一人で王都を出た香菜美だったが、魔王城の正確な場所は分からない。
グラスに案内してもらうつもりでいたが、そのグラスは自分の手で死んでしまった。
それでも、香菜美は諦める気はなかった。
遥か東方の山脈を越えた先、常闇の雲に覆われた荒野──グラスが口にしたそれだけの言葉を頼りに見つかるまで探すつもりだ。
城壁の外に放置されたままの狼族たちの野営地をちらっと見て、香菜美はそのまま目を伏せて通り過ぎた。
後ろ髪を引かれる思いを振り切るかのように香菜美は走った。
勇者の力で走れば、とんでもないスピードが出て、景色が流れていく。
それなのに、息が上がる気配もない。
それをいいことに香菜美はひたすらに走り続けた。
そうしている限り、何も考えなくて済むからだった。
朝日が昇り、昇った日が沈みかけたところでようやく疲れが出てきて、香菜美は足を止めた。
ちょうど見つけた小さな川で水を汲み、鍋で沸かして飲む。
ついでに泳いでいた魚も捕まえて、焼いて食べた。
廃都へと旅した時、旅人から教わったことが活きていた。
そうしたことを思い出す度、胸が苦しくなる。
旅人には何度も助けられたし、彼がいなければ自分も王国の人々もきっと今生きてはいない。
チノの殺害を支持したことには複雑な気持ちがあるが、それでもあんな突き放すような別れ方をするべきではなかったと思う。
いつかまた会えたら、あんな態度を取ってしまったことを謝ろう。
そう思いながら、香菜美は眠った。
◇◇◇
目を覚ますと、そこはどこかの家の中だった。
白い天井に白い壁。
周囲には玩具が散らかっていて、その向こうには押し入れ。
その景色に香菜美は見覚えがあった。
昔の家だ。
そして玩具や家具がやたらと大きく見えることから、今の香菜美は昔の小さかった頃の姿。
つまり、また夢。
その証拠に──
「香菜美、またこんなに散らかして」
父が困った顔で小言を言ってくる。
その顔を見られなかった。
今の自分を見られたくなかった。
「香菜美、どうしたんだ?顔色が悪いぞ。悪い夢でも見たのか?」
夢──そうだ。今までの全てが悪い夢だった。
そんな希望は何度も裏切られて捨て去ったはずなのに、甘えたいという欲求に抗えなかった。
父に抱きついて、香菜美は泣きじゃくった。
「──うん。お父さんが死んじゃって、私は遠い所に連れて行かれて、戦いに行かされる夢」
「香菜美──人を殺したのか?その剣で」
思わず顔を上げた。
いつの間にか香菜美は大きくなった姿に戻り、聖なる鎧を纏っていた。そして手には血に濡れた聖剣と赫き薔薇。
「え?こ、これは──い、嫌!!」
悲鳴を上げて二本の剣を放り捨てた香菜美だが、既に身体も血塗れだった。
既に足元には血溜まりができており、そこから血を吸ったような赤い蔓がいくつも生えていた。
その蔓が父の足元にも迫る。
「駄目!お父さん逃げて!」
叫んだが、父は動かずにそのまま蔓に絡みつかれていく。
助けに駆け寄ろうとしたが、足が動かなかった。
香菜美の脚にも蔓が絡みついていたのだ。
「父さんは言ったよな?他の子を泣かせたりしない、優しい子になれって。なのに、こんなことをするのか」
「待って!違うの!これは──皆を助けるために仕方なく──」
言い訳する香菜美だったが、父は悲しそうに目を伏せる。
「皆?皆って誰だ?そこにお前が殺してきた人たちは含まれないのか?邪魔だから切り捨てるのか?──父さんを捨てた時みたいに」
「うあ──い、いや──そんなこと──私は──」
心臓に太い杭でも打ち込まれたような痛みが走る。
続く言葉が思いつかないでいるうちに、父はどんどん赤い蔓に覆われ、鮮血色の花が咲いていく。
「待って!駄目──やめて!!」
香菜美は脚に絡みつく蔓を掴んで渾身の力で引きちぎり、父へ駆け寄った。
父の顔まで迫った赤い蔓を掴んでむしり取るが──
「もう遅い」
蔓と一緒に父の顔が剥がれ落ちた。
「ひっ!」
