※この作品はR-18です。

裏短編置き場   作:鈴名ひまり

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決断 ──香菜美転生 Ⅱ──

「本気ですか、カナミ様」

 

 香菜美から相談を受けたエノラは心底驚いた顔をする。

 

「確かにそのような言い伝えがあるのは事実です。ですが、廃都は極めて危険な場所です。千年間人が住んでおらず、大半が水に沈み、恐ろしい魔物が棲みついているそうです。そのような場所に行くのは──」

「今の私じゃ獅子将軍一人倒すのも大変なの。もっと強い力を手に入れないと魔王を倒すどころか、皆を守ることもできない。私はもうあんな光景は見たくないの」

 

 香菜美の切羽詰まった様子を見て、エノラは説得は無理だと理解したようだった。

 

 ただ、香菜美を一人で行かせるつもりもなかった。

 

「カナミ様、でしたらせめて従者をお付け致します。どうか、それだけはさせてください」

 

 そのエノラの言葉を香菜美は受け入れた。

 

 ほどなく、香菜美の従者に志願した騎士の中から特に屈強な二人が選ばれ、香菜美の下へ連れてこられた。

 

「ジンと申します」

「私はラゾと申します」

 

 二人の若者が香菜美を前に首を垂れる。

 ジンの方は槍と短剣を、ラゾの方は弓矢と斧を装備し、鎖帷子と鉄兜を纏っている。

 

 その二人の顔に香菜美は見覚えがあった。

 

 最初の夜戦で城壁の上で戦っていた兵士だ。

 

「貴方たち、生きていたのね」

「ええ、カナミ様が来てくださったおかげで命拾いしました」

「今ではもうすっかり回復しております。ご安心ください」

 

 香菜美はその言葉に複雑な思いを抱く。

 自分の力で助けられた人がいたことは嬉しいが、彼らは戦えなくなった獣人たちをリンチした者たちでもある。

 あの光景はまだ頭から離れない。

 

 だが、かといって断ることはできなかった。

 

 実際長旅にはどうしても人手が要ることもあるだろう。

 

 だから、笑顔を浮かべて彼らを迎え入れる。

 

「そうか。二人ともよろしくね」

 

 そして、いざ出発となるとエノラは直々に城の門まで見送りに来た。

 

「ご武運を、カナミ様」

「エノラ様たちこそ元気でね」

 

 手を振ってエノラたちと別れ、城壁の門まで行くと、そこに旅人はいた。

 

「準備は整ったようですね」

 

 旅人の言葉に香菜美は頷く。

 

 ジンとラゾは明らかに旅人を怪しんでいたが、香菜美に逆らうつもりもなかったのか、何も言わなかった。

 

「では、参りましょうか」

 

 旅人と共に香菜美は城壁の外へと歩き出した。

 

 

◇◇◇

 

 

 廃都までの道中は驚くほど穏やかだった。

 

 魔物や盗賊の襲撃もなく、途中で立ち寄った村々には動くものすら見えなかった。

 荒らされ、奪われ、人々とその営みの全てが死に尽くした荒野と廃墟がそこには広がっていた。

 中にはつい最近荒らされた──つまり香菜美によって撃退された獣人軍が帰り道に掠奪したと思しき場所さえあった。

 

 それらを見る度に香菜美は激しい怒りを抱いた。

 

「退却中に食料が尽きたのでしょうね。せっかくカナミ様が慈悲をかけられたというのに──度し難い連中です」

 

 旅人が帽子を目深にして嘆く。

 

 その言葉を聞いて香菜美は自責の念を強めてしまう。

 

(私が間違っていたのかな。私があいつらを見逃したから、この村の人たちは──)

 

 獅子将軍にトドメを刺せず、逃げていく獣人軍をただ見送って、その後を監視することも掠奪を禁じることもしなかった。

 敵とはいえ、無駄な血を流させないために追い払うに留めたのが仇になったのか。

 

 そんな考えが香菜美の胸の中で大きくなっていく。

 

 旅人はそんな香菜美を気遣ってか、特に何か言ってくることはなかった。

 

 それでも、香菜美は自分が旅人や従者たちから無言で責められているように感じて仕方がなかった。

 

 絶対に目的のアーティファクトを手に入れる。

 そして魔王と相対した時は躊躇なく倒す。

 

 何度もその決意を自分に言い聞かせて、香菜美は歩みを進めた。

 

 

◇◇◇

 

 

 そして一ヶ月が経ち、遂に香菜美たちは廃都に辿り着いた。

 

 殆どが水没して巨大な湖になっているが、巨大な城や中央の小高い丘に建つ神殿がまだ水面上に顔を出している。

 ただ、岸辺からはかなり距離があり、泳いで行くことはできなさそうだった。

 

「舟が必要ですね」

 

 旅人が周囲を見やり、一本の木を指差した。

 

「カナミ様、あの木を切り倒してください。あれで私が丸木舟を作ります」

「分かったわ」

 

 半信半疑ながらも、香菜美は聖剣を振るい、木を根本から切り倒した。

 更に旅人の指示で枝を払い、樹皮を剥ぎ、半分ほどの範囲に泥を塗った。

 

 そして旅人が泥を塗っていない箇所で火を焚き、焦げたところを削り取っていく。

 

 丸一日で切り倒した木は立派な丸木舟へと変わっていた。

 

 落とした枝を削ってオールにし、ジンとラゾを漕ぎ手にして、香菜美たちは神殿目指して漕ぎ出した。

 

「気を付けてください。この水の中には魔物が棲みついています。動くものがあったらすぐに戦う準備をお願いします」

 

 旅人はそう言って水中に目を凝らしている。

 

 香菜美も見張りのために水面を覗き込むと、驚くほど透き通った水の中に沈んだ無数の建物が見えた。

 

 だが、その中に微かに赤い靄のようなものが混じり始める。

 

「カナミ様!あれは──」

 

 ジンが指差す方を見ると、神殿の方から赤い液体が流れ出ている。

 

「妙ですね。あのようなものは見たことが──まさか!」

 

 旅人がジンたちに指示して神殿の周りをぐるりと大回りさせた。

 

「あれは──巣食っていた水竜!なぜここに」

 

 旅人が見つめる先には巨大な蛇のような生き物の骸が浮かんでいた。

 

 身体中に何か巨大な刃物で切り裂かれたような痕があり、喉首は食いちぎられていた。

 

「何?何なの?」

「──カナミ様、お気を付けください。どうやらこの神殿には先客がいます。それもかなり手強い奴です」

 

 旅人が冷や汗を浮かべる。

 

 だが、今更怖気付いて引き返すことはできなかった。

 

「そいつの狙いが私たちと同じなら、絶対にそいつの手に渡すわけにはいかないわ。行きましょう」

 

 足が笑っているように感じつつも、香菜美は努めて一行を鼓舞する。

 

「当然です。カナミ様」

「我らのことはご心配なく。どんな奴だろうと我々は一歩も引きません!」

 

 ジンとラゾが力強く応えてくれた。

 

 やがて舟が神殿に着き、旅人が生えていた木にもやい綱をかけた。

 

 従者たちに手を借りて香菜美も上陸すると、旅人の案内に従って建物の方へと進んでいく。

 

 破壊された扉から神殿の中に入ると、旅人が手がかりを見つけた。

 

「これは──まだ新しい」

 

 それは神殿の床に積もった埃に残った足跡だった。

 

 車のタイヤほどはあろうかという大きさで、埃の下から覗く床がひび割れている。

 

 香菜美はその異形の足跡を見て思わず生唾を呑み込んだ。

 

「こっちです。祭壇の裏に地下への入り口があります」

 

 旅人が足跡の向かう先を特定すると、松明を灯した。

 

 先頭に立って地下へと続く石の階段を降りていく旅人。

 

 その後ろにジンが続き、その後ろに香菜美、殿にラゾが就く。

 

 足音を殺して降りていくに連れ、地下特有の湿気とカビ臭さが鼻をつき、空気が重く肺にまとわりつくような感覚がしてくる。

 

 やがて階段が終わり、微かな光の漏れる通路が目の前に現れる。

 

 通路の奥は何かの照明が灯っているようだ。

 

「行きましょう」

 

 香菜美の号令に全員が頷き、通路へと足を踏み入れる。

 

 手にした松明がチリチリと燃え、オレンジ色の光が石壁に揺らめく影を投げかける。

 

 よく見ると、壁にはレリーフが彫られていた。

 獣人や魔物と人間の戦いを描いたもののようだが、相当古い。

 そんな昔から延々と争いを続けてきたのかと香菜美は眉をひそめる。

 

 不意に旅人が突然立ち止まり、片手を上げて一行を制した。

 

「聞こえますか?」

 

 彼の声は囁きに近く、緊張が滲んでいた。

 

 香菜美は耳を澄ませた。

 最初は自分の鼓動だけが響いているように思えたが、次第にそれが聞こえてきた。

 

 遠くから響く、低く唸るような音。

 獣の息遣いか、それとも地面を擦る何かの尾か。

 

 音は一瞬途切れ、再び近づいてくる。

 

 ジンが槍を握り直し、ラゾが小さく息を呑む。

 

