■七.
翌日、夕方から下男には暇をやった。莫迦なことを引き受けたと護民官は暗鬱だった。女を前執政官の邸宅においておくよりはましだろう。そう考えるより他なかった。
護民官は狭い隠れ家を見廻した。邸宅に戻るよりは気楽に倒れて寝てしまいたい日もある。そのために使っていた下町の家。
父母はともに華美を好まなかったが、母に甘い祖父が送りつけてきた大量の奴隷が護民官の邸宅には大勢いた。年季のはいった奴隷や使用人のうちの三割を父母が引き取って地方の巡回に連れて行ったが、それでもまだ大勢残った。長子である彼は邸宅ごとその全員を引き受けなければならなかった。半分に減らそうとしたのだが、奴隷からの解放と上乗せした賃金をやると云っても想ったより去らず、家令がしっかりしているのでもう留守は任せてあった。それでもせっかくの独り身なのに邸宅に帰ると家のものがどっと押し寄せてきて、新しく主になった彼の世話をしようとするのには参った。
そこで彼は、月に数度はこちらの隠れ家に泊まることにしていた。兵舎に泊まってもいいのだが、その場合は御付き武官をつけなければならず、結局は年長者として十六歳からいる少年兵たちの喧嘩の面倒もみなければならず、勤務の続きのようにもなる。だから下宿を探した。何をするわけでもなく、彼はただ独りになりたかったのだ。
前執政官は本当に乙女を護民官の隠れ家に送り届けてきた。一晩あれば基本的なことは仕込んでおきますと色男が請け合っていたはずだったが、夜になって届けられた乙女は売られたての子どもの奴隷とそう変わらない無残なありさまだった。
木で出来た頑丈な長い函に乙女を押し込むように入れて、荷のように担いで前執政官の使用人たちはやって来た。お仕着せを着た彼らが階段をあがった処にある彼の家に荷を届けるのを下町の住人たちは愕いて眺めていた。もとより職人や独居人が多いことが気に入って借りた家だった。共同井戸を囲む二階建ての借家の住人たちはすぐに顔をひっこめた。
黒塗りの長函を護民官の家において前執政官の家の者たちが帰って行くと、あとには護民官と乙女が残された。
函の中に横倒しに押し込められていた乙女は頭から足首まで覆い尽くす頭巾つきの外套を被せられていた。頭巾は深く、毛布に包まれているようだった。乙女の頭から頭巾を取り払うと、目隠しをされた顔があらわれた。外套も脱がした。乙女は娼婦が着るような袖と胸の大きく開いた衣を着せられており、似合わないこともあり寒々しくみえた。
後ろ首を掴んで護民官が口づけしようとすると、乙女は唇を固く引き結んで応えた。衣を脱がそうとすると、乙女は後ろに下がってしまった。
「本当に執政官のもとで調教を受けたのか」
思わず声に出して云ってしまった。乙女は聞き覚えのあるその声に目隠しをされた目でうろたえ、周囲を見渡した。
どうこうするつもりはなく、確認した。乙女があまりにも怯えているのでやはり前執政官の邸宅で酷いことをされたのだろうと見当はついた。
護民官は乙女が入れられてきた長函に腰をおろした。そして外の気配に耳をすました。今日の夕方、職務が終わるとすぐに宮殿にいる皇帝に手紙を送ったのだ。彼は皇帝に腹を立てていた。
責任をとれと書いてやった。もし皇帝がこの女を惜しむなら、乙女をすぐに迎えに来て、莫迦げた前執政官の遊びから隔離しろと云ってやった。王の穴は一人だけだ。皇帝が先々帝の穴を好むのであれば、何のためにこの乙女を帝都に連れて来たのかと書いた。友人を辞めるぞと言外に脅しをこめたかなり強い調子の手紙になったが、彼はそれをそのまま送りつけた。
とにかく前執政官の邸宅にいるのはよろしくない。その一念で護民官は乙女をいったん隠れ家に入れたのだ。
皇帝から迎えの早馬が此処にとばされて、そのまま乙女を皇帝のそばに収めてくれるのがいちばんよい。『王の穴』はいつも皇帝自身の手で愛されていくものだ。
