「あああああ……」
唸りながら頭を抱える。
昨日は本当にどうかしていた。
自分からあんなにはしたなくおねだりするとか、気がふれていたとしか思えない。気をしっかり持たなければ。
(でも……)
あの時のご主人様はいやに優しかった。
理不尽に叩かれることもなかったし、もしかしたら堕ちちゃったほうが……
「って、違う、違うからぁ……」
ぶんぶんと頭を振り、脳に浮かんできた妄想を消し飛ばす。
あんなのオレじゃない! しっかりしろ、自分!
しかしそう言い聞かせるも、近頃の苛烈な調教でボロボロになった心ではその甘美な誘惑を振り払うことは難しかった。
悶々とした気持ちが残り続ける。
「はあ……」
釈然としない気分であたりを見渡していると、バタバタとした足音が部屋の外から聞こえてきた。
そして心の準備をする暇もなく、扉が勢いよく開かれる。
「おはよう、シズク!」
――さて、どうしようか。
ご主人様は屈託のない笑みを浮かべている。
つい先日までよく浮かべていた獰猛な笑みとはえらい違いだ。
おそらくオレが堕ちきってしまって、「いい子」になったのだと思っているのだろう。
だが実際はそうではない。自分の痴態は脳裏にこびりついているが、一回寝て起きたら心は堕ちる前に戻っていたのだ。
……まあ、辛うじて、という枕詞がつくが。
しかしそれはともかく、この状況はまずい。仮に堕ちていないことが発覚した場合、絶対にロクなことにならない。
あの人権を蹂躙するような調教が今ここで再び始まってもおかしくない。むしろご主人様は嬉々としてやりそうだ。
……と、するとだ。
ここはとりあえず堕ちたふりをしてやり過ごすのがよいのではないだろうか。
幸いにも、自分がどんな様子だったかは鮮明に覚えている。とんでもなく恥ずかしいが、痛い思いをするよりは格段にマシだ。腹を括ろう。
オレはそう決心し、一息つくとご主人様に向かって駆け出した。
「ご主人様ぁ♡」
甘えるような声を出してご主人様にぎゅうっと抱き着く。しっかりと腰を抱きしめて、すりすりと頬を擦りつける。
「もう、朝私がいなかったのがそんなに寂しかったの? 甘えん坊さんね」
ご主人様が優しい手つきでオレの頭をなでる。それに応えるようにオレはごろごろと喉を鳴らす。
「あら、かわいいわね。よしよし」
よし、これはいけそうだぞ! オレは内心で歓喜する。
……これって実質堕ちてるのと変わらないのでは、という疑問は努めて無視する。一応心は堕ちてないから、大丈夫だから!
「ん~♡」
「ほらほら、そろそろ離して」
「……はぁい」
ご主人様が苦笑しながら腰の手を解く。オレは名残惜しそうな雰囲気を出しながら、尚も物欲しそうな目でご主人様を見る。
「…………ん?」
「あの、どうしましたかご主人様?」
今一瞬、ご主人様の顔が曇ったような……?
え、まさか演技を見透かされた?
ご主人様が首を傾げながらオレの目を見る。
心の内を見透かされそうになり、焦りが大きくなる。心臓の音がうるさい。
でも、ここで変な態度をとったら一巻の終わりだ。オレは荒れ狂う感情を表に出さないよう、ニコニコと微笑む。顔が引きつっていないことを願うばかりだ。
「ん~~~、まあいっか。着いてらっしゃい」
「……っ、はい!」
ご主人様がオレに背を向けてスタスタと歩いていく。
……助かったか。でも目を合わせただけで勘付かれそうになるなんて、先が思いやられる。じきにボロが出そうだ……。
やっぱりもうつらいの嫌だし、堕ちちゃったほうがいいのかな……。
日々の調教で、心とは裏腹に体は徐々に日々の行為に適応してしまっているのだ。ぶたれたり、あまりにも乱暴に犯されたりするのは未だに慣れないが、そうじゃない性行為なら快楽さえ感じるようになってしまった。
だから多分、あとは気持ちだけだ。いい子になれば、やさしくセックスしてくれるよね……?
