俺が知る彼女は凛々しかった。
将来王妃となるべく英才教育を受けて育ち、文武両道にして才色兼備のまさに完璧なお嬢様だった。
──去年までは。
学園一年目の春、彼女の婚約者であるユリウス王太子殿下が特待生のオリヴィアを見初められた。
それはこの世界の
だが、現実というのは誰かが書いた筋書き通りにはいかないものである。
考えてみれば当然だった。
原作からして正しい選択肢を選んで十分にキャラを強化しなければ──つまりプレイヤーが介入しなければゲームオーバーまっしぐらだったのだ。
いくらゲームの世界とはいってもここは現実。
現実にはプレイヤーはいない。
いるのは思春期の年相応に馬鹿で世間知らずで間違いだらけの少年少女たちと、彼らの無知に付け込み利用しようとする汚い大人たちだけ。
そんな中にあって彼女は溢れる才と真っ直ぐな心を持ち、眩いほどに輝いていた。
皮肉なことにそれが周りの心に影を落とし、彼女は周囲から疎まれ、嫌われることになった。
彼女は内心それに気付いていたに違いない。
分かっていてもどうしたらいいのか分からなくて、誰にも助けを求められず、それでも懸命に為すべきことを為そうとし続けた。
そして行き着いた先があの惨劇だ。
誰よりも熱く輝いていた炎のような彼女はもういない。
いるのは──
「り、リオン。放課後──一緒に試験勉強、しないか?」
震える拳を胸元で握り締めて、不安げな顔で提案してくるオドオドした少女。
それが彼女──【アンジェリカ・ラファ・レッドグレイブ】の成れの果てだ。
綺麗に編み込まれていた金色の長い髪はあっさりしたストレートになって癖で外ハネし、色が完全に抜けて白くなっている。
生来の紅玉を思わせる赤い瞳と相まってアルビノのような美しさである。
そして顔の右半分を覆い隠すほど伸びた前髪で右目は完全に隠れている。
そうなった事情と以前の姿を知っていれば痛ましいと言うほかないが、それでも可愛らしいと思ってしまう。
少し、複雑な思いで見惚れていたら、アンジェリカが袖を指先で摘んでくる。
「や、やっぱり嫌か?」
今にも豊かな胸が俺の身体に触れてしまいそうな至近距離から揺れる赤い瞳に見つめられて、俺は慌ててアンジェリカの不安を否定する。
「そんなことないよ。大丈夫だから」
「ほ、本当か?私は──リオンの負担になっていないだろうか?」
アンジェリカはなおも疑い、不安を口にする。
「本当だよ。負担とか迷惑とか思ったことないから。行こう?」
優しい言葉を捻り出し、傷つけない言い方を考え、何とかアンジェリカを落ち着かせようと宥めると、ようやく彼女はホッと安堵の息を吐いた。
「よかった」
見ての通り、アンジェリカは自信に満ち溢れていた以前とは別人のように遠慮がちで疑い深くなってしまった。
以前は大勢の取り巻きに囲まれていたのに、今や俺以外誰も彼女の周りにはいない。
そのせいで、彼女は明らかに俺に依存している。
俺に嫌われること、俺が離れていくことを極端に恐れ、俺の言動や表情にいちいち一喜一憂し、不安と安堵を行ったり来たりする。
──はっきり言って重い。
でも、俺は彼女を嫌いになれない。
だからこうして今日もお茶会用の部屋でテーブルに教科書とノートを広げて勉強に付き合う。
変わり果てたアンジェリカだが、その明晰な頭脳と豊富な知識は変わらない。
だから俺はいつも教わる側である。
「──なるほど。そういうことか。やっと分かった」
今回もまた、複雑な魔法式に四苦八苦し、アンジェリカが何度も噛み砕いて説明してくれてようやく腑に落ちた──ように思う。
「これくらいはまだまだ基礎の範囲だぞ。これくらいできないとこの先ついていけないからな」
アンジェリカが溜息混じりに言う。
「うへぇ──きっつ。嫌になるなー」
呑み込みが良い方でないのは自覚しているが、さすがに凹む。
思わず愚痴が漏れた──かと思った次の瞬間目の前にアンジェリカの顔があった。
「うわっ!何なに?」
あまりにも唐突で、しかも目からハイライトが消えて真っ暗だったせいでかなりビビった。
「ち、違うんだ。馬鹿にしたとか、そういうわけではなくて──でも、気を悪くしたよな?本当にすまない。頼む──私を嫌わないでくれ」
