今後次第では加筆の上で天空の七章くらいに組み込むかも。
冷たい雨が降る校庭で阿久井香菜美は立ったまま雨に打たれていた。
既に髪はぐっしょりと濡れて肌に張り付いているが、彼女は気にすることもない。
むしろほんの少しだが、気が上向くような感じすらした。
雨に打たれて濡れそぼって、身体中に浸潤していく冷たさが自分に対する罰として降りかかっている──そう思いたかった。
いっそこのまま冷えていくに任せて凍えてしまおうか──そんな思考は不意に轟いた遠雷の音で中断した。
馬鹿なことを。そんなことして何になる。あいつらの笑いのネタになるだけだ。
それに──自分で命を絶つなんてこと、父さんは絶対に許さないはずだ。
香菜美は屈んで水溜まりに捨てられていた教科書を拾い上げた。
大方、先日交際をお断りした先輩がクラスのカースト上位の女子の誰かの想い人だったのだろう。
全く傍迷惑な話である。
だが、何かやり返す気力も湧かない。
そんな連中に構っている暇も余力もなかった。
香菜美は垂れてきた塩気の混じった雨水の筋を拭って、その場を立ち去った。
翌日からクラスでの居場所がなくなった。
女子生徒たちからはいないものとして扱われた。
友人たちは近づくと一瞬バツの悪そうな顔をしてそそくさと距離を取った。
男子たちも女子生徒たちに何か吹き込まれたのか、殆ど話しかけてこなくなった。
そのくせ視線だけは相変わらず、否、以前にも増して向けてくる。
それがますますクラスの女王様とその取り巻きたちの気に障るらしく、嫌がらせは続いた。
そしてとうとう嫌がらせをやめる見返りにバイトで稼いだ金を要求された時、いい加減に鬱陶しくなって証拠を揃えて先生に告げ口してやった。
すると、嫌がらせの主犯格の数人が停学処分になって、嫌がらせは止んだ。
香菜美の友人たちは何事もなかったかのようにまた話しかけてくるようになったが、香菜美はもう彼女たちを本当の友達とは思えなかった。
停学期間が明けた犯人たちは、グループの一人に罪を全部擦りつけて今度はその子をいじめていた。
どこまでも度し難い連中だと、香菜美は溜息を吐いた。
同時に心の隅で新しいいじめられっ子に少しだけ憐れみと罪悪感を覚えた。
季節が巡って降る雨が粉雪になっても、香菜美を取り巻く状況はさして変わらなかった。
男子たちから無駄に視線を集めて時々思い出したように女子たちから嫌がらせを受けながら学校に通い、放課後は夜までアルバイト。
スーパーで割引シールの貼られた惣菜を買い、帰ったら夕食を口に押し込んで、洗い物や洗濯をし、入浴はシャワーで済ませて、深夜の僅かな空き時間に勉強。そしていつの間にか寝落ちして目が覚めて、また最初に戻る。
ずっと変わらない、抜け出せない貧乏暮らし。
いや、変わらないというのは違う。ゆっくりと、だが確実に悪化していっている。
それは古くなって穴が開いた手袋や、何度修繕しても破れるコートのポケット、以前よりも濃くなっているクマ、朝起きた時に枕元に散っている髪、増えていく授業中の居眠りなんかに現れる。
──それに、全ての元凶である母親の意識にも。
「夜のお店があるじゃない。年齢さえ誤魔化せれば、香菜美ならすぐに人気になるわよ」
いつもみたく給料日に稼ぎが少ないと文句を言ってきた母親だったが、その日は一味違った。
こともあろうに未成年の娘を風俗で働かせようとしてきたのである。
当然香菜美は激しく拒絶した。
そもそもこんな貧乏暮らしをしているのは母親のせいだ。
なのに責任を感じている様子は微塵もなく、毎日ゴロゴロしているばかりで、香菜美のバイト代を当てにしている。
そんな情けない状態で、言うに事欠いてこれか?
冗談ではない。
堪忍袋の緒が切れた香菜美は、母親と激しい口喧嘩を繰り広げた末に家を飛び出したのだった。
夜の公園。
香菜美はバイト終わりにいつも時間を潰しているこの場所に逃げ込んでいた。
母親の顔を見たくなくて、あの家にもう一秒だっていたくはなくて、かといってどこか行く当てがあるわけでもなかった。
母親以外の親族と絶縁状態で頼れる友達もいない香菜美には、ここしか居場所がなかった。
「もう疲れたよ──父さん」
母親と喧嘩してここに来るといつも思い出す。
血は繋がっていなかったが、香菜美のことを一番に思ってくれていた優しい父親のこと。
今はもういない、本当の意味で自分を大切にしてくれていた人。
優しかった父親を失ったのは、母親のせいだが──同じくらい、自分のせいでもある。
あの時パパの方がいいなんて言わなければ、父さんは死なずに済んだのかもしれない──思い出す度にそんな後悔に涙する。
でも、所詮は現実逃避だ。誰もそれに答えをくれない。
だからこれは罰だと思うしかない。
罪深過ぎた自分たち親子に対する報いだと。
もういっそのこと何もかも捨ててどこかに逃げてしまおうか。
学校を辞めて、ここではないどこかで仕事を見つけて、一人で再出発するのも悪くないかもしれない。
そんなことを考え始めた香菜美だが、不意に足元の地面が明るくなったのに気付く。
「え?何が起きて──」
自分の周りに魔法陣のような光の紋様が浮かび上がっているのを見た直後──香菜美の姿は忽然と消えた。
◇◇◇
赤い光の奔流を抜けた先には知らない景色が広がっていた。
地下だろうか、松明が燃える薄暗くじめじめした部屋。
その中央のどこか禍々しい魔法陣が描かれた祭壇に香菜美は立っていた。
そして目の前には煌びやかなドレスを纏った若い女性と甲冑に身を包んだ若者たち。
「え、な、何!?」
香菜美はひたすら困惑した。
だが、女性はそんな香菜美を気にも留めずに跪いて頭を垂れてくる。
「お初にお目にかかります。勇者様。私はエノラ・フラウ・フラウロ──このアール王国の女王です」
「え?女王様?え?勇者って何?」
聞き慣れない言葉ばかりで夢でも見ているのかと思っていると、エノラが顔を上げて事情を説明してきた。
曰く、アール王国には滅びが迫っていて、もはや勇者を召喚するほかなかったのだという。
だが、その後ろで騒がしくする輩が数人。
「成功だ。成功したぞ」
「大魔法使いシタサン様の召喚魔法が成功した!」
「ウヒャヒャ、これで我らの栄達は思いのまま!」
喜んでいる若者たちに囲まれているのは、いかにも魔法使いといった出立の老人である。
「この瞬間、わしは王国の歴史に名を刻んだ!お前たち、わしの偉業を後世まで伝えるのだぞ」
得意満面の【シタサン】というらしい老人。
だが、エノラや騎士たちは彼らを見て恐怖や嫌悪の表情を浮かべている。
「シタサン、静かになさい。勇者様が怯えておられます」
するとシタサンは目を剥いて抗議の声を上げた。
「聞き捨てなりませんぞ、女王陛下!我らの召喚魔法がなければ、勇者殿は召喚などできなかった。我々がいなければこの国は滅びる運命だったのですぞ!」
「「「そうだ!」」」
「何だと貴様ら!?」
「今まで戦から逃げてきておいて何を偉そうに!今まで戦って死んだ者たちを侮辱するな!!」
弟子たちもシタサンに加勢し、それにエノラに付き従う騎士たちが言い返す。
いきなり召喚しておいて、肝心の香菜美をよそに内輪揉めが始まっていた。
それを見て香菜美は却って冷静になり──怒りを覚える。
そしてとうとう弟子たちと騎士たちが掴み合いになった時、香菜美はとうとう叫んだ。
「いい加減にして!!」
その場の全員が一瞬で静まり返る。
「勇者とか召喚とか意味が分からない!誰かちゃんと説明してよ!」
叫んだ後になって言い過ぎたかと思ったが、エノラは大慌てで謝罪してくる。
「誠に!誠に申し訳ございません、勇者様!どうか、ご容赦くださいませ!私の方から詳しく説明致します」
