「……ひとつ、いいか」
次の日。典を遣いに出しているうちに、離れの書斎に射命丸文を呼びつけた。
「呼び出しを喰らうようなあれこれには事欠かないだろうが、大丈夫、今日はくだらん定型文を投げに呼んだのではない。丸……についてだ。私と君の姓につく、丸だ。いくら調べても深い意味が出てこないんだよ、これが……どう思う?」
突拍子もない問にきょとんとする文。彼女の廉恥を欠いた行動が耳に入らない月はないが、叱ったところで変わるような浅い行いでもないことはわかっている。
「っと、そうですね……丸の部分については何も、親族から伝え聞いたことはないのですが……音の調子を整えるとか、漁船によくつけるとか、……やはり丸そのものに意味はないように思われます」
「……そうか。いや実はそれだけなんだ。礼として半年の新聞購読を約束する。あと、昼はまだかい?一緒しよう」
「それが目当てでしょ」
そのときだった。
「いっ、飯綱丸様」
勢いよく引き戸を開け乱入してきたのは早くも遣いから戻った典だった。人目もはばからず全速力、最短距離で抱きついてくる。
「こらこら、射命丸君、すまない、正門で待っていてくれ」
言って聞かないことも承知だ。どうせ陰で全て記録するに違いない。
形式上彼女を追い出したところで典を抱き返し頭を両腕で撫でまわす。
一応白狐のくせに湯気が立ちそうなほど真っ赤に熱くなっている。これじゃ仕事もままならない。
「夕方までの辛抱だ」
餓鬼の苦しみであることは理解しているつもりではある。
書斎から母屋の典の部屋へ向かうときもずっと押し黙り、腕にぴったりくっついていた。
「大急ぎで伝令を尽くしたのに。お願いです」
「仕事は抜けられないんだよ。それともまたあれを飲むかい」
特定の神経伝達物質の分泌を無理矢理抑える薬を飲ませたことがあった。副作用として情緒のバランスを失う。本来の分泌量が多いほどそれは顕著で、鍵をかけた部屋から響く彼女の叫びは実に悲惨なものであった。
たまにこういったことはある。そのたびこうして昼間から部屋に押し込んでおく。……帰る頃には凄いことになっている。
「待たせてすまない。さあ行こう」
正門についたときにはきっちり文はそこに立っていた。並々ならぬ緊張の様子から始終を目の当たりにしたことは明らかだ。
大天狗らしからず定食屋へ入った。龍はよくここでヒレカツ定食と五平餅を食べる。
「日替わり定食Aにしなさい。いつもろくなもの食べてないでしょう」
「ははあ、慧眼かストーカーか、わかりかねます」
まあ確かに他者よりも好感は持っていた。誰が相手でもきつい冗談を欠かさない腐った根性が心地よい。が、それを心配してもいる。
「君は襲わんよ。相手いるんだってな」
「いなければ襲うんですか。へえ」
「これまで四羽と二頭食ったさ。遠赤外線ヒーターの横で回転させながらじっくり焼くんだ。外来の食い方らしいんだがね」
「そっちかよ、余計恐ろしいな」
「どっちにしても同じだよ。同種を食いたけりゃ食えばいい。鳥にはそれができる。さっき覗いてわかったろ」
「……えっと」
言葉が見つかっていない。
「本当は食事いっぱいに話すようなことでもないんだがね。あんな形で醜態を晒すことになろうとは思っていなかったが、見えない綱を渡る部下がいればお節介も焼きたくなるものさ。胸張って道歩きなさい」
いいこと言っているように見えるが最近は彼氏彼女について言及することもセクハラと見做されるらしい。しかしこの場合、こうするより他になかった。
「高潔ぶる大天狗こそ、醜態を晒すくらいが丁度いい。無駄に固い社会の雰囲気はぶち壊してなんぼだろうに」
「……ちょっと、冗談は思いつきませんね。突然のことで」
文にとって自身の冗談は口を衝いて出るものでなく、気張って張っている虚勢のようだった。どう人と関わればよいかわからないままにとりあえず繕った外向きの自分で、いつの間にかそれが自分のすべてを担うようになっていた。
「無理して喋り続けなくていい。部下に機嫌を取られてるようじゃ組織の害虫もいいいところだし、何より誰も、自分自身が誰に対しても同じ態度でいられるとは思っちゃだめ。上の人達にこそいい顔をしないほうがいい。態度を気に入られなければ、その人とは縁がなかっただけのことだから」
この話をどこまで信じたらよいか、文にはわからなかった。何よりこのスタンスを取る前の自分がどうだったか、何一つ思い出せないでいて、本来の自分というものを見いだせなかった。
「まるで、別の私がいるような言い方ですね」
「小さい頃のあなたはそんなじゃなかったもの。三つ子の魂百までっていうでしょう」
互いに、無神経な年長者と一見冷めた若輩者の溝はいつまで経っても埋められず、また受け継がれていくもののようだと理解した。龍はとうとう自分がいわゆる老害のポジションに片足から突っ込み始めていることに落胆し、文はせめて自分は部下にこんな振る舞いを見せないでいようと肝に銘じた。それが今目の前にいる上司も辿ってきた道だということには気づかずに。