■終章.
わたしが王の穴になったのは、わたしが人を殺したからだ。
商家からわたしを買ったのは辺境都市の成金で、金策に行き詰った商人がこの女の膝の高さまで金銀宝飾を積み上げることが出来たら女を売ってもよいと豪語したところ、それだけの対価を出した者がいたのだ。
わたしを買ったのは十五年間ガレー船を漕いできた元奴隷で、解放された後、黒いことに手を染めてひと財産を築いていた。
買われたわたしは悪趣味な邸宅に連れていかれ、宝石のぶら下がった首輪をかけられた。長年ガレー船を漕いできた元奴隷は上半身が奇形のように盛り上がり、その体躯でわたしを寝台で好きにしていた。
ある夜、元奴隷は今宵はこれを使うのだといって、変わった形の変なものを取り出してきた。
澄ました顔をしているが今度こそ逃れられんぞ。
そう云って男はべたついた手で私の尻の穴にその責め具を入れようと頑張り始めた。痛くて私は暴れた。男は湯浴みの後はいつも競技者がつけるような油を全身につけていた。そのままでは無理だったので男は潤滑油を取り出してわたしの尻の穴に塗りこめた。成金が変なかたちのその淫具に手を伸ばした。寝台の上で抗うわたしの脚が燭台にあたった。燭台が倒れ、蝋燭が落ち、潤滑油を入れた壺も倒れて中身が流れ、そこに蝋燭の火が燃え移り、その火は敷布を伝って全身に油を塗った成金男を包んだ。
わたしが男を蹴って焼き殺したということにされた。わたしには死罪が言い渡された。
地方都市でも余所と同様に肉食の猛獣に生きたまま奴隷を喰いちぎらせる出し物が流行っていた。海水を引き込んだ海戦の模擬戦のような帝都の興行の派手さはなくても、地方の民は十分それで満足していた。
何かの罪や些細なことで処分が決まった奴隷や戦争捕虜たちが闘技場に引き出され、飢えた獣が飛び掛かって食い尽くしていく。逃げ回る様子と悲鳴と飛び散る血肉に田舎の観衆は沸きにわいた。わたしの処分はその刑になった。
楕円形をした闘技場の地下牢で明日処刑されるという前の晩、わたしは牢番たちから犯された。「しっかりメスの匂いを立てとけよ」そう云って、処刑の当日も粗末な寝台の上で縛られたまま犯された。獅子の咆哮がどこかから響いていた。
それから牢番たちは私の頭にその日の犠牲者の印である花かんむりをのせた。
「お前なんか一撃で宙に飛ばされて終わりだろうが、可哀想だからこれをやるよ」
何かの薬を彼らはわたしに呑ませた。牢番たちは気まずそうにしていた。散々凌辱した後にみせる男たちのこのような萎びた同情だけはいつまでたっても理解不能だ。
そこからの記憶はない。引き出された闘技場が真っ白に光って見えて、砂ぼこりが色んな色彩で輝いていたことだけを覚えている。
その日、闘技場には王にお仕えしている者が来ていた。獣に喰い殺されるために外に引き出されてきたわたしを見ると、処刑を中止させたのだと後できいた。
わたしは命を助けられ、老いた王の『王の穴』として老王にお仕えすることになった。
『王の穴』は王が死ぬと殺される。もう先が長くない老王にお仕えするわたしは死刑が延びたのだ。
王の穴にされるにあたり、わたしは言葉を失った。
噂ばなしに熱心な使役奴隷とは違い、わたしのような性奴隷はもとより他の奴隷と喋る機会もほとんどなかったのでそれはさして苦ではなかった。
両乳首に小さな金の環を嵌め込まれたわたしは、老いた王の寝所に連れていかれた。
老いた王は、背骨もあまり曲がっておらず、立派な枯れ木のように見えた。たいへんなご高齢であり、白髪を肩に垂らした王は学者じみた横顔と悟ったような澄んだ眸をもっていた。
王にはもうその力はなかったが、王は奴隷のわたしを愛でて下さった。
「このような老人になると、もうお前のような若い娘は眩いだけのものだ」
寝台に上がったわたしに王はそう云った。