思わず一歩後退ると、目の前で父の身体は腐り落ちていった。
「いやぁぁぁあああ!!」
香菜美は泣き叫んだ。
だが、無情にも父の身体を喰い尽くした赤い蔓が今度は香菜美目掛けて伸びてくる。
「血を」
そんな声が聞こえたような気がした。
「い、嫌!来ないで!!」
香菜美は必死で走り出した。
「何を言っているの?力が欲しいんでしょう?」
すぐ耳元で囁かれたようなその声は、チノの声だった。
「食べなきゃ力は減っていくだけよ。当たり前でしょう?分かったら血を──ね?」
「その声で喋らないで!!」
「酷いなぁ。貴女の望みを叶えてあげただけなのに。でも、分かってるんだよ?貴女は私なしじゃ戦えない。そうでしょう?だからぁ──」
「うるさい!来ないで!!」
「ッ!」
目覚めると、香菜美はぐっしょりと汗をかいていた。
傍に置いた赫き薔薇が星明かりに照らされて濡れたような輝きを放っていた。
微かに耳に残るチノの声をした謎の声──あれはもしかすると赫き薔薇に宿る何かだったのかもしれない。
だとすると、とんでもないものを解き放ってしまったのではないかという懸念は間違いではないだろう。
他に手段がないので使わざるを得ないが、全て終わったらどこかに捨てよう。
香菜美はそう決意する。
◇◇◇
それから半月か一ヶ月は歩き続けた頃、香菜美はようやく東方の山脈らしきところに辿り着いた。
それほど高い山々というわけではないのだが、峰にかかる真っ黒な雲が恐ろしさを感じさせる。
間違いなくこの山脈の向こうに魔王城がある。
香菜美は呼吸を整えて、山を登り始めた。
登山道なんてものはなく、生い茂る草木を剣で切り開いていくしかない。
だが、勇者の力で振るわれる聖剣の前にはどんな巨木も小枝のごとく切り裂かれ、次々に倒れていく。
何度か赫き薔薇でも切ってみたが、植物からは力を得られないようだった。
そんなものより肉を斬りなさいよ──気を抜けば頭に響いてくる声が無視できず、襲ってきた獣を何度か斬った。
でも声は足りないとほざく。
魔王城に着いたら魔王の血でも吸えと心の中で言い返して、山登りに集中した。
そうしないと、いつか頭が塗り潰されてしまいそうだった。
それからどれくらい登っただろうか。
森はまばらな草になり、そのまばらな草も消えて岩と雪だけになった。
邪悪な気配の暗雲がもうすぐ頭上まで迫っている。
寒さと疲れで幻聴はより一層酷くなり、遂にはチノの姿まで幻視するほどになっていた。
「魔王を倒せば私は要らなくなるって思ってる?」
「ッ──」
「違うよ。魔王は何度だって甦る。勇者だって召喚される。だから私は必ず必要とされる。人間が捨てるなら魔王が使う。人間が奪えば勇者が使う。絶えることのない営みなのよ」
「──うるさい。そんなもの私が断ち切ってやる」
言い返せば、声はくすくす笑う。どうやって?と。
魔法の専門家でもないし、そんな方法知るわけない。
でも、旅人が言っていた剣に刻まれた加護。それを応用した神聖魔法なら、可能性はある。
その使い方は知らないが、チノを刺してからずっと何か未知の力が宿っている感覚はある。
聖剣を振るう度にその力が流れ込み、聖剣を光らせているのも分かる。
「それ、一応神聖魔法だけど、そんなんじゃ千年前の魔王にも通じないよ?もっともーっと力を貯めて、思い切り注ぎ込まないと。だから血を──」
「そう。やっぱり合っているのね」
方法が正解なら、声の言うことなど聞く必要はない。
足りないと言うなら補う手も考えている。
「命じゃ足りないと思うけどなぁ──」
声はなおも食い下がったが、香菜美はそれ以上耳を傾けることはなかった。
いつの間にか上り坂は平坦になり、下り坂へと変わっていった。
◇◇◇
峰を超えて目にしたのはどこまでも続く真っ黒な大地だった。
その中にぽつんと建つ巨大な建物を見つけて香菜美はそれが魔王城だと確信した。
そこからは早かった。