必死に平身低頭するエノラの姿に香菜美は申し訳ない気持ちになる。
「いや、そこまで謝らなくても──」
「寛大なお言葉、痛み入ります。勇者様、貴女を召喚したのには理由があります。どうか、この国をお救いください」
切実な表情で願い出るエノラ。
その姿に香菜美は怒りが消えて僅かに心打たれる。
「今我がアール王国は魔王により危機に瀕しております。もはや貴女だけが頼りです。勇者様」
「魔王?それって悪の親玉みたいなあれ?」
「はい。魔物の軍勢を率い、国々を滅ぼして回る悪魔の王です。三百年前にも現れ、世界中に災厄をもたらした末に先代の勇者様に討たれました。故に私たちにとって勇者様は最後の希望なのです」
「私が──勇者?いきなりそんなこと言われても──私は何もできないわよ?」
香菜美は戦った経験などない。
口喧嘩以外の喧嘩すらしたことがなかった。
「いいえ。召喚された勇者様には不思議な力が宿ります。その力と我らの至宝を以てすればきっと魔王を討ち果たせます。どうか、信じてください」
「そ、そうなの?そんな実感は湧かないんだけど」
少し身体を動かしてみたが、力が強くなったとか、見えなかったものが見えるようになったような感じはしない。
「実際に見ていただければ分かります。ですが、その前に晩餐会の支度をしてあります。食事が口に合うと良いのですが──とにかく、ご案内いたします」
エノラに促されて香菜美は歩き出した。
そういえば、夕食を食べ損ねていたのだった──思い出してお腹が鳴った。
食堂には長テーブルに見たこともない料理が並べられていた。
元いた場所ではお目にかかれなかったご馳走を前に香菜美は涎が湧いてくるのを感じた。
「どうぞ。存分にお召し上がりください」
エノラに言われて香菜美はフォークとナイフを手に取った。
できればお箸が良かったが、どうやらこの世界には存在しないようだった。
「いただきます」
フォークとナイフで食事をするのは殆ど初めてで上手くできるか不安だったが、不思議と手が勝手に動いた。
ローストされた何かの肉を口に運ぶと、硬く筋張っていてお世辞にも食べやすいとは言えなかったが、塩と何かの香辛料で良い具合に味付けされていて美味しかった。
気付けば夢中になって食べていた。
「お口に合いましたか?」
エノラが訊いてくるので、香菜美は大きく頷く。
「うん。美味しい」
「よかった。アール王国一の沃野で育てられる黒豚のローストです。今ではもう手に入らず、これが最後の一頭でしたが──供した甲斐があります」
最後の一頭という言葉に香菜美は反応する。
「え?この肉そんなに貴重なものなの?」
「ええ──魔王の軍勢に土地を奪われ、畑も家畜も、冬を越すための蓄えも根こそぎ食い尽くされたのです。何の罪もない村がいくつも滅ぼされ、多くの民が殺されました。奴らはそれでも飽き足らず、この王都目掛けて迫ってきています。もう殆ど奪われ尽くして、取るものなど残っていないというのに──」
目を落として悲しげに語るエノラの話を聞いて、香菜美は憤る。
「酷い」
「そうでしょう。魔王さえいなければ──ですが、まだ希望はあります。勇者様が来てくださいましたから」
エノラは気丈にそう言って小さな瓶を手に取り、中身を杯に注ぐ。
「ワインでございます。いかがですか?」
エノラが直々に杯に注いだ赤い液体を見て、香菜美は一瞬躊躇したが、せっかくもてなしてくれているのに断るのも悪いと思い、受け取った。
どうせここは異世界だ。日本の法律なんて関係ない。
受け取った杯を一気に飲み干す。
むせ返りそうなアルコールの匂いに混じって微かに果物の甘みが舌をくすぐった。
身体が熱を帯びてくる。
寒い公園と地下室で冷えていた身体が温まってくる。
やっとひと心地ついたように感じて、香菜美は久しぶりに憂いからではない溜息が出る。
だが、ふと周りを見渡して自分以外に食べている者がいないことに気付く。
「えっと、女王陛下様?」
「エノラで構いませんよ。勇者様」
「じゃあエノラさん?エノラさんたちは食べないの?」
見ているだけで食事に手を付けていないエノラに声をかけてみると、彼女は小さくかぶりを振った。
「この晩餐会は勇者様のために準備したものです。まずは勇者様がお好きなだけ召し上がってくださいませ」
「そんなこと言われても──エノラさんたちも一緒に食べようよ。これだけのご馳走、私一人だけ食べているのも何だか変な気分だしさ。ね?」
「勇者様がそう仰るのでしたら──」
遠慮がちにフォークとナイフを手に取るエノラに香菜美はもう一つ注文をつける。
「それと、その勇者様って呼び方もやめて欲しいな。何だかこそばゆいのよ」
「──では、カナミ様とお呼びしましょう」
「様も要らないんだけど」
「──これからを思えば呼び捨てになどできませんから」
敬称はやめてくれなかったが、ほんの少し距離が近くなったように感じた。
エノラに続いて大臣や将軍たちも食事に手を付け始め、食堂はほんの少し和やかな雰囲気に変わる。
(よかった。皆ピリピリしていたら落ち着いて食べられないよ)
香菜美はホッと息を吐いて食事を再開する。
晩餐会が終わり、部屋に案内された香菜美は何年かぶりのベッドに横になった。
母子家庭になってからずっとボロアパートの布団が寝床だった香菜美にとって、ベッドは密かな憧れだった。
記憶にある幼い頃に使っていたベッドよりもふかふかで寝心地こそ良かったが、冷たさが肌を刺す。
体温で温まるまで我慢するしかないが、満腹と疲労もあってすぐに瞼が降りてきた。
そして程なく、目が覚めた。
原因は束の間に見た随分と昔の夢。
何度そちらが現実だったらと願っても叶わなかった都合の良い夢。
何度見ても涙が出る。
いつもなら近くで寝ている母親のいびきの嫌悪感に取って代わられるが、今この部屋には香菜美だけ。
ようやく得られた一人でゆっくり寝られる空間が酷く寂しく物悲しく感じられた。
香菜美はそのまま声を押し殺して泣いた。
◇◇◇
翌日。
香菜美は武器庫に案内され、そこで勇者のための武器を目にした。
金の装飾が施された白銀の全身鎧と大振りな両手剣。
「こちらがアール王国最高の技術で作られた武具です。希少なミスリルで作られ、魔法の加護がかけられております」
エノラが説明するが、香菜美にはよく分からない。
ただ、普通の武器ではないということだけは分かった。
他の武器とは纏っている雰囲気からして違う。さしずめ、聖なる鎧と聖剣といったところか。
「そんな凄いものを私が使っていいの?」
「普通の武具では魔王にかすり傷すら与えられないと伝承にありました。この武具でなければ、魔王は倒せないでしょう。まさに勇者様のための武具でございます。どうか遠慮なくお使いください」
「そ、そう。えっと、じゃあこの鎧を着ればいいの?」
「はい。お前たち、カナミ様の着装を」
エノラの指示で騎士たちが進み出る。
「はい、女王陛下。勇者様、失礼致します」
よく見ると騎士たちは随分若かった。
というより、幼い。香菜美よりも年下に見える。
鎧の扱いにも慣れていないのか、着装にも手間取っている。
「お待たせしました。これで着装完了です」
「え?これで終わり?」
香菜美は驚いた。鎧を着ているという感覚が殆ど感じられなかったのだ。
「軽く感じられましょう。それが勇者の力です。次は訓練に参りましょう」
エノラたちに連れられて香菜美は城下の街へと歩き出す。
数十キロはありそうな鎧を着けているのにむしろいつもより足取りが軽い。
そのくせ、足音は明らかに重く、大きく響く。
違和感があるが、それが勇者に宿る不思議な力なのだろうと香菜美は考える。
(これって本当に力が宿っているってことなんだよね?でも──本当にこれだけで戦えるのかな?)