 香菜美の背筋に冷たい汗が伝った。

 

 さっきよりもはっきり明るく見える通路出口のその先で、何かが蠢いている。足跡の主がそこにいる。

 

 突然獣の咆哮のような轟音が響き渡り、続いて怒鳴り声が響く。

 

「糞が!なぜ抜けぬ!」

 

 篝火に囲まれた祭壇に突き刺さった大剣を引き抜こうとする魔物がそこにいた。

 

(獅子将軍!?──違う。もっと恐ろしい──)

 

 たてがみを持つ姿を見て一瞬ノゴかと思った香菜美だったが、特徴があまりにも違うため、別人だと判断した。

 

 篝火に照らされた巨体は以前よりも一回り大きく、たてがみはドス黒く、手足は不気味なほど太く肥大化し、その先端の爪は禍々しい。

 

 そして一息吐いた魔物は大剣を抜くことを諦めてこちらを振り向いた。

 

 濁った黄色に光る双眸が香菜美を捉える。

 

「来おったな小娘」

 

 地下の空気が一瞬にして凍りついた。

 

 その声と香菜美への呼びかけ──それだけで正体は分かった。

 

 王都での戦いで一対一の決闘で辛くも打ち倒した魔王四天王の一角── 獅子将軍【ノゴ】だ。

 

 戦いの後、ノゴの姿は見つからず、獣人軍と共に逃げたと思われていた。

 だが、両腕と両目を使い物にならなくしたため、もう戦えないことは確実だったはずだ。

 

 それなのに、彼は今ここにいる。

 

「ありえない──カナミ様が倒したはずだ!」

 

 ジンが声を震わせながら槍を構えた。

 

 ラゾも無言で弓に矢をつがえ、香菜美の前に立つ。

 

 だが、香菜美の目はノゴから離れなかった。

 あの戦いの記憶が脳裏をよぎる。城壁の上で戦っていた兵士たちをはじめ、あまりにも多くの犠牲を払い、死に物狂いで倒した。

 

 なのに、なぜここにいる?

 

「カナミ様、お気を付けください。あの魔物はおそらく魔王から新たに力を与えられています」

 

 旅人が低い声で警告してくる。

 

「ほう、人間にしては察しが良い。魔王様はこの俺様に恥を雪ぐ機会を与えてくださった!この前から俺様の力は倍に増えていると知れ!」

 

 ノゴは旅人の分析に得意げに吠えた。

 

 だが、香菜美も腹を括り、負けじと言い返した。

 

「私だって、この前の私じゃないわよ!今度こそアンタをきっちり倒してあげるわ!」

「いい気になるなよ人間風情が!お前ら如きに赫き薔薇は渡さぬ!」

 

 咆哮と共にノゴが動いた。

 前回よりも巨大化しているにも関わらず、前回よりもそのスピードは速い。

 

 剛腕の爪が香菜美を狙って振り下ろされる。

 

 香菜美は咄嗟に横に飛び、地面を転がってかわすが、爪が石壁を抉り、爆音とともに破片が飛び散った。

 

 ジンが叫び声を上げて槍を突き刺そうと突進するが、ノゴの尾が鞭のようにしなり、彼を吹き飛ばす。

 

 彼の体が壁に叩きつけられ、呻き声を上げて倒れた。

 

「ジン!」

 

  ラゾが叫ぶが、すぐに獅子将軍に向き直り、その目に矢を射かけた。

 

 だが、ノゴが僅かに頭を傾けると、矢は硬い毛皮に弾かれ、地面に落ちてしまう。

 

「その程度の弱弓でこの俺様を貫けると思ったか!」

 

 ノゴが抉れた石畳の破片をごっそりと攫い、ラゾ目掛けて投げつける。

 

 ショットガンどころかキャニスター弾のような威力の石礫がラゾに殺到するが、香菜美が間一髪でラゾを突き飛ばして救った。

 

 代わりに香菜美に石礫がいくつか直撃し、凄まじい衝撃が彼女を襲う。

 

 聖なる鎧を身に着けていてこれだ。

 普通の鎧なら木っ端微塵に弾け飛んでいるに違いない。

 

「ふん、弱虫を庇うとはな。やはり貴様には勇者の名は過ぎたものよ!」

 

 ノゴがいつの間にか手にした巨大な戦斧を振り下ろす。

 

 聖剣で受け流そうとするが、速度と威力に押され、地面に叩き付けられる。

 聖なる鎧が軋み、衝撃が全身を貫く。

 

「カナミ様!」

 

 ラゾの叫びで辛うじて意識を保った香菜美は、次の一撃が来る前に立ち上がり、その場を逃げ出す。

 

「勇者が背を向けて逃げるな!」

 

 背後からノゴの戦斧が迫る。

 

 直感で横に跳んで躱したが、ノゴは地面に突き刺さった戦斧を横薙ぎに振るい、地面を削って土煙と破片を巻き上げた。

 

 一瞬視界が奪われ、続いて戦斧の腹が香菜美の脇腹を直撃した。

 

「ぐぁあああッ!」

 

 体内の空気が強制的に押し出され、肺が潰れたかと思った。

 

「カナミ様!このォッ!」

 

 吹っ飛ばされた香菜美を見てジンが叫び、ラゾが矢を射かける。

 

 だが、ノゴは意にも介さずにまっすぐに香菜美の方へと向かってくる。

 

 一刻も早く立ち上がらなければいけないのに、平衡感覚が麻痺してうまくいかない。

 直撃を受けた左腕は感覚がなく、全く動かせない。

 

「カナミ様に近づくな!」

 

 ジンがよろめきながら槍を手に突撃するが、戦斧の一撃で軽く払い除けられ、槍を折られてしまった。

 

 だが、ジンはノゴの足にタックルし、折れた槍を突き立ててしがみつく。

 それもノゴが足を振っただけで振り落とされてしまったが、時間稼ぎとしては十分だった。

 

 ようやく平衡感覚が戻ってきて、香菜美は歯を食いしばり、聖剣を握り直して立ち上がる。

 

 ジン目掛けて振り下ろされた戦斧を横から叩きつけ、軌道を逸らす。

 

 間髪入れずにジンを抱えて跳び退がり、横薙ぎに振るわれた戦斧を躱して射程外へ逃れる。

 

「ラゾさん!ジンさんをお願い!」

 

 ノゴに追いつかれる前に、香菜美はジンの身体を隠れていたラゾの方へと放り投げた。

 

 直後に戦斧が香菜美の脳天目掛けて振り下ろされる。

 

 すんでのところで振り向いて受け流したが、それでも衝撃は殺し切れない。

 

 火花が飛び散り、聖剣が震えた。

 

 その一瞬が致命的だった。

 

 兜を掴まれ、身体が宙に浮く。

 握り潰されるかと思ったが、ノゴは香菜美の身体を石畳に叩きつけた。

 

 何度も何度も、明らかに死なせずに痛めつけるために加減して。

 

 それでも衝撃で脳が揺れ、骨が外れ、内臓が引っくり返る。

 

 息も絶え絶えになった香菜美にノゴが宣告する。

 

「これから身体を切り刻んでやるが、気絶したりせずにしっかりと起きておれ。俺様が味わった苦痛を噛み締めてから死ぬのだ」

 

 そしてノゴが戦斧を大きく振りかぶる。

 

「カナミ様──!」

「駄目だ!やめろ!やめてくれ!」

 

 ジンとラゾがまたノゴに立ち向かうが、やはりあっさりと払い除けられてしまった。

 

 もう駄目だ。

 

 私はここで死ぬ。

 

 結局何も守れないまま。

 

 エノラ様、ジンさん、ラゾさん、旅人さん、王国の皆──ごめんなさい。

 

 そう思った時、旅人の声が響いた。

 

「カナミ様!目を閉じて!」

 

 彼女が反射的に目を閉じた瞬間。

 

「なッ!?何奴!」

 

 ノゴが初めて苦悶の声を上げる。

 

 見ると、ノゴは目を抑え、巨体がよろめいていた。

 

 そのすぐそばを眩い光の筋が走っている。

 

「今です!」

 

 旅人の叫びに、香菜美は何が起こっているのか分からないまま、それでも力を振り絞って立ち上がる。

 

 幸い、まだ聖剣を持つ右腕は動く。

 

 まだ目を抑えているノゴの側面に回り、脇の下目掛けて聖剣を思い切り突き刺す。

 

 今度こそ、迷いはない。

 殺された王都の住民たち、掠奪され尽くした名も知らない村々の人々、そして平和と民の安寧を一心に願っていたエノラのために、迷うことは許されなかった。

 

 聖剣は香菜美の想いに応えたのか、白い光を放ち、深々とノゴの脇腹を貫いた。赤黒い血が噴き出し、ノゴが咆哮を上げる。

 

 すぐに剛腕が振るわれ、香菜美は聖剣ごと吹っ飛ばされたが、確かに致命傷を負わせた手応えを感じた。

 

 実際、ノゴは大量に血を吐いて明らかに苦しんでいた。

 

 やがて戦斧が力なく地面に落ち、鈍い音が響き渡る。

 