山脈を降りていっても森はなく、ただ荒涼とした岩肌が続くだけで、一気に駆け降りてしまった。
荒野に降り立った香菜美は一直線に魔王城へと駆け、数時間で辿り着いたのだが──不思議なことに魔王城の周囲には誰もいなかった。
城を守る衛兵も、魔王の配下の軍勢も、何もおらず、静寂と闇が満ちていた。
どういうことかと思いながらも、香菜美は魔王城へと足を踏み入れた。
やはり城内にも誰もいない。
ここは魔王城ではないのではないかと思いつつも、香菜美は隅々まで調べることにする。
そして一際大きな扉の前に来た時、扉はひとりでに開いた。
「待っておったぞ。勇者よ」
不気味な声が広大な大広間に響き渡る。
声の主は玉座に座る黒い人影のようだ。
その身体は炎のように揺らめき、目に当たる部分が妖しく光っている。
「あんたが魔王かしら?」
「いかにも。私こそが魔王、ゴリウスである。尤も、今の私はもはや魔王などという範疇には収まらんがな」
大仰に名乗るゴリウスに香菜美は冷笑を返す。
「何?自慢?痛いんだけど」
「その軽口が利けるのも今のうちだ勇者よ。お前には私を倒すことはできん」
「それはどうかしら!」
香菜美は床を蹴って一直線にゴリウス目掛けて斬りかかった。
何の妨害もなく、ゴリウスも逃げようとはしない。
そのことにやや不自然さを感じながらも、香菜美は構わず突き進み、聖剣でゴリウスの首を刎ねた──はずだった。
「驚いたか?」
ゴリウスの首は飛ばなかった。
それどころか、斬った感触さえなかった。
それこそ、すり抜けたかのようだった。
そしてゴリウスはご丁寧に謎の答えをすぐに教えてくれる。
「その剣、忘れもしない。私を何度も切り刻んできた業物──だが、今の私には通用しない。今の私には実体がないのだからな」
「このッ!!」
余裕綽々で宣うゴリウスに香菜美は何度も斬りつけた。
首が駄目なら頭や胸はどうか、聖剣で駄目なら赫き薔薇はどうか。思いつく限りの急所を狙って双剣を振るった。
しかし、そのどれもが虚しくすり抜ける。
「哀れなものだな。その剣の蔓薔薇でどれだけの命を喰らい、ミスリルの力に変えてきたのか。その全ては無駄だったがな」
チノやグラスたちの死を無駄だと嘲笑われ、香菜美は激昂する。
「言うなッ!!」
「くくく、怒るがいい。憎むがいい。その全てが私の糧となる。さあ、もっと私を楽しませてくれ!世界の滅びの前座としてな!!」
ゴリウスは愉快そうに目を細め、香菜美を殴り飛ばした。
実体のない炎なのに、その拳は鉄塊のように固く、重かった。
「ぐあッ!!」
ノゴに蹴られた時よりも強烈な衝撃が香菜美を襲う。
「私に実体がないなら私の攻撃も通らないとでも思ったか?舐められたものだな」
そしてゴリウスは連続して何発も拳打を繰り出してくる。
勇者の力で敵の動きが遅く見えるはずなのに、ゴリウスの腕は数十本に分裂して見えた。
見切ることも防ぐこともできず、香菜美は何度も衝撃に襲われる。
石の床に、柱に、壁に、何度も何度も叩きつけられ、辛うじて振るう反撃の刃はどれも空を切る。
一旦距離を取ろうと走り出せば、眼前に炎の壁が出現し、露出した顔や手の肌を焼く。
そして思わず立ち止まったところに後ろから打撃が飛んできて、香菜美は炎の中にモロに突っ込むことになった。
凄まじい熱と痛みに気が狂いそうになるが、双剣を振るって剣風で吹き散らした。
かと思えば、吹き散らした炎の向こう側から炎の拳が飛んでくる。
避けても無駄だと判断し、聖剣で逆に切り裂こうとする。
力を全力で聖剣に注ぎ込んで、眩く発光させた状態で切りつけたが、拳は聖剣を避けるように分裂し、左右から挟み込むように襲いかかってきた。
左右の脇腹を同時に鈍器で思い切り殴られたような衝撃に、内臓が潰れたように錯覚する。
肺の空気が一瞬で押し出され、必死で息を吸って、血の混じった咳が出る。
「神聖魔法などとっくに克服した。その程度の術式では傷にもならん」
