蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
ヒロインが出てこないので初投稿です。
霧のように重たく、鬱陶しい雨が降り続いていた。都の一部の成れの果てを思うと、皆口を噤んでしまう。扶桑国を襲った狂気はようやく下火になりつつあるが、民の顔は晴れない。昏い瞳はぶつかり合ったが最後、罵りあいへと発展し、僅かな食物を求めて彷徨う者が、食糧争いと勘違いして規模を広げていく。持ち主のない草鞋を、大事そうに拾い上げて何事もなかったかのように履いていくものがある。鬼火によって炭と化した物見櫓の表面を削いで、生き残りのために使おうと、士気は下がれど誰も死にたくはない。お腹を好かせた子供の泣き声も、そのうち聞こえなくなることだろう。物心ついた兄らしい少年は、だらりと両手を下げ、ほとんど裸の状態で蹲っている。僅かに残った荷車が軋みながら通り過ぎていくのを虚ろな瞳が見送る。露天商が奇跡的に戦火を免れた衣を茣蓙の代わりに広げて空威張りをするが、広げた二束三文の代物以外はことごとく盗んできたものであろう。欠けた茶碗、草履に下駄、錆びた鏃など、あるものを広げているだけだ。
髪がほつれても気にも留めない女が走る。息を切らせる途中に唇に迷い込んだ己の髪を、空腹の足しになるかとばかりにしゃぶり始めていた。神社仏閣、妖から守ってくれなかったそれらに仕返しもかねて襲撃に向かう。比較的に損害が小さいのは小規模でも結界を張った穢れなき聖域であるが、暴徒の手で略奪され、叩き壊され、経典や筆もすぐに焚火に消える。寺を燃やした奴に尋常でない怒りをぶつける男は風呂敷を抱えていて、中にまだ値打ちのあるものがあるのにと憤慨している。住職はとっくにこの地獄から逃げ出していた。紙垂が何度も何度も風に煽られてはためき、今にも儚く飛んでいきそうな塩梅である。
この世の地獄だな、と少し離れたところから見守るのは、公家衆の一人であった。武士の護衛に退魔士を加えているのは式神や認識阻害といった術に期待してのことだ。もっとも、名のある退魔士は死んだか都の中心を守っているか、討伐部隊に駆り出されたかで、護衛にはもぐりも珍しいことではない。完全な貧乏籤であった。いつ教養のない民たちが襲い掛かって来るかなど、想像もしたくない。このまま視察を、と尋ねる武士に、公家は籠の中で否定する。地獄は絵巻の中にあればこそ。実在する地獄を物見遊山する者がいようか。民衆の手が届くより早く牛車は方向を変えて走り出した。
降りかかる雨に術もなく、塵芥と化した長屋の軒に身を寄せて、じっと天を見つめている。ありもしない救いを何とか見出そうとする。ここではまともな人間は生きてゆけない。聖者は蹴り出され、狂人は羨望の眼差しを向けられ、無力な民は転がっている。べたべたとした呪詛が町を覆い、結界を内側から食い破る。負の感情が声にならない言霊となって妖を呼ぶ。集まるのは精々、本能のままに人間を食い散らかす知性なき下等な妖であり、退魔士や朝廷の眼中にない。撤退時に霊脈を意図的に傷つける簡素な焦土作戦の成果である。
よだれが垂れる。先日まであったはずの食物を想像して、飢餓に喘ぐ。露天商が欠けた茶碗に黒い露をためて上手そうに飲み干す。深く、低いため息がお互いの気持ちを陰鬱にさせる。道路に突っ伏して動かない者の頭に烏が集う。それが収穫の合図である。われ先に駆け寄って着物を剥ぎ、帯を取り上げる。生傷を露わにした死体が丸太のように棄てられる。肋骨の浮き上がった老人が歯の抜けた口をぱくぱくと開きながら、子供をなだめようと頭を撫でるが、その首はすぐに後ろに垂れてしまう。老人は何度も何度もその子供の姿勢を正してやろうとしている。赤髪の鬼がこの光景を見れば、『慈悲がない』と笑うであろう。朝廷は放置するよりも、妖に爆弾として突き出すか、丸ごと殺してやるか。そちらの方がより人道的だと鬼ならば唆すだろうし、それがなくても朝廷の一部は真剣に検討していた。
その敗北は妖に支配された地域とどちらが幸せか、神ならぬ人々には、わかるはずもなかった。