城下に出た香菜美は思わず顔を顰めた。
周辺から逃げ込んできたのであろう人々がそこら中にいた。
皆泥に汚れ、ろくに食べていないのか痩せて疲れ切った顔をしている。
そして多くは老人や子供で、数少ない大人たちは手足を失っていたり、酷い傷がある者が殆どだった。
「皆魔王の軍勢にやられたのです。故郷を奪われ、家族を奪われ、命以外の全てを失い、ここに逃げ込んできた民たちです」
エノラの説明に香菜美は魔王に対する猛烈な怒りを抱く。
「なんて酷いことを」
思わず漏れた呟きにエノラが頷く。
「えぇ、魔王はこのようなことをして私たちを苦しめて、嗤っているのです。カナミ様、貴女を召喚したのはこのような行いをする魔王を打ち倒し、平和を取り戻すためです。一緒に戦っていただけますか?」
エノラの問いかけにもはや迷うことはなかった。
「戦う。勝って、平和を取り戻すわ。でも、私に魔王と戦える力が本当にあるの?」
「あります。訓練場に参りましょう。そこで実際に見ていただければ分かります」
エノラに連れられて向かった先は城壁の前の広場だった。
香菜美とそう年の違わない若者たちが初老の男性たちから指導を受けている。
エノラの側に侍る騎士たちといい、兵士たちまで殆どが若者という現実に香菜美は驚く。
更によく見れば数少ない大人たちの大半は女性だった。
皆四苦八苦しながら弓やクロスボウを引いている。
大人の男性は皆死んだか、負傷で戦えなくなっているのがよく分かった。
それと共に不安が生じてくる。
こんなになるまで過酷な戦いに自分が入っていって、生き残れるのか──と。
その不安をよそに、若者たちを指導していた初老の男性の一人が呼ばれてきて、剣を手に香菜美と向かい合った。
いきなり真剣での訓練をすることに驚いたが、その驚きはすぐに別の驚きに変わった。
斬りかかってくる男性の動きがとてもゆっくりに見えたのだ。
おかげで難なく対応できたし、聖剣で相手の剣を弾けば、そのままへし折れてしまった。
驚嘆する周囲と香菜美に対して、エノラは希望に顔を輝かせる。
「それが勇者の力です。お分かりいただけましたか?」
「す、凄い。こんなの、強すぎるわ。これなら私でも──」
手に入れた力に対する興奮が湧き上がってくる。
拳を握りしめて決意を新たにする。
やろう。私が戦ってこの人たちを守るんだ。
何者でもなく、どこにも居場所がなかった自分に、やっと居てもいい場所と求められる役割ができた。
◇◇◇
初老の男性から最低限の剣の使い方と戦場での動き方を教わり、その日の訓練を切り上げた香菜美は護衛につけられた若い騎士と共に城への帰途に就いていた。
エノラは先に仕事のため城に戻っており、夕食の場で合流することになっている。
辺りは暗くなり、夕陽は城壁の向こうに沈んでいる。
逃れてきた人々は木の枝や木材を焚き火にくべて、その周りに固まり始めていた。
皆香菜美に気付くとチラチラと見てくるが、話しかけてくる者はいない。
エノラにはそれなりに話しかける者がいたのだが。
(まぁ、当然よね)
いくら希望の勇者様と言えど、この世界の住人たちにとって香菜美は異物だ。
エノラたちはともかく、避難民たちには接し方が分からないのだろう。
それでも、香菜美の決意は変わらない。
「おい!そいつは俺が見つけた食料だぞ」
「何おぅ!?お前こそこの前横取りしやがっただろうが!」
突然聞こえてきた罵り合いに香菜美は思わず肩を震わせた。
見ると、数人の避難民が言い争っている。
それを見た護衛の若い騎士が顔を顰めて仲裁に向かった。
「勇者様、先にお戻りください。あそこは僕が」
「え?でも、大丈夫なの?私も行った方が──」
「いえ、この程度のことに勇者様の貴重な時間を奪うわけにはいきません。さ、行ってください」
「う、うん──分かった」
まだこの世界に溶け込めていない自分が首を突っ込んでも迷惑だろうと思い直して、香菜美は城へと向かう。
すぐに若い騎士も言い争っていた避難民たちも見えなくなった。
大通りなのに微妙に曲がりくねっているせいですぐに建物の影に隠れてしまう。
一人になると、黄昏の静寂の中に自分の足音だけが大きく響き、不気味な雰囲気になる。
お化けなんて信じていないが、この雰囲気は少し怖い。
「もし、貴女はもしや勇者様ではありませんか?」
不意に声をかけられて振り返ると、そこにいたのは黒いマントにシルクハットの男だった。
マントは使い古されているのか、所々端が切れてボロボロで、男本人も泥や傷で汚れた姿だが、シルクハットだけが妙に綺麗だった。
その出立もあってどこか今まで見てきた避難民たちとは違う雰囲気を感じる。
「そうだけど?貴方は誰?」
問いかけると、男は帽子のつばを少し持ち上げて一礼し、答える。
「名乗るほどの名は持っておりません。他の大勢の民たちと共にここに逃げ込んできた、しがない旅人ですよ」
「旅人?」
「そうです。行く先々で人と話し、手品を披露し、この帽子に食べ物や小銭を投げ入れてもらいながらさすらっておりました。今では誰も見てくれませんが──勇者様に一つ、お見せしましょう。少し、お時間を頂けますか?」
「それは──いいけど」
早く城に戻らないとと思うが、城下で初めて話しかけてきてくれた人の厚意を無下にもできなかった。
「ありがとうございます。では」
男はポケットから布を取り出して右手に被せた。
直後に布を取ると、現れた右手は青い薔薇のような花を握っていた。
「滅びの間際に間に合った奇跡の勇者様に、この花を捧げます」
「あ、ありがとう。凄いわね」
言われたこともないキザな台詞に照れながら、香菜美は花を受け取った。
見ると、造花ではなく本物の花のようだ。
「どうやって出したのこれ?」
