蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
それは銃による衝撃、反動の類ではなかった。たった今こちらが放った銃弾は寸分たがうことなく青年の頭蓋骨にめり込み、内部から破裂させ、砕いた。肉と骨の断片に、緋色の霧。しかしそれは、橘倉吉という男にとって何ら感慨を抱かせるものではなく、ようやく余計な仕事が片付いたという認識でしかない。
そこへ、一瞬だけ周りの空気が変わったような錯覚である。踏み入れてはいけない場所に踏み込んでしまった時のような錯覚、あるいはそれを咎める幼子が袖を引くような、ほとんど気づけないはずの違和感。それが消失したと同時に、彼は先の衝撃を受け止めたのである。
「ん……?」
ちょっとした目まいのようなふらつき。体を支えようとして力が入らない自分に苛立って、無意識に触れた腹部からは、びちゃり、と粘っこい液体が……。
「ひっ……」
血であった。橘倉吉の腹には小さな穴が開いていて、そこから勢いよく血が噴き出しているのだった。間欠泉のような勢いで流れ始める血を実際に見たことで動揺し、頭が真っ白になる。がくりと膝を折った瞬間、もう立ち上がれなくなり、それがまた恐慌を引き起こす。物乞いのように、散らばった金銭を搔き集めるように必死に手で体を支えようとしているところに、今度は聞こえた。さっきは、自分が引き金を引いた瞬間に合わせられたせいで、音が消えていたのだ。
銃声である。腹部の引き攣るような痛みが増して、恥も外見もなく転げる。発する大声で痛みが引けばどんなに幸せか。彼は若者にも負けず劣らずの俊敏さで地面を転げ回った。やがて、彼の視界に飛び込んできたのは、紛れもない、たった今銃口の方に立っていたはずの橘佳世の姿である。倉吉の姪である少女は、煙を発する短筒のようなものを持っていた。使われている独特の火薬のにおいからすぐにそれが銃の類であることは見抜けたが、それにしては小さすぎる。少女の小さな手には納まりきらないとはいえ彼自身や彼の部下たちが持ち合わせている銃よりも遥かに小さい。拳大の銃が自分を二回貫いたところを見るに、この銃は連発式である。もしもこれを量産できればどれほど莫大な利益を得られるか……それは、現実逃避そのものであった。
「なぜ……?」
「ごきげんよう、倉吉の叔父様」
自分の腹を抉り、その肉を吹き飛ばした凶器を指先で弄びながら、姪は馬鹿丁寧に挨拶する。脂汗とはまた違う、へばりつくような嫌な汗が体中を這いまわっていた。
「ど、どうして……?」
「先に手を出してきたのは叔父様の方でしょう?」
橘佳世はころころと笑い、笑いながらその短い銃身をあらぬ方向へ向けて引き金を引いた。聞き苦しい悲鳴と共にどさりと重たいものが落ちる音がして、それが自分の部下だったものであることにようやく気付く。何のためらいもなく、今までぬくぬくと暮らしてきたはずの姪が、人を殺している……その事実に、倉吉は魔女という言葉を思い浮かべる。
「本当は、伴部さんを撃たれる前に助けたかったのですけれど……それも叶いませんでしたから。叔父様を先に殺害させていただくことになりました」
「待て、貴様、一体何を話して……」
「叔父様が知る必要がありまして?」
橘佳世の唇が残酷に吊り上がる。これから死ぬだけだというのに、と。子供とは思えない言葉を紡ぐ。ずんぐりと丸い輪のようなものに小さな弾丸を幾つも込めて、ぱちんと閉じる。銃声が何度も耳朶を打ち、周囲の呻き声と悲鳴が濁流のように流れて、消える。倉吉はそれを、自分に向けられた音とであるかのように、何度も目を瞑った。
そして、改めて向けられた銃口に、今度は自分の番なのだと、否が応でも悟らされた。
