※この作品はR-18です。

王の穴   作:Asabuki

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王の穴 八

■八.

 

 

その朝、前執政官は機嫌が悪かった。報せをうけて宮殿に駆けつけた前執政官は、皇帝の間の片隅に布に包まれた一塊を見出した。

 ひどく小さく、小羊を包んだもののようだった。

 覆っている布をめくると、執政官はすぐに布をおろした。

「朝になって見ると、死んでいたのだ」

 静かな声は遠くの王座にいる若い皇帝のものだった。皇帝は王座から前執政官に告げた。

「執政官の云うとおり、四肢がないせいか、身体が弱っていたようだ。あなたには悪いことをした。せっかく貸してくれていたものを」

「いいえ。陛下にお愉しみ頂けたのならば、このものをお届けした甲斐もございました」

 それ以上の追求も出来ず、前執政官は頭を下げて、女奴隷の亡骸を抱えて皇帝の間から下がるしかなかった。青い空が広がっていた。皇帝は執政官が女の包みを受け取ったのを見届けると、すぐに回廊の奥に姿を消した。

 苛々としながら前執政官はすぐに次の手立てを考え始めた。彼は手を叩き、従者を呼び寄せた。

「この遺体を邸宅にはこび、かねて用意していた氷室から氷を取って来い。この女の亡骸を氷の中に閉じ込めよ。氷漬けにして見世物にするのだ。衣をはがし、はだかにして、どの角度からも隅々がよく見えるようにな」

 遺体をくるんだ包みを従者に押し付けると、前執政官は無念に顔をひき歪ませた。

「もっと稼げた。もっとこき使っておくべきだった」

 心の底から惜しくなって、前執政官は叫び声をあげた。

「あれを試したいという者は大勢いたのだ。外国からも申し出があった。こんなことになるのなら、もう少し値を下げてでもあの淫売女にわしの恨みのほどを思い知らせてやるべきだった。鎖をかけて店に出し、帝国中の男共の眼にあの淫売を晒してやるべきだった」

 相手が皇帝では正面きって責めることも賠償も請求出来ない。前執政官の憤りには果てしがなかった。

「貧民窟の男どもの陽物をあれに咥えさせて、わしの見ている前で嬲り者にしてやればよかった。汗臭い剛毛の生えた剣闘士たちの毛むくじゃらな男根に突かれて涙声を上げさせておればよかった。獄門の塔で衛士たちにそうさせたように、卑しい男どもにあれを与えてやればよかった。そうだ、四肢のない女を氷に漬けにするのであれば、面白き工夫がいる。何かこう、ちょうどよい趣向はないものか。牛や馬の肉棒をあの女の穴に挿し込んでみるか」

 執政官はいつしか宮廷の奥のほうまで来ていた。列柱のあいだから、女の声が前執政官を追いかけてきて呼んだ。

「執政官」

「これは。皇太后さま」

 皇太后に呼ばれた前執政官は、表情を整えてそちらに向かった。そこにいた皇太后は、執政官をすぐに近くの室の中へと誘った。

 室には寝台があり、寝台の上には鏡があった。現皇帝の母である皇太后は長い裾を細腰の方にたぐり寄せて、かたちのよい足を控えめに前執政官の前に見せつけた。十代半ばのうちに世継ぎの皇帝と皇弟を生んだ女は前執政官に求めた。

「さあ」

「皇太后さま」

 政治上の討論が盛んな貴族たちの間では口は神聖なものとされた。性器に口をつけて施すのは下の身分が上の身分のものにすると限られていた。皇太后はそれを執政官に求めていた。

 膝をつき、皇后の股のあいだに顔を埋めながら、年下の女の前に男が膝をつく屈辱に顔をゆがめ、それを上回る欲望に突き動かされて執政官は皇太后を可愛がり始めた。

「執政官」

「お姫さま。お姫さまは、いつまでもお美しい」

 前帝が生きていた頃、女の夫である前帝の眼を盗みながらこうしているのは危険と隣り合わせのまことに得難い愉楽があったものだった。

 皇太后は前執政官の頭を抱え、壁に背をつけた。

 前執政官は少女の頃から可愛がってきた皇太后のことならば手に取るように分かった。前帝に冷遇されていた皇太后は慰めをくれる男といえば前執政官しか知らぬのだ。

「お気持ちを知りたい」

 屈辱には屈辱で返すべきだった。前執政官は皇太后の頭を押さえて身を沈めさせた。皇太后の唇がそれを含んだ。

 帝国の皇太后に売春婦の真似事をさせる背徳感に前執政官は口許を歪めた。

 

