蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
何かがおかしい……鈴音こと雪音は嫌な予感に胸騒ぎを覚えながら入り組んだ鬼月の家の廊下を小走りに進んでいく。障子の向こうから差し込んでくる陽の光は未だに陰りを見せない。空間が歪んでいるのだと説明を受けたが、そのせいであろうか、気が付けば、ずっと逢魔が時に囚われているような気がする。
矢張り退魔士など碌なものではない……運命に舌打ちしたい気分で、帯を押さえ、ひたすらに進んでいく鈴音の視界にちょうど影がよぎった。
「誰!?」
自分の声が上ずっていたことに気づき、鈴音は慌てて胸元に手を当てる。ゆっくりと息を吐き出し、もう一度問う。先程のは、あくまでも息を切らせたゆえと自分に言い聞かせるために。
「誰ですか!?」
その言葉に釣られたように、影は動き出す。襖の隙間から陽が差し込んでいるというのに、影ができていて、相手の顔がわからない。胸元を覆うように隠したまま、じり、と無意識に交代しながら、鈴音は短刀を探ろうとして、手を止めた。
「げに……伴部、さん?」
その姿は下人のものであり、允職のものであった。たびたび、というより鈴音が唯一知りうる下人であり、自分たちを何度も助けると同時に苦境にも追いやった、複雑な境遇の相手。
「なにをしているのですか? あなたはそれほどまでに暇を……」
いつぞやの会話の続きのように、少しだけ態度を軟化させて、皮肉の一つでも言おうとしたのだが、それも尻切れに消えてしまった。郷で出会った時の苦笑いする雰囲気、人間らしさを醸し出す空気が、どこにも見出せなかったためである。
「……どういうつもりですか、下人、答えなさい!」
らしからぬ、いやそもそも下人にらしからぬなどありうるはずがない。下人は道具同様である。人格などとうの昔に毀損されているはずで、しかしあの伴部はそうではなくて、どこか懐かしいような不思議な印象もあって、しかし、違う。違う。違う!
「何とか答えたらどうなのです!?」
いよいよ無言で自分の前に立ち尽くした能面に、動揺を隠せぬまま鈴音は怒鳴りつける。恐怖とは裏返しのそれを証明するように、短剣を鞘から抜き放ち、顔の前に掲げていた。
ふと、緊張をぶち壊すように、下人の姿をした何者かは言った。幼子の、飯事のような口ぶりで。
『だーれだ?』
「は……?」
当惑する鈴音をよそに、もう一度、伴部は言う。子供のなぞかけそのものである。
「とっ……伴部さん、でしょう?」
下人は答えない。それが急に、落ち込んだように自分の肩を揺らした。目の前の存在が人間味を取り戻し、ひりひりと痙攣していた唇がようやくぎゅっと結ばれる。鈴音は今度こそ彼の怠慢を詰ろうとして……。
「……残念だな。兄の顔も忘れたか、雪音?」
「え……」
能面がはらりと落ちる。目の前の青年が初めて人間として視界に入ってくる。その顔を見た瞬間、在りし日の空白、ずっと見えずにいた兄の顔が目の前の青年と重なり、一気に雪音の血の気が引いた。
からん、と乾いた音を立てて短刀が落ちた。毒を盛られた人間のようにがくがくと手を震わせながら、そのまま自分の頬に寄せる。視界がどんどん揺れていく。
「お……兄ちゃん……?」
「雪音?」
「うそ……うそうそうそうそ!」
雪音は両手で顔を掴み、絶叫した。
「ああああああああ!?」
兄だ。間違いない。自分の兄だ。見間違えるものか。伴部と名乗っていた青年は兄だった。
生きていてくれた。とうに死んだものと思っていた。そう思って何とか乗り越えようとしていた。
違う。兄を売り払ったのは自分たちだ。死地に追いやったのは自分たちだ。それでも兄は自分の名を呼んでくれて伴部としてではなく兄として目の前にいてくれて……!
崩れ落ちた。と同時に、雪音は勢い良く失禁した。幼子のように蹲り、頭を抱える。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
兄の顔。売り払った兄で得たあの粥。それが交互に彼女を苛む。半身が勝手に痙攣して、着物と廊下を汚していく。甲高い悲鳴と謝罪の言葉が立ち尽くす兄をすり抜けて二人だけの世界に延々と木霊する。
今更どの面を下げて兄だというのか謝罪するというのか。自分に安堵する資格なんてあるものか兄に縋る資格なぞ在るものか死んでしまえお前は自分の兄を売った粥で笑顔になった卑しい女だ兄を兄として気づけなかった妹だ兄の目の前で死んだものと思い込んで思い出を穢そうとしていた女だ兄を思い出ごと貶めようとした女だ死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ――
「雪音」
優しい声に縋るように、ゆっくりと顔を上げる美少女の顔は恐怖と後悔に歪み涙と鼻水でべとべとになっていた。兄は困ったように頬を掻きながら、こちらに手を差し伸べる。
「すまなかった」
「え――」
「どうしても、お前に兄として呼んでもらいたかった。それで、お前を追い詰めた」
そんなこと、と雪音は慟哭する。声も枯れよと絶叫する彼女の頭に、優しい温かな手が置かれた。ずっと自分を慰めてくれていた大きな手だ。
「泣かないでくれよ、雪音。むかしみたいに、兄として呼んでくれないか」
「お、お兄ちゃん――」
「そうだ、雪音。済まなかったな」
もはや理屈では言い表せない感情に突き動かされ、雪音は兄の胸に縋りついた。泣き声を押し殺すようにして着物に顔を擦りつける。何度も、何度も。そんな彼女を苦笑しながら抱きしめてくれる兄の体は暖かい。
「まったく、雪音? 泣いていたら美少女が台無しだぞ?」
「でも、おにいちゃ――」
「なあ雪音。もし、お前がどうしても自分を許せないというのなら、一つだけ、俺の願いを叶えてくれないか」
「願い……?」
「お前が欲しいんだ、雪音」
それは、蕩けるような願望であった。涙で顔を崩したまま、雪音は笑う。
「お兄ちゃんになら! 全部上げる! 私の、ぜんぶ」
「そうか、ありがとな。お前は、優しいな」
雪音は何度もかぶりを振った。そんな彼女の頭を撫でて、優しく彼女の体を支える。
「やだよぅ……お兄ちゃん。ここで抱いて! 雪音を抱いて!」
張り裂けそうな声で、雪音は叫ぶ。
「雪音を罰して! 雪音の全部を捧げるから! ゆきねをめちゃくちゃにして!」
果たして、兄は答えてくれた。兄と一つになった瞬間、雪音は歓喜の声を漏らした。今度は彼女が胸に兄を抱えた。どろどろと溶ける二人だけの時間が幸せだった。
半裸になった雪音は、兄の体に貪りついた。そんな彼女を受け止め、応えてくれる。死んでもいい。雪音は、心の底からそう思った。