 ノゴは遂に倒れ、巨体を地面に横たえた。

 

 だが、血に染まった巨大な口が歪み、嗄れた声が響き出す。

 

「穢らわしい人間共め──お前たちに安息など未来永劫訪れるものか。俺様は死しても──この魂が朽ち果て、肉が灰となっても、お前たち人間が一人残らず死に絶えるまで、呪い続けてやる」

 

 ノゴの声は弱まりながらも、執拗に言葉を紡ぎ続ける。

 

 香菜美は何か言い返す気力もなく、聖剣を握り締め、息を切らして見つめることしかできない。

 

 ノゴの目が一瞬輝き、嘲笑がその顔に浮かぶ。

 

「くくく、俺様が何もできぬと思っておるな?この島は既に我が獣人軍に囲まれている。お前たちがここで俺と戦っている間に、奴らは湖を渡り、鉄の網を張り巡らせ、逃げ道を塞いだ。お前も、お前のお仲間も皆等しく獣の牙に引き裂かれる運命だ、勇者よ。聞こえるか?遠くで響く我が軍の咆哮が──この地下から這い上がったところで、待つのは死と絶望だけ──精々無駄な足掻きを重ね、恐怖に震えながら死んでいくがいい。お前たちの血が大地を染め、肉が獣の腹を満たすその日を、俺は死の彼方から見物してやる──」

 

 ノゴの声が嗤いに変わる。

 

 低く、喉の奥から絞り出すような笑い声が地下に反響し、香菜美の耳に突き刺さる。

 

「苦しめ──苦しみ抜いて、泣き叫びながら死ぬがいい──その顔を、俺は忘れん──その顔を永劫に嘲笑い続けてやる──ハハ──ハハハ──」

 

 笑い声が次第に途切れ、目が光を失う。

 

 ノゴは動かなくなったが、その最後の言葉は香菜美の心に重くのしかかった。

 

 どっと疲れが襲ってきて、香菜美はその場にへたり込んだ。

 

「カナミ様、大丈夫ですか!?」

 

 旅人が駆け寄ってくる。

 

「ええ──何とかね」

「──酷い怪我ですね。すぐに手当てをします」

 

 旅人が雑嚢から軟膏の瓶と薬草を取り出した。

 

「痛みますよ」

 

 旅人がそう言って外れた左肩と左腕をはめ直す。

 

「いたっ!うぅ──!!」

 

 激痛に思わず香菜美は呻いた。

 

「カナミ様!お気を確かに!ほら、水を!」

「勝利です!カナミ様は獅子将軍を倒されました!こんな所で死にはしません!」

 

 ジンとラゾが駆け寄ってきて懸命に香菜美を励ます。

 

「二人とも──無事で良かった」

 

 ジンが差し出してきた水を飲んでようやくひと心地ついた香菜美は、辛うじてそれだけ口にした。

 

 火照っていた身体は水で落ち着いたが、代わりにどんどん怠くなり、眠気が襲ってくる。

 

「しっかり!意識を保ってください!」

 

 旅人が聖なる鎧を脱がし、傷に軟膏と薬草を塗り始める。

 

 彼の呼びかけに香菜美はそういえば、と思い出した疑問をぶつけてみる。

 

 ノゴの目を潰したあの光の筋は何なのだろう。

 

「ねぇ、そういえばあの光は何なの?あれで目眩し、したんだよね?」

「ええ、この空間は封印のための場ですから、封印の儀式に使う祭具が残っておりました。その祭具を使って篝火の光を集め、奴が油断した隙を狙って照らしたのです」

 

 旅人が示した方向を見ると、確かに無数の小さな鏡を貼り付けたパラボラアンテナのようなものがいくつもあった。

 その一つがノゴの目を潰したようだ。

 

「そっか──おかげで助かったわ。ありがとう」

「いえ、戦えない私にできる精一杯の賭けでした。成功したのは奇跡ですよ」

 

 旅人は謙遜するが、彼の機転がなければ間違いなく全滅していただろう。

 そう思うと、感謝してもし切れない。

 

「取り敢えず血は止まりました。立てそうですか?」

「ええ」

 

 先程まで感じていた眠気はいくらかマシになり、香菜美はどうにか立ち上がった。

 

「時間がありません。奴の言ったことが本当なら、じきにここに獣人軍が突入してきます。その前にあの剣を抜いて逃げませんと」

 

 旅人が指差した先にはノゴが引き抜こうとしていた深紅の刃を持つ大剣。

 

「あれが──赫き薔薇?」

「ええ。そうでしょう。奴もそう言っておりました」

 

 祭壇に突き刺さった赫き薔薇の前に立つと、足元が白く光り始める。

 

「これは──魔法陣!?」

「こんな複雑なもの、見たことがありません」

 

 ジンとラゾが驚きの声を上げる。

 

「伝承の通りですね。これを作ったのは千年前の勇者です。香菜美様の力に反応したのでしょう」

 

 旅人の言葉通り、白く輝く魔法陣はカラクリ仕掛けのように動き、少しずつ消えていく。

 

 完全に光が消えた時、香菜美は何故か赫き薔薇が抜けると確信した。

 

 怪力のノゴが引き抜こうとしても抜けなかった大剣が、すんなりと抜けて香菜美の手に収まる。

 

 一瞬悍ましい気配に寒気がしたが、すぐに嘘のように手に馴染んだ。

 

 旅の目的だった赫き薔薇を、手に入れた。

 

「やりましたね。カナミ様」

 

 旅人が笑顔で祝福するが、香菜美はどこかやり遂げたという感じがしなかった。

 

 確かに目的は果たした。

 これで今までよりも強い力を手に入れたはずだ。

 だが、何か引っかかる。

 

 先程一瞬感じた悍ましい気配──自分はとんでもないものを解き放ってしまったのではないか──そんな気がする。

 

「さ、急いでここを離れましょう。長居は無用です」

 

 旅人に急かされ、考え込んでいた香菜美は我に返った。

 

 どうかしている。

 ノゴすら倒すのに苦労する自分が魔王など倒せるはずがないから、力を求めてここに来たのだ。

 これも皆を守るため。

 魔王を倒して平和を取り戻すためだ。

 迷うことなんてないはずだ。

 

 香菜美は聖剣を鞘にしまい、赫き薔薇を手に歩き出す。

 

 

 

 地上に出た瞬間、目にしたのはクロスボウの鏃だった。

 

「動くな!武器を捨てて──ギャッ!」

 

 クロスボウを突きつける獣人が言い終わるよりも早く、香菜美は赫き薔薇を振るってクロスボウを破壊した。

 

「貴方たちこそ武器を捨てて退きなさい!獅子将軍は今度こそ私が討ち取ったわ!」

 

 香菜美が叫ぶと、獣人たちは目の色を変えた。

 

「獅子将軍の仇!」

「死ね!」

 

 激昂した獣人たちは剣や斧で襲いかかってくるが、その全てが香菜美にはスローモーションに見えた。

 更に彼らの武器を弾けば、武器ごと吹っ飛んでいく。

 ノゴとは比べるべくもなかった。

 

 赫き薔薇と聖剣の二刀を振り回して香菜美は道を切り開く。

 

「カナミ様に続け!」

「おう!カナミ様、無理はなさらないでください!」

 

 ジンとラゾ、旅人は香菜美の後ろをぴったりついて来ていた。

 

 皮肉なことに香菜美が疲弊して動きが鈍っていることで、彼らが追従できていた。

 

 だが、獣人たちは数が多く、包囲は分厚かった。

 

 前衛を突破したかと思えば、見るからに屈強な熊のような姿の獣人がずらりと並んで待ち構えていた。

 

 ノゴほどではないが、かなり大柄で、無骨なガントレットを装着した太い腕の先端には禍々しい鉤爪が光る。

 

 一目で先ほどの獣人より強いと分かるが、怯んで足を止めることはできなかった。

 

 熊の獣人たちが咆哮を上げて一斉に振り下ろしてきた鉤爪を、香菜美はどうにか二刀で斬り払う。

 

 今度は相手が重量級のせいか、吹っ飛ばすことはできずに少しよろめいただけだったが──次の瞬間異変が起こった。

 

「なっ!何だこれは!?ぎゃあああ!!」

 

 赫き薔薇に切り裂かれた獣人の指先から棘だらけの赤黒い植物の蔓のようなものが伸びて、たちまちその身体を覆い尽くしていく。

 

 そして蔓からは無数の赤黒い薔薇が花開き、花弁の隙間から血が滴り落ちる。

 

 禍々しく濡れた花が咲く度に獣人は苦痛に泣き叫ぶが、段々とその叫びは弱々しくなっていく。

 

 それに反比例するかのように香菜美は力が漲ってくるのを感じた。

 

(何──これ?これがこの剣の力なの──?)