 皇太后は先々帝の王の穴が今朝死んだことを知っていた。

「ようやく死んだ」

 裸体を前執政官に沿わせて、皇太后は爪の先を放心しながらぼんやりと見つめた。

「ようやく、死んでくれた。先々帝だけでなく、わが子である皇帝までも四肢のないあの奴隷に心をとらわれていたようだった。死んでくれた」

 前執政官は皇太后の乳房に手を這わせた。

「皇太后さまの胸のつかえも下りましたことでしょう」

「長かった」

 皇太后は前執政官の手に手を絡めた。男は女の手を握ってやった。

「先々帝はあのものが少女の頃から愛玩なさっていた。長かった。ようやく死んだ。わたくしは、何度そなたの邸宅にしのんでいって、あの穢れた淫乱女に直接この手で鞭をくれてやろうかと想ったか分からない」

「お気持ちはよく」

 前執政官は頷いた。

「しかしこのわたしが皇太后さまはじめ皇妃さまや側女さまたちのご無念とご不快を、よくよくあの性奴隷に教えこんでおきました。とくに潔癖な皇太后さまにおかれては、さぞやご立腹であったかと」

「執政官。わたくしは何故か、夫であった前帝の王の穴よりも、先々帝の穴のほうが憎かったの」

 皇太后は匂い立つような片膝を立てた。

「何故かしら」

「御夫君の女奴隷はすでに皇妃さま方の手で処分済でございます」

「よがり死。わたくしはそんな私刑に参加することも厭わしかった。だから最期まで汚らわしきその女を眼にすることはなかった」

 皇太后は寂しい顔をして天井を見上げていた。

「最初に『王の穴』というものを知った時には、おぞましく、いやらしく、そのように不潔で不浄なものがこの世にあろうかと身の毛がよだったわ。この世界でもっとも強く高貴な王が、たった一人の女奴隷に執心しているというのが、我慢ならなかった。この地上のほとんどを統治されている帝国皇帝ともあろう天上の御方が、なぜそんな汚辱にまみれた女を必要とされるのか」

「お姫さまにはお分かりにはならないかもしれません。それもよろしいことかと」

「戯れならばどれほどよいかと想ったわ」

 皇太后は額に手をあて、細い眉をよせた。

「それなら我慢できるわ。でもそうではないの。はだかの女ならその辺の河原で洗濯しているのが見れるわ。女の奴隷が欲しいのなら市場に行けばいいわ。好みの性奴隷が欲しいのならそのように教えてつくり変えればいい。でも違った。胸に金環をつけられた『王の穴』だけは特別だった」

 この世界を統べる皇帝が選んだ皇帝だけの女奴隷。

「王政であった頃の名残なのです」

 前執政官は皇帝に隠れてずっと愛人にしてきた皇太后に語り聞かせた。

「戦で負かした国の王妃や王女に屈辱を与えるために行われていたことが、少しかたちを変えて今も続いているのですよ」

「愛ならまだわかる。愛のある寵愛ならわかる。奴隷から皇妃になった女だって大勢いる。男は女を愛するものだわ。執政官、わたくしは夫には愛されなかったけれど、どんな男であっても基本的には男は女に対して情があつく優しいものだと考えているわ」

「その男の内の一人に数えて頂きましたら光栄です。皇太后さま」

「女の何倍も男の人の愛のほうが強いと想っているわ」

 山羊の乳で手入れをされた皇太后の肌はすべらかでたるみもなく膝も乳房も磨いた白い石のようだった。

「女の愛とは違うけれど、男の人の愛のほうが深いのよ。狭くて深い女の愛とは違い男の愛は広くて深いのよ。さもなくば女は男に甘えないし頼らないし、慕わないし求めないわ。でも違った。王の穴は皇帝から愛されてはいないのよ。王の穴には身分もない。皇帝の子も産めない。衆目にその美しさを披露されることもない。牢に閉じ込められて王に飼われているだけなのよ。どういうことなのと想ったわ」