ふと彼は想い出して、乙女の衣を肩からすべらせた。乙女の乳房を外に出してみると片方だけ嵌めた金の環はあの夜に彼が嵌めた仮の環のままだった。金の環は小さな乳首を貫いて、燭台のあかりに頼りない影をつくっていた。
膿んでないかどうかいじくって確かめながら、彼はそのまま乙女の衣を脱がしてしまった。護民官は想わず云った。
「はやく、皇帝に本物の環を嵌めてもらうことだ」
昨日、色男は「王の穴に傷はつけられない」と調子のよいことを云っていたが、乙女の身体をあらためると、たった一晩で傷がたくさんついていた。軽くあてたにせよ鞭らしき痕も背中と尻にあった。宿営地で皇帝の前に処女の乙女を立たせた時は、ずぶ濡れで、水たまりから拾われた小鳥のようだったが、あの時よりももっと乙女は惨めに見えた。
何をされたのかと護民官が乙女の肌を調べている間、目隠しをされたままの乙女はすすり泣きの声を立てていたが、やがて細い声で本格的に泣き始めた。
乙女が彼の足許に身を投げ出していた。半裸の乙女は膝をそろえて床に身をかがめ、手探りで探しだした彼の足にすがりついてきた。懇願するように乙女は頭を垂れた。乞食や貧者や奴隷が主人に憐れみを乞うて行うこの姿勢が、護民官は大嫌いだった。
「よせ」
強く云った。邸宅の者にも奴隷たちにも誰にもやらせていないことだった。しかし乙女は止めなかった。その口が何かを云っていた。喉を潰された乙女の唇からは息継ぎのような異音しか聴こえなかったが、あの僧院に帰りたい、帰してくれと云っているのだろうことは想像がついた。
やがて乙女は意を決したように、長函に座っている護民官の膝に両手をかけて、彼の股の間に顔を埋めてきた。何をしようとしているのか分かった。
乙女の頭部を掴んで「よせ」と彼は乙女を押しやった。それで分かったことがある。おそらく昨夜は前執政官の家の者たちが次から次へと乙女の口を犯して口淫を教えていたのだろう。
乙女がひれ伏したまま動かないので、仕方なく護民官も床に降りて同じ高さになった。彼は膝を落として乙女の顔をあげさせた。目隠しをしている布を取り払うと、あの花園でみた澄んだ眸があらわれた。乙女は涙にぬれた顔をして、護民官を認めると、さらに何かを懇願して唇を動かしていた。星に照らされた真珠のようだと彼は想った。
はやく皇帝からの迎えが来てくれないものだろうか。
護民官は今気が付いたのだが、狭い室の卓上にはどう見ても女が喜びそうな、普段は口にしたこともない菓子があった。そしてその隣りにはこれまた女しか食べないような果実があった。掃除が済んだら暇をとっていい、家令に云ってあるから今夜は本宅に泊まれと命じた時、雑用に使っている下男は、ほうほうと何やら合点していたが、勝手に気を回して余計なことをしたようだ。
最悪な気持ち、最低なことをしているような気分で、護民官は閉口し、乙女を持て余した。美しい女が欲しい気持ちは否定しないが、このようなかたちでは絶対にない。
「皇帝は、お優しい」
仕方なく護民官は乙女に云って聞かせた。
「昔からよく知っている方だ。あの皇帝の許にいるのが一番いい。皇帝はお前を悪いようにはしないはずだ」
蒼い海に面した温浴室からみえるあの野原にこの乙女を立たせるならば、乙女はそよ風に髪をなびかせて南の木の香りをかぎ、素朴な姿で両手に花を摘むだろう。この髪を花で飾り、清潔な衣をきせて、花の咲くあの野原においてみたかった。
彼は浴場の大理石の縁をなぞるようにして乙女の首すじから肩へと順に指先で辿っていった。
皇帝からの迎えが早く来いという想いと、美しい女に見惚れている想いに揺れ動きながら、護民官は乙女に触れていた。やがて護民官はその手を引いた。あの色事師は何と云っていたのだったか。乙女の恋人役になれ?