 

 傷を付けた相手から力を奪い、我が物とする権能──実際に見るそれはあまりにも悍ましいものだった。

 

 やがて力を吸い尽くしたのか、薔薇の花が萎れて落ちていくが、露わになった獣人の身体は腐って溶け落ちていた。

 

 それを見た獣人たちはかつてないほどの殺気を纏う。

 

「殺せ!」

「その剣を勇者の手に渡すな!」

 

 先程にも増して戦意を滾らせて襲いかかってくる獣人たちを、香菜美は必死で防ぐ。

 

 自信を狙う者たちだけでなく、ジンとラゾと旅人を人質にしようと狙う者もいる。

 

 前に後ろに左に右にと香菜美は目まぐるしく動き回った。

 

 なるべく聖剣を使い、赫き薔薇で傷を付けないようにはしたが、それでもやむを得ずに何人かは斬ってしまう。

 

 その度に花に覆われて惨たらしく死んでいき、香菜美の力となる。

 

 いつの間にかノゴとの戦いで負った怪我の痛みも疲れも消え去り、代わりに興奮が湧き起こる。

 

(いける!このまま突破し続けて── 皆殺しも ──)

 

 自分の思考に不穏なものが混じったことにも気付かず、香菜美は鬨の声を上げて突撃する。

 

「ヤァァァアアアアア!!」

 

 それはまさに暴威と呼ぶに相応しい力だった。

 

 剣が振るわれる度に獣人たちの手足が斬り飛ばされ、その半分近くが深紅の花を纏って地面に落ちる前に腐り果てていく。

 

 地面には萎れた花に覆われた腐乱死体がいくつも転がり、腐臭が戦場に充満する。

 

 さしもの獣人たちにも恐怖が広がっていく。

 怒りと敵意に染まっていた顔が次第に蒼白になっていく。

 

 やがて、挑んでくる者はいなくなった。

 

「まだやるつもり?」

 

 香菜美は自分でもゾッとするほど冷たい声で問いかけた。

 

 獣人たちが身体を震わせて後退る。

 

 そのまま退くかに思われたが、彼らの頭上を飛び越えて一人の獣人が香菜美の前に躍り出た。

 

「わ、私は狼族最強の戦士グラスの娘、チノ!お、お前は私が相手をする!」

 

 チノと名乗ったその獣人は香菜美よりも年下にも見えた。

 

 滾っていた激情が急速に冷やされ、胸がムカムカし始める。

 

 こんな小さい子相手に刃を振るうなんてできない。

 

「何を言っているの?やめてよ。さっさと退きなさいよ。でないと皆死ぬわよ!」

 

 どうか恐れをなして退いてくれと願いながら、香菜美は脅しの言葉を口にする。

 

 だが、チノには届かなかった。

 

「ば、馬鹿にするな!獅子将軍と仲間たちの仇、この私が取ってみせる!」

 

 そう叫んで、チノは打ちかかってくる。

 

(ッ!速い!)

 

 ノゴほどではないが、かなりの素早さで、香菜美は驚いた。

 

 煌びやかな装飾の付いた槍が突き出され、香菜美の首を掠める。

 

 素早く聖剣で槍を払い除けるが、チノを吹っ飛ばすことはできず、槍も壊れなかった。

 

 槍を弾かれたチノはその勢いのままに打撃を繰り出し、躱しても次々に刺突や打撃を絶え間なく浴びせてくる。

 

 だが、それでも反応できないほどのものではなく、香菜美はその全てを躱し、受け流し、弾き返した。

 

「このっ!このっ!」

 

 チノは必死に食らいついてくるが、その刃は香菜美に届かない。

 

 一方で、香菜美も決め手を欠いていた。

 武器を操る技術はチノの方が上だが、勇者の力で見切ることはできる。

 速さと膂力はほぼ互角。攻撃を防ぐことはできても、攻撃に転じるのが難しい。

 

 それに、チノを傷つけたくないという気持ちが思い切った攻撃を難しくしていた。

 

「くっ、これが勇者の力──」

 

 崩せない香菜美の守りにチノは歯噛みする。

 

「そうよ。貴女に私は倒せない。こんなこともうやめて!」

 

 香菜美が頼み込んでもまだチノは動かずにこちらを睨みつけていたが、不意に獣人たちの後方から狼のような遠吠えが響く。

 

「立て直す!退け!」

 

 その命令に獣人たちは一斉に脱兎のごとく逃げ出した。

 

 その様を見てチノは目を見開き、狼狽する。

 

「なっ!?おい、まだ戦いは──くっ、ひとまず今回はお預けだ!次に会う時は必ずお前を倒す!首を洗って待っていろ!」

 

 悔しげに香菜美に槍を突きつけて、チノも退却していく。

 

 程なく、獣人軍は舟に乗って島を離れた。

 

 香菜美は大きく安堵の息を吐く。

 これでやっと危機は去った。

 

 そう思った直後、不意に強烈な倦怠感が襲ってきて、香菜美は双剣を取り落とした。

 

「カナミ様!」

「どうされましたか?」

 

 ジンとラゾが駆け寄ってくる。

 

 彼らが差し出した水を飲んでも、倦怠感は治らない。

 

「分からないわ──さっきまで凄い力があったはずなのに──」

 

 倦怠感はすぐに眠気に変わり、瞼が下がっていく。

 

「きっと張り詰めておられたのですね。安全な所に運びましょう。休息が必要です」

 

 旅人の言葉で、ジンとラゾが香菜美の肩を支えて運び始める。

 

 遠くなっていく意識の中で誰かが呟いたような気がした。

 

「血を」

 

 ──と。

 

 

◇◇◇

 

 

「香菜美、もう泣くな」

 

 優しい声が耳を包む。

 

「──うん」

 

 そう言って涙を拭うが、拭った側からまた溢れてくる。

 

 さっきまで怖い顔をしていた父にいつもの優しさが戻ってきたことに安堵して。

 

 そして、もういないはずの父に抱っこされているという状況から、これが夢だと分かった。

 

 随分と懐かしい時代の夢だ。

 

 幼稚園でおままごとの配役を巡って喧嘩になり、相手の子の頭を引っ叩いて、相手の家まで謝りに行った時のことだ。

 

 父が必死に頭を下げているのを見て、やっと自分がしでかしたことの重大さに気付き、わんわん泣いた。

 

 泣き疲れて歩けなくなった香菜美を父は抱っこして帰ってくれた。

 

「ごめんなさい──お父さん」

 

 お願いだからこの夢まだ覚めないでと願いながら、香菜美は父に抱きついた。

 

「香菜美、お前は優しい子になれ。他の子を泣かせたりしない、優しい子になるんだ」

「うん、なる。絶対になるから──」

「いい子だ」

 

 父の手が香菜美の頭を優しく撫でる。

 

 

 

「──ミ様!カナミ様!」

 

 必死なのがありありと分かる呼び声で、香菜美は目を覚ました。

 

「目を覚まされたぞ!」

「よかった!カナミ様!僕が分かりますか?」

 

 こちらを覗き込むジンとラゾの顔を見て、香菜美は現実に引き戻される。

 

「ええ、ジンさんとラゾさんだよね。もう大丈夫よ。ありがとう」

 

 身体の怠さはなくなり、普通に起き上がれるようになっていた。

 

「ここは?」

「神殿の中庭跡です。戦いの後カナミ様が倒れられたので、安全な所で休んでいただくためにお運びしました」

 

 見ると、周囲は草が生い茂り、所々に砕けた彫刻のようなものが立っていた。

 

「そうなのね。ごめんなさい、最後急に倒れちゃって」

 

 自分が眠っている間にもし獣人軍が戻ってきていたら、一巻の終わりだった。

 

「何を仰います。僕たちは戦いでは全然カナミ様の力になれませんでした。このくらいは当然です」

「そうですよ。遠慮なく頼ってください」

 

 気持ちは嬉しいが、やはり自責の念はなくならない。

 

「そういえば、旅人さんは?」

「あの方なら舟の修理をしてくれています。獣人たちが置き忘れていった舟がいくつかありまして。それで岸に戻れます」

「そう──王都の皆は大丈夫かしら?」

 

 アール王国の外へ退いていったはずの獣人軍と獅子将軍が、ここで自分たちを待ち構えていた。

 

 ということは、敵はまだアール王国から出ていないか、一旦は出たがまた戻ってきたということ。

 撃退した敵が王都に向かっていないか、気になる。

 

「岸に戻った敵は王都とは逆の方向に逃げていきましたから、大丈夫だとは思いますが──」

「カナミ様が動けるなら、早く戻るべきかと。目的は果たしたことですし、カナミ様の言う通り、奴らが王都を狙う可能性はまだあります」

「そうね。すぐに出発しましょう」

 

 香菜美たちは急いで野営を畳み、旅人がいる岸辺へ向かった。

 

 ──途中に転がる獣人たちの腐乱死体から目を背けつつ。

 

 本当ならこんなところに野晒しにしておくべきではないのだろうが、触れる気にはなれず、仲間にそれを強いることもできなかった。

 

 岸辺へと着いてみると、ちょうど旅人は船の修理を終えたところだった。

 

 ここに来る時に乗ってきた頼りない丸木舟よりも大きく、一本のマストと帆まである立派な舟だ。

 

「連中、良い置き土産を残してくれました」

 

 旅人は自慢げに笑みを浮かべた。

 

 彼に舵取りを任せ、香菜美たちは再び湖へと漕ぎ出した。

 

