※この作品はR-18です。

王の穴   作:Asabuki

2 / 15
王の穴 二

■二.

 

 

 先々帝の女奴隷を買ったと自慢した皇弟は、彼らの父である前帝の、よがり死の刑に処された『王の穴』のほうにも関心と執心と未練があるようだった。

「見たかったな。そっちも綺麗な子だったんだろうな。兄上が羨ましい。父上の王の穴を見たことがあるのだから」

 皇弟が兄王をみた。皇帝はわずかに首を傾けるにとどめた。

「顔は分からなかった」

 皇帝は云った。

「女奴隷が死ぬ直前のことだった。そこにいる護民官の父上に頼んで少し姿を見せてもらっただけだ。すでに瀕死だったよ」

 護民官も黙っていた。皇帝は知らないことだったが、護民官も女奴隷を見たことがあった。彼ら二人は前帝の女奴隷を知っていた。

 皇帝が顔を知らないというのは嘘ではない。女奴隷は鷹に頭巾を被せるようにして、豚の革で作った袋を頭部に被せられて、顔が分からないようにされていたからだ。

 護民官は昨夜はどうしていたのだ、と話題を変えるようにして再度皇帝に問われた。

「昼から姿を見なかったが」

 天幕を出ようとしていた護民官は皇帝を振り返った。皇帝と護民官は他に誰もいない時には学問所で共に学んだ仲に戻り、敬語ははぶかれた。

「父の師で、わたしの家庭教師だった老師に求められて、この地方の薬草を集めに行っていた」

「あのご老人か。ご健在か」

「護民官と薬草だって」

 皇弟が低く笑った。

「武人と草。似合わないな」

 その集落は必要な薬草を用意して護民官の到着を待っていた。先ぶれを出していたので住人は落ち着いていたが、丘を駈け下って現れた皇帝の軍馬の姿には恐怖しており、その証拠に滞在中はただの一度も村の女たちの姿をみなかった。

 緋色の軍套をひるがえして護民官は馬をおりた。帝国の領内に入ったこともあり、共にした従者はわずかだった。

 村の長老に出迎えられた護民官は、地面に敷いた荒布の上に薬草を広げ、一つ一つを確認していったが、ふと枯れた青い草の束に眼をとめた。これは何だと問うと、咳に効くとのことだった。

 老師の求めたものではないが、ついでだからもらっておくことにした。

「ここから見える、あの白い雪をもつ山のふもとのあたりに古い僧院がありまして、そこの庭で育てられた薬草でございます」

 長老は慇懃に応えた。その草は、青い花ごと水分を失って枯れており、茎には細い葉が巻き付いて、風にかすかな音色を立てて揺れていた。

 

 

 村に礼金を払い、薬草の束を馬に乗せて帰ろうとした時だった。

「護民官。護民官さま」

 帝都を離れた場所でその名を呼ばれるのは奇異だった。護民官は馬をとめて、従者とともにその男に向き直った。そこに居たのはひんまがった背の、醜悪な初老の男だった。男の片目は潰れていた。

「お待ちを。護民官さま」

 初老の男は隠れていた樹のかげからまろび出て、護民官の馬の前に平伏してみせた。解放奴隷で、以前は都にいたという。

 男が帝都で勤めていたという娼館の名を護民官たちは知っていた。一流とまではいかないが、名の通った老舗の店で、気取ったところもなければ安宿のように不衛生でもない。常に客で賑わっている大店の一つだ。

「貴族のみなさまにもよくご利用いただいておりました。なかには親子二代で通われる方もいらっしゃいました。主筋は商人さまたちでしたが、客筋もよく、あっしは繁盛している店に勤めていることで鼻が高かったものでした」

 軍馬の鼻面が不機嫌そうに伸びてくるのに怯えながら初老の男は喋った。

「こちらの護民官さまのお姿は、帝都にいる頃に大通りでよくお見掛けしていた次第です。その頃はまだ護民官さまではいらっしゃいませんでしたが、迷子になった奴隷の少年を主の家まで送り届けてやった話や、日照りが続いて枯れかけた井戸をめぐって争っている自由民の男たちの喧嘩を引き分けた話など、知らぬ者はおりませんのです。

