「・・・ごめん」
沙希が目元を指先で拭いながらポツリと囁く。俺は彼女の感情の昂りが治まるのを待っている間にこれから話すべき事についてを練っていた。
「俺の方こそ、突然こんな事を言い出したりして悪かった。・・・驚かせちまったよな」
それはあまりに唐突な告白。誰しも驚いて当然のこと。まさかそれで泣かれるとまでは思ってもみなかったが。
でも俺が今話したいのは謝罪の言葉などではなく俺たち二人の将来についてだ。ここは多少強引にでも話を核心まで持っていきたい。
……大丈夫、ちゃんと自分の気持ちを伝えきる自信はある。この時の為に何度も頭の中でシミュレーションを重ねてきた。あとはそれを実現させるだけ、何てことはない。
「でも、単なる思い付きでこうしてる訳じゃないということは理解してほしい。・・・俺はずっと前からこうしたいと考えてた」
「俺は、お前と本当の意味で――――」
「待って」
突然沙希が俺の話を遮る。はてなと思い彼女の方を注視するが、彼女は顔を俯かせたままこちらと目を合わせようとしない。
俺の話はまだ始まったばかり。伝えたいことは山ほどある。それなのに俺は、彼女の言動に意識の全てを持っていかれる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人の間に流れる沈黙。それは時間にしてほんの一瞬だったかもしれない。
けれど俺にとってその間は、彼女がここに現れてからずっと感じていた緊張感と興奮を遥かに越える恐怖心を抱かせるのに充分な間だった。
「ごめん・・・あたしはそれを受け取れない」
そう告げる沙希の声は震えていた。普段の彼女とあまりにかけ離れたその様相に俺の心は瞬時に凍りつく。
脳が、視界が揺れる。体がわなわなと震えだす。体の震えを少しでも抑えようと拳を固く握り締めてみるが、込める力の加減が分からずに却って体の震えが強まってしまう。
………何も二つ返事でOKを貰えるとは思ってなかった。これまで結婚をほのめかす様な会話をして来なかったし、同棲の話も躱されてしまって以来それきり。彼女が抱えている何かについてもまるで見当が付いていない。だから、告白を成功させるという意味では何一つとして不安要素を取り除けていなかった。
いや……正直なところ俺はこの告白の成功を信じて疑わなかった。
沙希と付き合い始めて約四年、これまで本当に色々なことがあった。楽しいこと嬉しいこと辛いこと悲しいこと。どの思い出も俺にとってはかけがえのない宝物だ。
その数々の思い出を共有してきた彼女だからこそ、俺のこの一生をかけた告白を他の誰よりも喜んでくれると信じていた。
………なんて独善的で浅ましい願いだったんだ。
「理由を・・・聞かせてくれないか」
うっ、と喉を鳴らしながらも何とか言葉を形にする。ここで何も言わず黙ったままでいたら、それこそ本当に終わってしまう。
二人並んで歩んで来たこれまでの日々を無かったことにするなんて、そんなのあまりに悲しすぎる。
「・・・・・・」
俺の問いかけに沙希は眉根を寄せて下唇を噛む。他愛もないことが理由なら別に言い淀む必要も無いはず。やはり何か特別な理由があるのか。
「・・・あたしにはその資格が無い」
「・・・・資格?」
暫しの沈黙の後に沙希が重い口を開いた。俺は彼女のその言葉に首を傾げる。
一瞬、またいつもの”癖”が出たかとも考えたが、今の彼女の物言いには淀みが感じられなかった。発言までの間はあったものの、それはまるで予め用意されていたかの様な答えであった。
「あたしはあんたの人生を歪ませた。・・・自分の・・・女の武器を使って」
女の武器。………こと有り体に言うとそれは女性の身体を指した意味合いの言葉であろうか。或いは優しさ。或いは料理。或いは京華。或いはその全てか。
俺にとってはそのどれもが”毒”と成り得るのだが、それにしても歪ませたというのは一体どういう意味なのだろうか。
理解も追いついてないのに口を挟むのはどうかと考えた俺はそのまま彼女の言葉に耳を傾けることにした。
「あの頃のあたしはどうかしてた。普通ならあんなこと絶対にしないのに」
「慣れない一人暮らし。ひとりぼっちの大学生活。先行きの見えない毎日。・・・何もかもが不安で一杯だった」
「そんな時だよ、あたしのバイト先にあんたが現れたのは」
「もう一生会えないと思ってた。そんなだからあたしは一人で勝手に舞い上がっちゃって、結果あんなことになって」
「でも、これはチャンスだと考えた。この機会を逃したらあたしはもう立ち直れないって直感した」
「思い立ったらそこからはあっという間だった。図らずも条件は揃ってたし、あんたの性格も何となくだけど知ってたから」
「もっともらしい理由を付けて自分の家にあんたを招いて、自分の体を使ってたぶらかした」
「嫌な気持ちは無かったけど・・・でも怖かった。拒絶されたらどうしよう、嫌われたらどうしようって」