「愛や性について想うことが男と女では違うのかも知れませぬね」

「傾国は皇帝の心を支配してしまうそのような穢れた女奴隷から始まるのだと身震いしたわ。愛しているのなら皇妃に加えればいい。愉しみたいのなら美しい性奴隷を百人でも千人でもお好みの方法で愉しめばいい。それは男たちの夢ではないの? この世でただ一人、帝国の皇帝にはそれができるのよ。どんな女でもお望みのままになる男がこの世にいるとすれば、それは帝国の皇帝だわ。でも皇帝はそうされない。その代わりに特別な女がいつもそこにいるのよ。なぜなの」

「皇太后さま。男とて、数だけあればよいというわけでは」

「魅入られるようにして皇帝は王の穴を可愛がるわ」

「だから王の穴は喉を焼かれて言葉を失っておるのですよ。皇帝に何もおねだりできぬように」

「ようやく、死んだ」

 皇太后は天井の磨かれた銅鏡を見上げた。そこには女の姿が水の底に沈んだ死体のように歪んで光って映っていた。

「先々帝の女奴隷が塔の衛士たちを誘惑していたことが発覚して四肢を切断された時には嬉しかった。これで悪しき習慣が終わったのだ、ついに卑しき女に裁きが下されたのだと胸を撫で下ろした。しかし先々帝はそれ以降も、あの女を手放そうとはなされなかった」

「皇太后さまが星占いにより、先々帝を復権させても、皇帝はあのものを寝所において長くお使いのままでした」

「わたくしはあの四肢のない女奴隷が憎かった。許せなかった。嫉妬するなんて愚かなことよ。口にするのも憚られるけれどあれは尿瓶だもの。でも、どうしても許せなかった。見たこともないのにおかしな話。でもそうだった。あの女だけを憎んだ。なぜか分かる」

 皇太后は前執政官の顔を仰いだ。

「かわいらしきお姫さま。昔からずっとお変わりない」

「少女の頃のわたくしをそなたは可愛がってくれた。ないがしろにされている名ばかりの皇后であったわたくしを寂しい宮廷でそなただけは慰めて愛してくれた。涙を堪えても堪えても堪えきれない時には、あなたの許に駆け込んで泣いた。誰かが愛してくれたから夫からの仕打ちにも耐えられたのよ。でもその間もわたくしの胸にはずっとあの女奴隷への妬心がぬぐい切れずに燃えていた。夫である前帝が獄門の塔で可愛がっていた穴よりも誰よりも。でも、それも今日で終わったのだわ」

 皇太后の眼尻から涙が伝い落ちた。

「穢れた女はついに去った。執政官。ねえ、またあの話をして。そなたが魔女の正体を暴いた日のことを」

「よろしいですとも」

 前執政官は皇太后に求められるまま、今朝がた死んだ女奴隷の話をしてやった。皇太后は知らぬことだが、前執政官以上にそのことに詳しい者はいないのだ。

「先々代の女奴隷は、いつものようにその朝、王のご寝所から地下道を通って塔に戻されてきたのです」

 前執政官は語りだした。

 

 

 皇帝の寝所と獄門の塔は地下通路でつながっていた。大昔に有事の抜け道として建造された名残だった。王の寝所から隠し階段を下りて狭い通路に出ると、その先は獄門の塔の内部の地下に繋がっており、誰にも見られることなく往復ができた。

 『王の穴』の首と手首にかけた鎖をひくのは専属の獄吏だった。その日、いつものように牢に戻されてきた王の穴が白く細い足首をちらつかせて塔の暗い階段をのぼっていくのを獄門の塔に詰めている衛兵たちはどろりと濁った眼で追った。

 王の穴の牢は鉄格子と、頑丈な扉で二重に閉ざされていた。皇帝の性奴隷に食事と着替えをさせて獄吏が牢を閉めて通路に出ようとしたその時だ。待ち構えていた衛士が押し入ってくるや、獄吏から鍵を取り上げ、王の穴のいる牢に押し入ってきた。衛士たちは獄吏を壁に押し付けて剣で脅した。

「今から見ることは黙ってろ」

 狭い牢の中に十人の衛士が一度に入って来た。足枷をつけられて壁と繋げられていた女は、たちまちのうちに衣をはがされ、男たちの眼に晒された。その美しさに男たちは唾を呑み唸った。

