服を着直した呂布を伴い、孫策は再び原野を駈けていた。
疾走する赤兎の姿は見事というほかなく、ほとんど見惚れてしまっていた。自分もそれなりの馬を選んで乗っているつもりだったが、格が違う。発する気高さ。理性の宿った瞳。それでいて、大地を蹴る脚はどんな馬よりも力強いのだ。
掴まれていた首。あと少しで、へし折られていたのではないかと思えてくる。鬼気迫る殺気を発していた呂布だが、今はどこ吹く風で馬上の景色を愉しんでいた。
その変わりようがおかしくて、つい心を惹かれてしまう。呂布のような魅力を持った女は、そういるものではない。冥琳に叱られようと、本心を偽ることなどできなかった。
「んん……。おでこ、まだひりひりする。孫策は、かなりの石頭」
「こちらは、おまえの馬鹿力に冷や冷やさせられた。眼があっただけで、殺されかけたのだぞ? 状況が普通でなかったとはいえ、ああいうのは二度と御免だ」
「あう……。あれは、恋が悪かった。お詫びに、真名を預けたい。だめ、孫策?」
「いいのか、そんな簡単に真名を許しても。別に、責めているわけではないのだが」
「そうなの? だけど、真名で呼んでくれていい。ご飯を食べさせてもらうのに、恋にはお金がない。すぐにできるお礼は、そのくらいしかないから」
「ははっ。律儀なやつだな、おまえは。俺の真名は一刀だ、恋。一に刀と書いて、一刀という」
「一刀……? うん、がんばって覚えておく」
呂布こと恋が、うれしそうにはにかんでいる。
天下の飛将軍。数多の群雄におそれられた女。皮を一枚剥いただけで、その印象がここまで変わるのか。
隣を行く冥琳も、興味深そうに観察を続けていた。自分が直感しているように、恋との出会いが孫家の今後に影響を与えると感じているのではないか。袁術の麾下でしかない現状を抜け出し、天下へ再度邁進する。それができなければ、家督を継いでいる意味などなかった。
「冥琳だ、呂布殿。一刀同様、よろしくお願いしたい。この出会いが一過のものではなく、長い付き合いになればいいと考えている」
「んっ……。よろしく、冥琳。難しい話はわからないけど、恋にはどこにも行くところがない。闘いはちょっと得意だから、なにかあったら言ってほしい。たぶん、役に立てるから」
「承知した。代わりに、こちらは家と食事を提供することを約束する。それでよろしいかな、恋殿?」
恋が素早く首を縦に二回振った。
まるで、機嫌がいい時の子犬かなにかではないか。同じことを考えているのか、冥琳がこらえきれずに笑っている。
†
夕刻。南陽に帰還した孫策は、冥琳と恋の二人を連れて館に向かっていた。
それなりの構えをしていて、暮らすのに不自由はなかった。同居しているのは自分と冥琳、それに血のつながりのない妹たち。まっとうな感覚がないせいか、これでも袁術からしてみれば寂れた部類に入るのだろう。
痛くない腹を探らせないようにと、特に手を加えないである門をくぐる。旅先にきた気分でいるのか、恋はちょっとそわそわしているようだった。
「あっ、兄様! もう、遠がけってどこまで行ってたの? 全然帰ってこないから、お姉ちゃんなんてすっごく機嫌を悪くしちゃってさー」
小さな身体。勢い任せに、抱きついてくる。
尚香。真名を、小蓮という。末妹であり、言動の端々にまだ幼さが見え隠れしていた。
軽々と抱き上げ、孫策が笑っている。
「こちらにも、事情があったのだ。向こうで出会った客人を連れてきた。呂布殿という。おまえも挨拶をしておくのだな、尚香」
「んん、そうなの? よろしくね、呂布さん。私は、尚香っていうんだよ。それにしても、どこかで名前を聞いたことがあるような?」
「董卓軍にその人ありと謳われたのが、この呂布だ。俺も、まさかとは思ったのだがな」
「ええっ、そうなの!? すごいじゃない、兄様。でも、よく一緒にきてくれたね。呂布さんってすっごく強いから、仕事には困りそうにないけど」
小蓮は驚いたような声をだしながら、自分と恋の顔を交互に見比べている。
「そうでもない。魚を探すついでに水浴びしてたら、孫策に出くわした。そこからもみくちゃになったけど、周瑜がごちそうしてくれるって言うから、ついてきた」
「も、もみくちゃって、まさか兄様……?」
「おかしな妄想はよせ、尚香。どちらかといえば、殺される寸前だったのだ。断じて言うが、呂布の裸を愉しんでなどいないぞ、俺は」
「えー、怪しいなあ? 兄様ったら、かわいい女の子が大好きなんだもん。その点、呂布さんってばっちりだし?」
