コンコン……コンコン……
俺が居る個室の壁をノックする音が聞こえる。席に着いてからずっと思考の海に浸っていた俺は店内のざわめきの中でもやけに鮮明に聞こえたその音にハッとなって居住まいを正す。
「失礼します。お連れ様がお見えになられました」
個室と通路の仕切りになっている暖簾の隙間から店員の姿が覗いて見える。不鮮明になっていた意識がここでようやく覚醒して俺はその声に反応する。
「あっ、はい。どうぞ」
それから間もなく聞こえてくるヒールのツカツカという足音。キャバクラならともかく居酒屋の店員がヒールを履いて仕事をするなんてことは無いだろうから、この足音はきっと俺の待ち人の物だろう。
そう自覚した途端、急に心臓の鼓動が高鳴る。別にこれが初めてという訳でも無いのに気分が高揚して緊張感が増す。その理由はきっと今朝目覚めた時からこれまでずっと彼女の事だけを考えて過ごしていた為だろう。それが直接的な原因かどうかは知らないが、普段職場ではステルスヒッキー出来ているのに、今日に限って上司から幾つものお小言を頂戴してしまった。あたしってほんとバカ。
個室の暖簾をくぐって姿を表したのは女性で、その女性は青みがかった長い黒髪をシュシュで結ってポニーテールにしている。
高身長かつスレンダー体型を兼ね備えた彼女はワイドパンツに黒コートといった組み合わせのコーディネートを施していて、それはそれは美しい。
そして何より、彼女の右目の下にある泣きぼくろが彼女の魅力を更に際立てている。
俺の知る人物の中でこういった特徴の全てを持ち合わせた人物はと言えば、それはもう一人しかいない。
彼女は……そうだね、川なんとか沙希さんだね!
「はーっ・・・ほんと慣れない・・・」
個室に入って来るなり彼女は小さなため息を吐いて何やらぶつぶつと独り言を呟く。この様子から察するに、どうやら今日の彼女はお疲れらしい。ならばここは逸る気持ちを抑えて一つ労いの言葉をプレゼントして差し上げよう。
「よお、お疲れさん」
「あ・・・うん。ごめん、待たせちゃって」
彼女は申し訳なさそうに俺に詫びを入れてくる。化粧のせいなのか、店内の照明の明るさのせいなのか、単なる俺の気のせいなのか、彼女の頬がほんのり紅潮しているように見える。いや、もしかすると彼女は会社からここまで急ぎ足で来たのかもしれない。もしそうだとすると何か申し訳ないな。
「いや、待ったって程のもんでもねえよ。それより飲み物何頼む? 言ってくれたら注文するぞ」
俺はテーブルの端に置かれているタブレットを手に取る。明日は日曜日でお互い仕事は休み。だからきっと今日の彼女は酒を頼むだろう。
「そうだなー・・・じゃあ、あたしもウーロンハイお願いしていい?」
彼女は羽織っていたコートを脱いで座席の傍らに置くと俺の方に視線を泳がせてそう告げる。”あたしも”とは言うが、俺のこれはただのウーロン茶なんだよなぁ。でもこのタイミングでそれを言うと彼女が酒を頼みづらくなるかもしれない。ここは敢えて黙っておこう。
「了解。・・・ところで料理はどうする? 何かリクエストとかあるか?」
「今はこれといって特に考えてないから、とりあえずあたしの飲み物が来てからで良い?」
「ああ構わねぇよ。慌てなくても時間はたっぷりあるしな」
そうやって自分にも言い聞かせる。彼女の顔を見て、知らず知らずの内に事を急いてしまっていたかもしれない。よし、ここは梶原さんに習って摩利支天の真言を唱えて昂る気持ちを一旦静めよう。………オンマリシエイソワカ。
俺は一人でぶつくさ言いながらタブレットを操作して彼女がご所望のウーロンハイを注文する。そういや今日のお通しは何だろうか。何となく今はしょっぱい物が食べたい気分だから、もし枝豆や何かが出て来たら少し分けてもらおうかしら。
それから俺たちは彼女の飲み物が来るまでの間談笑して過ごした。
「失礼しまーす。こちらウーロンハイとお通しになります」
「あ、それあたしのです。ありがとうございます」
店員がテーブルにウーロンハイの注がれたグラスとお通しが盛られた小皿とおしぼりを置いて足早にその場を去っていく。時間的に今がピークだろう。店内のざわめき具合も先ほどより増して来た気がする。この分なら少しくらいうるさくしても誰も俺たちを気に留めないだろう。