――って、あああああ!!!
何考えてんだオレ! 自分から堕ちようとしてどうする!
しっかりしろ、オレ!
「――ねえ、シズク。……シズクったら!」
「ひゃ、ひゃい!」
頭を抱えていたせいで、ご主人様が呼んでいることに気づかなかった。挙動不審に思われると拙いのに、早速やらかしてしまったかもしれない。
「……シズク、なんかさっきからちょっとおかしくない?」
「う、うぇ? お、おかしい、ですか?」
ほら、やっぱり。変なことを考えるからこうなる。またピンチだ。
「うん、なーんか騙されてる気がするのよねぇ……」
「ふえ?」
「例えば……そうね。今、ホントは『いい子』じゃないとか」
オイ、いくらなんでも鋭すぎるだろう! まあ実際その通りなのだが、まさか正直に言うわけにはいかない。慌てて弁解する。
「そ、そんなことないです!」
「……ふーん。じゃあ信じてあげるよ」
「あ、ありがとうございます……」
「でもさ……もし今の言葉がウソだったら、どうなるか分かってるよね?」
ご主人様がおどろおどろしい目でオレを見つめる。ヤバい、怖すぎるよぉ……。
思わず背筋に怖気が走った。
「ウソじゃないですよぉ……。信じてください……」
「……ふーん」
ご主人様は気のない返事をすると、目の前にある棚に手をかけた。
さっきまで葛藤していながら歩いていたせいで気づかなかったが、どうやらいつの間にか別の部屋の中に入っていたようだ。
周りには似たような棚が何個か置いてある。物置だろうか。
そんな取り留めのないことを考えていると、ご主人様がばっと棚の扉を開いた。
「……うわぁ」
思わず目が輝く。中には可愛らしい服がたくさん吊り下がっていた。
シンプルなブラウスやスカートから、リボンやフリルがたくさんついたお姫様みたいなドレスまで、いろんな服がある。
ちょっと変わったものだと、東方の民族衣装っぽいものやメイド服なんかがある。
とにかく、どれも本当にかわいい。
「あら、気に入ったみたいね」
さっきまでとは打って変わって、ご主人様がニコニコしながらオレに話しかける。
「ほら、見てみなさい。あなたにぴったりのサイズでしょ?」
「……え?」
確かにご主人様が着るには小さいサイズだ。……もしかして、これ全部オレのために?
ぶわっ、と温かい感情が胸に広がる。
「あの、触ってみてもいいですか?」
「ええ、いいわよ」
「やった!」
花柄があしらわれた淡い桃色のワンピースを手に取る。比較的シンプルな見た目ながら生地は手触りよくさらさらしており、着心地も良さそうだ。
服をもって鏡の前に立ち、体に合わせてみる。
うん、かわいい。やっぱり女の子にはこういう服が似合うなあ…………ん?
(あ、あれ……)
何かがおかしい。
――いや、待ってくれ。そもそもオレは、オレは……
「ねえ」
唐突にご主人様に呼び掛けられる。
ハッとして振り向くと、怒りをたたえつつも何かを確信したような目がオレを射抜いた。
混乱して固まるオレの手から服が奪い取られ、棚に戻される。さっきまでの穏やかな空気はとうに霧散し、糸が張り詰めたかのような緊張感が部屋に満ちる。
「やっぱり、そうよ」
ご主人様が低い声を出す。
「ウソついてたでしょ!?」
「ひ……」
「さっきから何回もおかしいとは思ってたけどさあ……今の態度ではっきり分かったよ。なんて浅ましいの! 姑息なことしやがって……!」
ご主人様がオレの髪を掴み、ずいと顔を近づける。
「シズクがいい子になったと思ってたから、今日はおめかししてお出かけでもしようかと思ってたけど……予定変更ね」
そう言うとご主人様は手を振りかぶり、オレの頬をしたたかに打ち付けた。
「あうっ!」
バランスが崩れてよろめき、床に無様に崩れ落ちる。
痛みで泣きそうになったが、そんなオレをご主人様は冷めた目で睥睨する。
