※この作品はR-18です。

王の穴   作:Asabuki

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王の穴 十四

■十四.

 

 

 護民官の邸宅は帝都の中でもとくに皇都と呼ばれる宮殿まわりの丘のふもとにあった。そこはまだ静かだったが、前執政官がああ云った以上、小隊が屋敷を取り囲むのも時間の問題と想われた。立ち寄ることで家人たちに迷惑がかかることを怖れ、護民官は海賊の少年だけを遣いに出した。

 気の利く海賊の少年が使いから戻るふりをして門を通り、護民官からだと云って家令に逢った。少年から護民官直筆の伝言と通行札を受け取った家令は躊躇しなかった。宮廷から差し向けられた軍隊が邸宅を囲む前に家令は馬を引き出して裏門から外に出た。家令は海賊の少年を連れて夜の闇にまぎれてひそかに何処かへ消えた。途中で少年と別れた家令は将校になりすまして護民官から預かった通行札を兵士に見せた。閉鎖中の門の通用門を通り家令は街道に出た。血で汚れた衣を隠すために借り受けていた禁衛軍の軍套が役に立った。通行札を掲げた家令は誰からも疑われなかった。門の外に出た家令はいずこかへ向けて馬を全力で駈けさせた。

 護民官は乙女を連れて帝都の街中を歩いていた。戒厳令下でひと気がなく、水底のように静かな街だった。

「かえって都合がいい」護民官は考えた。静かな夜の街では巡回している兵たちの軍沓の音がよく響いたからだ。その音がしたら、彼らは物陰に身を潜めて姿を隠せばよかった。

 街の窓から家々の灯りが外に洩れて、建物の隙間の壁が火影を映して幻燈のようにほの明るかった。誰かが来る気配があると死角を見つけて兵士が通り過ぎるまでそこにいた。屋根の狭間の狭い空を引っ掻くようにして流れ星が過ぎていくのを護民官は暗がりから黙って見上げていた。

 隣りに『王の穴』がいた。

 護民官の隣りで乙女も夜空を見ていた。永く逢わなかったのに懐かしいというよりは、いつも頭の片隅のどこかで想ってきたその続きのような気がした。並んで座って海のことを語っていたあの夜の続きに想えた。

 皇弟に殴られたのか乙女の口端に血が滲んでいるのへ手を触れると、乙女は大丈夫だと伝えるように微笑んで彼の手を両手で包んで彼に返してきた。男が戸惑うほどに女の顔は晴れやかで、彼を信頼しきっているようだった。男の彼にはよく分からなかった。

 なにかしたか。護民官は乙女の顔を見詰めた。そんな心を寄せられるほどのことを何かこの女にしてやったか。

 街道に通じる門は全て閉ざされており、たとえ将校にゆるされた通行札があったとしても、お尋ね者になった護民官が女を連れてそこを通ることは不可能だった。

 途中で何度か護民官は壁に手をついて息をついた。胸と足の骨が痛んだ。少し休むと彼は乙女の手を握り締めてまた歩き出した。彼らは下町の方へと歩いていた。

 

 

「護民官が謀反とは」

 宮殿に駈けつけて詰めていた青年将校たちは前執政官の言葉をまったく信じなかった。

「彼は、敵国の捕虜となっています」

「そこだ。ひそかに帰国しておったのだ」

 前執政官は厳めしく云い張った。

「そして護民官は皇帝を殺めんと企んでいたのだ。敵国の手先になっていたのだ」

「ありえません」

 護民官の友人の将校たちは誰ひとり信じなかった。皇帝を害することなど、もっとも遠いところにいるのが護民官だと主張して、彼らは一様に前執政官の語ることを否定した。

 将校たちは変事を受けて急ぎ宮廷に集まった禁衛兵だった。彼らを招集して回ったのはまさにその護民官の家令ではないか。

 護民官の家令が彼らの邸宅を訪れた時、すぐさま彼らは行動を起こした。彼らの家からも手分けして伝達を出すことで最短の時間で人数を揃えて宮殿に集結していた。将校たちは皇帝が襲撃されたことに大きな衝撃を受けていた。

