■五.
幼なじみの寡婦がすんでいた邸宅は、寡婦が遠方に去ったあと長らく空き家として売りに出されていたが、帰国してみるとすでに買い手があったものと見えて、門の前には見知らぬ奴隷が門番をしていた。
蔦の絡まるその邸宅を外から眺め、護民官は通り過ぎた。莫大な遺産を相続した寡婦への求婚はお悔みの手紙というかたちで一つの室が埋まるほどに届いていたという。
「遠くへ行く前にお逢いすることができて、もう何も想い遺すことは」
護民官が戦に出立する前に、寡婦は帝都を出て行った。
明るい光に満ちていた少女時代と、金持ちに売られるようにして嫁がされた日々が終わりを告げ、夫を失った女がこれからの人生を考えた時に、寡婦は届いた一通の手紙に心を強く惹かれたのだという。
「とても過ごしやすい処なのだと書いてあったわ。奥様を亡くされた方。その方はいつかの宴で見かけただけの、わたくしのことをよく覚えて下さっていたの」
寡婦は彼に別れの手を差し伸べた。
「ごきげんよう、護民官。倖せを下さってありがとう。いつまでもお元気でいらしてね」
それが寡婦の出した答えだった。
「確かに、戦場に何度も出ていく夫をもつなんて市民兵でも正規軍人でも妻の身からはたまらんだろう」
「いつ死ぬか分からないし、長い留守の間は不安だろうしな」
「妻だって情人を持つことを禁止されてはいないのだから、そのへんはお互いうまくやるべきだと想うが」
「それは貴族階級の話だ」
目の前に飛んできた蜂を追い払い、護民官の隣りで友人将校が喧嘩のしぐさをしてみせた。
「下々は浮気したら刃傷沙汰だ。それに命がけで国を護って帰ってみれば覚えのない赤子がいたり、妻の腹が大きいのは俺たちだって勘弁だろう」
友人の将校たちと護民官は馬を並べていた。円形競技場で凱旋式が行われることになり、その下見が終わった帰りだった。
「毎回のことだが女に去られることほど男にとって寒い話はないな」友人がぼやいた。
「やっぱり持参金のいい嫁をとって、他所で遊ぶのが最高じゃないか」
「云わせてもらうが、結婚はいいぞ」
倖せな結婚をした妻帯者が異論をとなえた。
「帰ってきたら、妻と、乳のにおいをさせた子どもたちが駆け寄って来るんだ。妻も子どももかわいいぞ。お前たちも早く結婚しろよ。家庭を持つと気持ちがおさまる。そして傷心の護民官には、新しい恋人が必要だ」
貴族の結婚は家柄と持参金で決められた。貴族たちは何度も離婚し、結婚し、生涯を連れ添う夫婦のほうがごく稀だった。そして大抵の貴族の男は離縁して、使用人や奴隷から解放した女とともに地方の所領地で老後を過ごすのだ。
「政略結婚のよそよそしい妻より、馴染みの使用人や女奴隷のほうに情が移るのは当然だからな」
「財産目当てで見え見えな打算的な女は嫌だ」
「家に女がいるほうがやっぱりいいな」
「ここで別れる」分かれ道に差し掛かったところで家庭持ちが告げた。
「家内が、子守りができて手先の器用な女の奴隷を欲しがっているんだ。これから奴隷市を覗いてくるよ」
「家族をもつと、そういう雑事も増えるのか」
「胴元に頼んであるから、何人か選んでくれているはずだ。じゃあ」
妻帯者は角を曲がって奴隷市場に行ってしまった。後に残された非番の男たちは、雑踏を馬でかき分けながら、気になることを云い始めた。荷馬車や馬や輿が通る車道と歩道が分けられた帝都の街路であったが、どこも混んでいた。
「皇帝は『王の穴』を決められたのだろうか」
護民官は顔に出さないようにしながら、手綱を軽く締めた。
「戦の帰りに、目立たぬ馬車が皇帝のお近くにいただろう。あれはてっきり貴人の虜囚かと思っていたが、俺は、あれが王の穴の候補を隠して乗せた馬車だったと睨んでる」
将校の一人が鋭いところをみせた。
「夜になったら皇帝の天幕の傍にその馬車があったからな」
彼らは一斉に護民官の方を見た。
「護民官。皇帝付のお前は何か知っているだろう。どうなんだ。あれはやはり王の穴の馬車だったのか」
「病人だ」と護民官は応えた。
嘘ではない。大雨に濡れた後、頑健な護民官は平気だったが、乙女の方は運命の急転もあってか熱を出して風邪をひき、帰国するまでずっと寝込んでいたのだ。
行軍中の乏しい知識ではあったが父や老師から教わった知識を動員して護民官は野の薬草を摘んで湯に溶かし、乙女に呑ませることまでやった。