そういえば、この家だった。あの金環を収めてあるのは。護民官は想い出した。よがり死の刑に架けられて死んだ女奴隷の遺体から落ちた片方だけの金環を、彼はこの隠れ家に持ってきていた。もう長い間、見ることもなく、函に入れておいてある。
あの女奴隷の遺体は父が始末したのだろうか。
夢ではなかったのかと想うたびに、その金環を見ることで彼は自分を確かめてきた。
護民官の父は獄門の塔に閉じ込められていた女奴隷の専属の医師だった。前皇帝と共に塔に入っては、皇帝と共に塔の牢獄や扉に鍵をかけていた。何人たりともこの医師の立ち合いなくして女奴隷には触れさせぬと前皇帝が厳命したために、皇帝の死後、塔に押しかけてきた皇妃たちも父の存在を排除出来なかった。
彼は学友から何度も羨まし気に訊かれたものだ。
「お前の御父上は、王の穴を知っているんだよな。触ることもできる。なんて羨ましいんだ」
王の穴が死んだという一報が帝都に駆けめぐった後も、その前も、父は邸宅でその話をすることはなかった。佇まいですべての問いを拒否していた。好奇心にかられた母が乳母たちと共に父の書斎を探してみても、そこには王の穴に関するものは何一つなかった。
ねぐらに還る鳥が飛び交うある夕暮れ刻に、彼も父の書斎に忍び込んでみた。きちんと整理された書棚、机、遠国から運ばれてきた薬の硝子瓶。彼は母たちが知らない引き出しを開けてみた。そこには父の記した、王の穴の覚え書きが納められていた。
箇条書きのようにして女奴隷の健康状態にまつわる短い記述が続いていた。獄門の塔に閉じ込められていた日数分、千日分あった。女奴隷の足にあった傷のこともそこから分かった。皇帝を拒んで逃げようとした女奴隷に前帝が斬りつけた傷の痕だった。
父が書き留めた王の穴。最後の一行にはこう書かれてあった。殺処分。
「皇帝に頼んでやる」
乙女の身体から手を引くと、護民官はそう云った。乙女は彼を見上げた。皇帝に頼んでみよう。この乙女をくれと。それは今でなくてもよい。遠征から帰国した皇帝は、先々帝の遺した四肢のない女奴隷を愛でているという。
「すぐには無理だが、皇帝がお前が不要になった時には、引き取ってやる。そして解放してやる」
今の皇帝ならば、彼がくれと云えば、なんの障害もなく約束してくれそうだった。問題は前執政官だが、もともとこの乙女は押し付けられたようなもので前執政官の執心もこの乙女の上にはない。四肢のない女奴隷を皇帝と前執政官がどのように取り合うかは彼には関係のないことだ。
帝都の外にはまだ人の動きがあったが、夜が更けるにつれて馬の蹄の音も間遠になり、夜警の歩く軍沓の音と、野生の狼の遠吠えが目立つようになっていた。
「解放してもらえるように頼んでやる。今ではない。数年かかるかもしれない。しかし必ず皇帝にお前をくれるように頼んでやる」
王の穴の最期はさまざまだった。殺されると決まっているのは王の最期の穴だけで、その他は王の気性に合わせて即日処分されることもあれば、ひそかに臣下に下げられることもあるようだった。
云っているうちに本当に果たせそうな気がしてきた。意外とすぐに下げ渡してくれるかもしれないとも想えてきた。彼の知る皇帝ならばあっさりと、そうしてくれそうだった。四肢のない女奴隷に関心が傾いているのが本当ならば、なおさらのこと譲ってくれるような気がしてきた。
皇帝はこの乙女を下さるだろう。そうしたらすぐに馬車を立て、亡き祖父から相続して今は彼のものであるあの海の別邸に乙女を送るのだ。
乙女は彼を見上げたままだった。何を云われているのかも分かっていなさそうだったが、泣き疲れた者のする短い呼吸をつきながら、美しい眸を見開いて彼の顔を見ていた。
「護民官」
戸が叩かれた。はじかれたように彼は立ち上がった。戸口に走った。皇帝に送った手紙が届き、乙女の迎えが来たのだ。
扉を開くとそこにいたのは皇弟だった。
「護民官」
皇弟は云った。
「兄上がその女を、正式に『王の穴』として召したいと仰せだそうだ」
皇弟は護民官の肩越しに室内を覗き込んだ。
「四肢のない女奴隷が、今晩、死んだそうだよ」
皇弟の手にした角灯は、護民官の顔色をうかがうには昏かった。
その後に起きたひと騒動は、住居一帯の住人の耳目をふたたび引くに十分だった。
護民官の隠れ家に入ってきた皇弟は半裸の女奴隷を見つけるや、「ああ、この子か」と眺めるなり、乙女を襲ったのだ。
皇弟が乗ってきた馬を外に繋ぎなおして護民官が戻って来てみると、皇弟は掴まえた乙女を床に引き倒して馬乗りになっていた。
「今はまだ王の穴じゃないだろう。片っぽにしか金環もないし」
皇弟は乙女の上に乗りながら乙女の顎を掴み「昨夜は前執政官の屋敷でいろいろ躾けてもらったらしいな。同じようにやれよ」と無理やり接吻していた。
「皇弟。その女は皇帝のもの。売春婦ではない」
「なんだよ。これがやりたくて一足先に知らせにきたのに」
乙女の足は宙を蹴ってもがいていた。皇弟は乙女の身体からしぶしぶ腰を立ち上げた。