「ふふ、タネも仕掛けもありませんよ。さ、じきに完全に日が暮れます。城にお戻りになるのでしょう?」
はぐらかされてしまったが、手品師にタネを訊くのも無粋だったと思い直す。
それに元気を貰えたのは確かだ。
「うん。じゃあ、行くね。──絶対に私がこの世界を救うから。そしたらまた皆に見せてあげてよ」
「えぇ、信じております。またお会いできたなら、戦いの話を聞かせてくださいね。勇者様」
頷き、香菜美は城へと戻った。
◇◇◇
「勇者様!敵襲です!」
突然大声と共に部屋の扉が激しくノックされて、香菜美は飛び起きた。
「こんな夜に攻め込んできたの?」
「本来ならあり得ません。夜というのは同士討ちも増えますから。ただ、獣人たちにはあまり関係ないのでしょう」
説明してくれるエノラだが、彼女自身驚いているようだった。
着装が完了すると、エノラが香菜美の手を握ってお願いしてくる。
「カナミ様、どうか私たちをお守りください。非道なる獣人たちから、無垢な民をお守りください」
自分も手が震えているのに民のことを想うエノラの姿に、香菜美は勇気を奮い立たせる。
イメージしていた女王とは違う優しい彼女の力になろうと、笑顔を見せた。
「任せてよ」
部屋を出て、護衛の騎士たちと共に城壁へ向かうと、大勢の叫び声や武器のぶつかる音が聞こえてくる。
「急ぎませんと。味方が押されています」
護衛の騎士がそう言うので、香菜美は走った。
すると、信じられないスピードが出て、騎士を置き去りにしてしまう。
香菜美は思わずスピードを落としたが、騎士はかぶりを振る。
「僕に構わず行ってください!早く味方のもとへ!追いかけますから!」
「ッ!分かった!」
香菜美は再び走り出した。
城壁の上では獣人たちと王国の兵士たちが激しく戦っていた。
壁を登ってきた獣人たちは壁上に設置されたバリスタを壊し、城門の開閉装置を制圧すべく、夜襲をかけてきたのである。
壁を登るのを苦としない猿族や夜目の利く猫族で構成された夜襲部隊は、獣人軍の中ではそれほど強い種族ではない。
だが、それでも人間よりは遥かに力が強く、しかも鍛えられ選び抜かれた屈強な戦士ともなれば、若年兵や老兵ばかりの王国兵では到底太刀打ちできなかった。
必死のチームワークで囲んで叩こうとしても、簡単に武器を払い除けられて接近を許し、返り討ちにされてしまう。
既に百人以上が殺され、バリスタの半分以上が破壊されてしまっていた。
「怯むな!階段を死守しろ!ここを破られては王国は滅亡するぞ!」
指揮官が声を張り上げて兵士たちを鼓舞するが、劣勢は変わらない。
獣人の一人が捕らえた兵士の頭を握り潰して嘲笑う。
「弱い、弱い!お前たち人間などに、我らが負けるものか!」
その勢いのまま階段へと到達しかけたその時。
兵士たちの頭上を跳び越えて香菜美が獣人たちの眼前に現れ、立ちはだかった。
周囲に転がる兵士の死体を見て、香菜美は怒りに顔を歪ませる。
「──あんたたちは許さないからね!」
「ハハハ!女が出てきたぞ!もう、兵士の残りはごく僅かということだ。この戦争は我らの──あ、あれ?」
香菜美を嘲笑った獣人の腹に深々と聖剣が突き刺さる。
思わず後退りした獣人の腹から聖剣が抜け、血が噴き出した。
「ぐっ──ば、馬鹿な──」
傷口を押さえてうずくまる獣人。
その姿と聖剣に付いた返り血を見て、香菜美は恐怖した。
(刺した──私が刺した──こ、これが戦争なの)
刺した時の感触が生々しく手に残り、全身が強張って震える。
獣人たちが目の色を変えた。
「その女を殺せ!」
誰かが叫び、それを合図に獣人たちが一斉に襲いかかってきた。
我に返った香菜美はその全ての攻撃を躱し、手足を斬りつけて無力化していく。
胴や首を狙うことはもうできなかった。
敵の動きがスローモーションに見える香菜美には狙う部位を選ぶ余裕があったが、それでも精神的な疲れはどんどん溜まっていく。
ほんの数秒で香菜美は目の前の獣人たちの殆どを無力化した。
だが、終わった時には青息吐息だった。
やっと終わった。もうこれで安心。
そう思った香菜美だったが、味方の兵士たちが前に進み出てきたかと思うと、槍で獣人たちを突き刺し始めた。
「死ね!死ね!」
「息子の仇だ!」
「勇者様万歳!」
何度も槍を突き立てながら香菜美を称える兵士たちが、香菜美には恐ろしく見えた。
(どうしてよ?どうしてそんなに──もう戦う力なんて残っていないのに)
やめてと言いたかったが、口が動かなかった。
勝利に沸く周囲をよそに香菜美はその場にへたり込んでしまう。
いつの間にか、夜は明けていた。
「勇者様!」
呼びかけられて香菜美は我に返った。
見ると、置いてきてしまった護衛の騎士が心配そうに覗き込んでいる。
「勇者様、どうされましたか?怪我でもされたのですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど──」
「よかった!勇者様のおかげで大勝利ですよ!」
周りと同じように勝利に喜ぶ騎士の顔を見ると、何も言えなくなった。
ただ、今は一人になりたかった。
「ごめん、私降りるね。疲れちゃった」
それだけ言って、香菜美は城壁を降りた。
まだ勝利に沸く人々が集まる広場を避けて静かな路地の一つに腰を下ろした香菜美は、嘔吐きそうになるのを必死で堪えて水を飲んだ。
乾いた喉は潤ったが、胸のムカムカは治らない。
うずくまって苦しんでいると。不意に聞き覚えのある声がした。
「おや、勇者様ではありませんか。こんな所でどうされたのですか?」
顔を上げると、昨日手品を見せてくれた旅人が立っていた。
「あ──また会ったわね」
何とかそれだけ言ったが、それが引き金になったのかもしれない。
