宮の掻爬を命令するだけでいいはずであるのに、皇帝は乙女の額に額をつけて云い聞かせるようにしてそれを伝えた。
「早いうちの方がよいのだ。その身体に惨いことをしてしまうことを赦して欲しい。終わるまで近くにいるから、どうか赦して欲しい」
獄門の塔に収めないだけでなく、中絶の怪我が癒えた頃から、皇帝は乙女に日中の散歩を許した。乙女はひとの立ち入らぬ日蔭の小さな庭を短い時間、頭部を布で隠しておくことを条件に散策することを許された。布は深く、足許しか見えなかった。
監視の獄吏が何かの用でそこにいなかったある日、かわいい女児が乙女のいる庭に迷い込んできた。女児はかわいた音の咳をしていた。乙女は身を屈めて近くの薬草を女児に教えた。胸を叩き、咳をする真似をして、その草を摘み、女児にもたせた。
「皇女さま、どちらですか」
皇妃の侍女が女児を探しに来た。乙女は布を深く被り直して後ろを向いた。皇女をつかまえた侍女はそこにいる女が誰かを薄々知って、気味悪そうに大急ぎで皇女を遠ざけ、逃げるように消えた。庭に誰かが現れることは二度となかった。
花々が湯の中に浮いていた。
「皇帝みずから尿瓶洗いをなさるなど」
皇帝は意に介さなかった。
「小鹿でも洗っているような気がする」皇帝は乙女にぬるま湯をかけてくれた。底の浅い盥に入れられた乙女は皇帝の指が深く動くたびに、恥ずかしさに俯いた。胸の先から金環を伝ってこぼれ落ちていく雫の波紋が薄い影を膚の上に引いていた。
皇帝は乙女を慈しんでくれた。夜の雲から雲にふわっと落とされるような気がした乙女がすがりつくことがあれば、その時こそ皇帝は乙女をいとおしんでくれた。
「美しい子」
皇帝は乙女のことをそう呼んだ。
「美しい子。男のすることを堪えてくれるやさしい子。王座の足許にお前をおいておけば、誰もがお前に眼を奪われて、皇帝の前だということも忘れてしまうだろう」
朝霧が下界からたちのぼり、薄くなる空に星々が消えていく涼しい明け方を幾度も皇帝の傍らで迎えた。
皇帝は優しかった。
乙女は此処ではないどこかを希った。
隣りの室が騒がしかった。傍仕えの者が皇帝に何か緊急のことを告げていた。護民官、と聴こえた。最初に嵌められていた片方だけの金環はすぐに棄てられて、今は新しい金の環が乙女の両胸についていた。
「この前は護民官に邪魔をされたが、護民官は今は何も出来ないからな」
鳥かごの中の鳥と遊んでいた乙女の首を腕に巻き付けるようにして引き寄せると、突然入って来た皇弟はうさぎの皮でも剥くようにして乙女の衣を押し下げた。
白い乳房には光るものがあった。皇弟は乙女に金環が二つあることを確かめた。
久しぶりだ、と王弟は乙女の耳に囁いた。
「前には片っぽだけだった金の環が両方についている。正式に『王の穴』になった気分はどうだ」
皇弟は乙女の胸に通された二つの金環を乳首ごともてあそんだ。乙女は両手で皇弟を押し退けて顔をそむけた。
「これは兄上が手ずからお前に嵌めたそうだな。獄門の塔ではなく寝所のお傍に室までもらって、皇妃並みの扱いか。王の穴に対して破格の待遇。結構なこった」
皇弟の唇が首筋にかかった。
「赤子と皇后へのお見舞いで兄上は忙しい」
鳥かごの中では鳥が空色の羽根をばたつかせていた。宿営地でつけられた片方だけの最初の仮環はどこにいったのだろう。
「なに、何だって。聴こえないな」
押し退けて逃げるべきだった。壁際までは逃れた。しかし乙女は知りたかった。室に押し入ってきた皇弟は最初にその名を云った。確かにそう云った。
「それじゃまるで分からない」
その名のことを懸命に訊いた。皇弟には届かなかった。異音しか出てこぬ口が哀しかった。どうやって伝えたらよいか乙女は迷った。何があったのだろう。訊きたいことはそれだけだった。皇弟の手が衣の裾を手繰り上げていた。乙女は想いつくことを試してみた。そうしているうちに床に落とされてしまった。
「こっちの乳がどうした」
乙女の手を払って女の身体を探っていた皇弟の動きが止まった。皇弟は背後をみた。皇弟の後ろに男がいた。兄の皇帝だった。皇帝は弟を見ていた。
慌てふためいて皇弟は乙女の上から飛び退いた。
「兄上は皇后宮にいたはず」
「鳥が騒いだ音で近習たちが急ぎ呼びに来たのだ」
皇帝は鳥かごに眼を向けぬまま応えた。
「未遂だ、兄上」
皇弟は皇帝の衣の裾にすがりついた。
「何もやってない」