「しかし、間違いはないのだ」

 前執政官は云い切った。

「さもなくば、どうして敵地から無傷で戻ってこれようか。脱出が叶ったとしても戻って来ていたのならば、何故誰にも帰国を知らせていないのだ。真っ先に皇帝や貴兄らに姿を見せるべきではないのか。なぜそうしなかったのだ。隠れていたからだ。そして、そこにある皇弟の死体はどう説明するのだ。まさかそちらはこのわたしが皇弟さまを殺めたとでも申すのか」

 監禁されていた室から皇弟を外に出したのも前執政官だった。皇帝は皇弟の身分を剥奪した上で流刑しその後に遠国の地で人知れず暗殺するだろうと皇弟に吹き込んだ。剣を与え、皇帝を殺せと皇弟を焚きつけたのも彼だった。前執政官がいちばん気になっているのは、最初から護民官は執政官の密貿易の不正を暴くために皇帝から密かに命を受けて敵国にわざと捕まり潜入していたのではないかということだった。もしそうなら密貿易の事実と共に護民官だけでなく今度こそ確実に皇帝も片づけなければならない。

 その時、大声があがった。

 火事だ。

 彼らは回廊に走り出て、宮殿の下に広がる夜の帝都を遠目に眺めた。下町に近い一か所から確かに火の手が上がっている。

「街区の一角が燃えているぞ」兵たちは騒いだ。

「門を閉ざしているのだ。あれが燃え広がったら大変だぞ」

 街道に通じる外門は戒厳令が発令されて以降閉め切っている。火の手が廻れば人々が逃げ場を失い焼き殺される可能性があった。

 いちばん愕いたのは前執政官だった。明るく燃えているのは彼の娼館のある辺りだった。

 行方不明になっていた帆船が途中で襲撃されて沈められたと知った前執政官は、皇帝の関与を疑った。そして念のために雇っている下男の色男に娼館に隠してある密貿易の証拠を焼き捨てておくようにと命令を送っておいたのだが、何の手違いか、失火したとみえた。

「飛び火しているぞ」

 兵士が叫んだ。その夜は風があった。禁衛軍の将校たちは事態を憂慮しはじめた。皇帝襲撃は単独犯ではなかった可能性を彼らはまだ考えていた。

「ことによったら市民を逃すために閉ざした門を開け放つことになる。それでは陛下を襲った者も帝都の外に出てしまう」

「護民官に違いない」前執政官はわめいた。

「あれは護民官がつけた火に違いない。混乱に乗じて遠くに逃げようというのだ。それだけではない、護民官は皇帝陛下の『王の穴』を獄門の塔から連れ去っておる」

 ちょうど皇弟の遺体を前執政官の執務室から運び出していた兵たちが愕いて前執政官を見上げた。そういえば、王の穴がいないと獄門の塔の獄吏たちが蒼ざめていた。騒ぎを制したのは皇后だった。皇后宮から出てきた皇后は、逃亡した女奴隷を探し出そうとする衛士たちの前に立ち塞がるようにして通路に現れた。

 静まれと皇后は云った。

「今は皇帝陛下の安静が大事なのが分かりませぬか。女奴隷ひとり遠くには行けぬ。後からどうにでも探し出せましょう。そなたら、これ以上の騒擾は本日はもう不要である」

 男たちを眺めまわして皇后はそう云い、捜索隊を収めさせたという。

「まさか本当に護民官がやったのか」

「それはない」

 護民官の友人将校たちはもう一度声を合わせて言下に否定した。しかし前執政官は引かなかった。

「皇弟さまの遺骸を見よ。傷口を調べよ。これは手慣れた職業軍人の仕業であろう」

 彼らは皇弟の遺骸を見下ろした。

「護民官を捕らえよ。いや、殺せ」

「お待ち下さい」

 禁衛軍将校が追いすがるのを振り切り、地図を広げさせると、前執政官は街道に向かう門と、火事場から近い界隈と、そして反対側の暗部にあたる市街を特に警戒せよと指示をとばした。とにかく護民官を見つけてその場で殺してしまうことだ。そうすれば、あの男にすべての罪を押し付けて片が付く。