我慢できなくなって香菜美は嘔吐いた。
今朝食べた朝食と胃液を全部吐き出してしまっても、吐き気は治らず、両目からどんどん涙が溢れてくる。
「大丈夫ですか!?勇者様!」
旅人が必死に呼びかけてくる。
「うぇ──けほっ、だ、大丈夫。これは──病気とかじゃなくて」
「──戦いのせいですか?」
旅人はどうやら見抜いたようだ。
彼の顔を見られなくて、香菜美は俯く。
「ごめんなさい。皆を救うって言ったのに」
戦争の姿を知らずに大言壮語した自分が情けなかった。
実際には血を見ただけで怯え、大勢の人間を殺した相手すら殺せないただの女子高生なのに。
だが、旅人が発したのは軽蔑でも激励でもなかった。
「勇者様はお優しいのですね」
「──え?」
思わず旅人の方を見ると、優しい笑みを浮かべていた。
「ただ暴れ、殺すだけならば魔王と変わりありません。勇者とは、勇気と力、そして優しさを兼ね備えてこそ、そう呼ばれるのです。貴女は立派な勇者様でいらっしゃいますよ」
「──そう、なのかな?」
「そうです。命を奪うことに抵抗を覚えるのは当然のこと。恥じることはありませんよ」
「──そうか。ありがとう」
ほんの少し、胸のつっかえが取れたような気がする。
「しかし──困りましたね。勇者様には休息が必要なように見受けられますが──」
旅人が城壁の方を見ているので、香菜美もそちらの方を見てみる。
すると、城壁の向こう側から遠雷のような不気味な轟きが聞こえてきた。
「あれは獣人たちの鬨の声です。もうじき、本格的に攻めてくるでしょう」
「そんな──行かなきゃ」
城壁を登ってきた少数の獣人にすらあれだけの被害を受けたのだ。
大軍に攻め入られたらどうなるか、想像するのも恐ろしい。
だが、身体の震えが止まらず、膝が笑っている。
行ったところで昨夜のように戦えるとは思えなかった。
それを見て旅人が一つ、策を口にする。
「勇者様──それでしたら、奴らを指揮している者を見つけて狙ってみてはいかがでしょう。奴らは最も強い者が上に立ちます。その者を打ち負かせば、あるいは恐れをなして退くかもしれません」
旅人が提案してきた策は香菜美には無謀に思えた。
だが、上手くいけば最小限の犠牲で戦いを終わらせられるとも思えた。
「──そんなことできるかな?」
「言い伝えにはいくつかそれで戦いの決着が着いた話があります。残念ながら今の戦では成功した話は聞きませんが──並の者にはできなくとも、勇者様ならできる。私にはそう信じるしかありません」
そして、旅人は再び手品で青い薔薇のような花を取り出し、香菜美の髪に挿した。
「私からのお守りです。どうか、この街を、人々を守り、無事に帰られますよう」
「──うん。ありがとう。私、やってみるわ」
いつの間にか、身体の震えはマシになっていた。
少なくとも笑っていた膝は言うことを聞くようになっている。
「ご武運を」
旅人の言葉を背に香菜美は城壁の方へと戻る。
◇◇◇
巨大な戦斧が振り回され、血飛沫が舞い飛ぶ。
「ま、待ってくれ。勇者が──」
言い訳しようとした猫型の獣人が頭をかち割られる。
「戦場から逃げた者を仲間とは認めない」
そう冷たく言い放ち、戦斧を振るうのは、獣人軍の総大将【ノゴ】だった。
魔王から力を授けられた四天王と呼ばれる四人の大将軍の一人で、【獅子将軍】と呼ばれている。
その圧倒的な武力でバラバラだった獣人の諸部族を統合し、人間との戦に駆り立ててきた。
将軍とは言うが、その戦い方は雑だ。
ただ真正面から突撃して叩き潰すだけ。陣地だろうが城だろうが跳び越え、踏み潰し、目につく敵を片っ端から切り裂き、薙ぎ倒す。反撃されても、罠に引っ掛かっても、それで大損害を被っても、お構いなしにひたすら突き進む。
それでも勝ててしまうのが彼の四天王たる所以であるが、毎回多くの犠牲を伴うため、快く思わない者もいる。
だが、彼に逆らったり強く反対したりすれば、先程の猫型獣人のように惨たらしく殺されるため、誰もが口を噤んで従っている。
逃げ帰ってきた夜襲部隊の生き残りを全員処刑したノゴは、血塗れの戦斧を掲げて吼える。
「勇者だろうと関係ない。こうなれば、城門を破って都市の中に入る。皆、全てを食らえ!」
その檄に獣人たちは歓声で応えるが、小さく舌打ちをする者がいた。
獣人軍の軍師にして狼族の戦士【グラス】だ。
「力押しか。これではまた仲間が大勢死ぬな」
そもそも兵站が伸び切って兵糧は届かず、現地調達でどうにかこうにかやりくりしてもノゴたちが宴会ですぐに消費してしまうため、獣人軍は立ち枯れの危機にある。
他の連中はアール王国の王都を落とせば食料が手に入ると思っているようだが、ここまで追い詰められ、痩せ細った王都に大軍を養えるほどの蓄えがあるとは思えない。
最悪、王都を落とした後に食料を巡って獣人同士で争うことになりかねない。
一度撤退して兵站を立て直し、戦士たちに休息を取らせて力を蓄えてから攻めるべきなのだが、ノゴの「兵は神速を尊ぶものだ」という鶴の一声でここまで突き進んできた。
そして、まだ兵糧のあるうちに最小限の犠牲で早期に王都を落とすべく立案した夜襲も失敗に終わった。
しかも先程処刑された獣人の言葉が正しければ、敵には魔王すら倒す勇者がいる。
そんな状況で真正面からの総攻撃など、正気の沙汰とは思えなかった。
だが、ノゴへの恐怖と今まで勝ち進んできたという実績が他の獣人たちの判断を鈍らせている。
そして、それはグラスの率いる狼族も同じだった。
「父上!ついに戦が始まるのですね」
そう言って目を輝かせるのは、グラスの娘【チノ】である。
霊的に優れた証とされる白銀の毛を持って生まれたことを誇りに思っており、この戦いで初陣を経験すれば一人前の巫女になれるとして張り切っている。