「じゃあ・・・取り敢えず乾杯しとく?」
「そうだな。・・・・乾杯」
そう言って俺たちは互いの飲み物の注がれたグラスを合わせて乾杯する。俺はチビリと一口飲む程度で済ませたが、彼女はグラスの半分程度の量を飲んでみせた。
余談ではあるが彼女の酒の強さは中々のもので、一緒に酒を飲んで先にダウンするのはいつも俺の方だ。だから今日の俺は一滴たりとも酒を飲まない。たとえ彼女から酒を勧められたとしてとも、俺がこれから言おうとしている事を、後になって酒に酔った勢いで~なんて言う風に自分の言い訳にはしたくないから。
「乾杯すると不思議と飲み物が美味く感じるよな」
「ンク・・・それって、一人じゃなく誰かと一緒に飲んでるからそう感じるんじゃない?」
「それはそれで少し意味合いが変わってくるな。会社の連中と飲んでる場面を想像をしたら、せっかくの酒も不味くなる」
「それに素直に共感して良いかどうかは分からないけど・・・確かに言えてる」
「だろう? どうせなら気心の知れた自分と対等の連中と席を共にしたいもんだ」
「あたしもようやく今の職場に慣れてきたけど、やっぱりあんたとこうして二人で居る時の方が気持ちも落ち着くよ」
どうやら彼女の中での俺の存在は彼女の勤める職場の方々よりは上位に立てているらしい。仮にここで俺よりも気の休まる相手が他に居るとか言われたら、それはそれでかなりショックを受けていたが………いや、この考えは少々我が儘が過ぎるか。妹の小町に対しては未だに独占欲アピールをガンガンしているが、それは小町が自分の身内だからこその言動だ。最近は俺のその声に反発してくる輩の存在が愛妹の隣に居るのだが、未だに俺はアイツの存在をまともに認識出来ていない。最早ネタとして扱うことすら歯痒く思う。早くアイツらも結婚して子供を設けて末永く幸せに暮らせ。
………って、今の俺にはあの二人を応援している余裕なんて無かったんだったわー。べーっ、小町の事となるとつい熱くなっちまう癖、そろそろ直さないとな。
「んー・・・やっぱりここの枝豆、程よく塩味が効いてて美味しいよね」
俺が物思いに耽っていると、目の前の彼女がお通しの枝豆をポリポリムシャムシャと口に頬張っていた。
図らずも俺の願望を叶えてくれた居酒屋さんの計らいに感謝しよう。
「なあ、お前が良ければで構わないのだが、その枝豆を少々俺に分けてはくれまいか」
「なに? 自分の分だけじゃ足りなかったの?」
彼女はウーロンハイを口に運びながら怪訝そうな顔でこちらを見つめてくる。ここで言い逃れをするのは簡単だが、別にこれはバレても問題ないし、そもそも隠すつもりもない。俺は彼女の疑問に対して素直に答える。
「あーいや、実はこれな・・・ただのウーロン茶なんだ」
「ふーん珍しい。いつもなら真っ先にお酒頼むのに」
「何だか今日はそういう気分になれなくてな」
「え・・・もしかして体調悪かったりする?」
不安げな表情で彼女が俺に問うてくる。素直になれないもどかしさに胸がチクチクと痛む。元々こういう痛みには耐性がある方だと思っていたが、最近はどうにも弱くなった気がする。
「いや、そういう訳じゃないんだ。それについては何の心配要らない。大丈夫だ、問題ない」
「? ・・・・何か怪しい」
心配事が一つ消えたことで彼女の中に猜疑心が芽生える。俺のマブダチとも言えるそいつは一度まとわりつくとなかなか消えてくれない。そういう場合の有効策はと言えば、それとは別の強い興味を惹く物事や話題を提示してやることだ。
「そういや最近、京華の様子はどうだ? 元気にしてるか?」
彼女が興味を惹く話題はと考えたら、いの一番に京華のことが頭に思い浮かんだ。実は俺もあの子のことで気になることがあったから、ここでその話題を持ち出せるのはとても好都合だ。
「は? ついこの間二人であたしの実家に行った時にあの子の顔も見てるでしょ?」
しかし俺の発言を聞いた彼女はこれまでとは比にならないレベルの鋭い剣幕でこちらを睨み付けて来た。ハチマンの防御がぐーんと下がった!