 王さまは今宵から七日間宴をもたれる。お前には用がないそうだ。その間、寂しいだろう。衛士たちは女奴隷の四肢を押し広げた。

「女を壊すな」

 低く響く声が差し挟まれた。その衛士は壁に獄吏を押し付けたまま一部始終を眺めているだけだった。最近になって塔に配属されてきた年かさの者だった。

「実家が娼館だ」そのことについて尋ねられた男は云った。「見張っているだけでいい。観ているほうが興奮する」

 女奴隷への暴行がはじまった。裂けるような女の悲鳴が牢に満ちた。

 

 低く響く声の男が云いだした。

「皇帝に怪しまれないように輪番にしろ。それ以上はやるな。怪我はさせるな。無理やり挿れるな」

 腰を激しく動かして女をしごき上げていた拳闘家あがりの衛士が分厚い体躯をひねって応えた。

「この穴はもうちょっと拡げてやった方が」

 低く響く声をした男はそれを止めた。

「駄目だ。それ以上やると女の腰の骨が戻らなくなるぞ」

 実家が娼館だという男は衛士の肩に脚を上げられた体位で苦しげに泣いている女から一度も熱い視線を離さないままそう応えた。

 皇帝がふたたび王の穴を夜に召し出すようになっても、獄門の塔の中の輪姦は続いた。衛兵たちは次第に大胆になり、明け方、地下道を通って王の穴が戻ってくるや否や、獄吏から鎖を取り上げて詰所で犯すまでになっていた。手首足首を男たちの手に掴まれた女はどんな辱めを受けても抗うことが出来なかった。乳首に金の環をつけた雪のように白い女の乳房を壁際から男の眼がずっと追っていた。

 

 破滅は突然訪れた。いつものように女の肢体を責め立てている最中だった。皇帝の禁衛兵が牢に雪崩れ込んできたのだ。

 許しを乞う懇願と絶叫のうちに塔の中の男たちは連れ去られ、その日以来、九人の衛兵たちの姿はぱたりと消えた。あの巨躯をもった元拳闘家ですら、人間界からきれいに消えていた。

「その女奴隷の処分はわたくしどもがいたします」

 先々皇帝に申し出たのは大勢の皇妃たちだった。王の間に押しかけた女たちは、呪うような口調で強く女奴隷の引き渡しを求めた。

「皇帝のお手を煩わせることはございません。処分はお任せください。皇帝を裏切った売女の爪をはぎ、皮をはぎ、顔中に焼き鏝を押し当て、刻んだ遺体を塩漬けにしたものを皇帝にお届けいたしましょう」

 しかし皇帝は相手にしなかった。その代わりに、皇帝ははるか遠い東の国の、魔術のような医術をもつ者たちを帝国に呼び寄せた。

 皇帝は麻酔なしを希望したが、それではこの女人の命がたもちかねますと医術者たちは断った。

 四肢を開かれて術台に架けられた女の四肢切断の処置の一部始終に皇帝は立ち会った。女の皮膚がめくられ筋や骨が断ち切られ、虫が吐き出す糸なのだという透明の糸で血の管を結紮され、めくっていた皮膚が戻されて傷口を包むように縫合されていった。細い鋏で余った糸を最後に切ると、生まれつきそうであったかのような四肢のない女体が出来上がっていた。それは見事な技だった。

 女奴隷の傷口は爛れることもなく半年後には皇帝がふたたび使用するまでになっていた。四肢を切断した姿の女奴隷を皇帝は決して手放すことはせず、むしろ以前よりも残酷に愛玩した。

 先々皇帝の『王の穴』は、皇帝が位を退いてからも皇帝の手許にとどめ置かれていた。そして前帝の急逝を受けて復権した時にもやはり皇帝と共に宮殿におかれた。

「そうすることが、衛士たちを牢に誘った女奴隷への懲罰になると皇帝はお考えだったのでしょう」

 前執政官は皇太后に語り終えた。

「そうして、先々帝は遺言を残されたのです。皇帝の死後はわたくしめにあの女奴隷を御譲り下されると」

「なぜ」

 皇太后は積年の苦しみのこもった叫びを上げた。

「それを知った時は苦しみもここに極まったと想うほどに苦しかった。憎くてならない女奴隷が、選りにもよって、なぜ貴方の処にいくの」

「わたしが娼館を経営していたからではないでしょうか」

 前執政官は寝台から降りて身支度をはじめた。

「亡き陛下は、皇帝を裏切ったあの女奴隷に長く続く苦しみを与えてやりたかったのではないでしょうか。そう受け取っておりましたし、わたしはそのようにあの女奴隷に致しておりました」