 行きと違って敵やモンスターを警戒して張り詰めている必要はなかったが、心はずっと重かった。

 

 

 

 急ぎ足で戻った香菜美たちの前に王都は無事な姿を見せた。

 

 一行に気づいた見張りが門を開け、大勢の群衆が集まって香菜美たちの帰還を喜んだ。

 

 皆口々に香菜美の名を叫び、腰に下げた赫き薔薇を見てあれが伝説の武器かと瞠目する。

 

「よくぞ無事に戻られましたな。また後ほど旅の話を聞かせてください」

 

 剣を教えてくれた初老の兵士が話しかけてきたので、香菜美は頷いた。

 だが、正直言って思い出したくないことの方が多い。特に赫き薔薇に関しては。

 

 やや気分が落ち込む香菜美だが、城の方からやってきた一団を見て笑顔を取り戻した。

 

 エノラがわざわざ王宮から足を運び、香菜美を出迎えに来てくれたのだ。

 

 急いで来たせいで身体も服もロクに洗えず、汚れているにも関わらず、彼女は香菜美を抱きしめる。

 

「え、エノラ様、服が汚れちゃうよ」

「服など洗えば済みます。本当に、よくぞご無事で帰ってきてくださいました」

 

 涙を浮かべて帰還を喜ぶエノラに香菜美も思わず感極まって、エノラを抱きしめ返した。

 

「ただいま」

 

 しばらく抱擁を交わした後、エノラが言う。

 

「カナミ様、城で湯浴みの支度をさせております。どうぞ、ごゆるりとお休みください」

「え?お風呂!?」

 

 香菜美は思わず目の色を変えた。

 

 エノラは微笑み、城へと香菜美を導く。

 

「カナミ様、ではここでしばしお別れですね」

 

 旅人がシルクハットを脱いで別れを告げてくる。

 

「色々と助けられたわ。ありがとう」

「──ええ。私の方こそ、カナミ様と共に旅して、光栄でした。では、いずれまた」

 

 そして旅人はシルクハットを被り直して去っていく。

 

 彼の周囲に子供たちが群がり、冒険話をせがむのを見て、香菜美は安心した。

 あの子供たちになら、旅人もお話や手品を披露する甲斐があるだろう。

 どうか、たくさん笑わせてあげてほしいと思う。

 

 

 

 案内された浴場には香菜美一人だけだった。

 

 石造りの大きな湯船に肩まで浸かると、旅の疲れが取れていく。

 ずっと無意識に力んでいた肩が緩んで気持ちまで穏やかになっていく。

 

「お風呂って凄いな──」

 

 脱力して思わずそう呟いた。

 

 できればこのままずっと浸かっていたかったが、さすがにのぼせそうなので上がることにした。

 

 風呂から上がると、食堂で夕食の支度が整えられていた。

 

「獅子将軍の討伐、並びに伝説の武器の入手成功を祝して用意させていただきました。ささやかですが、どうぞお楽しみください」

 

 久しぶりのまともな食事にお腹が鳴る。

 

 廃都での戦い以来中々食べ物が喉を通らなかったが、今なら食べられる気がする。

 

 何かの野菜を蒸した料理に香菜美はナイフを入れた。

 

 野菜の中には何かの肉が包まれていたが、嫌悪感は感じず、そのまま口に運んだ。

 

 口の中で肉がバターか何かのようにとろけて旨味が広がる。

 

 こんなに美味しいと感じたのは久しぶりだ。

 

 香菜美は夢中になって料理に舌鼓を打った。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌朝。

 

「カナミ様!大変です!すぐに来てください!」

 

 慌てた侍女の声が香菜美を叩き起こした。

 

「何!?また獣人たちが攻めてきたの?」

「分かりません!でも、城壁の外に敵がいると報告が──」

「ッ!鎧をお願い!」

「はい!」

 

 侍女たちに急いで着装させて、香菜美は城壁へと走った。

 

 見張り台に登って見ると、確かに獣人の一団が城壁の前にいる。

 

 種族は灰色の尖った耳と尻尾からしておそらく狼族。

 

 全員が武装しており、明らかに戦いの準備を整えているが──数がやけに少ない。

 ぱっと見た感じでは数百人といったところか。

 

 その中に見覚えのある人物がいた。白銀の毛並みを持つ狼族の少女、チノだ。

 胸がどきりと脈打つ。

 

 彼らが戦いに来たのなら、彼女とも戦わなければならない。

 どうか違っていて欲しい。

 

 そう願っていると、不意に一団から一人の獣人が進み出てきた。

 

 兵士たちが弓を構えるが、獣人は怯えた様子もなく堂々とした足取りで城門の目の前までやって来た。

 

「それ以上近づくな!射つぞ!」

 

 とうとう我慢ならなくなった兵士が叫ぶと、獣人は足を止めて口を開いた。

 

「射つな!私は使者だ!狼族族長グラス様よりの和睦の提案を伝えに参った!貴殿らの指揮官、及び勇者殿は何処か!」

 

 その言葉を聞いて兵士たちに動揺が走った。

 

「和睦?今和睦って言ったか?」

「おい、これどうすれば──」

「何かの罠だ!絶対そうだ!」

「やっちまえ!」

 

 このままでは戦いになってしまうと思い、香菜美は叫んだ。

 

「やめて!射っちゃ駄目!私はここよ!」

「勇者様!?しかし──」

 

 逡巡する兵士たちだが、香菜美は押し切る。

 

「ここは私が話すから射たないで!早くこのことを城に伝えて!」

「わ、分かりました」

 

 すぐに伝令が出発し、城へと駆けていく。

 

「感謝する!勇者殿!」

 

 使者の獣人が大声で礼を言ってきた。

 

 そして、持っていた巻物のようなものを掲げる。

 

「ついてはこの親書をアール国王に届けてもらいたい!受けてもらえるか!」

 

 香菜美は頷き、使者が投げ上げてきた巻物を受け取った。

 

 

 

 親書の内容はアール王国と狼族の間での恒久的な戦闘停止、並びに対魔王同盟の打診だった。

 

 その提案を受けるかどうか、早速会議に諮られたのだが──

 

「ふざけるな!奴らは我々の村を焼き、兵も民も数え切れぬほど殺してきた!和睦など戯言だ!勇者様が獅子将軍を倒した今、獣人なんぞに頼る必要はない!」

 

 親書の内容が告げられるやいなや、武官の筆頭である将軍が声を荒げた。

 

 他の武官たちからも次々に将軍への賛同の声が上がる。

 

 文官たちの中には感情的にならずに考え込む者もいたが、彼らの束ねる年配の大臣は将軍の言葉に何度も頷く。

 

「将軍の仰る通り。奴らは過去何度も和平を装い、我々を欺いてきた。しかも、グラスとは獅子将軍の下で軍師として戦ってきた者だ。甘言を弄して我々を陥れようとしているに違いない。見え透いた策に乗るなどという愚を犯すわけにはいかぬ。そうではないか」

 

 大臣がそう言って文官たちの方を睨みつけると、文官たちまで口々に和睦への反対を唱え始める。

 

 親書を持ってきた自分を蚊帳の外に、反対一色に染まっていく会議を見て、香菜美は思わず割って入った。

 

「待ってよ!どうして会って話しもしないで嘘だって決めつけるのよ?魔王を倒すために味方は多い方が良いでしょう?」

 

 香菜美としてはそこまでおかしなことを言ったつもりはなかった。

 

 だが、場は一瞬の沈黙の後たちまち怒号に満たされる。

 

「なんということ!勇者様とて聞き捨てなりませんぞ!」

「カナミ様も見てきたはずですぞ!奴らがどんなに残虐で野蛮な連中か!この王都での惨劇をもう忘れたのですか!?」

「甘い!甘過ぎる!奴らはこれまで何度も約定を破って攻めてきた。獣人の言うことを信じるなど、この王都を危機に晒すだけだ!」

 

 ここまで反発されるとは思わず、香菜美は気圧されて思わず一歩後退った。

 

 別に獣人たちとの共闘を受け入れろと指図したわけではない。

 ハナから疑い決めつけずに話くらい聞いてもいいでしょう──その程度のことしか言っていない。

 

 実際玉座のエノラは香菜美の発言を擁護しようとしていた。

 

「落ち着いてください!カナミ様はひとまず彼らと話し合おうと提案されただけです」

 

 しかし非難の声は止まず、とうとう香菜美に対する疑念まで飛び出した。

 

「まさかと思いますが、旅先で獣人たちに籠絡され、通じているのではありますまいな?」

 

 その言葉を発したのは上座の方に座る老人だった。

 たしか、魔法で香菜美をこの世界に召喚したと言っていた魔法使いシタサンだ。

 

「はぁ?アンタ何を──」

「何を言うかこの無礼者!カナミ様を侮辱するな!!」

 

 香菜美が反論するよりも先に、エノラの側に控えていたジンがシタサンを怒鳴りつけた。

 

 隣にいたラゾも怒りの形相でシタサンに詰め寄る。

 

「そうだ!俺たちはカナミ様と共に戦い、共に旅したから分かる!カナミ様が裏切るなどあり得ない!取り消せ!」

 