「『王の穴』は皇帝にしか使えぬ。知らぬとは云わせぬ」皇帝はすがりつく皇弟の手を冷ややかに振り払った。
「触れるな。反逆者」
「兄上そんな」
「身分はく奪の上、帝都からの追放は免れぬだろう。お前はもう皇弟ではない。皇帝に触れるな」
「待ってくれ兄上」
皇弟は床に額を打ち付け許しを乞うたが、皇帝は許さなかった。突然皇帝は怒声を振り下ろした。
「王の穴には触れるなと云っておいたはずだ」
皇帝は皇弟の腕を強い力で掴むと乙女の室から引きずり出した。皇帝が命じているのが乙女にもきこえた。
「皇弟を捕らえよ。皇弟の室に閉じ込めておくように」
まだ何かわめいている皇弟の両脇を抱えて衛士たちが皇弟を連れ去っていった。
沈黙が訪れた。隣の室に独りでいるはずの皇帝はしばらく戻ってこなかった。いないのかと想うほどだった。ようやく乙女の室に戻ってきた時にはいつもの皇帝とは顔が違っていた。いつもの優しい皇帝ではなかった。そんな怖い姿をした皇帝を見たことがなかった。床に座っていた乙女は震えあがった。血が凍りつくような気がした。皇帝は女を見下ろしていた。知っている皇帝ならば乙女を気遣ってくれただろう。小鳥の爪が乙女の指を傷つけただけでも指先を手にとって心配してくれた皇帝だった。しかし乙女を見据える今の皇帝は違った。皇帝の眼の奥には深い憤りしかなかった。
怖ろしくて呼吸も止まる気がした。乙女は恐怖のあまりおののいて膝をずらし身を引いた。それを見ても皇帝の顔には何の変化もなかった。
冷たい声で皇帝は乙女に告げた。
「お前は皇帝を裏切った」
胸を刺すような声音だった。まったく知らない男、まったく知らない人のようだった。その顔に浮かんでいる峻厳なものは乙女の知らないものだった。その顔には何者にも動かせない乙女の知らない厳しい何かがあった。地の底に堕ちるような心地がして乙女は床に伏せた。
「拒まなかった。お前は受け入れていた」
乙女は首をふった。そして皇帝は本当は違うと分かっているのだと想った。分かっていてそんな厳しい顔をして訊いているのだ。乙女を襲ったのが皇弟だったからだ。他の者でもいけないが皇弟が関わった以上、皇家の権威がゆるがせになったことは誰の眼にも隠しきれないことだった。皇帝の威光が揺らぐということは帝国が揺らぐということだった。皇帝は決断した。元より不品行が目立つ皇弟はいずれ何かの折を捉えて幽閉するつもりでいた。それがこのようなかたちとなった。皇弟を罰するのならば皇弟と共に皇帝を辱めた女のほうも無事というわけにはいかない。帝国の皇帝は女奴隷の下にいるものではない。
皇帝はとどめを刺した。
「王の穴にしか過ぎぬものが皇帝に背くのか」
皇帝とは女奴隷を盲愛するものでもなければ、奴隷の不貞に眼を瞑るものでもない。侵略して占領した地であろうと誰であろうと恭順を示して庇護下にいるのであれば如何様にでも大切にしてやろう、その代わり一度でも征服したものが皇帝の名を穢して逸脱を試みるようであればその限りではない。それを示さなければならない。
この事態を招いた自身の不覚と驕りに皇帝は強い怒りを抱いている。そしてその不始末は不可侵の存在であるべき皇帝が支払うものではなかった。皇帝はそう決めたのだ。
「甘やかしすぎた」
皇帝は鳥かごから鳥を掴み出すと、その首を折って鳥を床に捨てた。そして怯え上がっている乙女の髪を掴んで引きずり起こした。皇帝は衛士を呼んだ。
「この女を獄門の塔に入れておけ」
皇帝は云った。
「女体責めを専門とする拷問係を集めよ」
皇帝、堕胎が終わりました。
開かれた立て膝の向こうで医師が皇帝に告げていた。盆に戻されていく医療器具の先には何かの血の塊がついていた。
この後は悪露が女陰から落ちます。それが終わって、ひと月してからまたお使い下さい。
眼を閉じておいで。
皇帝は傍にいた。朦朧としている乙女の手を握り、気遣わしげに額に手をおいてくれていた。お前がわたしの許に来てくれたのだから、お前の他には誰も要らない。今日は天気が良いから少し庭を歩いてごらん。
そんなことをされたら、女の身にはたまらない。
寝所で皇帝は乙女の両腕の手首をもって男の背中にまわし、「辛かったら云うのだよ」と云ったが、乙女が苦しさを伝えるために皇帝の背にそれを伝えても、最後まで貫かれることも多かった。
