「飯綱丸様!典を……見失いました」
あのボンクラどもが最大の焦燥を屋敷まで運んできたのは、時にして九つ。〝見失っ〟てから一刻半も経って後のことだった。そして自ら探そうともせず、報告から家へ直帰した、どのみちボンクラには任せられないが。
どの店で飲んだ?聞きそびれてしまったがだいたい奴らの集まる店は限られる。その帰路で野ションして戻ったら消えていたという。
とても一人で動ける状態ではなかったことも聞いた。最悪を覚悟せねばなるまい。
そしてその覚悟は、あろうことか実る。
最速のブン屋を薙ぎ倒す勢いで捜索を試みたところ、一人の白狼天狗が慌てて呼び止めた。
「つっ、典さんのことです。えと……診療所に運びました。突然そこの大通りに彼女を担いだ男が出てきて、二人組だったんですけど、道に投げ捨てて自分から進んで取り押さえられました」
「ありがとう。落ち着いて。典から聞くよ。今度麦飯を贈ろう」
「いえあの……口がきけるか、わからなくって」
「なに」
この繁華街で診療所といえばあそこしかない。ほぼ酔っ払いの対応専門となっているところ。
屋敷の自室では浴びない、清々しい朝日が目を刺した。見知らぬ天井から垂れる青いカーテンが部屋を囲んでいるのが見える。その外側ではすでに忙しそうに何人もが物音や声を立てている。
消されたラジオ、巨大な輸液バッグと小瓶が吊られた点滴台、自分の右手を諸手で握ったままベッドの端に突っ伏す龍……
起きて、泣き腫らしたらしい目を開けこちらを見つめる。
「……」
小さな病室のベッドで血まみれの毛布にくるまれながら二人、無言で無機質な視線を交わした。
やられた。しかし昨日のことはよく覚えていない部分も多かったし、それでいいと思う。
外で扉を打つ音が三回。カーテンが滑り、医師と若くガタイのいい看護師が入ってきた。
「やあおはようございます。回診、とはいえ一組ですが」
こいつムキムキでしょ、みんな酔った勢いで暴れるもんだから、強い人集めてるんですわ。ははは。和ませるつもりか二人勝手に笑う。
「昨日飯綱さんにはお話したんですが、改めて。えー、後ろ頭の裂傷は、診た時点で既に痂……かさぶたで綺麗に塞がっておりました。それから、んー……菅牧さんに何が起きたのか、担ぎ込まれてきたときは何もわからなかったもんで、ほんと焦りましたよ。いやあ君が妖怪でよかった」
どうでしょ。今おかしいところとかは。
「……右耳が、聞こえないです。」
耳鏡がこの場にないらしい。手で耳のわさわさに触れる。
「んゃっ、ちょっ、やめて」
無神経な触り方で気力を吸い取られた自分をよそに説明を続けるに、数日で鼓膜も塞がるだろうと。
「えっと……あらかじめ採っておいたもので自己血輸血しました。管狐って少ないんで……在庫に手が出なくてよかった。炎症もないので今日出ても問題ないでしょう。それと画像では腹腔内出血そのものは無視できるほどでしたが、一応三日後にCRP測りましょうか」
飯綱さん、外部との戦いが絶えないこの街ですから、あなたもストレス障害への理解はおありかとは思います。その上で、彼女の健忘については注意深い観察と洞察をお願いします。いつまた夕べの記憶を掘り返すことになろうか……ほんの些細なことであってもです。他人の無神経な言動、その時と似た空間、……箸を落とす音でさえあるかもしれません。何が記憶を逆撫でするか……
最速を超えて替えの服を屋敷から取り、診療所の寝間着から着替えさせてわざわざ徒歩で帰る。
「麦飯握ってきたんだが」
「……いいです」
今にも飛ばされそうなほどにふよふよ歩く典の背中に腕をまわして進む。こんな状態でも、常時見ている必要はないとしてここから出された。
龍が歩調を合わせているつもりだったが典が龍に合わせているらしかった。自分の意思で道を曲がらない。
式じゃないが、式が抜けたような。
道行く人々がやたらこちらを見て気の毒そうな視線を置いていく。噂の伝達だけはいつも早い。まったく憎たらしい奴らだ。普段の指示もこれくらいに早く伝えてほしい。
「痛むか」
少し考えて首を横に振る。
抜け殻と話しているようだった。そこに典はいない。いかなる陰惨な辱めを受けたかなど龍は聞けるはずもなかったが、虚ろな管からのこだまを相手しているような異常から程度はわかる。
……いずれ知ることになる。暴漢への憤りよりも現状への悲しみが強く、本音ではしばらくの間誰にも干渉されず、ただ二人でいさせてほしかった。
「何か飲もうか」
唐突な大天狗との目見えでがちがちに緊張している茶屋の娘に煎茶、水、日本の串団子を注文し昇りかけた陽の注ぐ長椅子に二人腰かけた。
典は団子を断り冷ました茶をちびちび啜っている。結局龍が二本とも片付けるが、いくら噛めどまったくの無味で、乾ききった口に粘土を押し込むような苦行となった。
何を食ってもまずい。世界にグレースケールのとばりが下りた。
屋敷に着けば、きっと世界は輪郭すら失うだろう。粘土を喰らうことも、わざわざ店の娘を怯えさせることもなくなってしまう。それが何よりも怖かった。
もっと言えば、虚ろになったこの管と正面から向き合わねばならなくなる。
