蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
本番描写はもう少しお待ちください。
「恥を知りなさい、下人のくせにっ!」
橘佳世から、その言葉を引き出すのは至極簡単なことであった。かつて青年に助け出された橘佳世は、意識的にも無意識的にも彼に好意を抱いていたのだが、それが明確な形となるのは、お忍びの一件があってのことだ。
今でこそ、彼を購入して傍に置くことさえ、彼の名誉を傷つけるとして佳世の決心を鈍らせるが、当時の純粋無垢な箱入り娘の頃では本気だった。
つまりそれは、意識の表層では、常識通り下人という身分を下に見ていたことに他ならない。
異なる世界からやってきた橘佳世は、そうやって留飲を下げる。取り返しのつかない言葉を言わしめた憎き相手。たとえそれが過去の存在であったとしてもだ。
身分の問題は、取引をしたとかいう鬼月の姫君も承知しているし、佳世だってそうだ。なんであれ感情のやり取りをするとき、身分を意識してしまうことは碌な結果を生み出さない。異世界からやってきた橘佳世が明らかにしてしまいたかったのは、まさにその点だ。英雄だとか惚れているだとか言っても、伴部が下人であることを意識しないことはないではないか。
伴部は下人である。下人は皆、道具同然である。つまり、伴部もまた道具の一つに過ぎない。海の向こうの論理を持ち出すまでもなく、これは事実として自明である。そこに感情が入り込んでいるからこそややこしくなるが、個人の感情なぞ世間や一般常識からすればみな無力である。
伴部は下人。道具同然。
感情で覆い隠してきたその事実を突き付けるには、まだその感情が芽生えていない過去の存在を引っ張り出せばいい。
一度異なる世界へとやって来られた橘佳世からすれば、時を遡るのも同じことであった。そして、過去の橘佳世――まだお忍びで伴部と事件に巻き込まれていない時分――に、魔術で伴部に襲われていると錯覚させる。
そこまでお膳立てすれば、この言葉を吐き出させるのはたやすいものだった。下人のくせに、自分に触るな、汚らわしい、恩でも着せたつもりか、言いながら過去の橘佳世は、彼女にしか見えない下人を何とか追い払おうと手や足を振り回す。あなたがそんな人だったなんて思いませんでした。
もしも同じことを、現在の橘佳世がされたならどうなるか。喜んで体を差し出し、犬のように腰を振り、股を濡らすだろう。その姿を浅ましいと言いながら、内心羨んでいる自分の心に、見て見ぬふりはできない。
だが、過去の自分がこうして伴部を拒絶する姿もまた、何とも言えない不満が募る。両親を助けられた、出会えたという縁さえも無為に帰し、たかだか常識のために己の恋愛感情を変質させようとしている愚かな自分がそこにいる。
橘佳世は、知らぬ間に爪を噛んでいた。何度も何度も、犯されまいと逃げ回る自分の陰で、繰り返し繰り返し、爪を噛んでいた。