蛍は何処へ 作:パリピブラゾール
地下水道以来、赤穂紫にどのような心境の変化があったか、家族も、それどころか紫自身も知る由がない。家族としてはただ我武者羅に強さを求め、退魔士というこのろくでもない仕事を全うしようとするのではなく、このまま年頃の少女らしくお洒落や恋愛の『噂』を楽しんでくれればと願わずにはいられなかった。
さて肝心の紫本人に関してだが、どのように自分の心境を解釈しても、あの下人が絡んでいるのは確かであった。ゆえに、彼がこの『都にいる間』に何としてでも捕まえておきたいという心持が強く、今日もまたいそいそと逢見の屋敷へと出かけていくのであった。
さて、屋敷についた彼女は、少々静かすぎる屋敷を訝しく思いながらもずんずんと中へと進んでいき、目当てである下人の小屋へと辿り着いた。
赤穗紫は胸に手を当て、大きく深呼吸した。ほのかに甘い香りが着ている衣から漂ってきた気がして、それに勇気づけられるように、しっかりとこぶしを握り、立場の違いを明確にするように、勢いよく戸を開き、踏み込んだ。
頭のてっぺんから首筋にかけて、びちゃり、と生暖かいものがぶちまけられた。
「……は?」
後から襲ってくるのは鼻をつく刺激臭である。妖たちの体液とはまた違う、ほのかに霊力をまとったそれは、紫にとって未知のものであった。反射的に袖で顔にこびりついたそれを拭きとったものの、それがなんであるか確かめるためにもそっと衣を嗅ごうとしたが、直後、飛沫が飛んできた方から女の甘ったるい声が聞こえてきて、あの下人が女でも連れ込んでいるのか、と嫌な予感が脳裏をよぎった。
「……いい度胸ではありませんか、下人。従姉様の護衛もせず、娼婦を屋敷に引きずり込んでいるとは。下人が買える女とは、さぞかし美少女なのでしょうね……ぇ?」
赤穗紫は見た。あの下人が少女の唇を貪るのを見た。腰を抱き、少女の後頭部をかき抱きながら、互いに見つめ合い、微笑する青年の姿を。そして、その横顔が、最近向かうようになった鏡台の中で見かける横顔であることに気づき、
「わた、し……?」
呆然と呟き、立ち尽くした。
二人きりの世界である。散々唾液を交換した二人の唇からは、決して切れることのない銀色の糸が互いを結びあっていた。下人の荒い吐息が青年の腰に跨る紫の首筋をくすぐる。くすぐったいですよ、伴部。その声が、とても自分とは似ても似つかぬ優しい声であることに、紫は衝撃を受けた。
伴部……そう、伴部だ。従姉もその名前で呼んでいた。ともべ……その名前を唇に載せるだけで、ほのかに胸が熱くなる。同じ自分で、あれだけ何度も呼んでいるのだ。胸のぬくもりはとてもとても、今の自分のものとは違う、大きなもので……。
「ではなく!」
そう、どうして自分とそっくりな女が居るのか、そして、その女が当たり前のように下人と剥き出しの肌で触れ合っているかである。何とも言えない苛立ちを露わに、紫は食ってかかった。
「下人! 何をしているのです! その……わ、私そっくりの娼婦なぞ呼んで! 差し出がましいとは思わないのですか!?」
果たして、二人の反応は鈍い。
「ともべ、そこの女に見覚えはありますか?」
「……いえ、見覚えはありません。紫様」
「は、はぁ!?」
この下人は何と言ったのだ? 地下水道で決死に戦った女の顔を忘れて、そこらの自分と似た娼婦を紫と呼んだのか? 何という侮辱、と赤穗紫は屈辱に震えるが、同時に二人の人間に自分自身を否定されて、紫が動揺しているのもまた事実であった。
「下人! よりにもよって、私を忘れるどころか、その辺の娼婦を私と見紛うとはどういうつもりなのです!? 事と次第によっては、鬼月家に抗議しますよ!?」
「紫様」
困ったように頬を掻きながら、下人が名を呼ぶ。
「な、なんですか……」
「どうかしました? 伴部?」
「見知らぬ者に構っていても仕方がありません。折角いただいたお時間なのですから、後は警備のものに任せるとして、我々は、姫様から頂いた休日を……その、共に過ごしてくださいませんか?」
「ちょ、まっ……!」
「もちろんです、伴部。ふふ、次はもっと優しく愛してくださいね?」
「……努力いたします」
「こら、下人……!」
「まあ、私の魅力に夢中になっていると言うのであれば、悪い気はしませんが……」
「……紫様は、非常に魅力的なお方です。私にはもったいないくらい」
「げに」
「伴部がいけないのですよ? あの地下水道で、私の心をしっかりと奪ってしまいました。責任を取りなさいな」
「……はい」
二人は紫の登場にも意に介さず、即座に二人きりの世界を作り上げると、肌と肌を重ね合わせた。ぐちゅりぐちゅりと水音がどんどんと大きくなっていき、完全に蚊帳の外に置かれた赤穗紫はぺたりと床に座り込んだ。
「どうして……いや、なんなのですか……?」
二人の視線は絡み合い、そのたびに微笑む。青年の優しい微笑が、紫の心を狂わせる。体の芯が痛いくらいに熱くなり、紫の手は導かれるように手を下ろしていく。なぜかこころが痛かった。赤穗紫という自分自身を否定されることより、下人の微笑の先が別の女に向けられていることが何よりもつらく思えた。
何故だろう。たかが下人が、他の女といるだけなのに。どうしてこの疼きは、胸の痛みは、止まらないのだろう。
「下人、下人お願いします。こっちを向いてください、下人……」
「ともべ、もっともっと、奥にお願いします……!」
「んっ、紫様。もう少し手加減をしていただければ……!」
投げかける声も完全に無視される。紫は泣きながら、衣の端を咥えて、指をなぞらせた。ちらりちらりと視線を向け、余計に傷つきながらも目を向け続けることしかできない。
ふとその時、二人の視線が紫を射抜いた。突然のことに体を硬直させた紫は、完全に自分の立場を乗っ取った女の言葉に、奈落へと突き落とされることになった。
「ねぇ伴部、見られながらするというのも、興奮しませんか?」
「紫様、それは少々趣味が悪いように思われますが……」
「ふふ、今こそ私たちの絆の強さを見せる時なのですよ?」
「……そう言われてしまえば、返す言葉も見つからないではありませんか」
「ふふ、さあ伴部。私たち二人の愛を、この少女に見せつけて、二人の愛を確かに証明しようではありませんか」
ぼたぼた、と涙が、伝うより早く土間に小さな水たまりを作っていった。