わたしはすぐに王さまが好きになった。王さまの手淫は気持ちがよくて、されながら寝てしまったことも何度かある。王は怒らなかった。お前のよいようにそうしなさいと王に云われたとおり、わたしはして欲しい時には王さまの手を取って胸や脚の間に王さまの手を導いた。冷え込む日にはご負担のないように気をつけながら王の御身体に身を寄せて王さまの添い寝をつとめたが、王は笑みを含んだお顔をされて、わたしが眠りにつくのを近くから眺めておられた。
夜になるとわたしは王の寝所に行き、朝になると与えられた房に引きこもる。移動するあいだ手枷は嵌められていたが、わたし以外の者が外そうと想えば簡単に外れるような簡単な仕掛けのものだった。
老いると夜に何度もあるという排尿も王は控えめだった。唇で王さまの残尿をふきとる間、王はわたしの頭を撫でていた。
偉大な王はたいへんな力を持ち、崇敬されていた。数年前まで闊達に動かれていたそうだが、さすがに老齢には勝てず、地方の離宮で余生を過ごされていた。
わたしは王の穴としては異例な状態で、これでも自由なのだそうだ。
老王は時々、知っている性奴隷たちの話をしてくれた。どの話も哀しく、王も少し哀しんでいるようだった。
ある晩粗相をしたと想って跳ね起きると、わたしの膣から指を抜いた王は優しく「尿ではない」と教えてくれた。そしてわたしを胸に抱きながら、「女の子はみんな同じように愕くのだね」と眼を閉じて云われた。
美しい枯れ木のような王さま。
老王の王の穴となったわたしは王さまの最晩年を目の当たりにしていた。ゆるやかに、しかし確実に、王さまは体力を失っていった。半年も過ぎると王の寝所でわたしは一晩中、王の寝顔を見つめることが多くなった。枯れた腕も高い鼻梁も、彫り物のようだった。
或る夜、手と脚のない女奴隷のことを王は語って下さった。とても美しい女で、王の穴だったそうだ。
「罪を犯して四肢を切断され、王が死ぬと娼館に下げ渡されたのだ。可哀想で、救い出してやりたかった。しかしわたしはまだ若く、無理に取り上げて有力な貴族と反目することは出来なかった」
王は懐かしい眼をされた。わたしの方が泣き出しそうになるような澄み切った眸をされて語られた。
「真夜中だったが明け方のような気がしたものだ。女の心があまりにも静かで、もう半分あちらの世のものだったからだろう。倖せな共寝をした後で、その女奴隷がわたしを見つめていた。人にあのような美しい眼ができようかと想うほどの、気高く清らかな顔をしていた。死期を悟った動物のような眼をしてあのものはわたしにそれを希っていた。女が何を求めているのかわたしには分かったのだ。わたしの手から毒薬を呑んで、わたしの腕の中で死んでいった。わたしは冷たくなっていくその女を朝まで抱きしめて、ずっと抱いてやっていた」
とても美しい四肢を断たれた女というものがこの世にいるのなら、それはこの王のために生まれてきた女奴隷だろう。王さまの為に生きた女だろう。何度も戦場に出られたという老いた王のお身体に残る古い傷。腕に浮き出た青い血の筋を辿りながらわたしはその話を聴いていた。この話を語る王さまは、その時の女奴隷のような静かな眸をされていた。
太陽が草木を焼くような夏がきた。
王の離宮には避夏を求める者たちが集まりはじめ、にわかに騒がしくなった。王は夏風邪をひかれて、わたしはしばらくご寝所に上がらなくてもよくなった。
わたしは王から日課として日光にあたり散策するようにと命じられていた。その午後も奴隷の男に手鎖を引かれながら北向きの庭園を歩いていた。
「来た。あいつだ」
声がするや否や、わたしの鎖は奴隷男の手から現れた若者たちの手に渡っていた。
「『王の穴』だ」
帝都から皇子たちが遊びに来ているときいていたが、この若人たちのことだった。彼らはわたしよりも若かったがすでにわたしよりも背丈が高く、揃って鍛えられた体格をしており、大人の男へと変貌していく途上にある無分別と貴族らしい傲慢さをもっていた。
「口に布を詰めろ」
「言葉は出せないんじゃないのか」
林の奥に連れ込まれ、皇子たちはわたしの身体を犯しはじめた。
最初は布きれで口枷をつけられていたが、わたしが助けを求めて喚きたてることも出来ないと分かると、すぐにそれは外された。