「護民官は敵国の手先に堕ちた。皇帝の殺害を試み、利用した皇弟を殺し、王の穴を獄門の塔から連れ出して連れ去っておる。あの男を逃がすな」

 護民官の邸宅を取り囲むために中隊が兜と槍を光らせて急ぎ出ていった。

「緊急時における前執政官の権限を発動する。軍を整えよ。皇帝陛下に代わって臨時に復権したわたしが命じる」

 宮殿中を歩き回り前執政官は檄を飛ばした。そうしている間にも下町の火事はみるみる燃え広がり、風にのって方々に火の粉が届くようになっていた。

「司令官」

 禁衛軍将校たちはそこに現れた壮年の男の許に集った。男は宮廷の変事を受けて赴任先から急遽馬を乗り継いで帝都に駈け戻ってきた禁衛軍の総司令官だった。

 総司令官は禁衛兵を見廻すと、すぐに皇帝が収容された皇后宮の警護に半分を割り振った。残った将校たちが司令官を仰いだ。

「司令官」

「我らは皇帝の命にしか従わぬ。あの火事を鎮めるのが先だ」

 禁衛軍司令官は皇帝代理に名乗りをあげた前執政官を無視した。旅の埃も払わぬまま「皇帝の片腕」と称号される男は夜の市街に眼を向けた。

「市民を救うのだ」

 禁衛軍司令官は若い将校たちを率いて去った。

 前執政官はますます声を張り上げた。

「皇帝を斃そうとし、皇弟を殺め、王の穴を連れ去ったのは禁衛軍将校護民官だ。皇帝に危害を加えた裏切り者だ。全市街を探して殺せ。帝国の裏切り者だ。護民官を見つけ次第その場でただちに殺すのだ」

「前執政官」

「これは皇太后さま」

 さすがに愛人を構う余裕はなかったが、前執政官は皇太后を出迎えた。

「お戻り下さい。こちらには来られませぬよう。後で必ずご説明にお伺いいたします」

 しかし皇太后は皇弟の遺体を見つけてしまった。「これもあの穢れた女のせいではないの」そう云って、皇太后は倒れた。

 

 

 護民官の邸宅に押しかけてきた中隊を出迎えたのは留守を預かる家令の妻だった。主も家令も不在だと告げて、「旦那さまはこちらに戻ってはおられません。出立されてからこのかたお姿も見ておりません。どうぞ邸内をおあらため下さい」夫の家令にそうするように云われたとおり家令の妻は中隊長を招き入れて邸宅の門をあけ放った。

「こちらが戦地の御主人さまから頂いた最後のお手紙です。月々の収入と支払の明細を家令である主人と定期連絡しているだけの簡素な往復書簡ですが」

 隊長が受け取った手紙を開くと数字が並んでいた。書面の下の方には、病気になって治療を受けた奴隷の名前や、結婚の許しを願う使用人のことなどがつづられており、真横には読んだというしるしや、許可するという短い文言が、護民官の返答として添えられていた。

 家令の妻は自ら先に立って室の扉という扉を開いていった。

「家令は何処に」

「夫は今朝、皇居に呼ばれ、その後は皇帝陛下のことで禁衛軍隊長さまから何かお役目を頂いていたようですが、詳しいことは存じ上げません」

 知っていることを家令の妻は不在の言い訳としてそのまま云った。中隊長を連れて家令の妻は邸宅内を案内していった。屋敷内に踏み込んだ兵士たちは意外そうな顔を隠さなかった。面食らうほど質素な邸宅だった。清掃が行き届いているだけに寂しくみえた。これならば市民の小金持ちの家のほうがよほど煌びやかで豪奢だ。

 女連れとおっしゃいましたか。

 家令の妻は堪えきれぬように笑いを洩らした。想像も出来なかった。そうであるならどれほど嬉しいことか。

「先代の奥方さまがいらした時は華やいでおりましたが、今の御主人さまに代が移ってからは新しい調度品も入ることがなくなって」

 家令の妻は不満のようだ。

「なにしろ軍務でほとんどこちらにいらっしゃらないのですから。もう諦めて良い品々は管理しやすいように数部屋にまとめて片寄せております」

 やけに飾り気のないがらんとした室が多いのはそういう理由だった。家令夫妻が采配を振るっているので母屋の品格は保ってはいるが、女主人を失うとみるみる快活さを失っていく家をそのまま体現しているような屋敷だった。