 さすがはあの御父上のお子と、下民の我らも感心しておりました。

 あっしはその娼館に長く勤めましたが、禁止されていた賭け事に手を出して、さんざん折檻されて追い払われてしまったのです。片目を失い、都落ちをしてこのありさまというわけで」

「用があるなら話すがいい」

 長話に付き合う気はなかった。初老の男はへこへこと頭を下げて、もみ手をせんばかりにいじけた眼で馬上の護民官を仰いだ。

「新しく即位になった皇帝、もうご即位から二年にもなるのでしたか。新皇帝さまには、まだ決まった『王の穴』がおありにはならない。そうでございますね」

「護民官」横手から彼の従者が囁いた。護民官にも話がだいたい読めてきた。この男はこの辺鄙な地方の女のうちに心あたりがあって、皇帝の奴隷に推挙しようというのだ。

「お待ちください、先刻あっしが云ったこと想い出して下さい。あっしは帝都の大きな娼館の下男を長く勤めてきたものです。片目だけになってしまっても、女を見る目に濁りはありません」

 背後の従者たちが苦笑しているのが護民官にも分かった。

「美しい女なら千人も、万人も、長いあいだ見てきました。あっしがあの妓は売れると見込んだ妓は必ず売れっ子になったし、あっしがあの妓はあの客層に気に入られると見込めば、そのとおりになった。女を見る眼は奴隷商人にも負けません。あいつらは女どもを若さと形でしか見ないんだ。使えない連中だ」

「皇帝がお気に召す女がお前に分かるというのか」

 あざ嗤って従者は護民官をうながした。

「聞いていられません、行きましょう」

「お待ちください。ひと目だけでも見て下さい」

 片目の潰れた初老の男はわめいたが、護民官は馬の腹を蹴っていた。

「皇帝どころか、神殿に供えてもいいくらいの女なんだ。本当だ、一度見たらお分かりになる。あんな女はそこらにいるもんじゃない。山の雪のきれいなところを取って集めてこしらえたような女なんだ」

 買い取った薬草は集めて布袋に入れて馬の鞍に乗せていた。宿営地に戻ったら老師に手紙を書いて、早馬で先に帝都に届けさせるとしよう。

 男はまだ叫んでいた。

「護民官さまがお持ちになったその薬草の、その青い花みたいな女なんだ。初めて咲く春の花や、澄んだ泉みたいな女なんだ」

 男の姿はすぐに後方に見えなくなった。

 

 

 朝食を共にした皇帝の天幕を出ると、皇帝にされたのと同じ問いかけを方々から護民官は受けた。

「お前、昨夜は何処にいたんだよ」

 馬を用意している護民官のもとに集まって来たのは、友人の将校たちだった。貴族の子弟の彼らも皇帝と同じ学問所で学んできた同窓で、将来的には皇帝を支える重鎮になることが決まっている青年隊の面々だった。

 護民官は同じ説明を繰り返した。

「あの師匠。まだ生きてたか」

「仙人みたいな風体で、杖をついていたよな」

「お前の天幕に呼びに行ったら、いないという。昨夜は愕いたぞ」

 将校のひとりが顔をにやつかせて、護民官にすり寄ってきた。

「それが昨夜はいい女がいてさ。誰かに叩かれたのか頬が朱く腫れていてそれが色っぽいの。獣みたいに暴れる元気がまだあって、昨夜はひさびさに気合入ったわ俺」

「叩いた」

 護民官は手組みをして足場をつくってくれた友人に助けられて馬の鞍にまたがった。

「なに。護民官が叩いたの。あの女を」

「暴れたので」

「ああ、そう」

 敵地で捕らえた女たちのうちで、器量のよいのは上官の天幕に割りふられ、夜ごと日替わりで回されていくのだが、一昨夜護民官の天幕にいた女が、昨夜は友人のところにいたらしい。

 天幕が壊れるのではないかと思うほど暴れ回り、彼に噛みつこうとしたのでついに横っ面を張り飛ばしたが、これから売られて奴隷となる女には、それでもまだ甘い処置だといえた。