「そっ、そうだったな! いやあ、京華も大きくなるにつれて段々と俺に対してのアタリが強くなってる気がしてな。・・・やっぱ辛れぇわ」
「・・・ああ、そのこと・・・」
俺は慌てて言葉を捲し立てるが、悲しいかな、殊これに関しては事実なのだ。初めて出会った頃はとても小さくか弱い存在に思っていたのに、あれから成長して小学生になった彼女はまるで俺を遠ざけるかのような言動をとるようになった。
かつてを思い返すとしみじみとなって目から涙が零れ落ちそうになるが、今は彼女のツンツン塩対応に日々涙腺崩壊している。
………って、何気なく思ったが、京華のあの態度も俺にだけ見せる態度じゃね? どう見ても他の人にはあんな態度取ってないよね? 何? 姉妹揃ってハチマンアレルギーか何かなの?
「あのくらいの年頃の子ってちょうど異性を意識し始める時期でしょ? あんたも少なからずそういうのあったんじゃない?」
「ん? まあな。ついこの間まで手を繋ぐのも平気だったのに、ある日突然周りの誰からも相手にされなくなったな」
「出た自虐ネタ。そういうのはもう良いから」
彼女は大きなため息を吐いて浮いていたお尻を座席に戻す。どうやら溜飲を下げてくれたらしい。ついでに言うと俺が時たま漏らす自虐的なネタに彼女はとても冷たい態度を取る。それはもう無言の圧力と言っても良いくらいに。だからここ数年は自虐的ネタを封印していた。
少しの沈黙の後、彼女はそっと自分の目の前にある小皿を俺の方に手で寄せてくれた。俺は一瞬呆気に取られていたがすぐにその小皿に手を伸ばして枝豆を摘まんで口に運ぶ。
「・・・あの子はあんな態度だけど、別にあんたの事が嫌いになったとかそう言う訳じゃ無いから、そこは履き違えないであげて」
「・・・・そうなのか?」
「そうじゃないってことも分からない?」
「ん・・・まあ、頼られてはいるな」
塩対応なのは変わらないが、たまの休みの日に彼女の実家にお邪魔した際はあの子と一緒に遊んだり買い物に出掛けたりすることがあるが、そういう時は決まって向こうから手を繋いでくるな。
……ともすると、何気なく見せる仕草や態度の中に自分の本当の気持ちを表していたのか………?
「本当に嫌いだったら近付こうとすらしないよ。それこそ、さっきあんたが言ってた連中みたいにさ」
「そうか・・・・俺は本当に嫌われていたのか」
「うん・・・って、感銘受けるところそこ? それはもうどうでも良くない?」
俺は彼女の言うことをろくに聞かずに適当に相槌を打ち、そして密かに物思いにふける。
時折彼女が見せるあの反応。あの態度。あの表情。
もしもあれが彼女の見せる本当の気持ちだったとしたら、俺は一体何を信じれば良いのだろうか。
こうして二人で居る時間も、彼女にとって一体何を意味するのか。考えれば考えるほど深い疑心暗鬼に陥る。
口の中がとてもしょっぱい。しょっぱ過ぎて思わず涙が込み上げて来そうだ。
口の中に広がる塩味の辛さに耐えられなかった俺はグラスを手に取ってウーロン茶を口の中に流し込む。
「ンク・・・そうかぁ。じゃあ、暇を見てピクニックにでも連れて行ってやるか」
「あっ、いいねそれ。きっとあの子も喜ぶよ」
彼女の反応があからさまに良くなる。彼女のこのシスコンっぷりは昔から何一つ変わってない。まあ京華のあの可愛さの一端に触れたら人類皆同志になること間違いなしだから仕方のない事ではあるのだが。もしも許されるのであれば、どうかこれからもあの子の成長を傍で見守り続けてあげたい。
「ならお弁当作りは俺に任せろ。腕によりをかけて作ってやるぜ」
「ふふっ、そうだね。今のあんたになら全部任せても大丈夫そう」
「いやいや、流石に全部はキツいぞ。せめておにぎりくらいは握ってもらえませんかね?」
「寧ろそれだけで良いんだ。大した自信だね」