「感謝しなさい。素直になるまで徹底的に調教してあげるわ。それから、二度と悪い子に戻らないように……ね」
「ひぁ……」
恐怖に怯えるオレを尻目に、ご主人様は近くにある重厚そうな棚の引き出しを開ける。
そして、二つのものを取り出した。手錠と、それから首輪である。
手錠は遊びの一つもなく、つけられてしまえばあっという間に両手の自由を奪われてしまいそうだ。
黒々とした首輪には鎖が取り付けられており、その終端には革でできた持ち手がついていた。
「こっちに背を向けて、手を後ろに組みなさい」
「あ、あの……」
「早くして」
「うぅ……」
お伺いを立てようとするもぴしゃりと封殺されてしまい、仕方なしに命令に従って手を組む。
するとご主人様は乱暴にオレの手をつかみ、ガチャガチャと音を立てながら手錠を取り付けた。ひんやりとした感覚が手首に伝わる。
「……よし。じゃあこっち向きなさい」
「はい……」
そして振り返るや否や、首輪が取り付けられた。のどのあたりにある輪っかからまっすぐ伸びる鎖がじゃらじゃらと音を立てる。
「ふーん……」
「うぐっ!」
首輪の締まり具合を確かめるように、鎖が無造作にぐいぐいと引っ張られる。首が締まって苦しくなり、うめき声が漏れてしまう。
ふと横を見ると、ぺたんと力なく床に座っている女の子の姿が鏡に映っていた。
目尻には涙がにじんでおり、その小さな体には似つかわしくない無骨な鎖がぐいぐいとひかれるたびに苦しそうな表情をする。
かわいらしい服に目を輝かせていたつい先ほどまでの姿とはえらい違いである。
なんて惨めな姿なんだろう。もうやだよ……
「ほら、立ちなさい」
「うっ、うっ……」
「立てって言ったのが聞こえなかったの!?」
「いっっ!!!」
あんまりな扱いにショックを受けて周りが見えていなかったので、ご主人様の言葉に反応するのを忘れていた。
ものすごい力で鎖が引っ張られ、前にべちゃっと倒れる。そのままぐいぐいと鎖が引かれて首が締まる。それだけでなく、体が床に擦れて痛い。特に乳首が悲鳴を上げている。
「げほっ、げほっ!」
「ほら早くしろ!」
「立ちます、げほっ、立ちますからぁ。首輪ひっぱらないでぇ……げふっ」
手が自由に使えないので腹筋に力を込める。息を切らしながら何とか立ち上がると、ご主人様はとても冷たい表情をしていた。
「次無視したらどうなるかわかってるでしょうね?」
「はぃ……」
理不尽なことは百も承知だが、そんな意見が聞き入れられるはずもない。おとなしく返事をする。
「ふん、どうだか! ……まあいいわ。ほら、着いてきなさい!」
「はぃ……」
ご主人様は鼻を鳴らすと、鎖を軽く引っ張った。
それにつられてオレは足を進める。これではさながら家畜だ。あんまりではないか。
屈辱感で狂いそうになりながら歩いていると、ふと違和感に気づいた。
……どこへ向かっているんだこれは? 嫌な予感がする。
「あ、あのご主人様」
「……なに?」
「これってどこに向かってるんですか?」
するとご主人様はふと立ち止まってオレのほうを向き、さも愉快そうな笑みを浮かべた。
「ふふ、さっき言ったでしょう? お出かけするのよ」
「……え」
「さあ、みんなにシズクの今の姿を見てもらいましょうね!」
さあっと顔が青ざめる。
いつの間やらオレたちは玄関の前までたどり着いていた。ご主人様がガチャリと扉を開く。
「ほら、来なさい」
「ぇ……ぁ……」
「来いって言ってるでしょうが!」
「う“あっっっ!!!」
また鎖が引っ張られて、体が強制的に家の外に放り出される。あっと思った次の瞬間、玄関扉がバタンと閉じて鍵がかけられてしまい、逃げ場を失ってしまった。
「ほら、行きましょう」
ご主人様がニコニコしながら鎖をくいくいと引っ張る。
オレは半ば呆然としながら、ほぼ無意識のうちに歩みを進めた。