「うんうん!嫌いになんてならないから!──絶対に」
冷や汗を浮かべて懇願してくるアンジェリカの顔がもはやホラーで、俺は必死で頷くしかなかった。
それでやっと落ち着きを取り戻してくれたアンジェリカがハッと思いついたような仕草をしたかと思うと、訊いてくる。
「そ、そうだ。何かして欲しいことはないか?お詫びに何かさせてくれ。でないと気が収まらない」
言葉一つで大袈裟ではないかと思うが、断ったらアンジェリカはまた不安になるのだろう。
「じ、じゃあ、お茶にしようか。もう一時間くらい経っているしさ。淹れてもらえる──かな?」
いくらオドオドしていて病的なほどに従順でも、彼女は公爵令嬢である。
本来そんな雑用を頼んでいい相手ではないのだが、それでもやらないとまた泣きながら縋り付いてきそうなので仕方ない。
実際、頼まれたアンジェリカは笑顔を浮かべる。
「任せてくれ。良い茶葉とお菓子を買ったんだ。少し、待っていてくれよ」
そう言ってテキパキとテーブルの上を片付け、クロスを敷いて茶器を用意し、お湯を沸かして、キャビネットからお茶請けを取り出して並べる。
無駄なく洗練されたその動きを見ていると、彼女が本物のアンジェリカで、公爵家のお嬢様だと実感できる。
俺も師匠にお茶を教わって、お茶の道を歩んでいるが、彼女に比べればまだまだだ。
「で、できたぞ」
上等なカップに注がれた真っ赤な紅茶が差し出される。
早速一口頂き──
「熱っ!」
慌てて息を吹きかけて冷ます。
「す、すまない!大丈夫か?」
アンジェリカが大慌てで駆け寄ってくる。
「本当にすまない。私は──リオンに一番美味しい味のお茶を飲んで欲しくて──」
涙目で必死に弁解するアンジェリカ。
こういう健気さが、俺が彼女を嫌いになれない理由だ。
──いや、違うな。
俺はアンジェリカが好きなのだと思う。
でなきゃ、こうまでしていない。
だけど、それを言うのは烏滸がましいことだ。
彼女の人柄を見ようとせず、ただその行動と一面だけを見て悪役と決めつけ、瞬間湯沸かし器などと揶揄していた。
彼女が助けを必要としている時に何もせず、彼女が全てを失った後になって善人ヅラして近づいた。
そんな俺がアンジェリカを好きになって良いわけがない。
だから、この距離感が正解なのだ。
いつか彼女が立ち直って、彼女の全てを受け入れてくれる素敵な人に出会って幸せになるまで、俺は支え続けよう。
そして彼女が幸せになるのを見届けたら、潔く身を引こう。
それをやり遂げて初めて俺は自分を許せるだろう。
◇◆◇◆◇
私には生まれる前から決められた許婚がいた。
この国の王太子【ユリウス・ラファ・ホルファート】殿下。
私が愛し、支えるはずだった男だ。
幼い頃、泣き虫だった私に優しく寄り添い、僕が一生守ってあげると約束してくださった日のことは今でも覚えている。
その約束を胸に私はどんな課題も困難も乗り越えた。
殿下が国王に即位なされた時、その治世が良きものとなるように、寸暇を惜しんで勉学に励み、武芸の鍛錬も怠らず、王妃様の傍で実務を学んだ。
全ては殿下のため、この身この命全て捧げるつもりだった。
だが、それが実を結ぶことは終になかった。
殿下の心は私の方を向いてはいなかったのだ。
言の葉にするのも忌まわしい平民出の特待生──オリヴィアに誑かされた殿下は至る所で軋轢を作りながら彼女に入れ込んだ。
度し難いことに本来それを諌める立場にあるはずの乳兄弟や友人たちまでもが一様にオリヴィアに入れ込み、彼女を取り合った。
私は彼らの婚約者たちとも話し合って何度も諌めようとした。
その戯れの行き着く先が何であるか、丁寧に説明し、真心を込めて説得すれば分かってもらえる──何の根拠もなくそう思い込んでいた。
だが、私が声を上げる度に殿下たちの態度は硬化していった。
学園外の立場を持ち込むなだの、干渉するなだのは序の口。
関わってなどいないし、知りもしなかったオリヴィアへのいじめの主犯扱いされた時は怒りと悔しさで部屋を焼き尽くしそうになった。