こんな大口を叩いてはいるが、別にこれは出鱈目などではない。本当に作れてしまうのだ。その、世間一般的に言う、料理って奴を。
当然ながら昔の俺にそこまでのスキルは無かった。両親が仕事で家に居ない間に小町に軽い軽食を作ってやったことは何度かあったが、そこまで手の込んだ料理を作った試しは無かった。
それがどうしてこうなったかと言うと、俺が直接彼女に料理を教えてもらったからに他ならない。突然の申し入れに最初彼女は躊躇う様子を見せていたが、普段滅多に無い俺からの猛烈なアプローチに根負けしたのか、彼女は渋々ながらも俺からの申し入れを受け入れた。
実際に料理をしてみるとそれはもう色々と大変だった。成功よりも失敗の方が遥かに多かったし、料理作りに割く時間もそれはもう半端ではなかった。
それでも親身になって料理を教えてくれた彼女の協力もあって、日に日に俺の料理の腕は磨かれていった。
そんな今だからこそ打ち明けるが、そもそものきっかけは俺の下心にあった。まだ彼女と付き合い始めて間もない頃、俺は彼女と同じ時間を長く共有する為にはどうしたら良いかと考えた時、俺の頭の中にとあるパワーワードが思い浮かんだ。
”里芋の煮っころがし”
かつて彼女があの教室で皆の目の前で恥ずかしそうに顔を俯かせながら口にしたそのパワーワードが、やけに鮮明に俺の頭の中にこびりついていた。
ろくでもない事を知識として蓄積して他人にひけらかす俺の悪い癖が初めて活きた瞬間だった。
「お前の教えのお陰だ。こればっかりは、本当に感謝してもしきれない」
「感謝だなんて大袈裟。全部あんたが頑張って得た結果でしょ。あたしなんかよりもまず自分を誉めてあげて」
そう言って彼女はウーロンハイを飲む。既にグラスの中身の半分程度は飲まれて無くなって為にその一口で彼女が手にするグラスは空になった。
「あっ・・・もう飲んじゃった。おかわり頼まないと」
残念そうに一言そう呟く彼女の目が若干据わってきた。酒に強いといっても酔いは回る。あまり酔われても今度は俺の言葉が彼女の耳に届かなくなってしまう。今日中に本当に覚悟を決めるなら、もうそろそろ実行に移さないと意味が無くなる。
「あんたはどうする? 飲み物のおかわり。それとも今度はお酒頼む?」
彼女は空になったグラスをテーブルに置いて代わりにタブレットを手に取る。ほろ酔い気分の彼女は軽快に指先を動かしてタブレットの画面をフリックする。綺麗系で大人びている見た目に反して今の彼女は何処か幼さを感じさせる。
「ん・・・・ああ、そうだな」
「ついでにお料理も頼んじゃおっか。そうだねー・・・今日はお刺身なんて良いんじゃない?」
「なら今度は焼酎かワインをチョイスするべきだな」
キュートな彼女と会話を続けてたくてつい話を合わせてしまったが、やはりここらが頃合いだろう。
ふと、俺は物思いにふける。
こんな風に誰かと楽しく会話をしながら、食事を取って酒を酌み交わす。こんな未来を誰が想像出来た。
こんなに美しい女性と二人きりで居るのに、ここまで心穏やかに過ごす事が出来る未来を誰が想像出来た。
こんなろくでもない捻くれ者を相手にここまで踏み込んで来てくれる人は果たしてこの先の人生で現れてくれるだろうか。
端から見れば俺たちは何処にでも居る普通のカップルに過ぎないのかもしれない。
でも俺にとってこの関係はとても特別な物で、他に代用の利かない、かけがえのない物な訳で。
そう思わせてくれる目の前の彼女を俺は、とても愛しく思う。
これから先の人生、どんな困難や苦難が待ち受けているか分からない。
挫折してしまう時もあるだろう。全てが嫌になって生きているのも辛くなってしまうかもしれない。
でも……たとえこの先どれだけ辛い現実が待ち受けていようとも、彼女と一緒なら何だかんだで楽しくやっていける気がするんだ。
どれだけ自分勝手で我が儘な想像を描いているか自分でもよく分かってる。
それでも俺は………俺は………!