「物足りないな。突き上げてやってもそこ、いい、いくも云えないとは」
「可愛い喘ぎ声は上げてるけどな。途中からぼうっとなってくる顔もいい」
皇子たちは疲れ切ったわたしに衣を戻すと心配でおろおろしている奴隷が待つ庭に戻り、奴隷にわたしの鎖を引き渡した。
「また明日やるからな」皇子の一人がわたしの耳に囁いた。
それから毎日、皇子たちはわたしを森の中に引き立てて行って輪姦するようになった。どうやら世話係の奴隷は金を積まれたらしく、黙って彼らにわたしを引き渡すようになっていた。抵抗したが無駄だった。午後の太陽の強さをはらう木立の奥でわたしは何度も若者たちに貫かれて汚された。老王の離宮など若い彼らにとっては退屈なだけだった。狩りや釣りや奴隷教師との剣術の稽古で暇をつぶしていたところ、ちょうどいい退屈しのぎを見つけたのだ。
「運がいい、『王の穴』がいるなんて」
きらきら光る細い金の環がわたしの乳房の上で揺れていた。元々専用だったわけでもないし、老王の穴だから別に遠慮はいらないと彼らは云っていた。
「男を蹴り殺した女らしいぞ。気をつけろ」
次第にわたしにも彼らの見分けがついてきた。皇子たちは五人いて、世継ぎにあたる皇后の皇子もいれば宮廷に大勢いる皇妃たちの皇子もいるようだった。
いくら性奴隷でも続けてやられていると揺さぶられすぎて頭が痛くなってくる。五人目が終わる頃には疲れ果てて帰りはよろめき歩くようになっていた。物珍しさが過ぎると皇子たちはその日によって人数を減らしてくれた。女がいると気分が上がるものか、彼らはわたしを共有の愛玩物として愉し気に連れまわした。毎日迎えに来ては鎖を引っ張って森の中に連れて行き、悪ふざけを含む彼らの遊びにわたしを付き合わせた。左右を挟まれて接吻されたり身体を軽く触られながら格闘技をしている他の皇子たちを眺めているだけの日もあった。現皇帝の意向で全員が軍務に就いていることもあり、木剣とはいえ武器を合わせて勝ち抜き戦をしている時などは見ているわたしが息を呑むような危ない場面も何度かあった。力のあるところを女に見せつけた後で、日に焼けた膚をした彼らは勝った者から順番にわたしの穴を使いにやって来た。
やがて、そのうちの一人の皇子にわたしの意識は向くようになった。わたしが犯されている間、他の皇子たちとはかなり離れたところにいて、みだらな恰好にされているわたしの姿を動物の交尾でも見ているような眼つきをして眺めていた。だいたいは無口で、いつもなにか別のことを考えているような顔をしており、その薄い色の眸は木立の奥を見詰めている時もあれば、他の者たちの手で嬲られているわたしを見つめている時もあった。
憶病なのかと想ったが、彼の番がきたらその皇子も遠慮なく最初に挿れてきた。その時になぜかその皇子は脱がされて草の上においてあるわたしの衣をわたしの顔にかけたり、あるいは後ろ向きにさせてわたしの顔を見ないようにしていた。皇子は性急で、腰を掴んで強く揺さぶり、女の中に吐き出し終わると、またわたしから離れていった。
ある日、両手両足を掴まれて身体を広げられ、小枝で胸の先をはじかれながら、隠された芽をつままれて「ここが良いのだろう」と若者たちに笑いながら弄られている時のことだった。あまりに辛くて泣いていたわたしは悶えるうちに尿を沢山もらして着たままだった衣を汚してしまった。
すると薄い色の眸をした皇子がわたしの襟首をつかんで掴み上げ、「始末しておくから先に帰れ」と他の皇子たちに云った。
子ども頃から遊びに来て親しんでいる森らしく、皇子は森のどこに何があるかよく知っていた。首を掴まれたまま森の奥に連れていかれた。小川のせせらぎの流れの中に皇子はわたしを突き飛ばした。尻をついてびしょ濡れになったところを、もう一度、水の中に漬けられた。
引き上げられて、日の光に熱くなった岩の上に座らせると、皇子はわたしの衣の裾を絞って水をきり、わたしの足から沓を脱がせて近くの岩に立てかけて干した。すぐに乾くだろうとわたしの手の鎖を外してくれながら皇子は云った。