だが、グラスからすれば霊的に優れているようには見えず、ただの危なっかしい娘だ。
確かに並の戦士を遥かに凌ぐ膂力を持ってはいるのだが、戦というのはそれだけでは勝てない。
だからこそ、戦いを前に彼は娘に言い聞かせる。
「何としても生き残れ。強い戦士は生き残るものだ」
「必ず敵を倒し、父上のように強いと周囲に認めさせます」
ズレた返事をするチノをグラスは真剣な面持ちで叱りつける。
「いいからお前は前に出るな。戦士たちの後ろをついて行くのだ。こんな所で巫女たるお前を失うわけにはいかん」
「ですが父上──」
「ならん!これは軍師としての命令だ。戦士ならば命令を守れ」
「──分かりました」
悲しげに耳を垂らすチノの頭をグラスはそっと撫でた。
「分かれば良い」
直後にノゴが咆哮し、号令をかける。
「全軍、突撃せよ!!」
獣人たちが一斉に鬨の声を上げ、走り出す。
狼族も遠吠えを上げ、先頭集団のすぐ後ろを走り始める。
程なく、生き残っていた敵のバリスタから大きな矢が放たれ、獣人たちの頭上に降り注ぎ始める。
先頭集団の何人かが矢に貫かれて斃れるが、その亡骸を踏み越えて獣人たちは進み続ける。
バリスタが再装填に入ると、今度は城壁の上に構えた弓兵が矢を浴びせてくる。
だが、その殆どは弱弓だった。
防具や分厚い毛皮で弾き、そうでなくても切り払って防げる。
数も少なく、何らの障害にもならなかった。
(やはり途中の脅威はバリスタだけか。それも半分以上は潰せたようだな。よくやってくれた)
ノゴに処刑された夜襲部隊は良い仕事をしてくれた。多少は犠牲を減らせるだろう。
グラスは犠牲になった彼らに感謝する。
「城壁に辿り着くぞ!梯子の用意!」
グラスが叫ぶが、城壁の上まで届く梯子を持ってきているわけではない。
彼の言う梯子とは大型の獣人の上に中型の獣人が乗り、更にその上に小型の軽い獣人が乗ると言う具合に組み上げられる生身の梯子だった。
城壁の上に辿り着いた軽くて素早い獣人が城門を開け、他の獣人たちを通す。
それが獣人流の攻城戦だ。
だが、梯子を組み上げる前に城壁の上から人間の少女が一人飛び降りてくる。
彼女の着地と共に凄まじい衝撃が発生し、組み上げようとしていた梯子が崩れてしまった。
そこに矢や石が降り注ぎ、何人かの獣人が負傷した。
そして、少女が叫ぶ。
「獅子将軍はどこ!?」
◇◇◇
城壁に辿り着いた香菜美は獣人たちを率いているのは誰か尋ね、【獅子将軍】という呼び名を知った。
曰く、獅子の頭を持つ巨漢の獣人で、四天王と呼ばれる精鋭の一角。その中でも最も武力に優れた人物なのだという。
だが、迫り来る獣人たちの中から一人を見つけ出すことは難しく、見つけ出せないまま獣人たちが城壁の真下に迫ってきた。
やむなく、香菜美は一人で獣人たちの群れの中に飛び降りた。
相当な高さがあったはずだが、衝撃は殆ど感じない。
なのに近くにいた獣人たちは吹っ飛ばされ、尻餅をついた。
矢や石を浴びせられる彼らから目を逸らしつつ、香菜美は叫ぶ。
「獅子将軍はどこ!?」
だが返事はなく、すぐに獣人たちが襲いかかってきた。
「勇者だ!殺せ!」
四方八方から襲いかかってくる獣人たちを舞うように躱し、手足や武器を狙って斬りつけ、無力化していく。
「何をしている!?相手は一人だぞ!」
「くそ!なんてすばしっこい奴なんだ!」
「取り囲め!人数で押し包むのだ!」
「上からも矢が来るぞ!」
「弓隊!どこだぁ!」
突然現れて素早く動き回る香菜美に獣人たちは混乱し、上手く戦えないでいた。
その間に香菜美は段々と戦場の様子が分かるようになってくる。
城壁の上から香菜美を援護するため矢を射っている弓隊を排除しようと、ケンタウロスのような姿の獣人の一団が弓矢を構えていた。
(させない!)
素早く跳躍して周りの獣人たちの頭上を跳び越え、ケンタウロスたちの手前に着地すると、弓を片っ端から破壊していった。
「助かりました!勇者様!」
城壁の上から弓隊が感謝してくる。
ところが、次の瞬間弓隊は飛んできた岩に粉砕され、血煙と化した。
(嘘!?あんなのどこから──)
岩の飛んできた方向を振り返った香菜美は戦慄した。
身長三メートル近くはある二足歩行のライオンがそこにいた。
「人間の分際でこの俺様を呼びつけた下郎はお前か?」
獣の唸り声が混じった声で問いかけられ、肩が竦む。
それでも、香菜美は勇気を振り絞って答えた。
「そうよ。貴方が獅子将軍かしら?」
「いかにも。四天王が一角にして魔王様の一の矛、獅子将軍ノゴである!」
ライオンが名乗ると、周囲の獣人たちが歓声を上げる。
「獅子将軍!獅子将軍のご出陣だ!」
「勇者など目ではないぞ!」
「お前の命運もここまでだ勇者め!」
騒がしくなる獣人たちに負けないよう、ありったけの声で香菜美は叫ぶ。
「獅子将軍ノゴ!侵略をやめて引き返しなさい!」
それに対して湧き起こったのは嘲笑だった。というより、爆笑である。
口々に香菜美を笑い、嘲り、囃し立てる獣人たちに対して、ノゴは静かだった。
だが、凄まじい形相でたてがみを逆立てており、激怒しているのは明らかだった。
「人間風情がこの俺様に命令するだと?なんという無礼!万死に値する!!」
「ッ!なら、覚悟しなさい!」
決裂を悟った香菜美は聖剣を構える。
ノゴも背中に背負っていた戦斧を手に取ると、咆哮と共に地面を蹴って飛びかかってきた。
(ッ!?速い!)
スローモーションに見えていた今までの相手とは明らかに違った。
僅かではあるが実戦経験を積んで目が慣れていなければ反応できなかっただろう。
攻撃も回避もする余裕のないまま戦斧が迫ってきて、香菜美はやむなく聖剣で防いだ。
次の瞬間、香菜美の両足は宙に浮く。
(──え?)
