「っ…ちょ、と千束?」
「……」
また千束は皿洗いをしている私に抱き着いてきた。
何も言わない。顔も見せない。心も晒さない。
この人は時々『こう』なる。
宮古島から連れ戻して1週間。それ以前にこういう事は何度もあった。何を感じたのか、何が辛いのか、何を想ったのか。私には話さないで彼女は私へ縋り付く。私は振り向こうとするが、彼女は私の首筋に顔を埋めている。ポニーテールをくぐって、私の首筋に顔を埋めている。いつも彼女は『何かを介して』ないと私へ意志を伝えられない。
『何かを介して』私へ縋り。
『何かを介して』私を求めて。
『何かを介して』私を感じたがる。
千束は風邪をひいた時や、生理中でないと素直になれない。だから、自分に限界が来ない限りは誰かに頼れない。だから、今日は何かを感じて自分に限界が来たのだろう。無言で、唐突に、なんの予告もなく、彼女は私へ抱きついてくる。
これが千束の『甘えたがり』の合図だ。
・・・・・・
「なんですか?千束」
「ん……」
流れる水道の音。
千束が縋り付く度に鳴る布の摺れる音。
いつも見ている映画を消して無音のテレビ。
私の呼吸と千束の呼吸。本当に世界が二人だけになったような空間。
「まだお皿洗ってますから。離れてください」
「…………」
首を横に振る千束。当たる髪がくすぐったい。正直この状態の千束はかなり面倒臭い。本当に何も喋ってくれないからだ。何をするにしても何を言うにしても、しっかり無言で返事をする。頷いたり、首を横に振ってくれるだけマシだ。
「もぅ…」
少し呆れるが、今の千束に何を言っても何もしても無駄だから、そのまま放置する。彼女の顔が見えない分、かける言葉もしてあげられる行動も分からない。
だから、構わず皿洗いを続ける。
「たきな…」
「はい?」
振り向かず、そのまま答える。
「すきっていって…」
口を開いたかと思えばこれだ。今回は私に対しての嫉妬だろうか。付き合いたてのカップルじゃあるまいし、私にはまだそうやって無理矢理好意を求める理由が分からなかった。
「好きですよ」
「……もっかい」
「好き」
「……まだ」
「好きですよ千束」
「…………ん」
好きという度に千束の体と私の体の密度が増す。顔を擦り付けて、腕に力を入れて。私を絞め殺したいのか、それとも、私と一つになりたいのか。
まだ千束は本心を語らない。まだ足りないのだろうか。千束はまだ何も言ってくれない。
「たきな…」
「はい」
「すきだよ…」
か細い声で染み込ませるように言ってきた。そんな事は分かっている。充分伝わっている。こんな事で鼓動が早くなるほど嬉しくなる自分に呆れてしまいそうだ。
「たきな…」
「はい」
「こっち向いて…」
「…はい───っ!?」
ドタン。バタン。ガシャン。
一拍遅れて返事をして、千束の方へ向くと彼女に腕を引かれてその場に押し倒される。持っていた硝子のコップが割れて、私達の周りに広がる。
「わたしも、たきなのことすきだよ」
全部ひらがなの発音。子供のような、甘えんぼのような。瞳は蕩けていて不安そうで泣きそうな。
だから好きなのは充分に伝わっている。今貴方が『そう』なっている理由を教えて欲しいのに。
千束の頬に手を添えて、私は千束を引き寄せる。
溶け合うように、押し込むように、私は千束を受け入れる。
そういえばまだ水、出しっぱだ。
キスをする理由が欲しかったのか、それとも私を求める理由が欲しかったのか。なんにも分からない。
でも、それは、お互い同じ事。
なんでもいいし、どうでもいい。
今千束がこうして私を見ていてくれるなら。
「っ…は……今日お客さんと仲良さそうだった。男の人」
「……………は?」
本当に心の底から出た声だった。恐らく千束が言っている客というのは、最近千束が宮古島にいる間に来るようになった男子大学生だ。勉強もできて愛想がいい、リコリコを気に入ってくれている優しい男性だ。私が少しでも笑顔で接客すると、新メニューを頼んでくれる金蔓だ。私はその程度の認識でしかないが、千束にとっては違ったようだ。
「凄い楽しいそうに話してた。見てるのめっちゃ辛かった」
クソがつくほどくだらない理由。今日の千束の様子の理由はこれだったようだ。リコリコにいる間は我慢してたが、家に帰ってきてからその感情が爆発したらしい。
流れる水の音と千束の怒ってるような高ぶっているような呼吸の声。まぁ、多分怒っているんだろうけれど。
「だからね…そうならないように、私の証を付けておきたいの」
千束は散らばった硝子を手に取る。そして私の首筋に当てる。
「──っ」
ほんの少しだけ、力を強く。
ほんの少しだけ、深い切り傷。
滲み出た私の血を千束は吸う。こんな事を『介して』でも証を付けだがるあなたは少し狂っているように見える。体が熱い、私もこんな事をされて喜んでいるのも狂っていると思う。それも無理もないと自分で思う。
病院からいなくなってずっと会えなかったんだ。これぐらいされる方がむしろ良いと思ってしまった。私も狂ってる。千束に狂わされてる。
汚く首筋に吸い付く千束が愛おしい。
あぁ…良かった。私は飽きられてなかった。
こんな風に甘えてくる千束が愛おしい。
あぁ…良かった。私はまだ千束を愛していられるんだ。
私の血を啜る千束の髪を撫でる。必死に啜って、私に証を付ける。トテモカワイイ私ノ千束。
「ふふっ…」
不覚にも少し口がニヤケてしまった。
『くだらない理由を介して』、千束は私へ縋る。
『バカみたいな理由を介して』、千束は私を求める。
『どうでもいい理由を介してまで』、千束は私への愛を伝えたがる。
少し呆れるように、でも、嬉しがる。
私はこんな事をされても千束の事が好きだから。
「ん……できた」
満足そうに口の周りに着いた私の血を舌なめずりで絡めとると、いつの間にか私の首筋には切り傷とキスマークが出来ていた。肩の傷もあるのにここまで酷くしなくていいと思う。
千束を見上げると、まだ足りないようだ。
「全然足んないよ。たきな」
私だってそうだ。全然足りない。物足りない。刺激が弱すぎる。
「きて、千束…」
覆いかぶさった千束を快く受け入れる。
『こんな事を介して』ないと私は不器用だから千束の愛を感じ取れない。押し付けてくる唇が心地よい。潰されるかのように刻まれるキスは今まで一番気持ちがいいキスだ。血の着いた硝子を見て、私はまた少し笑う。
『まぁ、こんなことをさせる為にわざとやっていたなんて言えないから』