冷えた風が容赦なく吹きつける。
どこまでも続く原野。駆けていると、自分のちっぽけさがまじまじと見えてくるようだった。思わず叫びたくなる心を押し止め、孫策は一段と強く乗馬に鞭をくれた。
追従してくる一頭に、女が乗っている。周瑜。物心ついた頃からの盟友であり、無二の存在だった。
追いつかれそうになる寸前で、突き放す。それを、ここまで何度も繰り返していた。立ち止まれば、間違いなく小言が飛んでくる。それを避けようとして、自然とこうなっていたのである。
「遅いぞ冥琳。この調子では、日が暮れても追いつかれることはあるまい」
周瑜の真名を呼び、孫策は快活に笑った。
この時間が永遠に続けばいい。そう思えるくらい、孫策は冥琳との遠乗りが好きだった。
原野を馬で駆けている間は、なににも縛られなくて済む。孫家の血筋。当主としての責務。そして、厄介事ばかりを運んでくる蜂蜜好きの小さな暴君。
澄んだ空気。腹いっぱいに吸い込むと、活力が身体の奥底から湧いてくる。
袁術の営む宮殿での暮らしは、虜囚同然だという感覚がずっとある。だが、抜け出す算段が出来上がっていないのが現状だった。雌伏の時。そう言えば聞こえはいいが、燻っているだけで世界が変わることなどあり得なかった。
「ふう、やっと止まってくれたか。日頃の鬱憤晴らしとはいえ、付き合わされる私の身にもなってみろ、一刀」
「そこの小川で水を汲んでくる。ちょっと休憩でもしていろ、冥琳。宮殿暮らしでなまった身体には、さぞかし効いたことだろう?」
「馬鹿なことを言う。おまえとて、それは同じことだろうに」
消え入るような声。
腰に履いた剣の鳴らす音すら、泣いているように聴こえてきてしまう。
とにかく、兵を集める必要がある。義母から引き継いだ軍勢は、今や分断された状態となっている。袁術の寵臣である、張勲の仕業だった。とぼけた感じのする女だが、そのあたりの目配りには抜かりがない。苦しんでいる自分を見て、袁術が上機嫌になる。張勲の謀略は、ただそれだけのために振るわれているといっても過言ではなかった。
竹筒を川に浸け、中身を満たしていく。岩陰の裏。そこから、人の気配がしているような気がしていた。ここには度々足を運んでいるが、誰かと遭遇したようなことはほとんどない。野兎や鹿など、動物の方が多いくらいの土地だった。
もしや、どこかからの間者か。
息を殺し、孫策は歩を進めた。大岩に沿うように身体を動かし、わずかばかりに顔をのぞかせる。直感した通り、そこには確かに女がいた。褐色の肌。その上を這うように刻まれた刺青。まずいと思いながらも、視線が釘付けになった。
燃えるような赤い髪。浴びたばかりの水が、そこからしとどに流れ落ちている。
無防備なはずなのに、隙がない。最近では、ほとんど感じることのなくなった雰囲気だった。何者なのだ、この女は。見ているほどに、興味が湧いてくる。もっと深く知りたいと思わせるなにかが、女にはあるのか。
「おまえ、だれ……?」
しまったと思った時には、もう手遅れだった。
荒々しい闘気。それが塊となって、孫策に襲い来る。裸のままの女に突き飛ばされ、組み敷かれた。予想を越える素早い踏み込みに、反応が間に合わなかったのだ。
息が詰まる。凄まじい膂力で全身を抑え込まれたまま、首に手をかけられている。人を殺すことに慣れた手付きだと思った。女体のやわらかさを感じている暇など、微塵もない。剣を抜くことは諦め、孫策は渾身の力で頭突きをかましていた。
「あうっ!?」
可愛らしい悲鳴。河原に響いたのと同時に、体勢が入れ替わった。
馬乗りになってみると、色々な部分が鮮明に見えてくる。赤くなった額だけではない。女であることをを強く意識させる乳房。やわらかさと強靭さを兼ね備えた腹。なにより、その野性味のある瞳がどこか義母を思わせるようで、孫策は強く懐かしさを感じている。
「はははっ! どこの誰かは知らんが、面白い女だ。俺は孫策、字を伯符という。女、おまえの名を聞かせてはくれないか」
「……私は呂布。字は奉先」
意外なくらい律儀に、女が名乗り返してくる。
呂布奉先。その名には聞き覚えがあった。少し前まで権勢を振るった董卓子飼いの猛将。その中のひとりの名が、呂布だったはずだ。
袁紹を中心とした連合軍に敗れ、董卓は死んだとも姿をくらませたとも噂されている。主を失った呂布も、それで各地を転々としているのか。
「おまえ、恋を殺しに来たんじゃない? もしかして、悪いやつじゃなかった?」
下になっている呂布が、ぽつりと呟いた。
放浪の旅は、楽ではなかったのだろう。強靭な旗印の欠落は、そこに集っていた人間の運命を狂わせる。自分と同じか、それ以上の経験を呂布はしているのではないか。そう思うと、急に同情心が湧いてくる。それに、この出会いは簡単に手放していいものではないと孫策は思った。
「帰りが遅いと心配して来てみれば……。まったく、なにをやっているのだおまえは」
「なにか勘違いをしているようだが、これは違うぞ。この女の名は呂布。天下の飛将軍といえば、おまえも知っているだろう、周瑜。これだけの強さだ。たぶん、間違いない」
「なに、呂布だと? 驚くべきことだが、冗談で言っているわけではなさそうだな、孫策」
少しでも気を許せば、手痛い反撃を食らわされる。呂布の気迫は、まだ消えてはいなかった。
「呂布よ。浪々の身では、まともな飯にもありつけてはいないのではないか? そちらさえよければ、なにか馳走してもよいのだが」
思考を切り替えた冥琳が、咄嗟の判断で呂布を説得にかかる。
飯で釣るのはあまりにも短絡的すぎるような気もするが、人間空腹には抗えないものである。見た感じ、呂布は世渡りが上手そうにはとても思えない。そのあたりから推察して、冥琳は誘いをかけたのだろう。
「んっ……。お腹は、ずっとぺこぺこのまま。洛陽を出てから、赤兎にもご飯をちゃんとあげられてない」
呂布の腕に込められていた力が、少しずつ緩まっていく。
視線の先には、燃えるような体毛を持つ馬がいた。その名を、赤兎というのだろう。
「とにかく、服を着ろ。この孫策という男は無類の女好きでな。川辺で水浴びをしている貴殿を見つけて、すけべ心で近づいたのだろう。そのことに関しては、私から謝罪させていただく」
「別に、謝ってもらう必要なんてない。先に襲ったのは、恋のほうだから」
「だそうだぞ、周瑜?」
「調子に乗るな。ほら、さっさとどかないか、孫策。おまえ、今になって離れるのが惜しくなっているのではなかろうな?」
「ははっ。それはおまえの考えすぎだ。昨晩から今朝まで、たっぷり相手をしてくれただろう? だから、あちらの発散はそれなりにできているのさ」
「なっ……!? お、おまえという男はぬけぬけと……!」
苛立たしげだった冥琳の顔が、真っ赤に染まっていく。呂布の天真爛漫な瞳が、その様子をじっと見つめていた。