蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
蝉の死骸が、風に煽られて転がっていく。失われた命が波のような音をたててこの世の無情を知らせてくる。
一人坊主が、片手をかかげ、念仏を唱える。般若心経が、夕陽の中へ消えていく。
坊主の顔は憂鬱な色に彩られたまま、念仏さえも煩わしそうな顔で、額の汗をぬぐった。自分の唱える言霊をまるで信じていない顔であった。
「ばっかみたい。英雄なんていやしないのに」
橘佳世は、縁側にて呟く。自嘲の響きを伴うそれは、最後の最後まで英雄願望を捨てずにいる、もう一人の自分に向けたものであろうか。
鬼月家は、既に壊れていた。そして、北土の地にある橘商会もまた、終わりを迎えていたのである。
辣腕で鳴らした橘佳世は、ふんと鼻を鳴らしながら室内へと戻った。
「あーあ、男もあんたもけだものよね。聞こえてる? 淫売。あんたに言ってるんだけど」
橘佳世の淡々とした罵倒の言葉に、橘佳世は幸せそうな吐息を漏らし、けして離さぬと言わんばかりに絡めた腕と足を天へと向けて、全身を揺らし快楽を貪っている。南蛮の、母から譲り受けた鮮やかな髪が畳の上に見事な対比を描き出すも、よだれだらけで焦点の合わぬ顔に、絶世の美少女ももはや形無しであった。
「ともべ……だったっけ。下人ごときに股を開いて……犬とやってる方がましじゃないの?」
橘佳世の疑問は、もう一人の自分に届くことはない。なぜなら、橘佳世は既に、理屈では得られぬ快楽を前に身を投げ出していたからである。幾ら自分と同じ顔をした、冷たい瞳の持ち主が自分を嘲笑おうと、彼女には彼女の幸せがあり、橘佳世はそれで幸せだったのである。
ぎり、と奥歯を食い縛る音が聞こえた。橘佳世は駆け寄ると、男の下になっている自分、はるかに生ぬるい人生を……少なくとも、佳世にはそう思えた……送ってきたもう一人の自分の頬を張り飛ばした。一瞬、白目を向いた佳世の目がぐりんと焦点を合わせ正気に戻る。
その顔がさっと青ざめた。帯をほどかれた和装がそのまま煎餅布団のように畳に広がっていた。それさえ、佳世から奪われた父様が選んでくれた一品であった。髪飾りは佳世の知識に照らしても見当たらない、まじないが込められた手製の代物に見えた。
「あっ!?」
佳世が悲鳴に似た声をあげる。もう一人の自分、突如鬼月の下人、佳世の思い人と共に現れた、幽鬼のような少女が、伴部とのお忍びの記念である髪飾りを奪い取ったのである。すい、と身を翻したもう一人の自分は、素早く髪飾りを身に付けてしまう。佳世の髪飾りは、当然顔で持ち主の手から離れた。
「どきなさい、下人」
「え……伴部さん! やだぁ! いかないで!」
佳世の懇願むなしく、思い人は彼の分身をずるりと引き抜き、もう一人の自分の忠犬であるように控える。佳世はすさまじい嫉妬に駆られて、自分を見下ろすもう一人の自分を睨み付ける。双生児のように同じ色の視線が絡み合った。
「男に犯されて、雌犬のように媚びていたくせに」
佳世はいう。視線を落とし、喪失感を味わっている佳世の体を嘗めるように見下ろす。さっと頬を朱に染めた佳世は、精液で濡れた衣で白い四肢を隠した。先程までの満たされていた感覚は消え、今はただ、失ったものを取り戻せとからだと心が喚きたてている。
「そういうあなたは、随分咥えこんだみたいですね。男をとっかえひっかえ、さぞかし快楽をむさぼって……」
言葉は遮られた。眦を吊り上げた佳世が強かに、横たわる佳世の腹を殴り付けたのであった。もちろん佳世とて、本気でもう一人の自分が、己の快楽のためにからだを使ったとは思っていない。目的のためにすべてを擲つような生を送っていたのは、同じ自分だからというわけもなく一目でわかる。