彼は名門に生まれた皇国の軍人だったから仕える皇帝のためにしたことについては何一つ悔いはないのだが、弱々しく発熱してろくに歩けないような乙女を毎夜皇帝の許に連れて行くのはさすがに後味が悪かった。
「まさか。使うものか。さすがに」
後で訊いてみると、皇帝も乙女を看病して過ごしていたという。
帰還の行軍中、頭から布を被せられて姿を隠されていた王の穴。帝都に連行された乙女は、今は獄門の塔に入れられているはずだった。
知らぬ顔の護民官に「こいつは、いつもこうだ」とぼやきながら、「王の穴のことだがな。最近になってこんな噂があるんだが」とまた一人が云った。
「実は、皇帝陛下は先々代の使っていた女奴隷を現在の所有者である前執政官から借り受けて、ひそかに宮殿の寝所に入れているらしい」
「あの、肩から先と、足のない?」
「そう、それ」
将校たちは怪訝そうにした。
「お戯れだろう。今は王の穴ではなく、前執政官のものだ。王の穴は誰にも見られてはいけないし、皇帝だけのものだ。すでに大勢の男たちを通してしまった性奴隷では陛下が望んでも王の穴にはなれないだろう」
彼らにも、そこまでしか分からなかった。
「高いのか」
「その女奴隷? 高い。買えない」
「帝国の皇帝に長く寵愛されながら、衛士たちに輪姦されて、お役目が終わっても死ぬことも許されず、四肢を断たれた姿で今は金持ち共のいいようにされているわけだ。ついてない子だな」
彼らは首をふった。
皇帝の性奴隷は、皇帝の寝所から塔の牢獄に通う際にも、地下の抜け道を使うのだという。手鎖の端を獄吏にひかれて歩いている姿すら見たものは誰もいないのだ。
護民官は友人たちと別れた。そして帝都をめぐる丘の一つに進路をとった。ゆるやかな坂道を馬であがっていくと、その豪邸の三角の破風が見えてきた。先々帝に仕えた、前執政官の邸宅だった。
前執政官の邸宅の広間からは丘陵に続いている広大な庭と、池と、小川が望めた。手入れのされた花園があり、そこから摘まれた花が属州の遺跡から掘り起こしたとおぼしき古風な花瓶に飾られていた。
乱れた宴の噂のある前執政官の邸宅に護民官は来たくはなかったが、皇帝の使いとあらば、致し方なかった。
皇帝からあずかった手紙を護民官は前執政官に差し出した。前執政官はまず一読して哄笑することからはじめてみせた。
「無理をおっしゃる。いや貴方ではなく、皇帝陛下が」
わざと不敬にしてみせるものか、前執政官は皇帝からの手紙を巻きなおした。
「これには、できませぬとお応えしてもよろしいのかな」
「わたしからは返答いたしかねます」護民官は云った。
「護民官。御父上を存じ上げておりますぞ」
旧知であってもおかしくはないが、この男の口から父のことを聴くのは不快だった。
「今は領土を巡回して医学を教えておられるとか。夫婦付随で。御父上はご立派です。あなたは後を継がないのか」
「祖父が武官を望みました。わたしは皇帝からの手紙をお届けに来ただけです」
「まあ、皇帝陛下のご要望です。考えてみる価値はある。そしてせっかく護民官のあなたが使者に立った以上は、あなたにそれを訊いてみる価値もある」
前執政官はふくみ笑いをした。
「その、乙女は、わたしの所有する先々帝の穴と同等であるのかどうか」
「『王の穴』であるのは確かです」と護民官は応えた。
「同等かと訊いておるのだが」
「直接ご確認下さい。わたしは先々帝の奴隷をしりません」
「今は皇帝陛下の許にいる。勝利のお祝いに七日間のあいだ特別にお預けしている」
「しりません」
「わたしの持つあの女奴隷とその乙女を交換せよと」
「時々でよいと仰せです」
執政官は低く響く声でわらった。護民官は、前執政官が手にしている皇帝からの手紙に何が書かれているのかは知っていた。皇帝の臣下である彼は、この交渉を成立させなければならない。
「どちらも王の穴です」
「それに処女の美しいのを十人もつけて下さるというのか」
皇帝からの手紙を脇にどけると、前執政官は手を叩き、屋敷の奴隷を呼んだ。
「何をしているのだ。護民官どのに、軽食をお持ちせよ」
「すぐに帰ります」
「お若い皇帝陛下は改革をお望みでいらっしゃるのか。王の穴をわが淫売屋に貸し出すなどと。お若い方にはお分かりにならないだろうが、わたしは先々帝の穴をとても気に入っておるのです。穴ならどれでもよいというわけではない。手放す気はない」