「沙希」
胸の内に沸き立つ気持ちをそのまま言葉にして投げ掛けるつもりで居たのに、その声音は自分でも驚くくらい落ち着いたものだった。
「え? なに?」
タブレットの操作に夢中な彼女は自分の名前を呼ばれても一瞬こちらに視線を動かす程度で、彼女の意識そのものはこちらを向いていない様に感じた。
これは寧ろ好都合だ。変にこちらを真っ直ぐに見据えられても緊張で声が震えてしまってこれから伝える言葉を上手く伝えられないかもしれないから。
俺はそっと上着のポケットに手を入れ、ずっとそこに忍ばせていた物を手に取る。手に滲む汗のせいでそれが手から滑り落ちてしまわないようにしっかり力を込めながら。
言葉だけじゃこの気持ちは伝わらない。でも、俺はそれ以外にやり方を知らない。だからこの溢れんばかりの想いを確かな言葉と確かなカタチに変えて目の前の彼女に捧げる。
どうかこれが間違いでありませんようにと、そう心の中で祈りながら。
「沙希、愛してる。俺と結婚してくれないか」
俺はポケットの中から出した小さな箱を彼女に見える様に差し出してその箱の蓋を開く。
蓋を開けた箱の中で小さく光輝くその物体は、俺が今まさに口にして伝えた事柄に関係する物。
一目それを目にすれば、それがどういう意味を込めた品物であるかが瞬時に分かってしまう。故にこの品の存在はこれまで直向きに隠し通して来た。胸に抱えた気持ちとセットで。
ああ、ようやく言えた。俺の心にそんな安心感と解放感が生まれる。
ずっと長い間抱えていた気持ちをここに来てようやく解消することが出来た。・・・良かった。
それから感じる・・・これは・・・懐かしさ? ・・・何故・・・?
俺はこの言葉をかけがえのない物にしたくて、今の今まで一度も口にして来なかったのだが、このタイミングでどうして懐かしさなんて感じたりするんだ。
………心当たりがあるとすれば、それは小町の存在だ。ああ、そういや、愛してるぜ、小町! とか普通に言ってた気するわ。あいつと交際を始めてからはその一切を受け付けてくれなくなったけど。
「・・・・・・嘘」
ガタンッ! という大きな音の後に続く、とてもとても小さな声。俺は視線を落としてその音のした方を見る。
その大きな音の原因は、彼女が手に持っていたタブレットを誤ってテーブルに落としてしまったから出た音。
自分が出してしまった音に驚いたのか、あまりに唐突過ぎる俺の行動を見て驚いたのか、彼女は左手で口元を覆って大きく目を見開く。
その様子から察するに、今の一瞬で彼女は全てを理解したらしい。なら俺はこのままその先に繋がる言葉を紡ごうと口を開きかける。
「っっ! ・・・・ご、ごめん!! ・・・・少し、少し・・・だけ・・・・まっ・・・て」
しかしそれは彼女によって阻まれる。いや、仮に彼女にそうされなかったとしても、俺は言い淀んでいただろう。
彼女はその大きな瞳からポロポロと大粒の涙を溢している。それは止めどなく溢れ続けて、枯れることを知らない。
「・・・ふぐっ・・・・ぅう!・・・っううぅ!!」
手で覆われた彼女の口からくぐもった声が漏れ出る。その声は徐々に徐々にボリュームを増して俺の耳に痛いくらい伝わってくる。
「俺の事は気にかけなくていい。・・・いくらでも待つから」
心にまとわりついたしがらみの一切が消え去って気持ちに余裕が生まれたのか、俺はすぐにそう答えることが出来た。
彼女がここまで泣きじゃくる姿を見るのは久しぶりな気がする。
確かあれは・・・はて、いつ頃の出来事だったか、印象に残ってはいるのだが、如何せんド忘れしてしまった。
こうなるともう、今の俺に出来ることは無い。
あとは彼女が落ち着くのを待って、それからさっきの俺の告白に対する答えを彼女から受け取るだけ。
俺はしばらくの間きゅっと瞼を閉じて、彼女のすすり泣く声が聞こえなくなるのを待つ。