それでも国のため、殿下本人のためと信じて堪えていた私が遂に暴発したのは一年生の二学期、その学期末パーティーだった。
こともあろうにオリヴィアは私の行動を本当の愛ではないと言ったのだ。
私と殿下のことを何も知らない、後からしゃしゃり出てきて平気な顔で多くの男を侍らせる売女がどの口で本当の愛などとほざく。
私は衝動的にレッドグレイブの焔を解き放った。
何がどうなっても、何を犠牲にしても、この魔女だけは葬り去らねばならない。
そう思った。
だが、私の焔がオリヴィアを焼くことはなかった。
焼かれたのは私の方だった。
オリヴィアが咄嗟に展開した魔法で私の焔は弾き返され、別の魔法で相殺されて消えた。
そして飛び散った焔の破片が私の右目に直撃した。
私自身を焼くことなどないはずの焔が私の右目を潰し、顔の右半分を焼け爛れさせた。
不幸中の幸いは私以外の怪我人がいなかったことだろう。
でなければ私は問答無用で自裁となっていたはずだ。
私が焔を向けたのがオリヴィア一人であり、他に加害の意思はなかったこと、私以外に被害はなかったことで自裁こそ免れたが、屋敷での謹慎を命じられた。
殿下との婚約も破棄となった。
私と殿下の十数年の関係は紙切れ一枚であっさりと終わりを告げられた。
世界から色が消えたようだった。
謹慎期間が明けて学園に戻った時、私の居場所はもはやどこにもなかった。
かつての世話役たちは皆殿下たちとオリヴィアに取り入り、私を落ち目と嘲笑った。
それ以外の者は遠巻きに哀れみの目を向けてくるか、私の顔を見て恐怖していた。
私自身の焔で焼かれた私の傷は大きな火傷の痕となって残った。
治療魔法も薬草も効果を発揮せず、まるで呪いのように私の右目の周りに刻み込まれたのだ。
当然右目は光を失ったまま。
おまけとばかりに黄金に喩えられた髪も心労からか色が抜けて老人のように白くなった。
許婚も、地位も、人脈も、夢見た未来も、女の矜持も全て失った。
そこに現れたのがリオンだ。
誰も私に近づこうとしなかった中で唯一彼だけが私を気にかけていた。
当初の私は何もかもが信じられなくなっていて、彼に随分と辛く当たってしまったが、彼は何度拒絶されても私に近づくのをやめなかった。
──絆されるのにさほど時間はかからなかった。
彼と話をし、食堂で食事を共にし、放課後に屋台のクレープを食べ、寮までの道を共に歩き、休日にダンジョンに潜って小遣いを稼ぎ、小さな部屋を借りてお茶会をする──そんな彼との時間が心地良く、心安らぐことに気付いたのはもう随分前のことだ。
私の中でリオンの存在はどんどん大きくなっていった。
今やかつてユリウス殿下を愛していた時と同じかそれ以上に、私はリオンを愛してしまっている。
でも──私は彼と一緒にはなれない。
身分の違いもそうだが、そもそも彼が私の側にいるのは同情によるものだ。
彼は素晴らしい実績を残した冒険者で、学生にして自分の領地を持っているし、それなりの財もなしている。
だから結婚を焦らずに私のような落ちぶれた者を憐れんで時間を割く余裕があるのだ。
実際、何度かさりげなく誘ったり迫ったりもしてみたが、彼は私に女としての魅力を感じていない。
当然だ。
みっともなく足掻いた挙句に怒りに任せて暴挙に走り、自分だけが負傷して醜くなった。
おまけに善意で気にかけてくれた彼を当初手酷い言葉で拒絶した。
こんな私が愛されるなどと思うほど自惚れてはいない。
それでも──私はリオンの側にいたい。
リオンまで失ったら、私はもう生きていけない。
だから絶対に嫌われないようにしなければ。
彼が私に愛想を尽かして離れていくなど、あってはならないことだ。
そのためなら私は何だってする。
頼み事ならいくらでも引き受けるし、その出来が気に入らないなら満足するまで何度でもやり直す。
私の身体が欲しいならいくらでも差し出そう。むしろこんなに醜い身体を欲してくれるなど身に余る喜びだ。
リオンに仇なす敵はどんな手を使っても止めるし、策謀や奸詐は全て暴いて挫いてやる。
リオンが望むなら、全てを焼き尽くしたっていい。
だからリオン、お前は──お前だけは私を捨てないでくれよ。
贖罪意識からの共依存っていいと思うの──