「家の者たちも、御主人さまには早く奥方さまをお迎えになられて帝都に腰を据えていただきたいと想っております。奥方さまとお子さまがいればこの家ももう一度賑やかになることでしょう。家庭持ちと異なり独身者には軍部の方も何の配慮もありません。戻られたなと想ったら軍令が出されて、すぐに遠くへとご出立なさるのです」

 また庭に白い孔雀が歩いているところが見たいと家令の妻は中隊長相手に贅沢な愚痴をこぼした。

「中隊長さま。街で火災が起こっているようです。万が一避難することになる事態に備えて、お許しいただけますならば、食事はこのまま続けさせてもらいます」

 家令の妻は大勢の家人たちに夕食をとらせている大食堂を通り抜け、燭台を掲げてさらに幾つかの室を通り、中隊長を奥まった書斎の一つに案内した。他の室と違ってその書斎は物で埋まっていた。

 そこは武門の家系の歴代の勲功が飾られている室だった。護民官の祖父のものもあった。新しいものの中には皇帝を庇って負傷した折の護民官の忠義を讃える青銅の高杯もあった。

「これは前執政官さまからのご命令なのです」

 虚栄とも堕落とも無縁な忠勇無双の鑑のような軍人の家に無遠慮に立ち入ってきたかっこうとなった中隊長は小さくなりながら云った。

「何かの誤認があるようです。邸宅の御門と外壁に沿った外回りだけを警護することをおゆるし下されば直ちにお屋敷から退居いたします」

 家令の妻は頷いた。

「そちらの高杯をご覧ください。本宅の旦那さまが皇帝陛下の忠君であることを示す証左となるものです」

 その室にある華々しい軍功の証の数々は過去から現在も当の武人たちはまるで興味を示さなかった。眺めて愉しむということすらしなかったのだが、皇帝や総司令部から何かを賜るたびに代々の家令が奪うようにしてその辺に放り出しているままの品々を預かり、この室に飾って磨いてきたものだった。それがようやく役に立つ日がきて家令の妻は誇らしかった。家令の妻は出口への道を空けた。

「何かのお間違いであろうと最初から分かっておりました。お引き取り下さい」

 

 前執政官から証拠の隠滅を任された色男はすぐにそれを果たした。後家から伝言を受けた色男は前執政官の経営する娼館に行くと隠されていた密貿易の書類を取り出してきて全て燃やした。暖炉にそれらをまとめて入れて火をつけたが、最後まで見届けてはいなかった。紙を巻いてある木軸の部分がまだくすぶって熱をもっていた。娼館の客がそこに紙屑を捨てた。火の移った紙屑が外にこぼれた。

 娼館の者たちが燃える匂いに気が付いた時には火の手はすでに娼館を包み始めていた。

「煙が」

 女たちが窓を開けた。そこから入ってきた帝都の宵風が火の手を一気に広げていった。

 夜道を歩いていた色男は火事に気が付いた。離れた街路から色男は娼館にまた戻って来た。客や女たちは通りに避難していた。表にいた下男が引き止めるのを押し退けて色男は娼館の内部に入り煙の流れる階段を上がった。飼っていた女は昼間の疲れからまだ寝ていた。焦げ臭さに眼を覚まして起きたばかりだった。逃げ遅れた女は室に現われた色男の姿を見て駈け寄って来た。色男は女の腕を掴んで外に出ようとした。その上に燃えた建物が崩れ落ちてきた。

 

 風に乗った火の手は、木切れを組み合わせて出来た下町に焔の羽根を広げるようにして広がっていた。

 これには戒厳令が施行された町の人々も愕き、慌てて、家から飛び出してきた。とくに火元の娼館のあたりは既に猛火に包まれており、逃げるとすれば、橋を渡った河の向こうだった。

 火災の恐怖に人々は大慌てになり家を捨てて街路を走り出した。木で出来た家が多い下町では火事はとくに怖いものだった。護民官は乙女の手を引き、軍套を頭の上に傾けて火の粉から乙女を護りながら街を走っていた。

 誰かが彼を呼んでいた。護民官、護民官。

「護民官どこへ行く。そちらは風下だぞ」

 友人の将校らの声だった。騎乗した彼らは逃げ惑う市民を落ち着かせるために宮殿から急ぎ街に駈け降りてきていた。彼らは禁衛軍司令官の指示で一か所だけ街道に通じる門を開け、開け放ったその門へと人々を誘導していた。前執政官の命令を完全に無視して禁衛軍司令官は人命救済を優先していた。