「──なら、何度だって!」
一度で駄目なら何度も──そんな考えはたちまち打ち砕かれた。
何度斬ってもすり抜けるのは同じで、その度に何倍もの反撃が飛んでくる。
もはや戦いとは呼べず、一方的な蹂躙だった。
だが、それすらもいたぶって遊んでいるに過ぎないと分かる。
息も絶え絶えになったところで攻撃が止み、ゴリウスが嘲笑してくる。
「失望したぞ勇者よ。ノゴを殺し、獣人共を殺し、巫女の力まで殺して奪って、その程度か?」
「くあ──どの口が!アンタが戦いに駆り立てたんでしょう!」
香菜美は辛うじてそう言い返したが、ゴリウスは悪びれもせずに更に残酷な事実を告げてくる。
「ああ、人間共に恐怖をもたらすのに必要だったのでな。とっくに全て殺したが」
「──は?」
香菜美は呆気に取られた。
ゴリウスは目を弓形にしならせて嘯く。
「そうだ。残りの四天王も、その配下も全て私が殺した。いい加減に操るにも飽きたのでな。もはや私の楽しみはお前くらいなものだったのだ、勇者よ。それも世界を滅ぼすまでのただの余興だがな」
そしてクツクツとゴリウスは嗤った。
「奴らは役立たずではあったが、最期には私の良い糧となってくれた。かしずき、へつらい、忠誠を捧げてきた私に殺される時の恐怖!苦痛!絶望!実にいじらしく、惨めで、美しいものだったぞ」
「死ねよこのクズ!!!!」
気付けば香菜美は今までの人生最大の怒りを使ったこともない言葉に乗せて叫んでいた。
身体中の痛みにも構わず、血を流しながら香菜美は走る。
怒りを込めた渾身の一撃は虚しく空を切り、両足が浮いた一瞬の隙を炎の拳が襲う。
香菜美の身体は真っ直ぐ一直線に広間の壁へと吹き飛ぶ。
「がはぁ!?」
「怒りに任せて力押しとは笑わせる」
「ひぎいっ!?」
吹っ飛んでいく途中で、今度は上から打撃を受けて床に叩きつけられた。
受け身も取れずに固い石の床に激突し、一瞬目の前が真っ暗になった。
視界が戻っても、そこら中で星が舞う。
何をしている。立ち上がれ。
立って戦え。
そう理性が命じるが、身体は言うことを聞いてくれなかった。
「しかし、つまらぬ。実につまらぬ。あの巫女の娘を殺したのを知って少しは期待していたのだがな」
ゴリウスは動けなくなった香菜美を見てこれ見よがしに溜息を吐くような仕草をする。
それに言い返すことすら、もはやできなかった。
「あーあ。私の言う通り血をくれていたら、もっと戦えたでしょうに」
魔王と戦っていた時は静かだった声が囁く。
「もう貴女の力にできる血はないね。貴女自身の血を使っても届かない。もうおしまいね」
(今更煽り?性格悪いわね)
口は動かず、心の中で言い返した。
「本当のことでしょ?貴女には覚悟が足りなかったってだけ。自分の命も他人の命も皆助けようとするから、な〜んにも得られない。な〜んにも助けられない。このままじゃ本当の本当に無駄死にね」
声は嘲笑うが、その言葉の中に微かな違和感を覚えた。
このままじゃ?
つまりこのままじゃなければ無駄死にじゃない?
(何?何を差し出せばいいの?)
「貴女の魂」
香菜美の問いに声はあっさりと答えた。
(生命力とは比較にならない力になるよ?その代わり長生きはできなくなるけど。まあ半分くらいもらえれば五分五分には──」
(全部あげるわ)
「──へ?」
声が初めて驚いたような反応をする。
(私の魂全部あげるから、あいつを倒す力を私に頂戴。早く!)
「正気?貴女死んじゃうよ?それどころか、輪廻に戻れなくなっちゃうよ?」
そんなことどうだっていい。
魂がどうとか、リンネがどうとか、知らないし、知ったことではない。
自分の命一つで魔王を倒せるなら、そうするのがここに来た意味だ。
ノゴを殺し、チノを殺し、グラスを殺し、名も知らない多くの獣人たちを殺し、守れなかった多くの人々を無惨に死なせた自分がそれでもまだ生きている意味なのだ。
(私の望みを叶えるんでしょ?叶えて!!)