「今さらなんだよ。この女は兄上の許に上がる前に手慣らしをしてやる目的で前執政官の邸宅に送られていたんだろう。護民官もそのお役目を仰せつかっているらしいじゃないか。前執政官の邸宅に出入りしている顔のいい男からきいたよ」
護民官はあえて強く肯定した。
「そうです。だから邪魔です。出て行って下さい」
皇弟は聞き分けた。
「まあ、塔に入れられても、隙を狙って逢うことは出来るよな」
「死罪になりたければ」
「先々帝の穴の時みたいに、衛士たちと一緒に襲ったりはしないさ」
最後に皇弟は乙女の顔に云い捨てた。
「お前、きれいだから、王の穴にはちょうどいいよ」
皇弟は乙女を見れたことで一応の満足をしたものか、「では伝えたよ。皇帝はその娘を『王の穴』にされるそうだ。朝、迎えが来るから、兄上の待つ宮殿に連れて来るように」
手をひらつかせて、皇弟は護民官の隠れ家から出て行った。
それから夜が明けるまで、護民官は乙女の傍にいた。壁に背をつけて並んで座り、護民官は海にのぞむ別荘の話をした。子どもの頃、夏を過ごした地だ。そこに咲く花や、糸杉の影、別荘にある温室の話を乙女にした。
花が咲き、星々が明るい。砂浜は白い、波は蒼い。
習いたての綴り方のような拙い言葉だったが、乙女は聴き入った。乙女は海を観たことがなかった。広がる青といえば、僧院からいつも観ていた空のことだった。海とはあの空が上下逆さまになって揺れているのだろうか。
「僧院に戻るのは駄目だ。王の穴であった女が世間に戻ると好奇の眼にさらされる。止めたほうがいい」
半裸のままだった乙女に衣を着せかけてやった。大体からしてこんな女があんな辺鄙な田舎で今まで無事に過ごしていたことのほうが奇跡なのだ。
それから護民官は宮廷のことを語った。
皇帝はお優しい。前執政官の邸宅にいるよりずっといい。皇帝がお前に飽きたらもらえるように頼んでみよう。
このあたりの言葉は二回ほど重ねて云った気がする。
皇帝はお優しい、前執政官の邸宅にいるよりずっといい。
お優しいか。彼は友人でもある皇帝のことを改めて考えた。少なくとも女に対しては優しい男だとは想うし皇帝のことはずっとそう想ってきたが、得体の知れないところが皇帝にはある。それは皇帝になるべくしてなっている男の、他の者には思念が及ばない立場や血筋や人となりの生み出す複雑な深みだった。皇帝が皇子だった頃の昔から知っているが、護民官に対してですらもう一枚も二枚も見せてはいない面が皇帝にはある。遊興にあっても節度が崩れず、笑っている時も皇帝だけは少し引いて微笑んでいる感じがあった。しかし護民官にはそれを巧く説明する言葉は見つからなかった。ああみえて実は好戦的であることや、即断即決で迷いのないこと、怯懦でもなければ粗暴でもない気高い気稟など、寝所でしか皇帝に逢わない女に語ったところでしょうがなかった。
皇帝は乙女を愛するだろう。彼の知る皇帝ならば前帝たちのように女を酷く扱うことはない。この乙女を大切にするだろう。
「五年経とうが十年経とうが、必ず海の別荘に送ってやる。そこで過ごすがいい。山に行きたいというのなら、連れていこう」
床に座った乙女は膝の上に手をおいて、護民官の云うことを静かに聴いていた。
どうしてやればよいのか分からなかった。他に何か云えることがあっただろうか。
砂漠。護民官は云いかけてやめた。砂漠に置き去りにされた軍隊が喉の渇きに耐えかねて小水を呑んで助かった話など、皇帝の尿をこれから呑むことになる女に云ってみたところで何の慰めにもならない。代わりにこう云った。
「皇帝はまだ若い。王の穴は取り換えていくはずだ。いつか必ずお役御免になるだろう。皺のよった婆さんを王の穴にするなどきいたことがない」
男たちがそこにいたら笑うのだろうが、乙女は笑わなかった。自分で云ったことにうんざりして、護民官は後ろの壁に頭をもたせかけた。室の卓上では下男が用意していた菓子をねずみが食べていた。
他にはもう言葉も浮かばなかった。静寂がおとずれ、鶏が啼き、夜がひらけてきた。泣き続けたせいで乙女は疲れた顔をしていたが、空が白んで、薄明るくなってきた室内でその顔をみると、曙の薔薇色を受けて乙女はその眸に力を取り戻しているように護民官の眼には見えた。
皇帝に責任をとれと云ったが、変な深入りをしたせいで彼のほうこそ女の行く末を案じずにはいられない責任のようなものを感じていた。疎ましかったが、事実としてそうだった。だから護民官はこう云うしかなかった。
「皇帝が不要になったら、必ず迎えに行ってやる。自由にしてやる」
乙女は少し微笑んだようだった。
早起きの住人が井戸で水を汲み、身体を洗っている時刻になった。宮殿からの迎えがやって来た。来た時と同じように頭から足先まで外套で包まれた姿で乙女は迎えの輿に乗せられて去って行った。
結局、あの色事師の思惑どおりになったのだろうか。
この次に逢えるのは何年後になるかも分からない。輿を見送る護民官は戸口に頭を打ち付けたいような、良いことをしたような、複雑な感情を抱いて立っていた。
>続く