「落ち着け。門へ行け」

 若い禁衛兵たちは火災に追われる人々に鞭の先で方向を教えながら火の粉の降る街路を馬で駈け巡っていた。

「護民官。お前には皇弟さまを殺害し、皇帝陛下を殺めようとした嫌疑がかけられている。もちろん誰も信じていない」

 馬の上から彼らは云ったが、護民官が隠すようにして女を連れていることに気がつくと顔をゆがめた。

「その女が皇帝陛下の王の穴なら、さすがに逃げろとしか俺たちは云えないぞ」友人の将校たちは怒鳴った。

 護民官は見逃してくれる礼の代わりに背を向けて彼らから離れた。

「捕まるなよ護民官」

「今は逃げろ。火勢の強いそちらには行くな」

 友人たちの馬影は人の波に呑まれてすぐに見えなくなった。

 横手から焔に追われて避難する人々の一群がぶつかってきた。護民官と乙女の手は離れてしまった。護民官は人とあたって転倒し、石畳に半身を打ちつけた。逃げ惑う人々の流れに逆らって彼は立ち上がり、両腕で人波をかきわけた。ふたたび乙女の手を見つけて握った時には、火の勢いは彼らの頭上に焼けた鉄板の覆いのようにして迫っていた。

 乙女がしっかりと彼の腕に抱きついた。焼け落ちた梁が近くに落ちてきた時には彼より早く乙女が彼に飛びついてきて護民官を庇って胸に抱いた。衣ごしに金環があたった。逃亡した王の穴を連れ出すなど正気の沙汰ではなかった。完全に血迷っていた。皇帝への裏切りであり背信行為だった。彼は十分にそれを自覚していた。

 焼けていく家々が倒れ、人々がその下敷きになっていった。戦場のようなその混乱に護民官はありたけの力を振り絞った。人の波に逆らい、火の粉を浴び、暴れ馬に蹴られかけ、焔の壁に道を阻まれて吐く息を半ば焼かれながら、彼は胸に乙女を抱いて連れて行った。

 やがて河に出た。そこに小舟がまっていた。帝都に戻る時に乗っていた小舟だ。櫂をあやつる少年が待ちかねて手を振っていた。

 乙女を舟に乗せると、護民官はすぐに小舟の綱を解いた。

「行け」

 護民官は河に入ると、木舟の縁を掴んで力いっぱい河の中央に押しやった。脚が痛み胸が痛んだ。治りかけの骨がまた折れたのかもしれない。海賊の少年が巧みに櫂を引き、小舟はすぐに岸辺から大きく離れていった。

「行け。遠くに」

 彼も乗るものだとばかり想っていた乙女が何かを叫んでいた。舟から半身を乗り出し両手を伸ばして乙女は彼の名を呼んでいた。はっきりと聴いた。

 その声が聴きたかった。彼は一度それを聴いたことがあった。獄門の塔の地下であの女奴隷が口にしていた。あれと同じ女の想いが夜風にのって彼に触れてきた。どれほどそれを聴きたいと希ってきたかわからない。

 帝都の下町はごうごうと火焔を夜に噴き上げていた。炎に追われて橋から人々と荷馬車が落ちていくのが見えた。両岸から吹き付ける火の手は太陽のように熱波を放って夜を焦がし街を焼いて渦巻いた。

 女を乗せた小さな小舟に注意を向ける者はいなかった。やがて小舟は大河に出て、星と海の境に浮かぶのだ。そこからは帆を掲げた船に乗り、家令と海軍提督が乙女を約束の地に連れて行く。

「護民官だ」

「いたぞ」

 兜を光らせた小隊がこちらに向かってきていた。河に突き出した哨戒塔からも口々に騒ぎながら護民官の姿を認めて兵士が動く気配があった。力つき、水底の泥に足をとられた護民官はよろめいた。両腕を広げて河の中に仰向けに倒れた。視界から星空が消えた。河の水が鼻に入ってきた。

 宮殿では皇帝の枕元に寄り添っている皇后が幼い皇女と皇子をあやしながら、朱く染まった市街地の上に広がる夜空を見ていた。

 

 

>続く

 

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