しかし時は進むし、足も進むのだ。
屋敷の門をくぐり歩く。二人ともにとって最も気の緩むところであるはずなのに、土間へ近づくにつれその足はみるみる重くなる、またそれに連動して、龍の心の臓を締める悪魔の手に力が入る。
足は、進む。
六枚もの引き戸の端を引き、ついに足を屋敷へ乗せた。
下駄も脱がぬまま、堪えられず強引に典を抱き寄せる。これが最悪手であろうことは龍もわかっていたが、典はそれでも黙って身を預けていた。
そして典の乱れた髪に息をかけたまま、何もできず過ぎる時を遮り、
「……お前のこと何にもわかんなくって、怖いんだよ。お前が何を見たのか、何にも」
彼女の何もかもが乾ききっていた。いつものようにはにかみながら。
この顔を、龍はよく知っている。
「私の前でくらい繕うのをやめてくれよ、頼むから」
「苦しいです。やめてください。……離れて、お願い」
力を入れていた覚えはなかった。腕の力ではなく、苦しみそのものを言っていた。
上がり框にへたり込む。湧き上がるよからぬ何かを必死に胸の中で押さえつけているようだった。
生まれてはじめて、この典に拒絶された。今の今まで互いのすべてをその身に受け入れてきた。彼女が自分のすべてを受け止めたように、自分が彼女の喜びも苦しみも、そのすべてを受け止める。そのつもりだったのに、一番そうすべきと感じたちょうど今、それを拒んだ。
「ごめん。……隣いいか」
「謝らないで」
また長い寂静ののち、典は低い下駄を脱いで、龍の膝に頭をあずけた。欠けた左耳が見える。肉体以上に何かが欠けていて、それが二人を遠ざけていた。
いや典はまだ自分のことを前と変わらす信じていて、その迎え方が悪かったのだ。
一日中、どこへ行くにもついてきた。龍が離れると得体の知れない淀みが物陰から這い出てきて、全身にまとわりつき、血肉を啜るのだという。細い腕で裾を掴んで離れないその様子はまるで幼子のようで、状況と絵面の乖離が龍を混乱させた。
侍女は二人に鉢合わせると、連れ込み宿の清掃員みたいに適当な部屋に隠れてやり過ごしていた。
「……」
湯船に浸かりながら典が自分の腹を押さえ、歯を食いしばっている。一人に腹を蹴り飛ばされたと告白していて、その余韻が今の今まで続いていた。
「そいつらは私が殺す。必ずだ」
「……飯綱丸様まで堕ちてはなりません」
典は制裁などどうでもよかった。龍がいつもと変わらぬ温かみをもって接してくれればそれで十分だった。
膝に座る典の胴を抱き締めながら、
「……ほんとに、私はお前を何もわかってない」
「一心同体になんて誰もなれませんよ。……飯綱丸様は私の望むまま愛してくださいます。それ以上に一体何を望めばよいのですか」
信じられる者によって、その信頼を言外に承認させる行為として抱き締められるのがいかに充足を生むか、典は改めて思い知らされた。この極まれる感は小さな胸を駆け上がり、枯れ果てた涙を蘇らせる。
翌日。書斎に文を呼んだ。
「もう適当な話題を振るつもりはない」
「またお昼行きますか(また込み入った話をする気でしょ)」
「もたれるくらいにな(重い話でいくぞ)」
カメラも手帳も家に置いてきていた。
「お節介を焼かれたら、焼き返さねば不平というものです」
「典に対して何かしてやることはむしろ悪手だろう。……だがこのままじゃ、この何もない地獄みたいな日々がただ続いていくだけなんだ。そうだろ」
目の前の鮎フライ定食に少しも口をつけずにいる。
「今朝はどうでしたか。よりによって置いてきたんですよね」
「……ああ。私一人ででもなんとか回さにゃならん。典は……起き上がりもせず布団の上でぼうっとしてたよ」
「仕事なんか放っておきましょうよ。各所の承認が滞ることなんかより大事なことがあるでしょう。今すぐ家に戻ってください。胡座かいてる他の大天狗がごちゃごちゃ言ってくるようなら、あの傲慢にも伸びきった鼻を、私が切り落としておきますから」
家のどこも龍が出たときと変わっておらず、典もそのときと同じように仰向けに膝を曲げて、天井を見つめていた。
「鮎とキャベツ。ここ置いとくからいつでもどうぞ」
まだ目も通していない、上がってきた大量の申請書と報告書を持ち帰った。すべて電子化してエンターキー一打で承認できる仕組みがほしいと常々思っていて、その電子印鑑システムの具体的な発想も龍の頭には一応あるが、構想の資料をよく理解もしていないくせに打鍵では署名をしたことにならないと考える者が多くいて一向に話が進まない。バカに拒否権を持たせるなと怒鳴りかけた。
じっと黙っている典の横で黙々と作業を進めていく。文曰くこれでよいそうだ。龍が横にいて、自分のことを常に認知していることがわかるこの状態で。
動き出したと思ったら、厠へ行き、布団に戻る。一度も眠ってはいない。文が何を思って「よい」としたのか、さっぱりわからなかった。これこそ「何もない地獄みたいな日々がただ続いていくだけ」ではないのか。典は今どう感じているのか。経過も答えもまったくわからないまま何もしないでいることに耐えられなかった。
結局、一言も典の声を聞かずしてこの一日を終えた。