蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
それは妖怪の類ではなかった。
否、仮に妖怪の類であったにせよ、鬼月家の結界や家人の目を潜り抜け、屋敷に上がり込み、なおかつ多くのものが執着する下人である伴部を弄ぶなど不可能に近い。
意識を刈り取られた伴部に跨るのは闖入者である。とっくに崩壊した人間関係の中でかろうじて均衡を保っていた多くのものの努力を蹂躙する行為であった。そのような理不尽は、傲慢の代名詞とも呼べる鬼月葵を置いて他に在ろうか?
……あるのだ。それが、鬼月葵自身であるならば、猶更。
「惨めよねえ。いつか自分が捧げるはずだった体を、こうして、奪われるだけでなくて」
屹立する彼の分身を深く呑み込んだ下腹部を撫でながら、『鬼月葵』は、霊力によって縛り上げた鬼月葵を嘲弄する。その流し目が何を意味するか、鬼月葵には十二分にわかっていた。
そう、伴部には体だけではない。すべてを、全身を、全存在を捧げ、服従し、魂までをも隷属する腹積もりでいたのだ。その覚悟無くして、どうして愛すると言えようか。
それを、この女は踏み躙ったのである。自分の顔で、自分の体で、伴部の尊厳を蹂躙する最悪のかたちで……!
食いしばる唇が破けて、つつ、と赤い雫が零れ落ちる。自分が無力であることを自分自身で証明するかのように、視界がじわりと滲んでいく。久しく流していない涙が、堪えきれない。
「屈辱でしょうねぇ? 私だってそうだもの。どんなに取り繕って見栄を張ったところで、いずれ自分は伴部に屈服させてもらえると、信じて生きてきたんですものね?」
大きく腰が上下する。厠で用を足す姿のようにはしたなく、力強い両足が畳を踏みしめる。意識のない伴部が呻き声を上げる。
その声に、快楽の色が混じっていることを、鬼月葵は耳ざとく聞き分ける。ほろほろと、目尻から溢れた雫が着物に染みを作っていく。
「馬鹿みたいね。伴部だけを特別視しているようだけれど、オトコの欲望なんて、所詮まぐわうことで屈辱を感じたり優越感に浸ったりするようなものでもないでしょうに」
鬼月葵は嗤う。自分を作り上げた自分自身を嗤う。所詮魂の欠片に過ぎぬ自分を野放しにして、裏をかかれた自分の落ち度を嗤う。失策を。
同時にそれは、自分を使い捨てにした鬼月葵に対する強烈な劣等感の裏返しであることに、鬼月葵は気づいている。だからこれは、初めからどうしようもないのだ。鬼月葵は自分自身に対する恨みを、こうやって晴らすほかにない。しかしそれは、伴部を巻き込むはた迷惑な自傷行為に過ぎない。
「伴部ッ! 答えなさい! 気持ちよいでしょう!? 私の女陰は!?」
髪を振り乱す。天井を見上げ、意識のない伴部に何度も問いかける。互いの体液が混じりあい、粘ついた珠となって畳を汚す。
「ともべ……助けて、ともべっ」
もはや、恥も外見もない。耳を塞ぐこともできない。
自分であり、自分ではない邪悪な魂の片割れによって、伴部は意識を失っている。そしてそんな彼を、自分自身が凌辱している。いくら彼女が自分の傲慢さを省みることがなかったとしても、それは絶対に破ってはいけない禁忌であった。恥ずべき自意識であった。
もしもあの時、愛を求めた相手に裏切られた時、伴部がそこにいなかったとしたら、今目の前で浅ましく、盗人のくせに堂々と腰を振り続ける犬のような人非人のように、まるで性玩具のように誰彼構わず欲望のままに自分の体を押し付けていたのだろうか。
ありえたかもしれない可能性を前に、鬼月葵は首を振る。子供のように首を振る。何度も何度も、繰り返し首を振る。
それでも、鬼月葵と同じ存在が、僅かに大きく違う同じ存在が恩人を、愛した人を貪りつくし、凌辱している現実は何も変わらない。
「騒ぐな」
景気のいい音を立てて、立場の逆転した分身が扇子を閉じる。濡れる眼で見上げた葵は、その瞬間、自分が術に囚われたことに気づいた。能面もはぎとられた伴部が、亡骸のように転がっている。
「伴部、そこにうるさい女がいるから、相手をしてあげなさいな」
粘っこい、上っ面の優しさで取り繕った声で、魂の欠片が愛した人に囁く。
「気取った雌犬を、その下半身で助けてあげなさいな」
「伴部っ!」
歓喜の声か、恐怖の声か、わからない。鬼月葵は押し倒された瞬間、はっきりとそれが、悦びであることに気づいた。拙い手による愛撫が、あっという間に彼女の夢想を叶えていく。帯を裂かれ、圧し掛かられ、手首を押さえつけられても、すべてが嬉しかった。
散々求めていたものは、目の前にあった。
「ふふ、伴部。私が見える?」
伴部は、こくりと頷く。逢魔が時に似つかわしくない鈍色の部屋で、彼はぼうっとしていて、何も考えられなかった。
目の前には美人がいる。とても、自分を求めるはずもない美人が。しかし彼女は実際に自分を求めていて、その後で、今こうして挿入している女を与えてくれた。
「私を見なさいな、伴部。そう。私を。その女のことなんか見ないで」
鬼月葵のかつての分身は、本人の顔に跨っていた。その屈辱的な状況を、もはや鬼月葵は理解していなかった。鬼月葵は夢の中にいた。伴部が自分を熱心に求めてくれる、長年の夢であった。