「ていうか、久しぶりだね。・・・顔合わせるの」
「ん? ・・・ああ・・・確かに久しぶりだ」
ふと川崎が後ろを歩く俺に話しかけてきた。こうして女の子と二人同じ道を歩くのが久しかった俺は少しばかり緊張していて返答に遅れを取ってしまった。
「その、妹・・・・小町は? 元気にしてる?」
「ああ・・・あいつは相変わらず元気だ」
それは弟から伝え聞いていたりしないのか? という疑問が頭を過ったが、ここでそれについて言及するのは止めておく。今あいつの話を聞かされるのは辛抱ならん。
「そっ・・・ならよかった」
「ん・・・・そうか」
かれこれもう十分そこらはこうして二人で歩いているだろうか。時折左手首に巻いている腕時計を盗み見るようにして見ていたからそれが分かる。
進行方向は駅とは反対の方だし、川崎の家はそれほど遠くないのだろう。道行く足取りも慣れたもので、着実に目的地に近付いているに違いない。
しかし・・・まあなんだ。さっきはああして問題ない、気にしてないとか言ったものの、実際は股間の辺りがびちょびちょに濡れていてかなり気持ちが悪い。
この感じだとジーンズは勿論下着にまでコーヒーが浸透していることだろう。
・・・となるとだ、仮に川崎の家でジーンズを洗って乾かしてもらったところで、下着が濡れたままでは俺的には何も問題は解決しないのではないか?
いや、この際それは諦めよう。今は彼女の気が済めばそれでいい。例え下着がびちょ濡れのままでも、外面だけはマトモになるのだから。
濡れて染みが出来て可愛そうなことになっているジーンズの股間を見つめて俺は川崎に気付かれぬようひっそりと鼻で笑った。
「着いたよ。このアパート」
川崎が立ち止まって顎でそちらを指して合図する。そこは四階建てのアパートだった。俺たちは鉄の階段をカンコンと音を立てながら上がって二階の角の部屋の前で足を止める。
「あんま部屋広くないんだけど・・・」
「あっ! ・・・・お、お邪魔します」
ここに来て俺は川崎に重要なことを聞くのを忘れていたことに気が付く。
しかし時すでに遅し、川崎が持っていたポーチから家の鍵を取り出して部屋の玄関の扉を開けると間を置かずにそのまま中に入ってしまった。
俺は仕方なく川崎の後に続く。玄関の足元には今彼女が脱いだ靴以外の履き物は無い。それは彼女が一人暮らしをしているという事実を物語っていた。
「お邪魔します」
履いていた靴を脱いで部屋にあがる。バクバクと音を立てて騒がしい心臓の辺りを手で押さえながら俺は川崎の背中を追いかける。
「ぷっ・・・あんた、いったい何回お邪魔するのさ」
川崎はさっきまでとは打って変わって非常に柔らかい声音で俺にツッコミを入れてきた。
「仕方ねーだろ。一人暮らしの女の子の家にあがるのなんて初めてなんだから。・・・誰だって緊張して当たり前だ」
「へー。・・・・初めてなんだ」
川崎は驚き半分感心半分といった様子で反応する。そして羽織っていた薄手の上着を脱いで近くにあったハンガーラックにかけた。
「あんたは? 上着脱がなくていい?」
川崎が俺の目をちらりと見て、これまで一度も見たことの無い、まるで小悪魔のような顔で聞いてくる。こいつ、ここに来て俺のことをからかってるのか?
「いや・・・別に脱がなくていいだろ」
「そっ・・・・じゃあさっそくだけど・・・下、脱いで」
川崎が俺の履いているジーンズを指差す。一応それを理由にここまで来たのだから、ここで俺が彼女の提案を拒否するのはおかしい。
けれどいざその時になるとどうにも思考が停止して身動きが取れなくなる。
「それは・・・そうなんだがな・・・っ!」
途端に喉が詰まったかの様な錯覚を起こして息をするのがとても苦しくなる。俺は咳払いをしてそれを何とか誤魔化そうとする。
「? ・・・・ああ、あたしは別に気にしないよ。お父さんのもそうだし、大志ので慣れてるから」
俺とは対照的に川崎は平然とした様子でそう言う。その言葉に少し安堵して俺は腰に巻いているベルトに手をかけようとする。・・・・がしかし。
「俺は正直全く免疫が無いから・・・しんどい」
「そっか、そうだよね、ごめん。・・・じゃあお風呂場の前の脱衣場で脱いでそのまま自分で洗濯機に入れて回してくれる? やり方は分かるよね」
「それならまあ・・・・」
「何? 何か凄く歯切れの悪い言い方するね・・・あっ、もしかして」
ここまで来てぐだぐだして見せる俺に痺れを切らしたのか、少々苛ついた様子を見せる川崎だか途端にハッとして何か思い付いた様子をみせた。
「ジーンズだけじゃなくてその・・・・下着まで濡れちゃってたりする?」
「・・・・・・・当たり」
まさかそこまで看破されるとは思ってなかった。流石はお姉ちゃん、と言ったところか。いや、面倒見の良さもここまでくるともう母ちゃん並みだ。
「はぁ・・・そういうことはもっと早く言いなよ。それが分かってたらここに来る道中で買い物済ませたのにさ」
「面目ない・・・」
そもそもの事の始まりは川崎にあるのだが、もはや完全に立場が逆転してしまっている。俺は今度は情けなさに心を支配される。
「分かった。じゃあお風呂のお湯沸かすから、あんた先に入っちゃってよ」
「ん、悪い・・・・・は!?」
この人は何を言っているのか、俺にはまるで信じられなかった。
もしやこれは全て夢の中の出来事で、俺は未だに大学のベストプレイスで呑気に昼寝でもこいているのだろうか。
「下着まで濡れてたならここまで来る間も気持ち悪かったでしょ? 気付いてあげられなくてごめんね」
「そのことは別に・・・いやしかし、風呂を借りるのは流石に・・・・な?」
それにもし風呂を借りたとして、下着はどうする。下着もジーンズと一緒に洗って乾かすのか? 仮にそうだとしても、それらが乾くまでの間俺はどう過ごせばいいんだ?
「下着のことを早く言わなかったあんたが悪い。・・・どう? 筋は通ってると思うけど」
普段なら他人との言い合いに負ける謂れはないのだが、どうもこの人には勝てそうにない。ここにきてとうとう心が折れた俺は全てを諦めることに決めた。
「あなたの仰る通りでございます。では、誠に遺憾でありますが、お風呂をお借りいたします」
「ん。お湯沸かすのに時間かかるから、それまではシャワーで我慢して。あ、ボディソープとかは全部お風呂場にあるから。あとタオルは新しいの渡すから持ってって」
「イエス サー」
おれはもはやこころのないにんぎょう。ははでありますたーでありかみでもあるかわさきさまにしたがいます。
完全に心を無くした俺は風呂場の方に向かう川崎の背中をただ呆然と見つめることしか出来なかった。ましてやそんな彼女の表情を伺い知ることなど到底不可能だった。