 だが、シタサンの方も弟子たちがシタサンを擁護する形で言い返し、またしても場は荒れに荒れた。

 

 親書そっちのけで言い争うばかりの彼らを見て、香菜美は説得を諦めてしまった。

 

 こうなったら、自分が彼らと話をつけてその真意を確かめよう──そう思った。

 

 

 

 城を出た香菜美は、兵士たちの制止を振り切って城壁から飛び降りた。

 

 そのまま獣人たちが張った野営地の方へと歩いていくと、彼らからも代表が進み出てきた。

 

「狼族族長グラスと申します。勇者殿直々の来訪、感謝します。席を用意してありますので、どうぞお掛けください」

 

 グラスに案内されて切り株のような簡素なテーブルに腰かけると、向かいにはグラスが座り、その後ろにチノが立った。

 

 言い含められているのか、特に突っかかってきたりはしなかったが、見るからに不機嫌そうに耳を後ろに倒し、目はキッと香菜美を睨みつけている。

 

 居心地の悪さを感じながらも、香菜美はグラスに切り出した。

 

「親書は城に届けたわ。今話し合いがされているけど、しばらく結論は出そうにないわ」

「やはりそうですか」

 

 グラスは特に焦った様子もなく予想通りといった反応をする。

 

「どうして私たちと共闘しようって言ってきたの?この前までお互いに戦ってきた関係よね?それに、あちこちの村をあんなに荒らして──」

「我々を信用できない気持ちは分かります。ですが勇者様、貴女は一つ誤解されています。我々にとっても魔王は敵なのです」

 

 グラスの言葉に香菜美は首を傾げた。

 

「簡単に申しますと、我ら獣人は最も強い者が支配者となるのです。魔王が復活する前は、種族や一族同士の力が拮抗し、全てを束ねる支配者はいませんでした。ですが、魔王が復活し、ノゴ将軍が力を与えられて四天王になったことで全ての種族の全ての一族が彼の支配下に置かれ、人間との戦争に駆り出されました。魔王がいなければ、我々は村で家畜を追い、魚や鳥を獲って暮らしていたでしょう。なのに、魔王と奴の力に魅せられた身勝手な野心家共によって戦いへと駆り立てられ、大勢の死者を出しました。そればかりか、拙速な行軍によって食料が不足すると、補給を待たずに掠奪を命じられたのです。本来ならそのような蛮行に走る必要などなかったにも関わらず。ですから、魔王に消えてもらいたいのは我々も同じなのです」

 

 グラスの説明が全て真実なのかどうかは分からなかったが、魔王を敵視していることに嘘はないと思われた。

 

「そう──だったのね。事情があるのは分かったわ。でも、城の人たちは皆反対しているの。話も聞いてくれない。私にはどうにもならなかったわ」

「──だから一人で来られたのですね。ですが、我々としても相応の危険を冒してここに来ているのです。はいそうですかと引き下がるわけにはいきません。二つほど情報を差し上げましょう。それを伝え、我々と組む利を説いていただきたい。酷なお願いだとは承知していますが、我々と貴方方双方の命運が懸かっているのです。どうか、お願いしたい」

 

 グラスは引き下がらず、それどころか軽くではあるが頭を下げた。

 

 それを見てチノが目を見開き、今にも唸り声を上げそうな顔で香菜美を睨みつける。

 

「──いいわ。聞きましょう」

 

 香菜美が応じると、グラスは「ありがとうございます」とお礼を言って話し始める。

 

「一つ目は魔王城の所在です。魔王城はここから遥か東方の山脈を越えた先、常闇の雲に覆われた荒野にあります。そこに至る最も短く、最も見つかりにくいルートを我々は案内できます。ご存知かもしれませんが、私はノゴ将軍の下で軍師を務めておりまして、魔王軍の事情とその領域の地理には通じておりますゆえ。二つ目ですが、現在我が一族のみならず多くの獣人族が魔王への叛逆を考えています。ノゴ将軍による支配と数多の犠牲に対する恨みは以前から燻っておりましたが、将軍の死により一気に噴出した形です。彼らとも同盟の交渉を進めておりまして、勇者様の魔王城攻略の時には呼応して戦うことになりましょう。此度の魔王はかつてないほど強力です。それこそ四天王が全員同時にかかっても敵わぬほどに。また、残りの四天王をはじめ忠誠を誓う配下もまだ多くおり、その戦力は強大です。疲弊した人間の軍に勇者様お一人ではそれら全てを相手取るのは難しいでしょう。ですが、我々と手を組み力を合わせれば、勝機は十分にあります。我々の力は勇者様もご覧になったでしょう。提案を受け入れてくだされば、この力を人と獣人の無益な争いのためにではなく、争いを終わらせるために使うことができるのです。そして、ノゴ将軍が死に、後釜もいない今がその好機なのです。どうか、このことをよろしくお伝えいただきたい」

 

 香菜美は何とか説明を聞き取った。

 

 言葉だけ見れば確かに魅力的な提案ではある。

 

 勇者の力は強力だが、勇者は自分一人しかいない──そのことは香菜美も最初の戦いの時から思い知っていた。

 自分が強力な敵に手こずっている間に味方が壊滅してしまっては、たとえ勝っても負けたのと同じになってしまう。

 

「そうね──確かに貴方の言う通りよ。でも、皆不安になっているの。今まで何度も裏切られてきたって言っている人もいたわ。私が言っても話を聞いてくれるかどうか──」

 

 すると、周囲にいた狼族が憤慨する。

 

「馬鹿な!約束を破ってきたのは人間たちも同じだ!むしろ──」

「よさんか!我々は盟を結びに来たのだ。過去のことは持ち出すな」

 

 グラスが窘め、香菜美に頭を下げる。

 

「申し訳ない。見ての通り、我々の側にも人間に対する恨みや憎しみを持つ者はいます。それこそもう何世代にも渡って争ってきたものですから。ですが勇者様、貴女は元々この世界の住人ではない。故に、怒りや憎しみに囚われずに物事を公平に見て判断できるはずです。違う世界から来た勇者様だからこそ、我々と彼らを繋ぐ架け橋たり得るのです。どうか、お願いします」

 

 それでも香菜美が答えられないでいると、とうとう我慢ならなくなったチノが香菜美に向かって吼えた。

 

「おい勇者、偉大な戦士である父上がこんなに頭を下げて頼み込んでいるんだぞ!言い訳なんかしていないで、何とかしろ!逃げるなど、私は許さないぞ!」

「こらチノ!無礼だぞ!」

 

 グラスが慌ててチノを抑えにかかるが、香菜美はようやく決心がついた。

 

「いいえ、チノさんの言う通りだわ。私がもう一度皆を説得してみる。だけど、言葉だけじゃなくて何か皆を安心させられるものが必要だと思うの。何かないかしら?」

「それでしたら、人質などはいかがでしょうか。盟を受けて頂ければ我が娘、チノをそちらへの人質としてお送りしましょう。彼女は我が娘であると共に我々狼族にとって大切な巫女でもあります。人質としては申し分ないかと思いますが?」

 

 グラスの提案に香菜美は驚いた。

 よりにもよって自分の娘を敵対している相手の下に送り込むのか、と。

 

 しかもグラスはそれをさも当然のことであるかのようにさらりと言った。

 そしてチノも覚悟はできているという顔をしている。

 

 信用を得るためにそこまでするなど、香菜美には理解できなかった。

 だが、彼らがそれだけ真剣だということは分かった。

 

「分かったわ。必ず皆を説得してくる」

「よろしく頼みます」

 

 グラスたちに見送られて香菜美は王都へと戻った。

 

 

 

 午後。

 

 収拾のつかない非難の応酬と香菜美の退室によって中断していた会議が再開され、香菜美はグラスに会ってきたこと、そして彼から聞いた同盟の目的を話した。

 

「彼らは本気で私たちと共に戦って魔王を倒そうとしているわ。私は信じて組むべきだと思う」

 

 だが、返ってくるのは相変わらず反対を叫ぶ怒号ばかりだった。

 

「たった一度の話し合いで聞いたことを信じろと仰るのか!?」

「人質程度で何の保証になる?奴らは今までどんな犠牲も厭わず味方すら巻き込むような戦い方を平然としてきた!謀に決まっている!」

「そもそも獣人などに助けてもらうなど今まで犠牲になった者たちに申し訳が立たん!アール王国の誇りを捨てるも同然だ!」

 

 それらの声に香菜美は必死で反論した。

 

「でも、魔王を倒すことが最優先じゃないの?グラスは本気で魔王を敵視してる。私も最初は疑ったけど、彼の話を聞いて分かったわ。彼らは戦いたくて戦ってきたわけじゃない。魔王とノゴ将軍に駆り出されただけなのよ!」

 

 だが、廷臣たちの態度は頑なだった。

 

 八の字髭を生やした将軍が呆れた顔で言う。

 

「勇者様、貴女の優しさは素晴らしいが、奴らにそんなものは通用しない。これまで獅子将軍の下で戦いながら奴が死んだ途端に貴女に近づいてきたことこそが、奴らが強い者にへつらい、弱い者を虐げる蛮族である何よりの証拠だ。仮に組んで共に魔王を倒しても、その後必ず弱い我々に牙を剥く。そうなったら真っ先に犠牲になるのは民なのですぞ!」

