蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
そちらの様子はどうだ、と優しい声が聞こえる。決して忘れないと誓った父の声、母の声は在りし日のそれよりはるかに優しく、橘佳世は泣き出してしまいたくなる弱気を叱咤するが、お父様、ちょっと、辛いことがあったの、と溢してしまう。今思えば娘にあれほど甘い父親もいまいと思うが、それよりも、商会の中でも行われてきた権力闘争の一片も娘に悟らせることなく夢を見せ続けてくれたことこそが、本当の甘さだったのかもしれないと思うようになっていた。
自分の世界では既に父も母もなく、このような辺鄙な場所に自ずと赴いたこともない。連絡手段にどんな伝を用いたか、退魔士の式神にも似た代物を介し、自分と父親は齟齬なく語り合うことができている。対面だったらもっと醜態を晒していたことだろう。
辛くなったらいつでも帰ってきなさいという言葉に、商人としての厳しさと父親としての愛を感じ取れたような気がして、すんなりとありがとうという言葉が出た。物言わぬ木彫りの像と化したそれに未練がましく視線を送りながらも部屋へと戻る。
「あら、もう終わったのですか? もう少し親子水入らずを楽しんでもよかったですのに」
「……あの二人は、私の父と母ではないわ」
最初はあれほど動揺していたくせに、今では自分の代わりに父母と話せるように手配してこちらに揺さぶりをかけてくる橘佳世のにこにことした笑みに、殺意を覚える。いっそ首を絞めて殺してやろうかとも思えるのだが、此方の空気を敏感に感じとったらしい橘佳世はぱんとその手を合わせ、
「それでも、元の世界に帰るつもりがないのなら、もうあの人たちはあなたの両親にもなるのでは?」
「水掛け論はそれくらいにしない? どうせお互い、腹の中では死ねと思っていることくらいわかるでしょう?」
「だとしても、利を見たらどんな相手とも手を組むのが商人です」
「あんたに、からだを使う覚悟はないくせに」
初めて、橘佳世の笑顔という仮面に皹が入る。
「……私は伴部さんに助けていただきましたから」
「ええ偶然にも、ね。それさえなければ……」
「それさえなければ、私も同じように、からだを使ってでも商会を取り戻そうとしたかもしれませんけれど」
「やってもいないことを……できもしないことを、ほざくなっ!」
水を打ったように室内が静まり返る。
「建設的な話をしましょうか。今の状況では、お互いに手詰まりです。この辺で一度、手打ちとしませんか?」
「手打ち?」
「私はあなたがこの世界にいられるように最大限の努力をする。その代わりあなたは……伴部さんに、私と一緒にご奉仕していただく、というのは」
「まるでこの世界の在り方に、自分が大きな役目を果たしたとでも言いたげだけど?」
「それは言い出しても始まらないはずです」
橘佳世は吐き捨てた。
「色狂いが」
「復讐の亡者が」
間髪入れずに投げ返した言葉の主は笑顔のままで、暗い光がまるで見当たらない。橘佳世にはもう浮かべることができない笑みだった。
「それで、どうでしょうか? 私の提案は」
「ろくに商品も並べてない店で買う奴がいると思う?」
「あら、ではお帰りはあちらからですね」
言いながら橘佳世は、少し夢見るような顔で、
「そう言えば、最近伴部さんは私に随分鬱憤をためているみたいなんですよね。先日も、首を絞められてしまいまして。愛する人に殺されるのは素敵だ、みたいな人もいますけれど、私は別に死にたいわけではないんですよ」
「……っ」
伴部という下人は、近頃薬が効かなくなってきて、正気に戻る時間も長くなってきている。この呑気な顔をした自分と同じ顔の女が解毒の薬を用いているとは思えないが、そうだとすれば、あの下人は自力であの劇薬に対して耐性をつけたということになる。そしてあの男の自我が完全に解き放たれたとき、意識をさんざん弄ばれた男がどのように出るのか見当がつかない。それこそ目の前の女が脅してくるように、自分を殺してその体を貪るような鬼畜の所業を……劇薬を用いた自分が言える立場ではないが……実行に移してもおかしくはない。
動揺を殺していると、上座に座った橘佳世がふっと空気を緩めて、小さく舌を出した。
「なーんて。伴部さんは優しいですから、そんなことはしませんよ。ええ。あの人は優しいですから」
「惚気でもしているつもり?」
「いえ。でも、どのようにしてこの世界とあなたの世界が結びついたかなんて、あなた自身にも分っていないのでしょう? 先ほどのお店の例えじゃありませんけれど、私たちはどっちもどっちでしょう?」
「だとしたら?」
「お互いに、売れるものを品出しするしかありませんよね?」
橘佳世は沈黙する。もう一人の自分の言うことは、お互いの痛いところを突いていた。商人としての自分はこの条件を飲んで新たな機会を模索すべきだと言っているが、父親と話した直後のせいか感情が全く安定しない。
「そういえば、ひとつ訊いてみたいことがあったんですけれど……」
「……何よ?」
わざとらしく思い出したような口ぶりで、すす、と身を寄せてきた橘佳世は、険しい目をしている橘佳世の耳にささやいた。
「あなたが相手してきた中で、伴部さんはどのくらい上手かったですか?」
一瞬で、橘佳世は自分の体が燃え上がるような錯覚に包まれた。反射的に服の上から胎を押さえるも一足遅く、体はあの人間のものとも思えない一物の感覚を思い出し、大きく波打ち、衣を伝って畳を汚す。咄嗟のことに、体が動かなくなる。
伴部さん、と橘佳世が叫ぶが早いか、強張って動けないもう一人の自分を押し倒した。反射的に手や足を振り回すも、がっちりとしがみつかれてまったく当たらない。唇を奪われた瞬間に、体が連想したように、下半身だけががくがくと痙攣するようにして、暴れる脚が虚しく畳の上を滑った。
襖が開く音がした。伴部さんやっちゃってください、と弾む橘佳世の声に、男の気配が体をまさぐってくる。全身が歓喜に包まれて男を受け入れようと準備を始める。散々情緒を揺さぶられた橘佳世は、今だけは考えることを止め、体に逆らわずに状況に任せた。
それによって、体がますます下人に惹かれていくことに橘佳世は気づけないままだった。