何が起こったのか分からないまま、香菜美は吹っ飛ばされて地面を転がった。
遅れて、聖剣を握っていた手と戦斧の衝撃をまともに受けた左腕から気が遠くなるような痛みが走り、意識を手放してしまいそうになる。
だが、気絶してしまえば命はないと直感で理解し、必死に意識を保つ。
聖剣を杖にして立ち上がると、ノゴは意外そうな顔をする。
「ほう、この俺様の一撃をまともに受けて倒れぬとはな」
驚きたいのはこっちだと香菜美は内心毒づいた。
勇者の力が宿った目でも動きが遅く見えず、こちらを軽々と吹き飛ばすほどの力。
こんなの予想していなかった。
「この馬鹿力──」
「褒め言葉と受け取っておくぞ!」
ノゴが再び戦斧を振るい、香菜美は今度は跳び下がって躱す。
僅かにつんのめった隙を突いて斬りつけようとしたが、それよりも早くノゴが戦斧を横薙ぎに振るい、聖剣を弾いた。
衝撃で危うく聖剣を手放しそうになったが、辛うじて堪え、追撃を躱して距離を取る。
(打ち合うのは駄目ね。何とか躱して──)
ノゴ相手に防ぐのも弾くのも不可能だと悟った香菜美は、攻撃を徹底的に回避しながら隙を探すことにした。
だが、その隙が見当たらない。
そもそも狙える部位が高過ぎるか、遠過ぎる。
それに加えて速さは互角で力は向こうが上。
無力化どころか、傷を付けるのも不可能に思えてくる。
(何なのよコイツ!何か方法はないのかしら)
回避一方になる香菜美を見て獣人たちは嘲笑い、ノゴへの声援を叫んでいた。
だが、不意に飛んできた大型の矢が彼らの何人かを貫いた。
苦戦する香菜美を援護しようとしたのだろうが、それを見て獣人たちは憤激する。
「バリスタだ!」
「人間共め!」
「やっちまえ!」
「勇者はノゴ将軍に任せ、我々は突撃だ!」
香菜美とノゴの決闘に夢中になっていた獣人たちは次々に城壁に取り付いて梯子を組み始め、何人かは直接登り始める。
城壁の上に陣取っていた兵士たちの生き残りが必死で石を落として応戦するが、効果はなく、逆に獣人たちの弓矢や投石によって片っ端から射ち落とされていった。
(しまった!城壁の皆が)
駆けつけようとした香菜美だったが──
「おい、誰が逃走など許した!?」
ノゴによって振るわれた戦斧がすぐ目の前を掠め、地面に突き刺さる。
その衝撃で香菜美の身体は浮き上がった。
着地した香菜美は歯を食いしばってノゴに向き直る。
獅子将軍を倒さない限り、助けに駆けつけることは不可能である。
既に兵士たちと城壁の上に到達した獣人たちとの交戦が始まったらしく、若者たちの悲鳴が聞こえてくる。
それが香菜美をますます焦らせた。
「このっ!」
「ふん、愚か者が」
踏み込んで一撃を躱し、内懐に飛び込もうとしたが、ノゴには見抜かれていたようで、逆に強烈な蹴りを喰らってしまう。
今度は聖剣で防ぐ余裕もなく、土手っ腹に直撃だった。
内臓がひっくり返ったように錯覚するほどの衝撃と痛み。悲鳴すらも声にならなかった。
そのまま受け身も取れずに地面に倒れ込んだ香菜美の耳に、追い打ちで凶報が届く。
「城門が開いたぞ!」
「我々の勝利だ!」
獣人たちの歓声で香菜美は城門が突破されたのだと悟った。
「幕だ。勇者よ」
ノゴが戦斧を振り上げる。
振り下ろされれば、自分の首と胴は永遠に離れ離れになるだろう。
聖剣で防いでも、地面に倒れている今の状態ではそれごと押し込まれておしまいだ。
もう駄目だと思った香菜美だが、エノラや若い騎士たち、城下で出会った旅人の顔が浮かぶ。
自分が死んだら、彼らを守る者はいなくなる。
城門が破られた今、獣人たちは王都に雪崩れ込んでいるはず。
皆が死んでしまう。
駄目だ。
それだけは絶対にさせない!
香菜美はカッと目を見開き、思い切り横に転がって戦斧を躱した。
戦斧が叩き込まれた衝撃で捲れ上がった地面の土を掴み、ノゴの顔目掛けて投げつける。
小石混じりの土が勇者の力で放たれれば、それはさながらショットガンのような威力となる。
「ガッ!」
一瞬ノゴは目を瞑る。
それだけでも香菜美には十分だった。
戦斧を持つ右腕目掛けて聖剣を振り抜く。
聖剣はガントレットをあっさりと切り裂いてノゴの右腕に深々と食い込んだ。
完全に切断することはできなかったが、骨を断ち切ったようで、ノゴの右腕は大きく裂けてダラリと垂れ下がり、大量の血が流れ出ている。
「グガァァァアアア!!」
これまで余裕綽々だったノゴが初めて悲鳴を上げた。
「ノゴ将軍!?」
まだ周囲に残っていた獣人たちが驚きの声を上げる。
そしてノゴは血走った目で香菜美を睨みつけ、吼えながら禍々しい爪の付いた左腕を振るってくる。
「人間がぁぁぁあああっ!!」
だが、香菜美は避けずに逆に聖剣の刃を突き立てた。
指の間に見事に聖剣の刃が入り、骨の隙間を切り裂いてノゴの左腕を縦に両断した。
ノゴはなおも諦めずに大顎を開いて香菜美を噛み殺そうとしてくるが、香菜美は大きく開いた口目掛けて再び聖剣を振るった。
巨大な牙が聖剣に噛み付くが、聖剣は折れも砕けもせずにノゴの上顎を切り裂き、そのまま切り落としてしまった。
おまけに勢い余ってノゴの両目も潰していた。
ノゴが遂に大地に倒れ込んだ。
両腕とも使い物にならなくなり、視覚も失ってもはや戦うことはできない。
「馬鹿な馬鹿な馬鹿なぁぁぁ!この俺様が人間如きにぃぃぃ!」
ノゴは喚くが、もはや立ち上がることもできないようだった。
呆然とする獣人たちに向かって香菜美は宣言する。
「獅子将軍は倒れたわ!もう終わりよ!攻撃を止めなさい!!」
獣人たちは素直に従うことはなかったが、ノゴを倒した香菜美に恐れをなしたのか、その場から動かない。
「貴様らァァァ!許さんぞ!今更戦いを止めるなぞ許さん!逃げる者は一族郎党皆殺しだぞ!」
ノゴが倒れたまま獣人たちを脅迫するが、香菜美は聖剣を突き付ける。
「耳を傾けないで!ここでこれ以上戦っても得るものなんてないわ!こんな奴のために無駄に血を流さないで!」
獣人たちはなおも迷い、香菜美とノゴを交互に見ていたが、その中の一人──犬のような耳を持つ獣人が不意に遠吠えを上げた。
そして、響き渡る大声で命令を発した。
「全軍、退却だ!軍師グラスの命令である!勇者の気が変わらないうちに退却しろ!!」
その命令で獣人たちは遂に動き、その場から逃げ始めた。
仲間が退却して行くのに気付いて王都に入った獣人たちも大慌てで引き返して城門から出てくる。
香菜美は彼らに手を出さなかった。
獣人たちが残らず去った後、香菜美は急いで王都へと戻った。
そこに広がっていたのは、目を覆いたくなるほどの惨状だった。
広場は血に染まり、死体がそこら中に転がっていた。
死体は全て人間のもので、獣人のものは一つもなく、一方的な殺戮だったのは明らかだった。
香菜美は込み上げる吐き気を堪えながら、城へ向かって走った。
城門が破られた後、中にいた人々は城へ向かって逃げたはずだ。
彼らは、そしてエノラたちは無事なのか──一刻も早くそれが知りたかった。
血痕と死体があちこちに転がる大通りを走り抜けて、城を目にした香菜美は安堵の溜息を吐いた。
城の周りに家具や木材を積み上げて築かれたバリケードの向こうに避難民たちがいた。
「おい、勇者様だぞ」
「本当だ!勇者様だ!獅子将軍に勝ったんだ!」
「皆、勇者様が帰ってきたぞ!」
