蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
白若丸にとってその日は人生で最高の日になるはずであった。過去のしがらみ、思い出したくもない艱難辛苦はすべてこの瞬間と引き換えだと信じることもできたし、またそれでいいと本人は思っていた。敬愛が思慕へと変わり、思慕が明確な好意へと変わったとき、白若丸は、この人に愛されるべきだ、いや、愛してもらわねばならないと確信した。そのための道のりも、すべては愛があればこそ。そして、今日こそ、白若丸が兄貴と慕う青年に己の思いを伝えるときであった。
今や兄と慕う青年より格上となり、焦らされること数刻。念願かなって、彼は青年の前に躍り出た。
何かいいことでもあったのか、そう尋ねてくる青年の目敏さにこれぞ以心伝心だと胸をときめかせながら、かつては馬鹿にしていた、色恋に盲目となった少女の駆け引きのようになんだと思う、当ててみてと緩みきった頬を押さえながら白若丸は尋ねる。首をひねり、真剣に己のことを考えてくれる青年の優しさに胸が詰まる。
しかし答えはでない。当然である。自分は愛のために性別を克服したのだ。超越したのだ。それは並大抵の覚悟では不可能であった。推し量れるはずもなかった。
白若丸はそれでも青年の口から答えを聞きたくて、自分と青年にとって善きことであると福音であると熱っぽく告げた。なおも眉間に皺を寄せる青年に対して、とうとう彼は我慢できずに、俺、女になったんだと告白した。
ずっと兄貴のことが好きだったんだけどさ、俺、男だったし。それに昔、寺に預けられてたとき、俺は思い出したくもないような目に遭わされたんだ。兄貴に捧げられるような、綺麗な体がどこにもなかったんだ。俺、すごく絶望してさ。でももう大丈夫なんだ。俺は女になった。男の時には奪われた純潔も、この体にはまだちゃんとある。だから、兄貴が心配することはなにもない。
捲し立てながら白若丸は、青年の顔の微妙な変化に気づいた。それは、彼と熱狂を共有しようという顔ではなく、驚きと、そして若干の畏怖のようなものを湛えたものとなっていった。それは確かに予期した顔ではあったが、彼の中の兄貴が浮かべるものではなく、真実の愛も知らぬ無知な周囲の愚か者が浮かべるべき顔であり、最愛の人に、もっともしてもらいたくない顔であった。
青年が彼の名前を呼んだ。その、躊躇いがちな呼び掛けで、彼はほとんど、自分の失策を悟った。しかしまだ一縷の望みを捨てきれずに、青年の、真実の愛を期待してひとつの疑問を突きつける。
なあ兄貴、俺は兄貴に誠実に愛を伝えたよ。でも兄貴は拒むのか? 俺の愛を否定して、俺を……裏切るのか?
白若丸のそれは完全な早合点から来たものである。青年は彼の愛というか、そこに裏付けされた行動の取り返しのつかない重大さに圧倒されただけのことだ。まして、愛を押し付けたところで相手には受け入れる義務などなく、白若丸の裏切るという言葉は完全に彼の一人相撲であったことの証明に他ならない。
だが、彼はこの思いに全てを懸けていた。否定されることは、殺されるのも同じことであった。
自分の期待した光景を得られず、また期待した愛の返答を得られず、白若丸は自身の足場が崩れていくような錯覚を覚えた。嘘だよな、兄貴。なんで兄貴が裏切るんだよ。譫言のように繰り返す瞳からは光が失われ、涙が一筋、白い肌を浮かび上がらせた。
愛する人の裏切りに、白若丸には何も残されていなかった。