蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
おかしな性癖を広めようなどとはしていません。俺と同じ沼に落ちろ。
「いい加減にしてくださいっ!」
声は鋭さを通り越し、悲痛ですらあった。無力な少女である橘佳世は、己の拳によって状況を打開する必要に迫られていた。それが容易でないことは誰にだってわかる。
だが、今回に限って言えば、それは不可能ではないはずだった。相手も自分と同じ橘佳世。身一つなのも変わらない。
たった今二人は、先を争うようにして伴部とまぐわった後である。一日の初め、伴部に失望されないようにと丁寧に着込んだ服もはだけて、かろうじてゆるく巻き付けた帯に引っかかっているような状況である。そこへ来て二人は、年頃の少女が挑むには少々歳を食い過ぎた殴り合いを行っていたのである。まさしくそれは、双生児の取っ組み合いの喧嘩に見えなくもない。相手の体を畳の上に押し付けて、握った拳を振るう。霊力を載せる退魔士と比較になるはずもない軽い拳は、箱入り娘の佳世でも容易に堪えられるもので、事実三発ほど殴ってしまえば攻守交替と、遊戯さながらに順番に殴り合っていた。
「どうしてこの世界で、あなたは、そんな大きな顔ができるんですかっ」
薄気味悪い笑みを浮かべたもう一人の自分に負けないように、健気に腕を振るい声を張り上げ、橘佳世は立ち向かう。ある意味では感謝しているとは言える。だが、その借りはもうとっくに、交渉の結果で清算したはずだ。今の二人はあくまでも対等な立場にある。そのはずなのに、どうしてこっちの佳世ばかり、伴部を取ろうとするのか? 彼の愛を奪おうとするのか?
愛は奪うものである。愛は等分には与えられないものである。愛が増えることはなく、ゆえに、分けて減らしていくものであると覚悟しなければならない。
ゆえに、不当にその量が減らされるのであれば、戦うしかない。愛を与える側とではなく、愛を与えられる側と。たとえそれが同じ自分であろうと。
腕を振り回すたびに絡みついてくる袖がうっとうしい。はしたなくも袖を押し上げて振るった拳が、僅かに逸れて、下の佳世の頬をかすめるようにして虚しく畳を叩いた。
橘佳世が相手の顔を覗き込むと、同じ顔が見返してきた。互いの荒い息が頬を撫でる。突っかかる唾を飲み込みながら、からからになった喉を潤し、勢い任せに佳世は叫ぶ。
「私の伴部を、これ以上、奪わないでください!」
待っていたのは沈黙と、同じ顔の失笑だった。その笑いは徐々に大きくなり、その狂騒に佳世は相手を押さえつけるのも忘れてぺたりと尻もちをつく。ゆっくりと畳から起き上がって橘佳世と向き合った異邦人は、人差し指で涙を拭って、言った。
「滑稽ですね。あなたの決意はどこに行ったのですか? 信念も矜持も、お父様やお母様に誓ったものは全部捨ててしまった、と?」
「なにを……」
「そんなにまで『橘佳世』を捨てて、『私』になりたかったわけですか? ねえ。『橘佳世』さん?」
その言葉を受け止めた瞬間、尻もちをついていた橘佳世の顔から血の気が引いた。ぺたりと座り込んだ姿勢からは散々伴部を受け止めた陰部が丸見えになっている。わざとらしくそこを見つめるような姿勢を取ってから、佳世は嗜虐的な笑みを浮かべる。
「『伴部さん』がそんなに欲しいんですか? あんなに平静を装っていたのに、何もかも忘れて、まさか小娘だなんだって言っていた私のふりをするようになるだなんて……ああ、いえ。ふりじゃなくて、そう思い込んでいたのですよね? 本気で。何もかも、忘れて」
思い当たることはあった。この崩壊した世界で、佳世は生存した両親に、同じものを失った異邦人の佳世を引き合わせたのである。無論、自分のふりをさせたうえでのことだったが、いずれ二人して両親に会ってもいいかもしれない、と思っていた矢先のことであった。
「あ、ああ……」
幸せな自分。何も失っていない『小娘』。それに成り下がり両親を失ったという事実をも消し去ろうとしていた自分に、橘佳世は絶叫した。虚ろな目からは滂沱の涙が流れ落ち、畳と服が失禁で濡れる。その哀れな自分の姿さえ、橘佳世は非情な笑みをもって見下ろしていることができた。
もしも異なる愛を選ばないといけない時が来たら。両親と伴部を天秤にかけることがあったら。
佳世の心は既に決まっていた。