 前執政官は前執政官なりに女のふしぎな心理に想いを馳せていた。なぜ皇帝の穴に女の憎悪は向かうのだろう。皇帝に選ばれるようなはたらきかけを王の穴は皇帝に対して何一つしておらぬ、むしろ拒んでいるという点が、皇帝に選ばれなかった女たちを完全に打ちのめしてしまうからなのだろうか。そしてそこにこそ皇帝をはじめとした男たちが王の穴に対して暴力的なまでのどす黒い欲望を抱く理由もあるのだ。身も心も決して男たちのものになろうとはしない美しい女を凌辱して征服したいという残虐な悦びが。

 前執政官は去った。前執政官が行ってしまうと、残された皇太后は寝台からゆっくりと身を起こした。乱れた髪を整え、皇太后はかたちのよい乳房を抑え、ふるえる心を抑えた。男が女の肌に残していった痕を見つめながら、皇太后は自らの腕で自分を抱いた。やがて皇太后は昏い眼をしてひとこと「出し抜いてやったわ」と呟いた。

 前執政官が回廊に戻ると、先々帝の穴であった女奴隷の遺体は消えていた。廊下には打ち倒された従者がいた。誰かに亡骸を奪われたのだと知った。

 前執政官は、彼を誘惑していた皇太后の様子を想い返した。情交の間に皇太后の手の者が亡骸を奪ったことに彼は思い至った。前執政官は皇太后が女奴隷の遺体を前執政官から遠ざけ、彼の手の届かぬ処へ、おそらくは豚舎か井戸の底に投げ入れて、永久にはこび去ってしまったことを知った。

 

 

 軍人であった亡き祖父は孫に教えたものだ。戦場の弓矢の音はひゅんとは鳴らぬ。蜂が通り過ぎていくような音を立てるのだと。

「盾を構えよ」

 雨のように降り注ぐ矢は掲げた盾を組み合わせることで防がれた。帝国軍は次に来る襲撃に備えて盾を持ったまま隊列を組みかえた。

 若い皇帝が『王の穴』をついに得たという噂はあっという間に帝都中に広まり、その噂は属州を超えて戦地にも届いていた。

 戦に馴れた中堅の兵士は盾を頭上に掲げながら、余裕をみせてひそひそと盾の陰で喋った。

「やっぱりな。怪しいと思ったんだ。前の戦の帰りに小さな馬車が一台増えてたからな。両脇には物々しく護衛がついてるんだ。これは何かわけありだと察してたぜ」

 飛来してきた矢は盾にあたると石の雨ような音を立てる。時々は誰かが射られて倒れたが兵士は負傷者や遺体に構うことなく陣形を保ち続けた。帝国軍の構成員の多くは市民である。兜と剣を帯びた彼らは都にいる時と変わらぬように、戦地においても熱心に帝都の噂を集めた。

「ひとめ拝みたかったな。王の穴を拝める機会なんかないからな」

 やがて彼らの耳には、若い皇帝が血筋のよい皇妃を得たこと。その皇妃が皇帝の子を生んだこと。皇妃が皇后になったことなどが伝わっていった。皇帝の子は女児であったこと。すぐにまた皇妃が懐妊したことも。

「今度は皇子だといいな」

「前後して『王の穴』も孕んだとか。王の穴のほうは、すぐに堕胎処理をされたそうだ」

 護民官の背後で兵士たちが都から届く手紙を読んでいた。

 皇帝に待望の男子が生まれた日は帝都中に花が舞い、喇叭が吹き鳴らされ、恩赦を受けた罪人たちが領土中の鉱山や三段櫂船団から飛び出してきたことも伝えられた。 

 転戦しながらそんな話を数日遅れ、半月遅れで、護民官はきいた。西方との小競り合いのために護民官は帝都を遠く離れた場所にいた。

 斥候が駈け戻ってきた。

「敵ー!」

 銅鑼が獣の咆哮のように鳴り、喇叭が鳴り、火矢が飛び、荒地にふたたび戦いがおこった。

 矢の射かけ合いが終わると、盾と長槍を前に兵士は走ってくる敵兵に身構えた。双方の軍が詰め寄って激しくぶつかり合った。帝国が戦う敵といえば、蛮族か、風習の違う民族との闘いが主だった。おおむね圧倒的に帝国の方が強かったが、国として長き歴史を持つ西国との戦いは長引いた。