「手放せとは皇帝は望んでおられません」
「しかし皇帝がここまでおっしゃっているのだから、一考せねばならない。王の穴を貸し出す間に、交換として王の穴の乙女を貸して下さるという。まことにその乙女が先々帝の穴と劣らぬほどの容貌ならば、王の穴であることを伏せても高い利益は出るだろう。陛下の命と受け取りましたぞ」
了承ということだろう。護民官は安堵した。そしてどこかであの乙女の涙をまた見たような気がした。考えないようにした。
「それで金の環は」前執政官は確認してきた。
「嵌められております」
「確かに」
「今のところは片方だけに」
「つまり、まだ王の穴ではないのだな。皇帝陛下はそのものを正式に王の穴にする気はないのだ。ここに書かれてあるようなことなど口実だ。そうであろう」
肩をゆすって笑いながら、前執政官は皇帝の手紙を片付けた。新しい紙を広げ、羽根のついた筆を用意させる。
「先々帝の穴と交換するためだけに、その娘を王の穴にしているのだ。まことに王の穴にするのであれば、門外不出にするものだ。それを、わが許で慣らして欲しいと言い訳をつけて寄こしてくるおつもりか。皇帝陛下もお人が悪い。さほどに先々帝の女奴隷をお気に召されたか」
急に前執政官の顔が厳めしいものに変わった。おだやかであったものが、嫉妬に狂う初老の男の醜悪になった。しかしそれもすぐにほどけて、前執政官は「まあよいでしょう」と首肯してみせた。
「それほどに云われるのだから、その乙女には期待できる。美しい娘を寝所で好きにするのは愉しいものだ。大切にしましょう。恥ずかしい姿態を取らせたり、尿瓶の訓練もほどこしてやるとしよう。今晩のうちにお連れ下さいと陛下には返事を書こう。こちらの護民官に返事を書いているところをご確認いただこう。つまらぬ屋敷であろうが、少々お待ちいただきたい。これ、護民官殿にお食事を」
「不要です」
「悪い癖だ。お若い方を見るとつい飢えた十代のように扱ってしまう」
高価な紙に向かって前執政官は筆を走らせはじめた。そこへ、すっとしのび寄るようにして室に入って来たものがいた。
役者のような顔立ち、ほどほどに鍛えた身体。色男は護民官に軽く礼をして応接室を横切ると、手紙を書いている前執政官の机の脇に立った。この邸宅には男色の趣味の者も通うのかと護民官がうがった見方をしたほどに、その男は容姿がよかった。
「なんだ」
「執政官さま。これを」
豪華な応接室には不似合いなものが取り出された。ぼろ切れのような小さな布袋を色男は前執政官の机の端においた。音からして金属、硬貨だろうと護民官は推察した。貧しい者の持つような財布。中身もせいぜい、はした金。貧民がかき集められる賃金程度しか中身は入っていない。
みすぼらしい小袋を机におくと、色男は何ごとかを前執政官に囁いた。その時にうかんだ色男の感じの悪い笑みに護民官は強い不快感を覚えた。下種、下品、狡さ、残忍さ。色男が口許にはしらせたのは、そういった種の悪党の笑みだった。
前執政官は頷いた。引き出しにぼろ切れのような財布を仕舞う。
「ご指示をお待ちしております」
「客人を呼び集め、どのような趣向にするか相談させよ。三日は長い。今度は、二日のうちに始末するのだぞ」
「では」
「待て」
前執政官は色男を引きとどめた。そして今度は、何故か護民官の方を見遣りながら、前執政官はひとことふたこと、色男に何かを告げた。
色男は護民官を振り返った。その顔かたちは男にしては顔立ちがあまりにも良いので、居心地が悪くなるほどだった。
前執政官と色男はそれからも声を潜めて何か取り交わしていたが、時々護民官の方を見ていた。
「それはお愉しみ。わたしにお任せ下さい」色男がにんまりした。
乙女をこの邸宅に連れて来ることを想うと、護民官は悪い予感しかしなかった。
「さあ、護民官これを。皇帝陛下への返事です。今夜のうちに乙女を引き取らせていただきますと書きましたぞ」
護民官はすぐに立ち上がった。一刻も早くこの邸宅から去りたかった。ところが、「お待ちください」、先ほどの色男が馬に乗って内門を出た護民官を馬で追いかけて来た。
「前執政官さまから、貴方さまに頼みたいことがあるそうです」
>続く