香菜美の姿を目にした避難民たちが盛大な歓声を上げる。
そして、彼らを掻き分けてエノラが姿を現した。
香菜美を見ると、目を潤ませて駆け寄ってきて、思い切り抱きしめてきた。
「カナミ様!よくぞご無事で」
「エノラ様こそ!間に合わなかったかと思って、私──うぁぁぁあああ!」
聖剣を放り捨ててエノラを抱きしめ返し、香菜美は号泣した。
エノラも嗚咽を漏らしながら香菜美に感謝を伝えてくる。
「本当に、本当にありがとうございます。カナミ様。貴女のおかげで私たちは命を救われました」
彼女の言葉が嬉しくて、でも多くの犠牲を出させてしまったのが悲しくて、香菜美は泣き続けた。
◇◇◇
戦いが終わってから一週間後。
王都では死体の回収と破壊された建物の瓦礫撤去が完了し、ようやく平穏が訪れていた。
香菜美も戦後処理を手伝っていたが、もう手伝えることもなくなり、当てもなく街中を歩いている。
「おお、勇者様」
「勇者様、ありがとうございます」
街の人々は以前とは打って変わって香菜美を見かけると口々に話しかけてくるようになった。
だが、香菜美の気分は晴れなかった。
笑顔を向け、頭を下げてくる彼らに軽く会釈だけして、通り過ぎる。
彼らの顔は今の香菜美には眩しかった。
そしてまた、いつの間にか人気のない路地に来ていた。
「勇者様」
懐かしい声に振り返ると、相変わらずシルクハットを被った旅人がそこにいた。
「またお会いできましたね」
「ええ、そうね。──この前の貴方の助言のおかげで、獣人たちの軍勢を追い返せたわ。ありがとう」
策を授けてくれた旅人にお礼を言うと、旅人は首を傾げる。
「その割には浮かない顔をしておいでですが──まだ、戦いの傷は癒えませんか?」
傷か。ノゴにやられた傷ならもう治っている。
勇者の力が宿った身体は回復も早いらしく、あれだけ痛かったのに翌日にはもうピンピンしていた。
でも、いくら回復力の高い身体になっても、心も同じようにすぐに治ってはくれなかった。
いや、むしろ日を追うごとに悪化している。
「私──やっぱり弱いままだなって。勇者の力が身体に宿って、魔法の武器を持って──それで強くなったって思ってた。でも、違った。本当に強い相手には私の力は通じなかった。それに私が苦戦していた間に横を通り抜けられて、なのに私は何もできなくて──そのせいで、大勢が──大勢の人たちが死んじゃった」
思い出して涙が出てくる。
犠牲を最小限にするために獅子将軍に挑んだのに、苦戦して逆に獅子将軍に釘付けにされ、その隙に城門の突破を許して自分が守らなければならなかった人々をむざむざ死なせた。
なのに失敗した自分が当然受けるべき罵倒も軽蔑もされなかった。
誰からも責められず、むしろ感謝されるというのは耐え難い苦しみだった。
「お労しい。何と申し上げたら良いか──私も胸が張り裂けそうな思いです」
旅人は帽子のつばを下ろして俯き、胸に手を当てて同情していた。
「もっと私に力があれば──あの獅子将軍をすぐに倒せるくらいの力があれば、皆死なずに済んだのに」
香菜美が自分を責めていると、旅人は「力、ですか」と呟き、ある話を聞かせてくる。
「アール王国の古都、今では廃都と呼ばれていますが、その神殿の地下に強力なアーティファクトが封印されているという言い伝えがあります。千年前に出現した魔王の腹心、吸血公が使っていた【赫き薔薇】と呼ばれる剣──傷を付けた相手から力を奪い、我が物とする権能を持っていたとか。吸血公を倒したかつての勇者によって魔王の軍勢との戦いに使われ、魔王が打ち倒された後は悪用を防ぐべく、特別な加護のかけられた神殿の地下深くの迷宮に封じられたそうです。そのため、今まで誰も見つけられませんでしたが──もし見つけられたならば、計り知れない力となるでしょう」
旅人の語った内容はおとぎ話そのものに聞こえた。
だが、聖なる鎧と聖剣、そして勇者の力だけでは獅子将軍一人倒すのにも大苦戦したのだ。
更なる力を手に入れられる可能性があるのなら、それに賭けてみる価値はあるのではないかと思った。
「獣人たちが立て直しのため去った今しか探すチャンスはないでしょう。勇者様さえよろしければ、私が廃都への道案内を致しますが?」
旅人の提案を、香菜美は受け入れることにした。
「行くわ。皆を守るにはもっと強い力が必要だもの」
「分かりました。
恭しく頭を下げる旅人。
だが、すぐには出発できない。
「ありがとう。でもその前に、エノ──女王様と相談してくるわね。黙って出て行くわけにはいかないから」
「では、準備ができたなら城門までお越しください。お待ちしております」
旅人の言葉に香菜美はようやく辛うじて笑顔を浮かべられた。
「ありがとう。旅人さん」
「いえいえ、勇者様のお力になれることは光栄なことです。礼など要りませんよ」
謙遜する旅人に香菜美は言った。
「香菜美よ。私の名前は香菜美。勇者様なんて柄じゃないから、名前で呼んでよ」
「──そうですか。では、カナミ様とお呼びしましょう」
「もう、どうして皆『様』を付けるのよ」
頬を膨らませる香菜美だが、さっきよりも心が軽くなっているのを感じていた。
頑張ろう。
失われた人の命はもう戻らないけれど、これ以上失われないようにしなければ。
そう香菜美は固く決意した。
◇◇◇
魔王城。
玉座に座る魔王【ゴリウス】の眼前にノゴが引き立てられてくる。
戦いの後、戦場に置き去りにされていたノゴだったが、香菜美が王都に戻った後にグラスたちによって救出されていた。
そして敗軍の将として責任を取らされるためにここへ運び込まれたのである。
「失敗したな。ノゴよ」
ゴリウスが目を細めて言うと、ノゴは頭を垂れる。
「申し開きは致しませぬ、魔王様。勇者の力を見くびったが故にこのような有様。面目次第もない」
「勇者だと?──そうか、遂に勇者を召喚したか」
ゴリウスは勇者という言葉を聞いても慌てなかった。むしろ愉快そうに目を弓形にしならせる。
過去何度も勇者によって倒されてきたにも拘らず、である。
それを見たノゴが一つの願いを口にした。
「魔王様。このノゴ、如何なる裁きも甘んじて受ける覚悟ですが──もし、生かし置きくださるのであれば、今度こそ勇者をこの手で叩き潰してご覧に入れます。どうか、今一度そのお力をお与えください」
その願いに込められた意味をゴリウスはすぐに看破する。
「ほう?屈辱を晴らしたいのか?」
「仰せの通り。このような姿にされた挙句に捨て置かれ、この上ない生き恥を晒しました。これを雪がないことには死んでも死に切れませぬ!」
奥歯を噛み締めるノゴを見て、ゴリウスは興が乗った。
「よかろう。ノゴ、お前にもう一度だけチャンスをやろう」
ノゴの足元から黒い炎が燃え上がり、彼の全身を包み込む。
炎が消えた後には傷が治ったノゴがいた。
両腕も、上顎も、両目も元通り。
だが、たてがみがドス黒く染まり、爪や牙が以前よりも大きくなっていた。
「おお、感謝します!魔王様」
「行け。忌まわしき勇者を打ち倒すのだ」
「ははっ!」
跪き、そして喜び勇んで駆け出していくノゴを見て、ゴリウスは満足げに笑った。
「精々私を楽しませてくれよ。あまり下らないものを見せてくれたら、お前たちを殺して全てを滅ぼしてしまうからな」
ゴリウスの独り言は誰にも聞かれることなく、駄々っ広い玉座の間に溶けていった。