何もかもが間違っていた。本来は自分たちがいるべき立場に姪が立っている。しかし冷酷にこちらに銃を突き付けているのとは別に、半狂乱になって手を血で汚しながら青年だったものを抱き留めようとしている年端もいかない姪がいる。橘佳世がこの場に二人いた。一体自分と相対する女は何者なのか、もしかしたら、触れてはいけないものに触れてしまったのではないか……意識が消えかけているせいか、情けない恐怖に呑み込まれそうになる。
「この……この、魔女」
言い終えるより早く、橘佳世の回転式拳銃が火を噴いて、彼の意識は闇に沈んだ。
死体の山が築かれていた。しかしそれも、叔父を撃ち殺した少女にしか認識できない。熟練の退魔士でも認識できない、次元の違う異能が少女を中心に展開されていた。橘佳世は冷静に銃を装填しなおし、またぱちんと音を立てて弾倉を仕舞った。
本来の歴史では佳世の窮地に生き返った異形の伴部が他の人間を『倒して』佳世が『愚かな間違い』をして……という風に進んだが、この世界でも結末は同じだった。鬼月葵によって伴部は正気に戻り、何もかもを失った橘佳世は泣き崩れる。後は家族が彼女を迎えるだけだ。
鬼月葵の姿を認めた佳世は、若干顔を歪めはしたが、銃口を向けるような真似はしなかった。手持無沙汰のように、銃はぶらぶらと地面に狙いを定めようとしていた。やがて、周囲に誰もいなくなると、橘佳世は己の異能の中へと橘佳世を『招き入れた』。
「こんにちは。この時間の私」
驚愕に目を開く自分自身に向けて、橘佳世は銃を向けた。赤く潤んだ瞳は先程まで泣き腫らしていたため。今の自分に流せる涙はあるだろうか、と橘佳世は泡沫のように浮かんだ馬鹿げた考えを一蹴する。
「生き延びたところ申し訳ないのですけれど、私のために死んでくださいますか?」
「え……な、ど、どうして……?」
「どうして?」
橘佳世は首をひねる。
「理由、言う必要あります? あなたが伴部さんを拒絶しておいて、それでも諦めきれなくて彼に縋ろうとするのは知ってますよ? でもほら、そんなの、生きている意味ありますか? 自分で先に拒絶して、また縋るなんて、恥知らずもいいところでしょう? だから死んでお詫びしてもらおうかなと。それに、あなたが死んでくれた方が、なり替わるのが容易で助かるんですよね」
橘佳世の心はとうにすり減っている。自分を殺すことも、人を殺すことも、彼女には同じことである。さらには、未来から過去へと異能を用いて旅をするうちに、会話の意味さえ見出せなくなった。既にどのような回答をすればどのような反応、どのような言葉が返ってくるかわかっているのだから、会話に必要性が失われるのは当然のことであった。
ただ一人、伴部だけは別だ。彼のことは、どれほど知り尽くそうとしても、できない。どれだけ同じ言葉を聞いても、飽きることはない。
「それに、あなたを殺しておけば、また私の異能が活気づくんです。橘佳世の未来が、未練が、他の橘佳世を強くしていく。ゆえに、私はあなたに死んでほしいのではなく、殺されてほしいのです。ご理解いただけますね?」
年頃の少女らしい恐怖に顔を引きつらせ、嗚咽の代わりに悲鳴を発しようとしていた少女の顔面を鉛玉が貫通した。
同じ顔の少女の一人が死に、一人が立っている。彼女はその死体から髪飾りをとると、自分の髪を挟み込み、はにかんだ。そして、ついさっきまで同じ顔をしていた少女が泣いていた場所に、ゆっくりと座り込んだ。
後に、白骨化した死体がそこから幾つも発見される。だが、少女のものらしき死体は見つかることはなかった。
そして橘佳世は、しばらく間をおいて、また当時の伴部を追いかけに行く。憎むべき叔父が彼を射殺する前に。幸せなまま物語が終わるように。その時間に間に合わせるために。
伴部を信じ切ることができなかった。その一点を塗り替えるためだけに、橘佳世は何度でも自分自身を殺す。