■十二.
その日、護民官の邸宅の家令は皇帝に呼び出されて宮廷に来ていた。伺候する作法も何も分からなかったが、若い皇帝は家令が到着するや否や、すぐに家令を宮殿の庭園に誘い人払いをした。主の護民官からきいていたとおり、無駄な儀礼をはぶく皇帝のようだった。
最初に皇帝は家令を一瞥した。
「学問所の頃に、護民官宅の家令には逢ったことがあるが」
「それはわが主の御父君の家令です。わたしは元は奴隷で、護民官さまの御父上に解放され、今は夫婦で護民官さまにお仕えしております」
「留守宅に不自由があれば云うように」
「ありがとうございます陛下」
「護民官の行方だが」
高貴な横顔で皇帝は高台から見渡せる帝都のはるかを仰いだ。造園された庭といっても樹木が生い茂り、丘の一部のような広さに家令には想えた。
「捕虜たちが敵国に連行されるところを取り戻そうと試みたのだが、どうも護民官の移送は海路をとったらしい」
忌々しげに皇帝は長衣をさばいて庭園を歩いた。
「最初から護送隊の中にはいなかったとみえて、急襲隊は空振りにおわってしまった。だが安心するがいい。禁衛軍将校ならば殺されぬ。こちらが抑えている位の高い人質と交換に使われる」
家令は皇帝に応えた。
「過去にも、帝国軍が捕虜を奪還した例があるときいております。最初から警戒されていたのでしょう」
「おそらくは海路も帝国の属州に触れぬように大廻りの航路をとって運ばれているのだ。それも考え、沿岸の警備隊に網は張らせたのだが」
「敵国は海軍を持ちません」
「目立たぬ船だろうな」
「あえて鈍足にして警戒をかいくぐっているのでは」
皇帝は受け答えの早い護民官の家令が気に入った。
「こちらの初動が悪く、護民官をまだ取り戻せぬ。すまぬ」
「わが主は帝国軍人にして禁衛兵。それ以上皇帝陛下のお心を煩わせるくらいなら海に身を投じてしまいます」
「そうだな」家令の軽口に皇帝は笑顔をみせた。
家令は用意していた帳簿を開いた。
「所領から上がる鉱物をつけて、このくらいで身代になるでしょうか」
「皇帝付禁衛軍将校の値として不足はない。半分はわたしが払おう」
「ありがとうございます」
「だがそれは敵国に頭を下げさせてからのこと」
家令が見遣ると、皇帝は太陽を背にして家令を見返してきた。
「捕虜交換だろうが身代金交渉だろうが、構うまい」
皇帝の眼が凄みを帯びていた。
「来るがいい。最初の使者の首は刎ねる」
「それは」
気圧されて家令は口ごもった。それでは、護民官の命が危なくなるではないか。
しかし皇帝は眼下に広がる帝都とその先の空を見つめながら語った。
「帝国ほどではないが西国は東国に並び歴史がある国だ。王は野蛮ではない。護民官は捕虜交換の大切な人質とされる。こちらにも西の王家ゆかりの捕虜はいるのだ。返してもらいたいのはあちらのはずだ。まずは西の国の植民地を焼き払う。こちらの態度を知らしめるためにもあらゆる建造物を破壊し尽くし草の根も残らぬほどに殲滅して灰にしてくれる。無論のこと引き続き護民官の奪取は図る。帝国には海軍があるのだ。海が荒れる冬になる前に」
「陛下」家令は叫んだ。
「兄上」
皇帝が振り返った。樹々の陰から現れた皇弟の剣は皇帝を狙って皇帝の身体に押し込まれていた。
「皇帝陛下!」
皇帝は身をぐらつかせた。家令は腰帯をさぐった。護身用の剣は王の座に入る前に衛兵に取り上げられてそこにはなかった。
「兄上がいけないんだ。あんな性奴隷、あんな女のことで」
皇弟に体当たりしてきた家令が皇帝と皇弟のあいだを分けていた。家令は皇弟の手を肘で叩いて剣を落とした。腰を倒すようにして皇弟に掴みかかり、落ちた剣を足で蹴って遠くに飛ばすと、家令は大声で呼んだ。