涙なのか川の水なのか分からぬものに濡れながら、お尻を温かい岩につけて身体が乾くのを待っていた。手枷は外されていたが、さっきまで若人たちに引きずり回されていた痕が痛かった。
故郷の川で魚をとっていた。通りかかった奴隷商人が「あそこに素晴らしいのがいる」と鞭で指すや否や小脇に抱えられて連れ去られた。あの日から、もう何年経ったのか分からない。昔のことはよく覚えていない。王の居室には大きな地図があり、そこには色を塗られた河がたくさん書き込まれていたが、そのうちのどれがわたしのいた川なのかも分からない。字は読めないし、帰ろうにも、国も道も川の名もわたしは知らなかった。多分憶えていたのだが、誰にも通じない言葉だったから忘れてしまった。
小川の流れる音を聴きながら、晩夏の空を見上げた。
王さまの衰弱は少しずつ進んでいた。そのうちお隠れになるのだろう。最後の夏になるのだ。わたしは膝を抱えた。
この次に生まれてきたら翼を生やし、朝焼けの中を飛んでみたいな。
影がさした。顔を向けると近くから皇子がわたしを見つめており、その唇がわたしの唇に重なった。わたしは嫌な顔をしたと想う。すると皇子はもう一度、わたしに接吻してきた。
樹木の影のやわらかな草地に横たえられて、はじめて私は抗った。皇子の腹といわず胸といわず、何度も力いっぱい叩いて蹴った。
嫌だ。もう嫌だ。故郷に帰りたい。
王さまの許に帰りたい。
暴れるわたしを抑えつけ、皇子は獣をあやすように小声で宥めながらわたしを抱きしめて背を撫で腰を撫でていた。
もう一度接吻してきた皇子は噛みつかれる前に唇を放し、わたしの胸に手をおいて、金環ごとわたしの乳首をいじりはじめた。金の環が嵌った乳房に皇子の手が這い、それは少しずつ肌の上の湿りを辿って動いていった。
いつまでそうしていたのか分からない。
梢の先に流れていた白い雲が、すっかり遠くへいってしまっていた。
暴れながらわたしはいつもとは全く違う皇子の優しい愛し方に抗えるだけ抗った。わたしは性奴隷だ。これは違う。この皇子にこんなことをされることが無性に悔しかったが理由は分からなかった。水音と夏草と森の風。奴隷のわたしが皇子を拒むことも皇子が叩かれるままになっていることも、何もかもが間違っていた。温かい日陰の草の上で、土や汗や花の匂いに包まれて、日差しに照らされた膚の熱と涙が出そうなほどの指遣いに唇をかんで耐えていた。
わたしはまだ皇子を蹴りつけていたが、そのかかとを皇子が抑え、膝をすくわれた。
内から寄せる波がわたしを揺すりはじめた。皇子の腰を挟んでいるわたしの膝を木漏れ日がまだらに染め、皇子の額から落ちる汗が雫となって胸の金環に落ちてきた。大きな波が来た時に堪え切れなくなった。わたしは口を開いて崩れ落ち、皇子の腕の中で声を放ちはじめた。皇子はわたしの両手をとって彼の肩に回したので、わたしは皇子にしがみつくしかなくなった。
息を吐いて身を離した皇子は、やがてわたしの足首とかかとをもう一度つかんで、すっかり乾いた沓を履かせてくれた。皇子は俯いたまま肩をふるわせて小さく笑いだした。
「この足で男を殺すなど、無理だろう」
森を抜け、離宮が見えてきた。
帰りが遅いので落ち着かなげにしている奴隷が庭で待っていた。皇子は無言でわたしをそちらに押しやった。
振り返ると、もういなかった。
その日を限りに離宮に集まっていた若い皇子たちは姿を消した。帝都に帰っていったのだ。
秋が過ぎ冬がきて、老王は急速によわっていった。長旅を終えようとする老衰のまどろみの中で王は一日中寝台で眠っていることが多くなった。わたしは王さまのおそばにいて、王が眼を開いたり、王の大きな手がたまに頭を撫ぜてくれるのを待っていた。わたしの王さま。
王さまが死ねば王がお寂しくないように御伴をして、わたしも黄泉の国へいこう。そこには手足のない王の愛した女人が待っていて、霧の流れる対岸を渡れば、駈け寄って来たその女人の白い両腕が王を抱きしめるだろう。イリスの花の咲くその彼岸までわたしは王をお連れするのだ。