「これだから勇者って──やり方はいつもと同じだよ。全く──」
声はとうとう折れた。
直後にゴリウスが何か思いついたかのように目を見開く。
「──ふむ。一つ試してみるか」
「な──にを──?」
問いかけるとゴリウスが香菜美の隣にしゃがみ込み、囁く。
「私の駒とならぬか勇者よ」
「はぁ?何──言っているの?お断りよ」
即答で拒否するが、ゴリウスは愉快げに笑い。そして語り出す。
「このまま戦ってもお前には死あるのみだ。そして仮に私を倒せたとしても、それは同じだ」
「──何ですって?」
「お前を召喚した魔法は一方通行だ。連れて来るだけで送り返すことはできない。私を倒した後に人間共に残されるのは、魔王すら倒す力を持った異世界の人間──そんなものを人間共がどう見るか、考えてみるがいい」
「ッ!?」
香菜美は目を剥いた。
「くくく、心当たりがあるようだな。──殺されるぞ、勇者よ」
「エノラ様はそんなことしない!!」
全力で否定するが、ゴリウスは香菜美の顔を掴んで無理矢理顔を向かせ、畳み掛けてくる。
「するさ。必ずお前を恐れ、遠ざけ、いつかは殺す。人間は弱く、常に他者を疑い、恐怖し、そして何をしてでも恐怖から一刻も早く逃れたいと願うものだからだ。たとえその恐怖が幻であってもな」
「そ──れは──」
たまらず視線を逸らす。
グラスたちを信用せず、抹殺するよう求めてきた者たちの顔が頭を過ぎる。
「私ならそのようなことはしない。する理由がないからだ。お前に求めることはただ一つ。我が手先となり、この世界を滅ぼすことだ。信じ、縋った勇者によって蹂躙される絶望──それが私の支配する、永遠の闇に閉ざされし暗黒世界の礎となる。──どうだ?私に従うか?」
そんなの、決まっている。
香菜美は言葉を発さずに剣を振るって答えた。
「ふざけるな──エノラ様は誰よりも民思いな優しい方で、行き場のなかった私に居場所をくれたんだ!アンタなんかが代わりになれると思うな!!」
勇者の力で辛うじて動ける程度まで回復した香菜美は震える手足を必死に動かして身体を起こし、双剣を握り直す。
魔王の誘惑に屈して諦めたら、これまでの全てが嘘になる。
あれだけ死なせて、あれだけ殺して、あれだけ酷く裏切って、この上更に殺戮と裏切りを重ねて自分だけが助かろうとするなど、許せるわけがなかった。
「まだ──まだ終わりじゃない!!」
叫んで、香菜美は自分の脇腹に赫き薔薇の刃を当てた。
鉄錆色の蔓が香菜美の身体に巻きつき、棘を突き立てていく。
一瞬の激しい虚脱感の直後、全身に力が漲る。
自分そのものを代価に得た力で、香菜美は再び立ち上がる。
すると、聖剣に彫られたルーン文字が白く輝いて鍔の周囲に魔法陣を形成する。
「また神聖魔法か?今の私には効かんと言っただろう。所詮は無駄な足掻き──」
ゴリウスの嘲笑を他所に聖剣は魔法陣の外周に更にルーン文字と図形を生成して増殖していく。
「な、何だそれは!?その膨大な魔力──まさか貴様、己の魂を魔力に換えおったか!」
ゴリウスが目を見開き、初めて動揺した様子を見せる。
それを見て香菜美は僅かに残っていた迷いを完全に断ち切った。
これは間違っていない。これならば、この魔王を倒せる!
半径数十メートルまで肥大した魔法陣が刃に収束し、聖剣はさながら光の剣のように眩く輝く。
「そんなの、どうでもいいでしょ。アンタは──ぐっ──ここで、完全に消えるのよ!」
赫き薔薇の棘が突き刺さった全身から血を流し、口元からも喀血により血の筋を垂らしながら、香菜美はゴリウスに滅びを宣告する。
「馬鹿な!ただひたすら魔力を注ぎ込むだけで、そんな貧弱な神聖魔法がそのような規模になるはずが──」
ゴリウスが言い終わるよりも早く、香菜美は地を蹴って走り出す。
狼狽したゴリウスはその身体を変化させ、巨大な漆黒のドラゴンと化して天井を突き破って逃げようとするが、香菜美は倒れた柱や壁の装飾を伝って先回りする。
向かってくる香菜美を叩き落とそうと振るわれた翼を斬り飛ばして逆に足場として蹴り、赫き薔薇を振りかぶる。
役目を終えた赫き薔薇をドラゴンの鼻先目掛けて思い切り投げつけると、甲高い音を立てて弾かれたが──鼻先のほんの一部分だけ、鱗を貫通して小さな傷をつけた。
傷口が再生するよりも早く、両手で握った聖剣を傷口に叩き込む。
白銀に輝く刃がドラゴンの鼻先に食い込み──そのまま左右に両断していく。
頭蓋を、首を、胴を、尻尾を、凄まじい衝撃と激痛に襲われながらも香菜美は聖剣を手放さず、全てを綺麗に両断した。
「おのれ!おのれえええ!!人間がァァァ!これでオワッタトオモウナァァァア゛ア゛ア゛!ワタシは必ず──カナラズ──マタ──」
ゴリウスが断末魔の悲鳴を上げ、切断された面から銀色の粒子となって消えていく。
同時に聖剣も限界を迎えたのか、ひび割れ、粉々に砕け散った。
銀色の粒子と聖剣の破片が霧散すると、闇と静寂が戻ってくる。
だが、それは邪悪と死に満たされた影ではなく、穏やかな夜の闇だ。
終わった。
魔王を倒した。
これでやっと、平和が戻る。
最後の力を振り絞って地上に着地した香菜美は安堵感と共に力が抜けて倒れ込んだ。
その直後、暗闇の中に一条の光が差した。
辛うじて動く首だけ回して空を見ると、空を覆っていた暗黒の雲が晴れて月が輝いていた。
そういえば、この世界ではゆっくり夜空を見上げたことはなかったな──と香菜美は思い出す。
元の世界で夜空を見上げていた現実逃避の時間がなぜだか懐かしく思えてくる。
(最期に見る景色がこれか──悪くないかもね)
その思考と共に香菜美の意識は途切れる。
◇◇◇
香菜美が目を覚ますと、崩れた天井から日の光が差し込んでいた。
(あれ?生きてる?)