「だけど、その不安をあんたは見事に掻き消してくれた。人として恥ずかしいことをしてる自分に対してあんたは馬鹿真面目に付き合ってくれた」
「すごく・・・うれしかった・・・あの時のことは今でも忘れない・・・・・」
そこまで話して、沙希の目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。そんな彼女の姿を見て俺は心苦しさを感じてぎゅっと奥歯を噛み締める。
というのも、こうして改めて彼女から話を聞かされるまで俺はあの日の出来事を忘れ去っていた。
でも、ただ忘れていた訳ではない。俺の中であの日の出来事は、俺と彼女が付き合い始める”きっかけ”として捉えていたからだ。
彼女と交際を始めてから本当に色々なことがあった。沢山の変化があった。多くの学びを経て新たな発見を得た。その過程で苦労することも多かったが、そんな苦労を遥かに越える喜びがもたらされた。
これ以上の幸せがあるものか。昔のことを思い返す時間すら惜しい。そう考えて今を生きている内に、俺の頭の中からあの日の出来事がまるっと消え去っていた。
「でも・・・そんな自分がどうしても許せない。なんたってあたしはあんたの責任感の強さを利用したんだからね」
沙希が嘲笑ぎみに笑う。けれどその顔は悲しみに満ちている。
「ズルい・・・恥ずかしい女なんだよ、あたしは」
彼女は過去に犯した自身の過ちを許せないでいる。それも今ある幸せを自ら放棄してしまう程に。
彼女の気持ちも痛いほど分かる。俺も似たような気持ちでいた時期があった。
今や懐かしいあの季節。もはや忘れてしまったあの部屋の香り。二度と戻らないあの関係性。
当時の俺にとってあの関係性は唯一無二のものだった。あの空間で俺は自分の存在価値を見出だしていた。
けれどある日の夜、二人は俺に”終わり”の決断を委ねてきた。
いずれは終わるものだと理解していたし、俺もそれに納得していた。それなのにあの時の俺はそんな関係性の喪失を恐れ、あろうことか二人の前から逃げ出してしまった。
今となってはとんだ笑い話なのだが、そう思わせるきっかけを与えてくれたのもまた彼女だ。
彼女の存在が無かったら一体今頃どうなっていたことやら。想像しただけで寒気がしてくる。
そのことも踏まえて俺は彼女に恩返しをしなければならない。
「・・・今が幸せならそれで善しとはならないか」
俺の発言を受けた沙希の表情に僅かながら険がこもる。
過去の過ちを今でも許せないでいると涙ながらに打ち明けたというのに、返ってきたのはエゴ丸出しで自分勝手な言葉。そりゃ誰だってイラッとくる。
でも俺は彼女の言ったことや考えていることを自分なりに解釈してこの答えを導き出した。何も適当にあしらうつもりはない。
「お前の考えは分かった。でもそれを言ったら俺も同罪だ。あの日俺はお前の好意に甘えてそれを受け入れちまった。本当は拒絶しないといけなかったのにな」
「それは・・・!」
俺の言い分を否定しようとしたのか沙希が声を荒げる。けれどこればっかりはどうにも覆しようがない。彼女の温もりある思いやりは空虚に溶けゆく。
「過去を振り返ることは出来ても過去に戻ることは出来ない。こういうありきたりな事を偉そうに語りたくはないが、前を向くしかないんだよ俺たちは」
「それは・・・そうなんだけど・・・・」
そう言って沙希は頭を抱える。まあ、誰かに一言二言ものを言われてそれで納得出来るならそもそもここまで思い悩んでいないか。
コトの当事者は俺とお前の二人だけなのだから、いっそのこと男である俺に何もかもをおっかぶせてしまえばいいものを。そうしない彼女の思慮深さには本当に頭が上がらない。
俺はあの日お前との行為に耽ったあと、我に返ってあの場から逃げ出そうとしたのにな。
「・・・俺にも後ろめたい過去がある。どうしてあんな真似をしてしまったんだろうと、後悔に震える日々を過ごした時期もあった」
「でも今は違う。それはいつもお前が俺の隣に居てくれたからだ」
沙希がスッと顔を上げてこちらの方を見てその目を見開く。俺はそんな彼女から目を逸らさずに正面から向き合う。
そうだ、俺はもう目の前の現実から逃げたりしない。舌先三寸は相変わらずだし、自分に甘いのも変わってないが、今の俺には譲れないものがある。そいつを守る為なら俺はどんなことだってしてやる。
「お前と付き合う様になってから俺は色々なことを学んだ。始めの内は分からないことだらけで苦しく思うこともあったが、それでも俺はお前の隣に居続ける為に努力を重ねてきた」
「そんな・・・あたしにそこまでの価値はないよ・・・」
沙希は眉根を寄せてそう吐き捨てるが、俺は頭を振ってその発言を否定してみせる。
「お前の価値を決めるのはお前自身じゃない、お前の周りにいる人間だ。お前がどれだけ悲観的であっても、それが変わることはない」
