蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
鬼月の家から、徐々に離れていく。何度も何度も振り返るのは、未練からではなく、確実に自分が「脱出できた」と知るためだ。もはや、鬼月雛の、永年の夢を阻む、名ばかりの家族はどこにもいない。いるのは本物の家族であり、夫である青年と二人きり。
沈黙を続ける鬼月の家は視界から消えた。退魔士として遠征で家を離れることはあれど、これほど解放感を伴う外の世界は初めてだった。
青年はまだ目を覚まさない。しかし、きっとすべてうまくいく。今度こそ、二人きりで暮らすことができるのだ。
「楽しみだな。そうだろう?」
青年の名を口ずさむ。あのいまいましい妹が、ついぞ知ることのなかった彼の本当の名前。それは妻足る自分にだけ許される特権なのだと鬼月雛は嬉しくなる。
何処へいこうか。できるだけ遠く、何者も、自分達の邪魔をできない場所がいい。
式神から見る光景は、まさに世界の頂点にいるような、あの霊峰の頂きにいるような、そんな錯覚を雛にもたらす。けれど、雛が求めているのは、あの妹が求めていたような不相応の夢ではない。二人だけの世界、小さな世界だ。
たまたま見つけた小さな山、丘にも似た山の嶺に、捨てられた小屋を見つけ、雛と良人はそこに降り立った。二人だけの生活の、始まりであった。
「なぜお前が、妹や、鬼月の家を気にする!?」
「雛様、すでにあの場所は、私にとって分かちがたく……」
「様をつけるな! お前は私の良人なんだ! 妻を、様で呼ぶ夫婦はいないだろう!?」
何もかもが、思い通りにならなかった。
目を覚ました青年は、未だに彼女の臣下のように振る舞い、よりにもよって、あの鬼月の家の心配をする。妹や、狂った祖母の末路を語れば、目を伏せて、あたかも故人を偲ぶようにすら思える。
それもこれも、すべてはあの家のせいだ。あの家が、彼をここまで卑屈なものに歪めたのだ。
「何も心配はいらないさ。お前もすぐに本当の記憶を取り戻すし、私たちは、二人だけで暮らしてゆける。なあ、どんなに世界が大きく、壊れてしまったところで、今まで大きな世界が私たちに何をしてくれた? もう私は、外の世界になど興味はない。それが私たちの邪魔をしようとするのであれば滅ぼすまでだ。私たちは大丈夫さ」
青年は、しばらく黙っていた。やがて、絞り出すように、
「自分は雛様が、鬼月の次期当主を見据え、大人になられたのだと思っていました。過去のことなど、過去として割りきってくださっているものだと」
「何を馬鹿な。割り切ることなど、棄ててしまうことなど……」
「雛様」
言葉を遮る青年は、言いにくそうに顔を歪めながら、しかし、
「子供は大人になります。人は変わります。そして人の世がそうある以上、我々は、それを受け入れるしかないと、そう考えています」
この言葉は、雛の思考を白く塗りつぶした。
「どういうことだ。……私が嫌いになったのか? あの妹に何か吹き込まれたのか? どうしてそんなことをいうんだ? いやそもそも、もうあんな家はこの世界にないのに!?」
「人は変わるのです、雛様。私とあなたが過去には戻れないように、私たちを隔てるものは、それほどに」
「いやだ、聞きたくない!」
雛はかぶりを振った。耳を押さえ、青年の諭すような声から逃れようと必死になった。
昔に戻れないというのはどういう意味だ。私を拒絶するとはどういうことだ。私は、彼は、何か間違っているというのか。あの妹が、いや、もしかして、彼はあの妹のことが好きだったと言うのだろうか?
わからなかった。雛の前に立つ青年が、全く理解できなかった。あの時の父親のように、どろどろとしたものが、彼女を無理矢理変えてしまおうとしていた。
幼い頃と違い、今の彼女には力があった。この、神聖な過去を歪めようとする力に抗うことができた。異能を以て、雛は過去を守り、今を拒絶した。
青年のからだが、灰の一粒も残さず焼失した。
陽炎のように姿を消した青年を、雛は探した。やがて、自分が過去に没頭するあまり、青年に何をしたのか気づいた鬼月雛は、絶叫と共に発狂した。
首を掴み、力任せにあらぬ方向へ曲げる。骨が嫌な音を立てて、体が崩れ落ちた瞬間に、彼女は暖かい炎に包まれて、再び意識を取り戻した。
「どうして! 嗚呼、どうしてだ!?」
幾度となく自殺を試みてそれでも死ぬことのできない鬼月雛は、この世に在りながら無限地獄を知るのであった。