 

 香菜美は拳を握り締め、声を張った。

 

「グラスは娘のチノを人質に出すって言っているわ!自分の娘を差し出すのよ?それだけの覚悟を見せているのに、どうして信じられないの?」

「子など彼らにとっては産めばまた得られる程度の存在。奴らはすぐに増える。増えた分だけ戦士となり我々を脅かすのです!巫女だの何だのはこちらを信用させるための詭弁に過ぎませぬ」

「そうだ!巫女を大切にしているというのも何の裏付けもないではないか!」

 

 廷臣たちが再びざわめき、議論は平行線を辿った。

 

 香菜美の声は怒号にかき消され、苛立ちと無力感が募る。

 

 そしてまた、シタサンが放った言葉に場の空気は一変する。

 

「もっと確実な選択肢がありますぞ。勇者様が持ち帰ったアーティファクト、あれは相手の生命力や魔力を収奪する権能があります。それでその巫女を殺し、その身に眠る力を奪うのです。さすれば、全て解決するでしょう」

 

 議事堂が一瞬静まり、やがて賛同の声が広がった。

 

 将軍たちが頷き、大臣たちが目を輝かせる。

 

「その通りだ!勇者様こそが魔王を倒す切り札!」

「人質ごときで信用するより確実だ。獣人に頼る必要などない!」

 

 香菜美は愕然とし、叫んだ。

 

「何ですって!?あの子は私より小さいのよ?そんな残酷なことできるわけないでしょ!」

 

 だが、将軍や大臣たちの目は冷たく、計算ずくだった。

 

 八の字髭の将軍が淡々と言った。

 

「魔王を倒すため、手段を選んでいる余裕はない。信用ならない獣人たちと共に戦うより、獣人の命一つで勇者様が魔王を倒す力を得て王国が救われる方が我々にとっては良い」

「命一つって──それじゃあの人たちはどうなるの?魔王を倒すために娘の命を差し出せって、それで納得できるわけないでしょ!?」

「まさか勇者様が獣人共の代弁をするとは、驚きですな。貴女は一体どちらの味方なのですか?」

「またそれ!?あの人たちだって命と心があるんだよ?話し合って協力できるところは協力しようって言うのがそんなにおかしいことなの?」

「カナミ様!!」

 

 言い争う香菜美を止めたのはエノラだった。

 

「カナミ様、少し、私と話しましょう。会議は一旦中断します」

 

 震えながらも気丈に命令を下すエノラだが、香菜美は猛烈に嫌な予感がした。

 

 そしてその予感は外れてくれなかった。

 

「カナミ様、どうか将軍たちの案を受け入れていただけないでしょうか?」

 

 別室で香菜美と二人きりになったエノラは開口一番そう言った。

 

「なんで?どうしてよ?エノラ様、考え直して!お願いだよ、そんなの間違ってるよ!」

「それは──できません」

「ッ!どうして──」

 

 ショックを受ける香菜美に、エノラは悲しそうに目を伏せて言う。

 

「王でも何もかも思い通りに動かせるわけではありません。家臣たちの全員が賛同したことを私一人でひっくり返すことはとてもできないのです」

「そんな──」

 

 思わず後退りした香菜美に、エノラは目を潤ませ、震える声で訴える。

 

「カナミ様──私とて子供を殺したくはありません。それでも、獣人との戦いで我が子を、孫を、親類を失った人はあまりにも多くいます。将軍や大臣もその一人です。彼らに獣人の子供を死なせないために恨みを捨て、彼らのために更なる血を流すことを命じるなど、できません。彼らのためにも、この国が結束を保ち、生き残るためにも──伏してお願い申し上げます。カナミ様、どうか、どうか、折れてください」

 

 エノラは遂に膝をついて土下座した。

 

「幼き子を殺す罪、勇者様の心の痛み、全て私が共に背負います。ですからどうか、お願いです。我が王国と民のためにどうか──」

 

 泣きながら懇願するエノラの姿に香菜美の心は締め付けられた。

 反論する言葉が喉に詰まる。

 

 香菜美は目を閉じ、拳を握り締めた。

 

「少し、考えさせて──」

 

 エノラが小さく頷き、香菜美は部屋を後にした。

 

 だが、まだ心は決まっていなかった。

 チノの顔とグラスの覚悟が、頭から離れなかった。

 

 

 

 城を出た香菜美は重い足取りで街の方へと歩いた。

 

 頭を整理したかった。

 というより、逃げ出したかったのかもしれない。

 

 国の未来、人々の命運、多くを失いそれでも残された者たちの想い──あまりにも重過ぎるものが肩にのしかかり、答えを見つけられないままだった。

 

 城下は以前よりもいくらか賑やかになっていた。

 

 広場にはちらほら露店ができ、あちこちで破壊された建物を直したり、空き地になった場所に何かの作物を植えている人たちもいた。

 その周りにはお喋りをしたり遊んだりしている子供たちもいる。

 

 香菜美は彼らの姿を横目にゆっくりと通りを歩いた。

 

 魔王との戦いになったら、この人たちも兵士として戦場に行くのだろうか。

 そうさせないために自分は召喚されたのではなかったか。

 

 迷いは大きくなるばかりだ。

 

「おや、カナミ様ではありませんか」

 

 不意に懐かしい声に呼ばれ、香菜美は足を止めた。

 

 見ると旅人が木箱に腰掛けてこちらに手を振っていた。

 もう一方の手にはいつかのように花を持っている。

 

 周囲には冒険話を聞いていたらしい子供たちの姿もある。

 

「旅人さん──」

 

 会えて嬉しいと思った反面、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

 

「ごめんなさい、邪魔したわね」

 

 そう言って香菜美は立ち去ろうとするが、旅人は子供たちを解散させて近づいてきた。

 

「また何かあったようですね」

 

 香菜美は目を逸らし、小さく呟いた。

 

「別に、大したことじゃないよ」

「嘘が下手ですね。この前もそんな顔をされていましたよ。お話ししていただけるなら、お聞きしますよ」

 

 香菜美はしばらく黙っていたが、やがて観念して今までのことを話した。

 

「エノラ様にも考え直すように頼んだけど、できないって泣かれて──私に折れてくれって。もうどうすればいいのか分からないよ──」

 

 声は最後には掠れ、目には涙が滲んだ。

 

 旅人は黙って聞き、しばらく考え込むように空を見上げ──そして、静かに口を開いた。

 

「獣人との共闘ですか──確かに本当に実現するなら頼もしくはありますね。ただ──獣人との戦いで死んだ人々を私も見てきました。恨みはそう簡単には消えないのも確かです。カナミ様が板挟みになるのも無理はないでしょう」

 

 香菜美は旅人の理解に少し安堵したが、胸の重さは消えなかった。

 

「私にはチノを殺すなんて考えられないよ。あの子、私より小さいんだよ?それなのに──」

 

 旅人は香菜美の肩に手を置き、穏やかに諭した。

 

「カナミ様。どうするかは貴女が決められます。貴女は勇者です。私や他の人々が生きてここにいるのも、この王都が今復興に向かっているのも、カナミ様が獅子将軍を倒したからです。たとえ誰も納得しなくとも、自分の選択を押し通せる力がカナミ様にはあります。誰かに決めてもらわなくとも、カナミ様が一番良いと思われる道を選べばよろしいのでは?」

 

 香菜美はその言葉に目を上げ、旅人の顔を見た。

 

 自分が一番良いと思う道などと言われても、分からない。

 分からないから、ここに来たのだ。

 

 逡巡の末、香菜美は小さな声で問いかける。

 

「──旅人さんは、どうするのがいいと思う?」

 

 旅人は一瞬目を細め、やがて静かに答えた。

 

「──個人的には女王陛下に賛成です。あの巫女はあの年でカナミ様と渡り合うほどですから、中に眠る力は更に莫大でしょう。それを奪えば、カナミ様の力は跳ね上がること間違いありません。それだけではなく、巫女の身体には魔力が宿っている可能性があります。もしそうなら、その聖剣に刻まれた加護を神聖魔法として使えるかもしれません。そうでなかったとしても、一番犠牲の少ない方法なのは変わらないでしょう。私のような何の力もない弱い者には大変魅力的な話です」

 

 香菜美は息を呑んだ。

 

 旅人の言葉は、廷臣たちと同じ冷徹な論理だった。

 

 今まで数々の助言をくれ、香菜美を救ってきた旅人でさえ、チノの殺害を支持する。

 反対するのは自分だけ──その現実が、心に暗い影を落とした。

 

「私の方が間違っているのかな。あの子を犠牲にしたくたいって思うのは──私のわがままなのかな?」

 

 辛うじて絞り出した声は震えていた。

 

 旅人は慌てて手を振った。

 

「そうは言っていませんよ。カナミ様の気持ちも私にはよく分かります。ですが、私はこれ以上多くの人々の死を見たくないだけです」

 

 香菜美は目を閉じ、深く息を吐いた。

 チノのあどけないほどの真っ直ぐさ、グラスの頭を下げる姿、エノラの涙が頭を駆け巡る。

 