たしか、赫き薔薇に自分の魂を喰わせて魔力に変え、魔王と相打ちになったと思ったのだが──身体を見ると、巻きついていた蔓や花は綺麗さっぱり消えていた。
あれだけあった傷も一つもなく、ただあちこち破れた学生服と柄だけになった聖剣のみが激闘の痕跡として残っていた。
「そうか。私──魔王を倒したんだ」
独り言を口にしたら、目が潤んだ。
やっと、やり遂げられた。
多くの犠牲に報いることができた。
「ごめん。ごめんなさい──」
香菜美は泣きながらここに来るまでに犠牲になった者たちに謝った。
勝利の喜びよりも、申し訳なさの方がずっと大きかった。
ひとしきり泣いた後、香菜美は赫き薔薇を探した。
崩壊した魔王城の外に落ちていたそれを香菜美は拾い上げて聖剣の鞘にしまった。
もう声は聞こえてこない。
心なしか、刃の深紅が色褪せているようにも見えた。
だが、だからといって権能が消えたとは思えなかった。
魔王がいなくなった今、こんな悍ましい武器を放置しておくわけにはいかない。
どこか、人も魔物も寄りつかない場所に捨ててしまわなければ。
そう決意して、香菜美は魔王城を後にした。
香菜美が赫き薔薇の捨て場所に選んだのは、魔王城に来る途中に越えた山脈にある深い渓谷だった。
どこまでも深く口を開けた谷に流れ落ちる滝の前で、香菜美は赫き薔薇を鞘から抜き、思い切り放り投げた。
赫き薔薇はたちまち底知れぬ裂け目の奥底へと呑み込まれていった。
ここなら誰も来ないし、自分が誰かに話さなければ場所も永遠に分からなくなる。
もう二度とあの惨たらしい死に方をする者は出なくなるだろう。
心の中でもう一度、赫き薔薇の犠牲になった者たちに詫びてから、香菜美は下山を開始した。
これで自分がなすべきことはひとまず終わった。
王都に帰ろう。
帰って、エノラや旅人やジン、ラゾ、そして街の人々に魔王を倒したことを知らせよう。
それでようやく、皆が安心して暮らせるようになる。
自然と足取りが早まる。
◇◇◇
王都。
城の一室でエノラは一心に祈りを捧げていた。
香菜美が失踪してからもう半年近くが経つが、彼女の消息は未だ知れない。
何度か捜索隊を出してみたが、見つかることはなかった。
口さがない者たちは香菜美が逃げたのではないかと疑い、新たな勇者召喚を行うべきだと主張したが、エノラはそれを何とか抑えてきた。
そもそも、香菜美は勇者の武器を持って出ていったのだ。
新しく勇者召喚などしたところで、その勇者に使わせる武器がない。
それに香菜美が自分たちを見捨てて逃げるような人間とは思えなかった。
それに、香菜美が出ていってから一度も獣人や魔物の襲撃は起きていない。
そのことが辛うじて新たな勇者召喚を行う必要がない根拠になっていた。
とはいえ、それも長くは保たないだろうが。
エノラにできるのは香菜美の無事と一日も早い帰還を祈ることだけだ。
跪き、一心不乱に祈りを捧げていると、扉が開き、騎士が飛び込んでくる。
「じ、女王陛下!城門より急報です!」
息も絶え絶えに絞り出すような声で報告してくる騎士の姿に思わず身体が強張る。
「何事ですか?」
内心の動揺を隠して問いかけると、騎士は笑顔を浮かべた。
「カナミ様が!カナミ様が帰還されました!魔王討伐、成功です!!」
直後に城の外から上がった大歓声が聞こえてきた。
魔王討伐と香菜美の帰還はすぐに王都中に伝わり、そこら中お祭り騒ぎになった。
人々は香菜美を囲んで口々に讃えながら城まで行進し、その人数は大通りを埋め尽くすほどにまで膨れ上がった。
エノラは廷臣たちと共に城の門前まで出てきて、香菜美を待っていた。
「カナミ様!」
「よくぞ!よくぞご無事で!」
我慢できなかったのか、ジンとラゾが飛び出してくる。
「──ただいま」
駆け寄ってきた二人にそう言うと、二人は男泣きに泣いた。
「カナミ様」
二人の後から進み出てきたエノラが香菜美の前にかしずく。
「この度の英雄的なご活躍、誠に感謝の念に耐えません。本当に──うぅ、ありがとう、ございます」
今まで背負ってきたものが下りて、抱え込んでいたものが溢れ出したのか、エノラは泣き出した。