 貴族の家に生まれると、よちよち歩きの頃から奴隷の扱いを教わる。小さな柳の枝を振り回して、ぴしりと奴隷を打つ幼児は、屋敷の者たちの人気者だった。

 屋敷につとめる奴隷は男も女もくすくす笑いながら手を叩き、

「さあ、坊ちゃま。こんどはこちらの頬をお打ちになって下さい」

「おお、痛い痛い」

 大げさにして、子どもたちと鬼ごっこをして遊ぶのだ。

 帝国の奴隷はどんな寛大な主人の家にいても、軽い体罰からは免れられない。けじめを引くためにも、主となったものは奴隷たちの些細な粗相を見逃さず、何かと奴隷や使用人に平手打ちをしたり鞭を与えた。奴隷のほうも慣れっこで、頬や尻を打たれるくらいのことは何とも思わず、平然としてよく働いた。彼らは家族として主人につらなり、主人は彼らの面倒をみて、時として解放したり、賃金を与えるのだった。

 

「で、どうよ」友人たちが護民官を見上げて訊いた。

「頬をひっぱたいた女。それから、どうだった」

「普通」

「そう?」

「普通」護民官は友人の手から手綱を受け取った。

 そこから見える下地では、馬車から女たちが降ろされて朝食の用意や洗濯に駆り出されているのが見えていた。昨晩の凌辱に痛む股をかばって前かがみになり、足をひきずりながら、疲れ切った様子で女たちは水桶をはこんでいた。

 友人の将校たちはまだ女について相談をしていた。

「それよりも、栗毛の巻き毛がよかったぜ。あの子、どこに行ったかな」

「気に入ったのなら今のうちに頼んでおけよ」

「商人から直接買って、家におけばいいんだよ」

 運がよければ大きな邸宅の使用人に。運が悪ければ酷使される労働者や売春婦に。解放奴隷の妻として買われるか、それとも裕福な屋敷の子守り女や侍女になるか。または解放されて金持ちの後妻となるか。

 しかしそれは彼らが考えることではない。奴隷は馬や牛と同じなのだ。

「雷雨になるそうだぞ。何処に行くのか知らないが、天候が荒れる前に戻ってこいよ」

 護民官は友人に片手をあげて応えると、遠征に伴ってきていた家令を連れて皇帝の宿営地を後にした。

 

 馬を走らせる護民官は空を見た。まだ晴れている。

 先刻の朝食の席で、若い皇帝は謎めいたことを云ったのだ。学問所で机を並べた頃からあまり胸襟を開かぬ用心深いところがあった皇帝だった。皇帝は葡萄をむさぼっている皇弟を感心せぬような顔つきで眺めやりながら、こう云った。

「美しい処女ばかりを選ばせて別に取り置いているが、とてもあれでは事足りるまい」

 

 

 帝国の風習として、どのような性交であろうと、男は必ず支配者でなければならない決まりがあった。同等の地位の者や身分が上の女を相手にする時は、神聖にして神秘なる子作りの目的だけと定められており、高貴な女相手の快楽は禁じられた。裏側に回れば誰も守ってはいなかったが、何かあると不名誉な中傷となって地位を失いかねない醜聞に発展することも多かった。

 したがって、愉しみを目的とした男が選ぶのは、身分が下の女、女奴隷、または男の奴隷ということになった。

 軽蔑されがちな成金の、少し大きな屋敷ともなれば、性奴隷は常備されており、昼間から主人と戯れていたし、女主人のほうも気に入った男奴隷を浴場に呼び入れて、身体をほぐすという名目で長い時間そこから出てこなかった。それらの成り上がりの家の主人の多くは、元奴隷だった。

 もっと優雅な家ともなれば、性奴隷こそいなかったが、やはりそれに準ずるような見目のよい奴隷は揃えられており、主に来客が所望すれば接待させる目的で家においていた。奴隷とはそういうものであり、そこからうまく主人に取り入って養子となって家を乗っ取る者もいれば、財産の一部として他家と取引されたり、主人の勘気をこうむって、死ぬまで鞭打たれるものもいた。

 皇帝の『王の穴』は、不浄の行為をするために、やはり奴隷の中から選ばれた。皇帝が二年前に即位してから、臣下のものは若い皇帝に、そろそろ王の穴をお持ちにならなければと勧めてきたが、若い皇帝はあまり気乗りがしない様子でいたものを、何かの変化があったのか、此度の戦では皇帝みずから、「皇帝の夜の奴隷となる女を集めておくように」と命じていたのだ。