「誰か、皇帝陛下が」
皇帝は刺し傷を抑えてその場に片膝をついた。家令は大声を上げた。
「皇帝陛下が襲われた、誰か」
思いがけず庭園の近くに警護の者はいたらしく、すぐに駈けつけてくる音がした。声を放っている隙を取られて家令は皇弟に蹴り上げられて転がされた。
皇弟は隠し持っていた短剣を引き抜くとふたたび皇帝を襲った。膝をついた皇帝は呻き声を一つ吐き出し下から皇弟を睨み上げた。皇帝は声を振り絞った。
「慮外者めが」
剣が振り下ろされた。皇帝は片腕を立ててそれを防いだ。皇弟の短剣は皇帝の腕輪にあたって音を立てた。切っ先が滑った。向こうから近衛のものが駈け付けてきた。
「陛下!」
「皇帝陛下」
「俺は捕まらないぞ」
四方から増えていく護衛の数をみて、皇弟はもう一度掴みかかろうとする家令の背を飛び越えて庭園の奥に走り去った。
「皇帝陛下、失礼をおゆるし下さい」
家令は皇帝を抱えると血の滲む傷口を重ねた両手で強く覆った。すぐに宮廷医師がそれに代わり、皇帝の胸を止血しながら皇帝に囁いた。
「陛下。陛下。何ごとがあったのです」
「皇弟を捕らえよ」
皇帝はそれだけを云うと苦しそうに眼を閉じた。
「賊は一人とは限りません。陛下をお護り下さい」
家令は隊長と思しき年配の禁衛兵にいそいで告げた。隊長は時間を無駄にはしなかった。
「すぐに。ここから近いのは、御母上の皇太后か、皇后さまの宮だ」
隊長はすぐに判断した。
「近いのは皇后宮だ。そちらへお運びいたせ。周囲を警護せよ」
皇帝は運ばれていった。家令は散り落ちた血の中から皇弟の遺した剣を隊長に指し示した。
「この剣で皇帝は襲われました。皇弟さまに見えましたが、似ている者かもしれません」
「あなたは」隊長が家令に訊ねた。
皇帝の禁衛兵である護民官の屋敷の家令であると伝えると隊長は厳しい顔を少しほどいた。家令は証拠として皇帝からの召喚状も併せて提出した。
「護民官の家令どの。それで、あなたは他にも暗殺の一味がいると想われるのか」
「単身で皇帝を襲うなど」
「いや、襲ったものが陛下の云われるとおり皇弟さまならば、皇弟さまは監禁されていた自室から抜け出されて、短絡的にことに及んだのだ」
「兄上と」
「ならば皇弟さまだろう。見て来い」
隊長が命じるとすぐに確認がとれた。監禁されていた室に皇弟がいないという。
禁衛軍の隊長は家令に向き直った。
「護民官の邸宅の家令どのならば、将校とは顔見知りであられよう」
「はい」
「であれば、誰にも知られることなく、秘密裏のうちに皇帝の将校隊を宮廷に招集できるだろうか」
「その方々は主のご友人です。ご邸宅は知っております。先の戦でわたしは従者として主に付き従っておりました。方々にはこの顔をお分かりいただけると想います」
「では、そうしてもらおう」
「ただちに」
若いのに謹厳実直で堅すぎるとばかり若い主のことを考えてきたが、護民官の家令というだけで信頼を寄せてもらえることに家令は今更ながらに愕いていた。
隊長は禁衛兵の中から数名を選んで、家令の護衛に附けてくれた。
「血で汚れた衣を着替えて、すぐに行ってもらいたい」
「着替える暇が惜しいので、そちらの外套をお借りできましたら、それで汚れを隠します」家令はすぐに宮殿をさがっていった。
「このような際には禁衛軍の将校隊が皇帝陛下をお護りするのだ」
家令を送り出すと、隊長は憂慮した顔で庭にできた血だまりを見つめた。皇弟が監禁されていた室から抜け出した。つまり、抜け出させた者が宮殿内にいるということだった。
ほどなくして帝都には戒厳令が下りた。街道に通じる門という門は閉ざされ、市場や商店は閉店を強いられた。