皇帝は残酷だったのか、優しかったのか、もう分からない。いつもそうなのだ。皇帝は皇帝で、優しくもあり残酷でもあったのだ。生まれながらにして皇帝。あの人もそう云っていたではないか。乗り越えなければならないものをあまりにも多く背負っている皇帝にとって王の穴など砂礫にしか過ぎぬのだ。皇帝の両腕は広大な版図をもつこの国を抱いており、万人と立法の頂きであり、なにもかもが皇帝の威光というその名の許に呑み込まれているのだ。皇帝自身ですら。
暗闇の中に雪片のようなものがみえた。それは一瞬で痛みとなった。あの時と似ているようで、似ていなかった。もっと長く引き延ばされていた。
「そこまでに」
獄門の塔の中で皇帝が告げていた。その日の仕置きは終わった。
乙女が入れられた牢獄は朝でも薄暗かった。手の届かぬところに隙間のような通風孔があった。
薄暗がりに転がっていると、獄吏たちが話していることが時々聴こえてきた。
「護民官が戻らないそうだ」
獄門の塔で獄吏たちが声をひそめて話していた。
「捕虜と交換か、身代金で返還だな。皇帝も護民官の身の上を案じておられる」
「捕まったということは、おそらく大怪我をされているのだ」
雪に凍った小さな獣のように壁に背をつけて、乙女は塔の牢の中で獄吏たちの話をきいていた。
日に一度、乙女は地下の拷問室に降ろされた。そこで怖いことをされた。手足に革紐がまかれ、四肢を開かれて、痛みを伴う何かされた。
吊るされることもあれば、台に縛られることもあった。皇帝はいつも立ち合いに来た。乙女には皇帝が怒っているように見えた。怖ろしくて赦しを乞うてすがりつくことも出来なかった。皇帝は拷問師たちに仕置きされている乙女を睨むようにして見つめていた。自身も何かを堪えて踏み越えようとしているかのように、若い皇帝は内心の感情を消していつもその場にいた。
拷問師たちはさまざまな責め具を揃えて用いたが、見るだけで失神しそうになる恐ろし気な形状の物もあれば、何に使うのかも分からない変わった形の物もあり、そのどれもが、皇帝を裏切った女体をこらしめて呻き声を上げさせる効果を持っていた。熱い湯をかけられた。とても痛いが、薬を塗られると翌日には痕もなくきれいに消えていた。おそらくはどれもが軽いことばかりを選んでおり、短い時間に限られていた。それでもそれらは乙女の心身を弱らせるに十分だった。牢に獄吏が入ってくるたびに乙女は腕で頭を抱えて身を護り、牢の鉄格子を掴んで抵抗した。しかし、いつも皇帝の待つ地下の拷問室に引きずられるようにして降ろされてしまった。
脳裏に火花が走り、痛みのあまりに身が反り返った。
時々、皇帝は「いけない」と云った。その度に何かの使用が中止されたのだと分かった。
悲鳴も泣き声も枯れ果てた頃だった。
牢獄の扉が開かれた。鉄格子越しに、見知らぬ若い女人が立っていた。乙女には女の亡霊に見えた。
鼻血を出し、眩暈をおこした乙女はその日は早めに引き上げられて、手当ての後に牢に戻されていた。
薄目を開けると、若い女人は人払いをして、一人だけで牢獄を訪れていると分かった。
幽霊のようなその女人は鉄格子の向こうから横たわる乙女を無言で見下ろしていた。やがて幽霊が口をひらいた。
「そなたが、わが皇帝の『王の穴』ですね」
まろやかな声だった。皇帝の若き妻だった。目立たない略式の冠をつけていた。皇女と皇子を生んだことで皇后になった女人。
鉄格子を挟んで、皇后は乙女に呼びかけた。
「皇弟はあのような気性ゆえ、そなたには罪はないとわたくしからも皇帝に申し上げたのです。陛下には打ち明けることはとても叶いませんが、わたくしも宮廷に上がってすぐの頃、物陰であの皇弟から揶揄いを受け、襲われそうになったことがあります」
女人は声をふるわせた。傷つけられた身を鎖で繋がれている乙女が皇后の眼にはどのように映るのか、皇后の声には深い同情があった。
「しかし陛下は、御膝にすがるわたくしの訴えを退けられました。『王の穴』については昔から決められている、許しなくして皇帝以外の男が見ることすら大罪だと突き放されました。皇帝の女が他の男に触れられることすら罪だというのなら、そなたが今受けている責め苦はわたくしが受けてもよいはずのもの」
乙女には身を起こす力もなかった。
「哀れなひと。花のように優しげな。皇帝は酷いことをされる。否、過去の皇帝もみな同じ。わたくしは許せない」
それだけ云うと、絹ずれの音をさせてその女人は出て行った。
>続く