 それを受けて、選びに選ばれた美しい娘たちが馬車に乗せられて別送されていることは知っていた。

 それが足りない、という。

 昨夜遅く、天幕に戻ってきた護民官は函を用意させて、寒村から持ち帰った薬草を束ごと底に入れ、その上に短い手紙を添えて、都の外れに独居する老師に宛てて送り出した。

 使いを去らせると、足もとに一輪の薬草がこぼれ落ちていることに気が付いた。

 拾い上げてみると、咳に効くという青い花をつけた草だった。 

 あの腰の曲がった初老の男は、稀に見るほどの美しい女だと云っていた。都でも有数の老舗の娼館に長く勤めた男がそう云った。

 護民官は眉を寄せた。他に適当な花があるものを、他の花ではなく、この地味で目立たぬ花に喩えていたのが解せなかった。その花は広げられた布の隅にひっそりとあり、乾いた細い葉がらせんのように茎をとりまき、海岸に落ちている貝のような薄い花びらをつけていた。

 護民官の手の中で、花は時を止めて咲いていた。触れてみると枯れた花は彼の手の中でもろく砕けた。破片は膝に落ち、砕け、塵になって消えてしまった。

 

 

 昨日はあった可動式の橋が大雨の到来に備えて何か所も架け外されていたために、思いがけず村までは大回りを余儀なくされた。

「まだ晴れていますが、これは崩れる天気です」

 家令が空を見て云った。この家令は父から譲られた元奴隷で、十歳ほど年長であり、口が堅くて実務に長け、信用がおけた。母の乳母の娘の女奴隷と夫婦になったが、その時に父母が解放してやった恩を忘れず、ずっと息子の護民官に仕えていた。

 護民官の父は医者だった。

 父と母は十代の頃に夫婦となった。母の実家は代々軍人の家系だった。祖父は無名の見習い医師のもとに大切な娘が駆け込んだことに激怒した。母のひとめ惚れだったそうだ。

「お忍びで侍女だけを連れて街に出たのです。馬車の轍の跡でくぼんだ石畳みに躓いて、足をくじいて難儀しているところへ、往診の帰りのあの人が通りかかったのです」

 三流小説のような出だしだな、と護民官の友人将校たちは面白おかしく感想を述べた。

 だが母君には無理もないことだ。お前の父上は姿よしだもの。

 そこがまた祖父の気に障るようだった。半生を戦場にささげた祖父は豪胆で、常に岩のように落ち着いていたが、結婚の許しを得るために祖父の前に立った若い父はさらに沈着冷静で、

「ひょっとしたらお父様はあの時に、本当は彼を気に入ったのかもしれないのよ。表には出しませんけれど」と母は云った。

 父は職業柄、感情を切り離しているようなところがあった。臓腑をかきわける職に就いている者はやはりどこか常人とは感覚がずれるのか、父は常に覚めた様子で、声を荒げたり、慌てたりしたところを見たことがない。

 しかしその腕は意外にも強く、邸宅に迷い込んできた野犬の首を腰帯につけた護身用の剣で一刺しして刎ねてしまったこともある。

 母方の祖父はいつまでも愚痴を云っていた。

「たとえ娘が忍んできても、追い返すだけの度量がない男だったのだ。結婚をお許しいただくために軍人になりますとも云えぬ男だ。子をつくった者が勝ちだと分かっていたのだろう。嫌な男だ」

 父は、母ほど母に対して恋情を抱いたのではないだろう。貴族の娘でありながら大胆なことをする娘に興味を覚えたのだろう、と護民官は想っている。

 

 息子の目からみた父は、実は父こそ軍人になりたかったのではないかと思われた。

 目の前に医術書と剣があった時に、たまたま父は書を選び、彼は祖父からの熱意を受けて剣を選んだが、しばしばそれは交換されて、父が奴隷の剣術教師と打ち合っていることもあれば、息子が父の書斎で医術書を読みふけることもあったのだ。

 貴族らしく親子の関係は希薄だった。彼らは年齢が近いこともあり、父と並んでいるとまるで兄弟のようにみえると囁かれた。

「よく似ておいでになる」

 生活は安定していた。貴族の男たちの常として父には情人が数名いるようだったが、それはさりげなく隠されていて、母はそれを知りながらも完全に知らぬふりが出来るほどだった。

 