「ごめんね、エノラ様。たくさん心配させたし、迷惑かけちゃったよね。でももう大丈夫。全部私が終わらせてきたから」
もらい泣きしながら、香菜美はエノラを抱きしめた。
その光景を見て人々は感涙に咽び、より一層香菜美を讃える声を張り上げた。
◇◇◇
それから数日が経った。
王都ではまだお祭り騒ぎが続いていたが、城では今後の方針を巡るあれやこれやが始まっていた。
香菜美の捜索のための派兵や、新たな勇者召喚は取り止めとなり、避難民の帰郷及び彼らの故郷への支援が取り沙汰されるようになった。
香菜美の役目はもう終わりだ。
柄だけになった聖剣と聖なる鎧は手放し、武器庫に戻してもらった。
その際に聖剣を壊してしまったことを謝ったが、責める者はいなかった。
ただ、赫き薔薇を捨てたことは秘密にしておいた。
魔王との戦いで失われたことにしておくのが一番いい。
魔王を倒すまでの経緯は根掘り葉掘り訊かれたが、それだけは徹底して伏せた。
役目こそ終わったが、何もしないでダラダラしていることはできなかったので、街に出て工事や炊き出しを手伝った。
赫き薔薇にどれくらい魂を喰われたのかは分からないが、それで何か変わったという実感はない。
身体は何の問題もなかったし、勇者の力はまだ残っていた。
重い石でも軽々と持ち上げ、その状態で苦もなく走る力が必要とされる場面はまだいくらでもある。
そうして街に出ながら人々の中に旅人の姿を探したが、見つけることはできなかった。
街で出会う人々にも訊いてみたが、誰も行方を知らなかった。
以前は街に出る度に不思議と会えたというのに、まるで嘘のようだ。
どこか別の所にいるのか、それとももう新たな旅にでも出てしまったのか。
最後に会ったのはほんの何ヶ月か前なのに、もう顔すらおぼろげにしか思い出せない。
もう一度会って別れ際の態度を謝り、旅の話をしてみたかったのだが。
それから数ヶ月が経ち、王国全土の復興に向けて、避難民の帰還が始まった。
食料と道具を持ってそれぞれの故郷に帰り、荒れ果てた家や畑を再建することになる。
ようやく帰れることに皆安堵し、希望の表情を浮かべていた。
その希望をもたらしてくれた香菜美には当然数多の感謝が述べられる。
香菜美は彼らについていって復興を手伝おうかとも思ったが、彼らは断った。
これまで香菜美には世話になりっ放しで、故郷くらい自分たちの手で建て直したいのだと。
その代わりに建て直したら彼らの村を訪れるという約束を交わした。
徒歩で、あるいはロバに牽かせた荷車で、次々に王都を旅立っていく彼らを城門で見送る度に、これで良かったのだという思いが強まっていく。
この笑顔と希望のために自分は戦った。
失ったものは多いが、少なくとも彼らのことは救えた。
そのことを誇る気にはなれなくとも、自分をこれ以上責めることもない──そう思った。
◇◇◇
避難民の帰還事業が一段落した頃、城で香菜美を讃える祝勝会が催されることが決まった。
改めて戦った者たちと復興のために尽力した者たちを労い、次なる一歩を踏み出すための一つの区切りとして、盛大に行うことになった。
香菜美は衣裳部屋へと通され、豪華なドレスに着替えさせられた。
着たこともない煌びやかな衣装に面食らっているうちに髪にも櫛を入れられ、綺麗に編み込まれる。
鏡に映った自分は今までとはもはや別人のようだ。
「お綺麗です。カナミ様!」
「まさに本日の主役ですね!」
エスコート役のジンとラゾが若干赤面しながら褒めちぎってくる。
「あ、ありがとう。何だか私じゃないみたい」
おっかなびっくり、彼らに導かれて、香菜美は会場の食堂へと赴いた。
食堂は相変わらず照明が最低限で薄暗かったが、以前よりも豪勢な料理が並んでいた。
金属製の杯にワインが注がれ、出席者に配られていく。
香菜美には城に秘蔵されていた最も良いワインが注がれた。
断る気はもはや起きず、香菜美はすんなりと杯を受け取った。
「カナミ様と我々の勝利に!」
「「「「「勝利に!!」」」」」
高位の大臣が音頭を取り、乾杯が行われた。
ジンとラゾが杯を手に駆け寄ってきて、真っ先に香菜美と杯をぶつけた。