その後、わたしはどうしよう。
愛するものを持たなかった人間は永久に昏い河原を彷徨うと云われている。黄泉の川の流れを辿っていけば、いつかはわたしの故郷の川に出るだろうか。そこに辿り着けばわたしは岸辺に腰をおろし、霧の流れる静かな永遠の中で水音を聴いて座っていよう。いつか、王さまの名すら消え去った頃にわたしも氷片のように何も残さず消えてしまうだろう。
息を引き取る直前、王は控えの者たちに何かを命じた。
わたしは両腕を掴まれて立たされた。衣が脱がされて金環の嵌った乳房が引き出された。輪の中に鐵具が差しはさまれた。王が見つめる中でわたしの両乳首の金環が壊されて外された。片方、そしてもう片方も。
わたしを見つめる王には微笑む力はもうなかったが、両眼には確かにそのような光があった。
王は死んだ。
外は粉雪が吹雪いていて雲間から星が出ていた。偉大な王の死はあまりにも重かった。
処刑されるはずだった奴隷です、しきたり通り王の御伴をさせましょう。そんな取り決めを交わす声が背後で聴こえていた。明日そうされるのだと分かった。わたしはずっと王の亡骸を抱いていたかったけれど、それは叶わぬことだった。
王の逝去をうけて離宮中が泣いていた。
一番最初に王から遠ざけられた。わたしは房に戻された。手枷を引いていた奴隷がわたしを中に入れて扉をしめて出て行った。
寝台の端にあの皇子が腰を下ろして座っていた。皇子が立ち上がった。雪を浴びながら馬を駈けさせてきたという。
明日の夕方までには戻らなければならない。
そう云いながら皇子はわたしの手鎖を剣の先を使って壊した。王の危篤を知り、膠着状態に陥っている戦地からそのまま来たと告げて、皇子はわたしを急がせた。 冬だというのに皇子は革の胴着をつけた簡略な軍装だった。寒風に吹かれてきた皇子の肌は冷たいよりは熱かった。
これを被って姿を隠せ。
皇子はわたしに緋色の軍套をかぶせた。皇子と眼があった。戦場の余韻を引いている薄い色の眸が少し怖かった。奴隷と申し合わせていたものか房の扉には鍵がかかっていなかった。
ひと眼を避けて裏庭から馬のとめてある灌木の茂みへと皇子はわたしの手を引いて連れて行った。
わたしを馬に横座りに乗せると、皇子はわたしの腕を腰に回させた。一声鋭くかけた皇子の合図に応え、馬が走った。
月明かりに照らされた街道は魚の背のように鈍くひかり、角燈がなくとも晴れた冬の夜は道をそれたり迷うこともなかった。
「少し遠いが、海にのぞんだ別荘がある。お前をそこに連れていく」
風の中で皇子が何か云っている。
「昔、皇帝の片腕を務め上げた親族の者がおなじように訳ありの女をずっとおいていた別荘だ。その者たちは今は同じ墓にいるのだ。あそこならば中央からも遠く離れているし、わたしが皇子でいる限り禁衛軍も誰も探しに来ることはない。わたしの母は皇帝に嫁いだから、王からお前をもらったといえばそれ以上誰にも何も云われない。お前はそこにいればいい。時々は帝都から様子をみに行ってやる」
逢いにきて、逢いにきて。
硬貨を粗末な袋に集めて数えていた女も、塔の中に幽閉されていた王の奴隷も、同じことをこの星空に願ったはずだ。
頬にあたる白い雪が流れる星のように後方に飛び去っていく。
夜明けが近くなる頃、冷たい朝をひらいて海がみえてきた。あの丘陵を超えれば
目覚めの鳥が鳴いて飛びかい、春を待つ樹木が雪に薫るのだ。
わたしを乗せて手綱を操るせいか皇子は唇を引き結んで前を向いたままだった。落ちないように悪路では片腕で抱かれた。わたしは皇子を見上げて、その上に広がる空を見た。冬のひかりが夏の色に交わるような朝焼けの空だった。
皇子は馬をはげまし、わたしを抱く腕に力をこめた。
[王の穴・完]
・御礼とあとがきは活動報告に(全体には表示されません
・ハーメルンさま内に時代違いで同じ疑似ローマ設定の長編あり(2022/8~