蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
黒々とした闇が広がっていた。人の心を慰める緑など真の闇の前では無力である。浮かび上がる木々の輪郭は不気味な彫像のように頭上を覆い、いつどこから妖が襲ってきてもおかしくない、格好の隠れ蓑となっている。
そこに放り出されているのは一人の下人と、年端もゆかぬ少女である。青年は到底釣り合わない位の高い姫君を、先ほど水浴びさせたばかりだった。こちらの臭いを消せるときに消せなければ、無防備な二人などすぐに食べられてしまうのが落ちだ。
「下人ごときが、私の肌を見るなんて」
身動きのとれぬ少女が耳許で文句をいう。それくらいには、回復してきたらしい。
「身に余る光栄ですよ、もっとも……目の保養なら、つるぺたな餓鬼より、豊満な美女の裸の方がよかったですがね」
このような状況にも関わらず、背負われた少女、鬼月葵は、年上の青年に、いいようにあしらわれているのが悔しかった。あれだけ渋っていた水浴びも、今では青年の心を揺り動かせないのが却って悔しく感じられる。
「覚えておきなさいよ、伴部。家に戻ったとき、あんたが私を剥いたって言いふらしてやる」
「はは……その調子なら大丈夫でしょうね」
青年は、脂汗を拭いながら笑う。汗だけでなく、べとりと血糊が尾を引いたように思える。体のどこかから、血が吹き出しているのは確かだ。せめて、少女にはばれないようにしなければ……。
考えていた矢先、あり得ない声が耳朶を打った。
「ねえ伴部、その糞餓鬼、さっさと捨ててしまいなさいな」
「え……?」
何かしら、妖の呪いでも受けたのだろうか。すぐ近くの岩に腰かけてこちらを見つめる桃色の髪の少女は、今おぶっている少女の成長した姿、鬼月葵その人だった。ゲームと全く同じ容姿で、扇で口許を隠しながら上品に笑う。
「ねえ、伴部? 感謝の言葉一つも寄越さず、足を引っ張っている自覚もなしに、あまつさえあなたを脅している……そんな糞餓鬼、妖の巣にでも投げ捨ててしまったほうがためではなくて?」
これがゲームの延長ならば、バグは自分で、本来の鬼月葵が辻褄を合わせるためにこちらを諭しているのかもしれない。背中の幼子は相手との力量差を感じ取ったのか、萎縮してしまっている。
「姫様。……どちらの、高貴な方かは存じませんが、それはできません」
「なぜ?」
「これは、誰の命令でもなく、自分が選んだ道だからです」
「その娘、どうせ嵌められたのでしょう? 誰もが死を望んでいるのに、それに逆らうことが、あなたの選んだ道なの?」
「そうとも言えるかもしれません」
「その娘が死んだところで、あなたの責任になるとでもいうの?」
「どちらに転んでも。ですが……」
「言ってみなさい」
「ですが、自分は、この娘を見捨てられるほど、その……強くはなれません」
薄闇のなかで、本来の鬼月葵が、肩から力を抜いたように見えた。
「やっぱりあなたは、変わらないのね」
「? 何か仰いましたか、姫様」
「いいえ? なら、せいぜいあがいて見せなさいな、伴部。あなたの道とやらが、どんなものであるか、私が見届けてあげるわ」
伴部が消えてから、鬼月葵は月を仰いだ。
ここに来て、すぐに気づいた。ここは彼と三日間を過ごした場所であると。本当の愛を与えられた場所、鬼月葵が伴部という下人に見つけてもらった場所。
だからこそ、伴部に対して悪態をつく過去の自分が許せなかった。過去の自分によって今の自分、未来の自分が変わるとしても、妖の巣へ投げ込もうという提案は、本気も本気だった。
しかし結局、鬼月葵がもっとも愛する伴部の顔、覚悟を決めたその顔を向けられ、さらには改めて彼が、初めから自分を救うことだけを考えていてくれたとわかって、鬼月葵は今にも絶頂してしまいそうだった。
「でも……」
もし今後、このような過去を探訪するような目に陥って、そこで伴部に対する不遜な態度が見られたら、例え過去の自分でも容赦なく殺そうと決意を新たにする鬼月葵であった。
「うわあああ!?」
絶叫が響いた。
鬼月雛をそそのかし、この家から誘拐しようとした下手人を探るべく、対象が廃人となるのも厭わぬ手段にて、少年の頭のなかを覗いた瞬間、そのなかの一人が発狂した。鬼月家の古老たちが、絵巻でも見るようにそれぞれ待機していたところ、到底一人分では賄いきれない記憶の量を叩き込まれた挙げ句、自分がどのような末路をたどるか、生々しい映像を突きつけられたのだ。
何より自分達がどうあがこうと何も変わることがないという「ゲーム」の登場人物としての立場を突きつけられ、その場の長老たちは目を覆いて、右へ左へ絶叫と共に暴れ続ける。少年はまさに、精神汚染のために作られた人間爆弾といっても過言ではなかった。
再起不能となって倒れていく身内におののく室内から、いつの間にか、一人の女の影が消えていた。そして、気がつけば室内には、黒い蝶が舞い始めていた……。