 夏になると、暑さを避けて、母は子どもたちを連れて軍人を退役した祖父いる別荘へ行った。

 海のそばだった。

 祖母はとうに亡くなり、軍人生活を引退した祖父がわずかな、といっても百名ほどいる使用人を連れてそこで暮らしていた。

 南国の陽光と海風にまじる果実の香り。はるか遠くには薄むらさきの煙をたなびかせた火山。常緑樹と花々に囲まれた田舎のまどろみ。鳥の声。

 少年が好んだのは、北西向きに設えられた温水室だった。

 鉱泉がとうとうと流れる円形の浴場につかると、硝子をはめた天蓋から落ちる色が水に揺れ、あけ放たれた前面に広がる海の景色は午後の涼しい木陰で得る眠りの続きのような、心地の良い色彩の夢想をさそった。

 さわさわと揺れ動く糸杉と、海に向かって咲き乱れる花の色。屋敷の奥からは使用人たちの幼い子どもたちが駆け回る音と笑い声が響いた。

 湯につかって浴槽のふちに腕をかけながら、彼はいつまでもそこから海を見ていた。夕刻には空が燃えるように朱くなり、明け方には星々と沈む月が落ちていった。

 お守りの護符こそ首から外したが、まだ裾の短い衣を着ている或る夏のことだった。祖父の別荘ではたらく若い女奴隷たちの一人を目で追っていた彼に気づいた祖父がこう云った。

 夜はあの者をお前の室に向かわせよう。

 翌朝、礼を云うために祖父の書斎を訪れると、今度は昨夜よりももっと美しい女奴隷がそこにいた。

 そんな晩が七日続いたところで、彼は祖父の云わんとすることを理解した。

 よろしい、大いに愉しむのだ。そこに溺れるのは早いほうがよい。そのうち快楽とも節度ある付き合い方が出来るだろう。

 祖父の教えは守られたのだろうか。と彼は自問してみる。過去の火遊びは軽いもので、火傷を負うようなものではなかった。

 彼が護民官となった或る昼下がり、石つぶてが飛んできて、馬上の彼にあたった。

「護民官」

 石が飛んできたのだ。帝都にいた彼は腰帯の剣に手をかけて振り向いた。

 女の輿が反対側に過ぎていくところだった。彼はただちに馬の首をまわしてその後を追った。

「わたしに何か御用でしょうか」

 八人の奴隷をつかって担がせた横臥輿は四方を薄布で覆われていたが、そこから透けてみえる女も薄布で顔を覆って隠していた。寡婦だった。まだ若い。

 寡婦は口元だけが見えるように被り物をずらして、そして咎めるように控えめな声で護民官にこう告げた。

「お悔みのお手紙を下さらないのは、あなただけ」

 女を乗せた輿は過ぎていった。

 護民官が馬を飛ばして女の輿に追いついたのは、喪中の邸宅に輿が吸い込まれようとする前だった。門と輿のあいだに馬を滑りこませて、彼は輿を停めさせた。

「知らなかった」

「想い出してくれたのですね」輿の中から女が応えた。

「帝都に来ているとは知らなかった。そしてご主人を亡くされたことも知らなかった。昨年まで皇帝に命じられて黒海の方に統治に出ていた」

「ご存知でも、ご存知なくても、貴方はあなたのままだったでしょう」

 想い出はさざ波となって彼のもとに押し寄せてきた。

 祖父の別荘に行くと彼は近くに住む貴族の子弟と交友をもったが、その中に、妹だといって紹介された少女がいた。

 彼は少女に誘われるままに毬投げやすごろくに付き合ったが、ある年、少女は海辺の別荘地から姿をけした。

「見染められて、立派な家にお嫁に行ったのですよ」と今は腰の曲がった母の乳母が教えてくれた。

「器量のよい娘でしたからね」

「わたくしは忘れたことはなかったわ。護民官」

 腕を差し伸べ、輿を降りるのを手伝うと、若い寡婦は近くから懐かしそうに彼を見上げた。

 

 

 想い出は想い出のままのほうがよかったのかと問うと、あの頃がいちばん倖せでしたと呟いて、寡婦はそこに付けくわえた。

 知っていたお友だちとは違うわ。これほど雄々しい方だとは。でもこうしてまたあなたに逢えたのだから……。

 肌をあわせると、夏の花の匂いがした。庭の噴水の水面の上には、月影が波となって揺れていた。

 彼は寡婦の胸に耳をあてた。貝殻に耳をあてるようにしてそうした。その静かに波打つ心臓の音をきいていると、深く眠れた。前帝の女奴隷のことがあって以来、許されないものとばかり想っていた眠りだった。