 誰も味方になってくれない。自分の方が間違っているのではないか——その疑問が拭えなくなり、彼女の心を蝕んだ。

 

 葛藤の末、香菜美は震える声で問うた。

 

「本当に──これからの戦いで死ぬ人をなくせるんだよね──それで魔王を倒せるんだよね?私が背負って──頑張れば──皆──」

 

 旅人は少し驚いたように目を丸くしたが、やがて頷いた。

 

「そうです。辛い選択ですが、それで多くの人が救われます」

 

 その答えを聞いて、香菜美は無理に笑みを浮かべ、旅人に背を向けた。

 

「──ありがとう、旅人さん。私、城に戻るね」

「ええ。お気を付けて」

 

 旅人に見送られて香菜美は城への帰途に就いた。

 

 足取りは重く、鼓動が鳴り止まない。

 下した決断の重さに圧し潰されてしまいそうだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日、グラスとの最終交渉が城門の前で行われた。

 

 数名の武官がアール王国代表として出席し、グラスたちと向かい合う。

 香菜美は聖なる鎧を纏い、聖剣を腰に下げた完全武装で騎士たちと共に護衛として彼らの後ろに立った。

 

「議論の末にアール王国は貴殿らの申し出を受諾すると決した。過去の恨みは水に流し、共に魔王と戦うことをここに宣言しよう」

 

 武官が高らかに口上を述べると、グラスは破顔する。

 

「ご決断、感謝する」

 

 そして武官は続けざまに要求を口にした。

 

「ついては申し出の通り、この場で貴殿らの巫女を我が方に引き渡してもらいたい。身柄は勇者カナミ様と女王エノラ・フラウ・フラウロ陛下の名において、丁重に扱うことをここに誓う」

「承知した。チノをここへ」

 

 チノが狼族の戦士たちに守られながら、連れてこられる。

 

 白銀の毛並みを風に揺らしながら現れたチノは尊大な態度で香菜美に命令する。

 

「父上の命により仕方なく、仕方なく!お前たちの城で人質となってやる。私の分も戦い、父上や皆を守るのだぞ、勇者!」

「──分かっているわ」

 

 チノの言葉が、香菜美の胸に突き刺さった。

 手が震えるのを自覚するが、どうしても抑えられなかった。

 

(やるのだ、今すぐに。その娘を殺せ)

 

 無言の圧が前に座る武官と城壁で見守る兵士や将軍たちから感じられる。

 

「これにて両者の同盟は成った。これより──」

 

 長ったらしい口上が武官たちの時間稼ぎなのも分かる。

 

 でも、それでも──

 

「ん?何だ勇者、顔色が悪いぞ。病気にでもかかったのか?」

 

 香菜美の様子を訝しんだチノが額に手を当ててくる。

 

「んー熱くはないな。でもすごい汗だぞ?休息は取ったのか?」

 

 間近で顔を覗き込んで心配してくるチノ。

 

 今なら、彼女からこちらの腰は見えていない。

 向こうにいるグラスたちからも、チノと騎士たちの身体に遮られて見えていない。

 

 香菜美はかぶりを振ってチノに向き合い──

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 チノの柔らかな肌に深紅の刃が突き刺さる。

 

 香菜美が装備していたのは聖剣ではなく、聖(・)剣(・)の(・)鞘(・)に(・)収(・)め(・)た(・)赫(・)き(・)薔(・)薇(・)だった。

 

「ふぇ?」

 

 呆気に取られるチノだが、次の瞬間、凄まじい苦悶の表情を浮かべて、のたうち回る。

 

「ひっ!い、いやあああああ!!いたい!いたいよぉ!!」

 

 悲痛な叫び声を上げるチノの身体を赤黒い蔓が這い、何重にも縛り上げていく。

 

 周囲の誰もが呆気に取られる中、鮮血色の花が無数に咲き乱れ、滴る血が血溜まりを形成した。

 

 花が枯れると、チノの身体は腐乱し、地面に崩れ落ちた。

 僅かに残った白銀の毛が血と腐汁にまみれて舞い散る。

 

 流れ込んできた力はかつてないほど莫大で、聖なる鎧と聖(・)剣(・)の(・)鞘(・)が何もしていないのに発光する。

 身体を巡り、武具へと流れ込む未知の力の奔流──それは確かに明るく、温かい太陽の光のように力強く感じられた。

 

 だが、香菜美は俯き、嗚咽を堪えた。

 

 チノの断末魔が頭から離れない。

 

 何が起こったのかようやく理解したらしいグラスがたちまち鬼の形相に変わり、牙を剥いて咆哮を上げた。

 

「謀ったな!我々を謀ったな!!人間共!!」

 

 怒り狂ったグラスと狼族の戦士たちが逃げ遅れた武官たちをたちまちボロ切れのように引き裂き、香菜美たちに襲いかかってきた。

 

「勇者様!!」

 

 咄嗟に動けなかった香菜美を庇って騎士の一人が喉笛を食いちぎられ、絶命する。

 

「勇者様をお守りしろ!」

 

 そう叫んだ若い騎士にも狼族の牙が迫るが、直前で無数の蔓と花に覆われて地に倒れた。

 

 灰色や茶色の毛並みが風を切り、数多の槍や剣、爪と牙が香菜美に襲いかかるが、その全てを香菜美は届く前に斬り捨てた。

 

 深紅の刃が風を切り裂き、赤い蔓が戦士たちの身体を絡め取り、薔薇が咲いて生命力を吸い尽くす。

 

 一人、また一人と戦士たちは倒れていき、遂に残ったのはグラスだけになった。

「この裏切り者め!チノを──俺の娘を返せ!」

 

 グラスが振るうチノの槍が香菜美を狙うが、速さも威力も香菜美には遠く及ばなかった。刃がグラスの腕を切り裂き、蔓が彼を絡め取る。

 

 グラスは素早く蔓に絡め取られた腕を切断してなおも立ち向かってきたが、すぐに脚も切り裂かれて蔓に覆われた。

 

 遂に地面に倒れ伏したグラスは身体を覆い尽くそうとする蔓を必死に毟り取って侵食に抵抗しながら、恨みの込もった目で吼えた。

 

「なぜだ──なぜ、こんな卑劣な真似ができた。小娘がぁぁぁ!」

 

 香菜美はたまらず涙を流しながら叫んだ。

 

「私だってしたくてしたんじゃない!あんな小さい子を殺すなんて──したくなかった!でも、魔王を倒すため──戦いで犠牲になる人を減らすために仕方なかったの!」

 

 毟り取っても毟り取っても次々に生えてくる蔓が、遂にグラスの残った腕を絡め取り、動きを封じる。

 

「それでチノを殺して、俺の一族も殺すのか──それで犠牲がなくなると本気で思ったのか。何と無邪気で度し難い愚か者だ。お前を信じたのが間違いだった──」

 

 その言葉を最後にグラスは完全に蔓と花に覆い尽くされ、絶命した。

 

 花が枯れ、静寂が戻った。

 

 獣人たちの亡骸が散らばり、血が地面を染めた。

 

 彼らからも力を取り込み、香菜美は今や神々しく光り輝いていた。

 

「やった。倒した!」

「勇者様が力を得たぞ!」

「我々の勝利だ!」

 

 城壁の上にいる味方が歓声を上げるが、香菜美はもう限界だった。

 

「もう嫌だよ──こんなの。酷過ぎるよ」

 

 何ということをしてしまったのか──動悸と涙が止まらなかった。

 

 

 

 夜。

 

 香菜美は密かに身支度を整えていた。

 

 貰った服を脱いで丁寧に畳み、召喚された時に着ていた学生服に着替えてその上から聖なる鎧を身につける。

 

 着装のやり方は見て覚えていた。

 自分でやると勝手が違い、少し手間取ったが、それでも人を呼ぶわけにはいかなかった。

 

 扉の外には衛兵がいるので、窓を開けてそこから思い切って飛び降りた。

 

 着地の衝撃で石畳がひび割れるが、何ともなく、香菜美はそのまま城を出た。

 

 街は寝静まっていた。

 

 所々で焚き火の火が灯っているが、その周りの人たちは毛布に包まって寝ている。

 

 足音を殺して彼らの横を通り過ぎ、城門前の広場までやってくると、そこに旅人がいた。

 

 石の筒に入れた薪で焚き火をしながら、香菜美を見つめている。

 まるで待っていたかのように。

 

「え?──旅人さん?」

 

 驚く香菜美に旅人は困ったような笑みを浮かべる。

 

 どうしてここに、と問いかける前に旅人は問いかけてくる。

 

「行かれるのですか?」

「──そうよ」

「お一人でですか?」

「一人でよ。もうこれ以上──誰も死なせたくないの」

 

 旅人は何か言おうとしていたが、香菜美の決意が固いことを見て取ると、押し黙った。

 

「──ご武運を」

「ええ。今までありがとう」

 

 短いやりとりの末に香菜美は城壁の外へと歩き出す。

 

 旅人は帽子を目深に被ったまま、城壁の上で香菜美の孤独な旅立ちを見送っていた。

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