だがその言葉は劇薬であった。両親のために矜持ひとつで生きてきた佳世を嘲笑うものであった。だからこそ佳世は、世間知らずの小娘に、体を使って生きてきたものとして的確に、女としての激痛を与えてやった。
「あんたみたいに、何も失ってない小娘に、私の生き方が、わかるもんか!」
苦痛が声になって部屋へ消えていく。刺々しい悲鳴も、やがてはうだるような暑さの中に取り込まれてしまう。佳世は後ろ手に着物を握り、苦痛をじっとこらえた。
やがて、はぁはぁと息を切らしたもう一人の佳世は、体勢を変えた瞬間に今まで防戦一方だったもう一人の自分に不意を突かれて畳を転がった。激痛やまぬ足首の裏を押さえることもなく、二人は畳の上を転げまわる。
手が飛んだ。指が髪を絡めて引きちぎらんばかりにあらぬ方向へ力を込められた。拳が頬にめり込み、額と額がぶつかり合う。一人ぼうっと立ち尽くす下人をよそに、瓜二つの美少女たちは、優位を求め、荒い吐息で転がり回った。押さえつけたと思った瞬間に、先のお返しとばかりに腹に一撃を喰らう。息を詰まらせたところに激情のこもった瞳が自分を射抜き、その瞳に映る本物の自分も同じような目をしていることに気づく。
帯がはらりと落ちた。髪飾りが弾き飛ばされた。もはや他人に二人を区別する術はなかった。やっと相手を押さえつけた佳世が振り返って、叫ぶ。
「下人! 私とこの小娘、どっちがいいか選びなさい!」
両親も失っていない小娘が、愕然と、動揺するさまが見て取れた。
佳世は暴れるもう一人の自分を押さえつけたまま、下人に犯される屈辱に顔を歪めつつも、何とか嘲弄のかたちをとる。商会のつてで手に入れた薬さえあれば、下人が自分の意に反することは、ありえなかった。
こんな、薬一つで意志も奪われる男が、霊力もろくにないこの男が、佳世の英雄らしいこの男のどこが魅力的なのか、佳世にはさっぱり理解できなかった。
だが、相手を辱めるためには、自分の体を使いつぶす。佳世にはその覚悟があった。
もう一人の佳世にも、おそらく同じような覚悟はあった。だが、その体は彼女の最も愛しい人に捧げるつもりであった。
そこが、明暗を分けた。
「やあぁぁぁ! やめてください伴部さん!」
絹を引き裂くような悲鳴が響く。異物の挿入に違和感を覚えながらも、体はいつものように男を受け入れて、蠢動する。押さえつけた佳世の瞳孔が縮まり、ガタガタと震えだす。
「どうして! 伴部さん! どうしてその女なんかに!?」
二人の体が揺れる。押さえつけている佳世も、押さえつけられている佳世も。二人の秘所は重なり合い、互いの熱を交換する。
しかし、男の分身を、与えられていない佳世には、そのぬくもりをさっぱり受け取ることができない。
「あはっ」
嘲笑う佳世の唇が、受け止めきれない唾液をこぼした。それは下の佳世へと垂れて落ちてゆき、頬を汚したが、もう一人の佳世は最愛の人を奪われ、最愛の人が自分よりも、もう一人の自分を選んだことの衝撃から、意識の外にあった。
「待ってください伴部さん! 伴部さん! どうして! 同じ私ですよ! 同じ橘佳世ですよ!?」
「年季が違うのよ、ばぁか」
橘佳世は、下人の汚らわしい手が自分の尻を掴んでいることに鳥肌が止まらなかったが、余裕綽々という表情を崩さぬまま、言い捨てる。
「やだ! やだやだやだやだぁ!」
「ああ下人? ちゃんと外に出してね? ……あんたとの子供なんて、欲しくもないから」
顔立ちの整った青年は、言われた通りに動く。機械的な射精、その寸前に引き抜かれたそれは、何度も脈動し、二人の佳世の重なり合う乳房や秘所を白く穢していった。
ふう、と橘佳世はため息をついた。情欲に満足した吐息ではなかった。しかし、明確な愉悦であった。
もう押さえつけている必要はなかった。何も失っていない橘佳世は、最愛の人を失って、抵抗する余力もなかった。