 情事は一年続き、そして寡婦は新しい夫の許に去っていった。

 

 

 昨日に引き続き舞い戻ってきた軍人の姿に村人はおののいたが、隻眼で初老の男を呼び求めると、すぐに男は家からまろび出てきた。

 帝都の娼館に長く勤めたというその男を道案内に立てて、護民官は谷に向かう山道をあがった。

 折り重なる山のみどりと山脈の雪冠が、かたむいた陽に照らされていた。風に揺れる高原の草花に雲の影がさし、色濃い陰影をそえている。

 空気が少し冷えたと思う頃、目指す僧院についた。いつ頃からあるのか、古びた石造りの門は半ば壊れかけていた。

 中庭があり、僧房を回ったところに薬草園があるような、典型的な世捨て人の隠居所にみえた。訳ありの女たちが此処で暮らしているという。

「生んではならぬ子を宿した女がここに辿り着いて、赤子を遺して死んだときいております。乙女はその死んだ女の娘なのです」

 乱れる雲に夕陽が朱く反射して風に千切れた。嵐の前の静けさという言葉のとおりに、すべての音を消すような黄昏だった。

 

 嵐になるのだろうか。

 頭痛に効能のある草を少し摘み、花園を見渡して乙女は足をとめた。夕べの見廻りは乙女のしごとで、一日も欠かしたことがない。

 薬になる植物を育て、それをわずかばかりのお金に換えて、僧院にいる世捨て人たちは貧しい暮らしを立てていた。無口で祈祷するばかりの年老いた老女たち。

 乙女は園にいるのが好きだった。そこには新鮮な変化と息吹があった。囲いのかわりの林檎の木、春に花咲くすみれ。山を降りて街に行けば楽しいことがあると誘うものも大勢いたが、一度も心を惹かれたことがない。

 花にとまっていた蝶が飛び立った。狼が庭に入ってきたのだと想った。獣の荒い息遣いに、おびえて乙女は振り向いた。

 乙女は軍馬を見たこともなければ、兵士も近くで見たことがなかった。沈む太陽を背にして逆光をあびているその者は、白地の胴衣に略式の革鎧、緋色の軍套をまとい、金の兜は強く輝いて、その下の表情をかき消していた。

 草花を蹴散らし、馬に乗ったまま侵入してきた男は、ぎらりとした目で馬上の高みから乙女を見つめていた。乙女にはそれが皇帝軍の兵士であることも分からなかった。

 乙女は震える足で一歩さがった。粗末な衣の上からでも、乙女のしなやかなか細い肢体とふくらんだ胸がみてとれた。乙女は白蝶貝に刻まれたように繊細で、風にゆれる髪は夜明けが紡ぐ糸のようだった。

 男の背に夕陽があるのなら、乙女の背には昇りはじめの透き通った月があった。その双方を覆い隠す黒雲が山を越えて広がりつつあり、空はまだ晴れていたが、今にも雨が降りそうに雲と黄金の光が入り乱れていた。

 風が吹き、乙女の衣が揺れた。光に包まれたその姿は、天に還りそうだった。

 昇天させてやる。男は馬を操って乙女の退路を断った。

 その乳房に金の環をつけ、この地上に留めおいてやる。その唇から言葉を奪い、皇帝の手で何度も叫ばせてやる。

 馬上から伸びてきた男の腕が乙女を捕らえた。逃れる間もなく乙女は男のいる馬に乗せられていた。手首を紐で結ばれても、まだ乙女は愕きで凍り付いたようになっていたが、走り出した馬の動きにはじめて悲鳴をあげた。護民官は鞍の前に乗せた乙女の細腰を落さぬように抱いた。

 その声を何度ききたいと希ったか分からない。

 記憶の中で、暗い塔の中にいる女奴隷が何かを云っていた。

 あの石の塔に手をあて、耳をつけて、夢の中で何度求めたか分からない。

 彼は乙女を片腕に抱いて片手で手綱を操ると、馬を飛ばして山道を駈け下っていった。

 

 

 

>続く

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。