槍や鎧の音をうるさく立てて軍隊が出て来たかと思うと、瞬く間に道という道、広場という広場が閉鎖されていった。
戒厳令の経験がない帝都の人々は何事かと顔を見合わせた。蛮族の襲来だと叫ぶ者もいれば、囚人の脱獄だと云う者もいた。
人々は宮殿を振り仰いだ。
宮殿はいつもよりも衛兵の数を増やして、沈黙しているのだった。
色男はその頃、前執政官の経営する娼館にいた。いつものように色男は客と偽り、多くの男たちで結託して飼っている一人の女の室にいた。
楼主や下男が各廊下をめぐって呼ばわっていた。
「店じまいです。軍隊からのご指示です。お代は要りません。お客さま方はすぐにお帰り下さい」
「なんだ」
不愉快そうに色男は身を起こした。
「軍隊の指示だと。帰れか。興覚めだよな」
色男は女の頬に頬をすりつけた。
「疲れたろう」
女は声もなく頷いた。
「あんたは今日はよく休むんだよ」
色男は女の額に接吻すると、衣を着て室の外に出た。女の情報を共有している男たちからあの女は背中がときいていた。背筋にそって舌で何度も撫ぜ、息を吹きかけ、ねぶり回してやった。女は色男が室を出る時にもまだ火照った顔をしていた。くそ面倒くさかった。
だるい。色男は額に垂れていた髪を後ろに撫でつけた。接吻前戯。そんなものは男にとっては通過だ。邪魔くせえ面倒くせえそれじゃねえの一言だ。なのに女はどいつもこいつもそこを経ていないと嫌と云う。たらたらしやがって。
「気分が。とか云うからな。雰囲気が。一度ぼんやりしないと駄目なんだとよ。俺が女の耳に好きだと囁いてやる時は内心では死ねよメス豚と云ってやってるんだ。何が気分だ雰囲気だ。惚れてる男の前ならてめえで股を濡らして勝手に気分作って脚を広げてどうぞくらい云え。調子に乗りやがって。何もかも男にしてもらえると想いやがって」
廊下で下男を掴まえて訊くと、戒厳令が帝都に発令されたという。
「すべての外門が閉ざされているそうです」
「家にこもっていろということか」
色男はぼやいた。色男の手にはいましがた女から受け取ったばかりの小銭の入った小袋があった。
「前執政官さまは、今日は宮廷かな」
面白くなるはずの日だった。前執政官は帝都に四つ娼館を持っていたが、それぞれにそれ用の女を飼っていた。順番にその女たちを巡っている色男は、そろそろどうかと目星をつけていた女のことを前執政官に相談するつもりだったのだ。特にかわいがって飼育してきた女を明晩あたり、生贄にするつもりだった。
色男は新入りの下男の首に腕を回して教えてやった。
「目隠しをされた女に小道具ぶちこんでぐりぐりやってんのがまさか俺だとは想わず、あいつらはいい声上げるんだ。不格好な体位にしてつつき回してやってみな。
淫らな汁を垂らしてびくびく反ってよがり出す。そうなったらもう女にもどうしようもない。男たちをどんどん受け入れ始めるんだ。もちろんお仕置きだから、いい気持ちばかりにはさせやしないがな」
黒い嗤いを口端に浮かべながら色男は人が減り始めている帝都の道を下町に向かってぶらぶらと歩いた。
色男の住まいは幾つかあった。女の家を渡り歩いているので定まってはいなかったが、最近は、若くして後家になった女の家に寄宿していた。
誰もが振り返るような美男は、独り言をつぶやきながらあれこれと想い出すのか、にやついた笑いが止まらなかった。
「商売に差し支えない程度に傷をつけてやった女のあちこちに塩や香辛料をすり込んでやった時も面白かったな。すげえ声を上げて、のたうち回ろうにもがちがちに縛ってあるんで、尿をもらして屠殺される豚みたいに絶叫を張り上げ続けてたっけ。