俺は知っている。彼女がどれだけ多くの人たちから慕われているのかを。彼女の気心に触れて活力や勇気を貰っている人たちがいるということを。
そしてそれは俺も例外ではない。
「俺はお前に救われている。あの日からずっと、これまで」
「だから・・・自分のことをそんな風に言わないでくれ」
「俺が愛した・・・川崎沙希のことを」
「八幡・・・・」
沙希が静かに俺の名前を口にする。それから彼女はゆっくりと目を閉じてまた暫しの間沈黙する。まるで自分の中にある想いを深く噛み締めるかのように。
「・・・あんたがそう言ってくれるなら・・・あたしも頑張れる気がする」
沙希が恐る恐るといった様子で口を開く。彼女の表情は変わらず曇り模様だが、一縷の望みは見えてきた。
「心細くなったらいつでも頼ってくれ。出来る限り力になる」
「・・・頼ってもいいの・・・・?」
「当たり前だろ。・・・何の為の彼氏だよ」
これまでは彼女と付き合うに相応しい男に成れるよう努力してきたが、これからは彼女に頼られる自分も想定しないといけないな。
付き合うまでは内心彼女のことを不良っぽいとかシスコンだとか色々揶揄していたが、今の俺は彼女を知っている。
口下手だが温情でその実誰からも好かれる特性を兼ね備えている。それに加えて手料理が得意で手芸のお手並みも鮮やか。年齢を重ねる毎にその美貌に磨きがかかる。そのことをたまに本人に伝えてやるとすぐに顔を赤くして大袈裟なくらいに恥ずかしがる。
そんな彼女と出会えたこと自体が俺にとって奇跡だ。その奇跡を守らずして何が男だ。何が彼氏だ。
「・・・・ありがとう」
そう言って沙希は照れくさそうに笑ってみせた。
それから程なくして俺たちは居酒屋を後にした。あんな話をした後ではもうお互い飲み食いをする気分にはなれなかった。
そんな訳で今回の食事会はお開きとなり、今はあてもなく二人並んで街を歩いている。
元々泊まりの予定では無かったし、これから何処かに遊びに出掛けるという雰囲気でもない。これは今日はこのまま解散の流れですかね。
俺としては当初の目的を達成出来た訳だからそれでも構わないのだが、横を歩く彼女はどうだろうか。
「・・・ねえ」
そんなことを考えていたら、ふと彼女の方から声がかかる。
「ん? どうした」
「その・・・これ、嵌めてみてもいい?」
そう言って沙希は自身の羽織っているコートのポケットから俺があげた指輪の箱を取り出してみせた。
結局あの後彼女は俺の差し出した指輪を受け取ってくれた訳だが、それってつまり俺のプロポーズを承けてくれたってことで良いんだよな?
「いっ・・・良いんじゃないでしょうか」
などとセルフツッコミを入れてみたものの、未だに実感が湧かず妙に気持ちが落ち着かない。
後でしこりになっても嫌だし、やはりここはハッキリさせておいた方が無難だろう。
「ね、ねえ・・・沙希さん? 俺、一つだけハッキリさせておきたいことがあるのですが。聞いてもよろしいでしょうか?」
もっと自然体に聞けなかったのかと、軽く自己嫌悪に陥る。いやまあこんなの今更なんだけども。それにしたって俺、ちょっとキモすぎだろ。
「・・・綺麗・・・・」
俺の話をよそに沙希は無言で指輪の箱を開けると中に収まっていた指輪を手に取り自身の左手の薬指に指輪を嵌めて手をかざすと一言そう呟いた。
確かに、俺の目から見てもその指輪はとても綺麗に映った。夜の街を照らす灯りが指輪に反射して、ちょっと眩し過ぎるくらいに光り輝いている。
ただ、それよりも俺は、その光り輝く指輪を眺めて恍惚としている彼女の姿に目を奪われる。
指輪なんて所詮”物”な訳だし、金さえ払えば簡単に買えてしまう。無論安い買い物ではなかったのだが、それにしてもだ。
そんな特別とは言い難い物を彼女は、まるでこの世に一つしかない物のようにして崇めるのだ。
そんな彼女の姿が、俺には勿体ないくらい眩しく見えた。
そうして目の前にある輝きに見惚れていると、途端に目頭が熱くなってきた。
かつての俺が心から欲してやまなかった物が、今はこうして目の前にある。
そう実感した途端、俺の身体は独りでに動いていた。
「沙希」
「え? ・・・・んっ」
俺は沙希の方に近寄ると、唇が一瞬触れるだけのキスをする。
外で人目もあるからと本当に一瞬で済ませたが、その一瞬の間に俺の胸の中には様々な想いが沸き上がった。
その想いの一つ一つに名前を付けるのは困難を極めるが、一つだけ明らかにするとしたら、それは愛おしさだ。今頭の中の大半がそれで満たされている。
そうだ、別に何もかもを詳らかにする必要はないんだ。隠し事のない人間なんて何処にも居ない。
お互いがお互いを理解し合えていたら、それで良いんだ。
「その・・・これからもよろしくな」
「・・・・うん!」
これからも俺は間違い続けよう。自分と、そして彼女の未来の為に。
やはり俺と彼女のまぐわいはまちがっている。
川崎沙希編 了。