 あそこが崩れていくぞ、と誰かが指し示していた。山岳に近い隊列の一角が割れていて、第一戦列から一塊の兵士たちが敵を追って先まで伸びていた。先走っているのは兵学校を出たばかりの若い兵たちにみえた。あのままでは本体と切り離されて戻れなくなる。

 「行きます」司令官に断ると、「頼む」と云われた。

 彼らを呼び戻すために護民官は隊列を飛び出して馬を飛ばした。皇帝が出陣しない時の禁衛兵はいわば戦の目付け役のような役割で、将校たちは比較的自由に動くことができた。

 ばらばらになって敗走していく敵兵の塊の中に、位が高そうな獲物がみえていた。新兵を含む若手はあれに釣られているのだ。荒地に馬を駆り、敵の長槍を鞍に身を伏せて避けながら護民官は馬を走らせ彼らの後を追いかけた。声が届くところまで追いついた。

 油断したとも想えなかったが、気が付けば狭路に入っていて前と後ろから挟まれるようにして敵兵に囲まれていた。胸倉を掴まれたので掴み返して馬から落とした。護民官は剣をふるった。「護民官が」先に行っていた新兵の隊が馬を戻して駈けつけてくる。翻る彼らの軍套がまっすぐな緋色の線に見えた。

 上方の崖に潜んでいた兵から槍が投げられた。馬が浮き上がった。護民官は手綱を握り締めて鞍にしがみついた。槍は馬の首にあたり、護民官は地を踏み外した馬ごと崖下に落ちていた。

 護民官を追って敵の兵が崖下に下りてきた。さらに敵兵と組み合いながら皇軍兵士も干上がった川床に滑り落ちてきた。まだ少年のような若い兵だった。護民官は若い兵の頸を掴んで引きずり起こし「走れ」と友軍のいる方へ押しやった。立ち上がって走り出した新兵の背に敵兵が槍を投げつけた。

 馬鞍から放り出された護民官は立ち上がろうとしたが、うまく出来なかった。太腿と胸骨を強く打ち、折ったか、または、ひびが入っているようだった。護民官は倒れた馬に手をかけて何とか立った。崖を背後にとり身構えた。上方からは闘いの音が聴こえていた。彼を助けに戻って来た新兵と敵兵が剣を合わせているのだ。槍に飛ばされた兵士が彼らのいる崖の下に落ちてきた。敵の兵が蛮声を上げていた。あれでは上の若い兵士たちは全滅だ。

 取り囲んだ敵兵が輪を縮めてきた。護民官は剣の柄を握り締めた。血と砂の味がした。太陽が煙っていた。

 近寄って来た兵士が長槍を構えたのをみて、護民官は兜を頭から脱いで槍兵に投げつけた。額を切っていたのか顔に血が垂れてきた。

 しかし護民官は握っていた剣の柄から手を放した。剣は投げ棄てられて地に落ちた。祖父が若い頃に当時の皇帝から賜った名誉の剣。帝国の敵を前にしてよもや手放すことがあろうとはこの瞬間まで彼自身も想わなかった。護民官は声をはりあげた。彼の氏族名を敵方に名乗った。貴族の家系が連なっている正式名があまりにも長いので、短い方も名乗った。

「皇帝の寵臣」敵兵の誰かが気が付いた。

「皇帝直属の禁衛兵だ。そこの兜の意匠」

「生け捕りにしろ」

 砂ぼこりが口の中をざらつかせていた。

 死んだ者の軍套が外されて投降した護民官はその上に乗せられた。軍套ごと乾いた地を引きずられるようにして移送される間、負傷した護民官の眼は高い空を追っていた。薄青い空。

 護民官は笑い声をもらした。護送する敵兵が気味悪そうに顔を見合わせた。笑ったことで胸の骨が痛んだ。彼は今にしてなぜ護民官というあだ名が彼についたのか分かるような気がした。

 乙女が彼を待っているかどうかは分からない。知りたいとも想わない。しかし約束は守らなければならぬ。死ぬわけにはいかないのだ。

 

 

>続く

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