俺が張型でごしごしやって、楼主がさあどうぞと客のふりをした男たちに使用を促して便器にされていく時も、女たちは恋人の俺がすぐそばに立っているとは知らないまま男たちに犯されてるのさ。許して許してもうしません、今度から心をこめて懸命にご奉仕しますと悲鳴を上げてるんだ。ああおかしい」
橋にさしかかった。貧民窟にかかるその橋の上から色男は何度も女の死体を河に投げ棄ててきた。かえるのように脚を広げられ、血だらけになって息絶えていく女たち。
「ざまあみやがれ」
色男は橋の上から唾を吐いた。
「莫迦のくせにもったいぶりやがるから男を怒らせてそんなことになるんだぜ」
色男はとくに女全般に深い恨みがあるわけではなかったが、生意気な奴ともたつく莫迦が嫌いだった。彼にとって生意気でもたつく莫迦といえば女のことだった。
一度目が終わって店に戻されてきた女を慰めるのも色男は好きだった。
「その場にいたから全部知ってるんだが、知らないふりで訊いてやるのさ。どんなことをされたんだ、こんなことやあんなことかと女に喋らせながら俺は女に云ってやる。俺が拭い去ってやるよ。教えてみな、どこだいここかい、俺が慰めてやるよ。怖かったかい痛かったかい、可哀そうになって。どの女もそりゃあ健気に俺にすがってくるんだ。今日の女だってそうだ。とても怖かった痛かった。怖ろしかった。吸われすぎた乳首がひりついて痛いって女が云やあ、俺はそこを舐めてやる。女がもうやめてと云っても、ひたすら舐めてやるんだ、惨めな犬みたいに」
色男はさきほど女から受け取った小さな財布袋を宙に投げ上げては手で受け止めて歩きながら、低い笑い声をもらした。
「あれでは、どちらが客か分からないよな。でもいいさ。それもこれも、女を最後に地下室に連れていって、女の前に俺のこの顔を突き出してやる時の愉しみになるってもんだからな」
色男は冷たい眼をした。
「今日の女だが、次はどうしよう。尻穴をほぐしてやったから次の当番の男にはそろそろ挿しなって勧めてみるか。一回目の仕置きの後は二本挿しだ。薄壁いちまい隔てて抜き差しされる感触に狂わない女はいない。俺はそれを壁に開けた覗き穴から見ておくんだ。それにしても、あの目隠しされていた『王の穴』の女は惜しかったな。めったにない機会だった。もっと遊んでやっておくんだった」
色男は宮殿のある方角を仰いだ。そこから眺めても遠くの宮殿に起こった変事は到底窺い知ることはできなかった。
「もう数年前になるのか。皇帝の女だし、前執政官さまが見ている前だからやれることは限られていたのが残念だった。前執政官さまは四肢のない女を俺には与えてくれなかったからな。あの方は顔がいい男と若い男が本当はお嫌いなんだろう。あの王の穴の女は男たちに囲まれているだけでも縮み上がっちまって掴んでやった足指まで冷え切って震えてた。あれじゃあ使い物にならねえ。
前執政官さまはそんな女をたいそう気に入ってこう云ったんだ。「皇帝陛下の用がお済になったらわしが引き取ろう」乳の片っぽだけに金環を嵌められたあの女の耳に口を寄せて「先の愉しみができた」と満足そうにそうおっしゃっていた。稀もの好み貴重品好みってやつかい。気が長いことで。俺にはちょっと分からないね」
家に帰ると、目下の寄宿先である後家が色男を待ちかねていた。
「さっき、前執政官さまからのお使者が来たわ」
後家は色男にそれを伝えた。
「内容はあんたに口で伝えるわね。字が読めないから」
「何だよ面倒くさいな」
「戒厳令よ。すぐに外を歩くことは出来なくなるわよ」
「分かってる」
後家から前執政官の伝言をきいた色男は文句を云いながらも大急ぎで今来た道を駈け足で戻って行った。
>続く