指摘の意味がわからないのか、恋は小首をかしげるだけだった。
その仕草さえ、どこか愛おしくなってくる。恋という女の存在。それが、急速に大きくなっているという実感が孫策にはあったのだ。
「ふふっ。孫策をからかうのはそのくらいでいいでしょう、尚香さま。呂布殿は、本気で腹をすかしているようなのです。客人をあまり待たせるのも、酷ではありませんか」
「うん、そうだね。あとにはお姉ちゃんも控えていることだし、私はこのくらいで勘弁してあげようかな。ごめんね、呂布さん。ほんとに歓迎してるから、ゆっくり休んでいってちょうだい」
ちょっと恥ずかしそうに、恋が頷いた。
右腕に抱きつく小蓮を連れて、館内を進んでいく。ほとんどふくらんでいない胸の感触がほほえましい。それでも、小蓮は時折女を感じさせるようになっている。義母という大木を失い、袁術の庇護下となってからその傾向は強くなっているのか。
迷いはある。しかし、いつかは向き合わなければならないのだろう。血のつながりのない自分。まがいものの孫郎。その責任の大きさを、こんなかたちで痛感するようになるとは、かつては思いもしなかった。
挨拶をしてくる老女。従者の数は最小限で、家に古くから仕えてくれている者が残っているだけだった。
奥から、ひとりの女が歩いてくる。孫家の血脈であることを示す、薄桃色の髪と褐色の肌。腰に剣こそ佩いていないものの、ひりつくような闘気が発せられている。権。蓮華というのがこの義妹の真名だった。
碧眼。江南の地から見た、大海をあらしているようだった。刺すような視線。それが、自分だけに向けられている。
「こんな時間になるまで、どこをほっつき歩かれていたのですか、兄上。心配していたのですよ、尚香も私も。兄上は、命を狙われてもおかしくない立場におありなのです。ですから、いつもいつも……!」
半分、泣き出してしまいそうな顔になりながら、蓮華が言葉をぶつけてくる。
偶然の産物だとはいえ、本気で申し訳なくなってくる。自分とは違って、蓮華はいたって真面目なのである。気性の激しい部分はまさに母親譲りで、家督を継ぐものとして相応しい器を備えていると孫策は思っていた。
義母亡き後、蓮華を後継者に推す声が事実あったのだ。それならそれで、いいと思っていた。血筋の確かさ以外にも、蓮華には統治者としての可能性がある。それを裏から支え、義母に対する恩を果たす。それで、なにも問題はなかったのだ。
だが、家督の継承を蓮華は固辞した。母から孫家伝来の剣を託されていたのは自分で、その補佐が妹としての本分なのだと語ったのである。
「こっちも、孫策の妹? んっ……。どっちとも、あんまり似ていない?」
もっともな疑問をぶつける恋。
容姿は似ても似つかず、そうだと名乗らなければ兄妹とは思われないはずである。
「俺は養子だ。権と尚香とは、血縁ではない赤の他人だよ」
「赤の他人だなどと、悲しくなるようなことをおっしゃらないでください、兄上っ……。誰がなんと言おうと、私は兄上の妹でありたい。私は、んっ……。ぐすっ、私はっ……!」
小蓮に背中を押されるようなかたちで、蓮華の前に立った。
今日のような心配を、二度とかけることはない。そんな自信は少しもないから、言葉にすることはできなかった。
その分、蓮華のことをきつく抱く。女らしく育ちすぎた身体。この時ばかりは、意識したくはなかった。
小さな頃は、今よりずっと気軽に触れ合えていたような気がしている。家のこと。血筋のこと。そして、兄妹であるということ。そのすべてが、煩わしく思えてくる。
「んっ……。ほんとの兄妹じゃなくても、二人はとっても仲良し。見ていると、それがわかる」
「うむ。はじめて会った呂布殿がそう思われるのだから、間違いはあるまい。なにかと迷惑をかけるかもしれないが、みなとよろしくしてやってくれ。私の願いは、それだけだ」
「……周瑜は、孫策のお姉さん?」
「あははっ。お姉さんに見えるかもしれないけど、周瑜だって隠れて兄様に甘えてることがあるんだよ? ねっ、周瑜?」
「やっ、その……尚香さまっ!?」
張り詰めていた雰囲気。段々と、和やかなものへと変わっていく。恋のなににも動じない姿勢が、いい方向に働いているのだろうか。たったこれだけのことでも、出会った価値がある。そんなふうに、孫策には思えていた。
胸に顔を埋めたままの蓮華。嗚咽は、収まってきているようだった。
黙って抱擁を受け入れる妹の背中。孫策はしばらくの間、兄としてやさしく撫で続けていた。