その後もエノラや重臣たちと乾杯を求められて、てんやわんやになったが、彼らもはけてきたタイミングで香菜美は受け取った高級ワインを一息に飲み干した。
喉が潤うと、料理に手をつけた。
相変わらず良い具合に味付けされていて美味しい。
美食で腹が満たされてくると、心も落ち着いてくる。
これからの──未来のことも考えられる余裕が出てくる。
魔王を倒した後、少しずつではあるが、考えていた。
召喚魔法が一方通行だというのが事実だと、シタサンに確認して分かった時はショックだったが、むしろせいせいした気分になったのも確かだ。
どうせ戻っても母親に売られるだけなのだから。
その可能性が潰えた今、この世界で生きていくことにもう迷いはない。
帰ってから王都でしてきたように、荒れ果てた世界の復興のため、平和のために力を尽くそう。
王都だけでなく、国中を回って困っている人を助けに行こう。
そう改めて決意した香菜美だったが──不意にフォークとナイフが手から滑り落ちた。
落ちたそれらが皿にぶつかって大きな音を立てると同時に、全身の力が抜けて香菜美は椅子ごと倒れ込んだ。
頭を打ったらしく視界がブレるが、痛みすら感じない。
やがて焦点が戻り、蒼褪めた顔で呼びかけてくるジンとラゾの顔が見えた。
だが、彼ら以外は誰もただ見下ろすだけで助けようともしない。
それを見て、香菜美はようやく自分の身に起きた事態を悟った。
──私、死ぬんだ。
おそらくワインか食べ物に毒を盛られた。
しかもただの毒ではなく、体内の力の流れを阻害して速やかに意識を奪い、勇者の力による対処を許さない特別製のもの。
そうとは知らずに必死で何とかしようとしているジンとラゾの背後で、エノラが泣きそうな顔で見下ろしているのが分かる。
ぼやけていく彼女の顔を見て、得心が行った。
エノラは本当に優しい子なのだ。
ただ、その優しさは香菜美にではなく、自分の民に向けられていた。
魔王すら倒す力と王すら凌ぐ人気を持つ、手の付けられない危険物を始末する機会を逃さなかった。
それだけのことだ。
結局、魔王の言った通りだった。
ぼやけた視界から光が遠のき、真っ黒な霧に覆われていく。
寒い。
怖い。
恐ろしい。
嫌だ。
どうして?
信じていたのに。
寂しい。
助けて。
理不尽過ぎる。
でも──結局こんな結末が私には相応しいのかもしれない。
自分を本当の意味で愛し、大切にしてくれた人を裏切って、どんなに後悔を重ねても結局惰性で裏切り者の下に生き続けて、現実逃避ばかりしていた。
そんな私が英雄の器のわけがないのに、崇められて、求められて、何も知らずに良い気になっていた。
そしてそんなまやかしの英雄の立場のために、あまりにも多くのものを壊し、奪い、殺した。
ありもしない自分の居場所を信じて都合の良い道具として使い捨てられ、終いには用済みとして始末された。
嗚呼──結局私はあの母親の子。目先のことに囚われて物事の本質に気付かない愚か者だった。
でも──もう自由だ。
犯した罪とその罰に苦しみ続ける悪夢がこれでやっと終わる。
もし──もし、この先で会えるのなら、私を待ってくれているのなら、謝らないと。
チノに、グラスに、狼族の戦士たちに、そして何より、ずっとそうしたいと願ってできなかった人に。
あの時私が犯した罪を──懸命に守ってくれていた幸せな日々を裏切って、一人ぼっちで死なせてしまったことを。
今更許して欲しいとは言わない。
ただ、一言だけでもいいから伝えたい。
一目でいいから会いたい。
「おと──う──さ──ん」
引き攣った喉で辛うじて呟いたそれが、香菜美の最後の言葉になった。
◇◇◇
「ふふ。くふふふふふ。フハハハハ!!遂に、遂に手に入れたぞ!お前の最悪のトラウマを!喜ぶがいい!今度はお前の胎に宿してやろう。尤も、傷つき壊れた彼女はお前を愛さないし、お前も彼女を愛せないだろうがな!ハーッハッハッハッ!!」
虚空に誰かの哄笑が響く。
その笑い声に乗せられるように、一つの壊れかけた魂が揺蕩いながら流れていく。用意された新しい命の器へと。
運命の歯車がまた一つ、回り始める。