日の出前に目が覚めた。背中にくっついて寝ているはずの典がいない。先に起きているのだろうと思い小用を済ませたがどうもこの家では自分の他に気配がない。
わざわざ侍女を起こして聞いてみたがやはり知らないとのことだ。
「典?」
居間。いつも二人で食事をする机に、置き手紙があった。
腹の底が鉛のように重く冷える。わかっている。典が家におらず、ここに彼女の字で「飯綱丸様へ」と書かれ畳まれた紙がある。これだけで何が起こっているのか察するには十分だ。
開けたら…… 開けたら現実はひとつに定まる。
『二人して 等しく衣にしなる枝』
ただ一句、そう記されていた。
硯の横に置かれた筆の穂先が乾き始めている。
「始まったか…… 飯綱使いの破滅が」
これは彼女なりの挑発だ。龍が脇目も振らず探しに来ることを期待していて、実際そうすると信じてのことだろう。家を出れば後戻りはできない。彼女が見つかろうとそうでなかろうと、何らかの形ですぐ先に共倒れの未来が待っている。ある運命が約束された者の、その運命への転換点とはそういうものである。今がまさにその時だ。代々継がれてきた飯綱使いの血がそう囁いている。
選択の余地がないことは、彼女を継承したその瞬間から決まっていた。
典の身に起きたことは噂として広まっていて、彼女に群衆の関心が向いているから、この時間といえど街にいればすぐ騒ぎになるはずだ。そうでないということは、もう街の外へ出てしまっているのだろう。
虹龍洞を訪ねたが、入り口で龍玉をこねていた魅須丸は、今夜は誰もここに近づいていないと言った。坑道の入り口はいくつもある。中で百々世にも聞いてみたがやはり、誰にも会わずひたすら龍玉を掘ってはかじっていたという。
この時間でさえ賑やかしい賭場にも来ていなかったし、高原の花畑ではなんの気配もなかった。賭場にいた者どもも噂は知っていて、ゆえに捜索を手伝ってやると申し出てくれた。
「ありがたいが、私が典を探し出して、会わなくちゃいけない。誰も巻き込めないんだ」
「……典」
驚きはしなかった。典は霧の湖に浮いていた。静かな波に乗り揺られ、上を向く背中にかかる漂流物を払うこともせず、髪を水面いっぱいに広げ、浮いていた。
彼女の体を引き上げて、岸辺に座り、膝に乗せた。冷たく重く、湖底を覆う泥のように黙りこくるその顔は、龍のほかを望まず、もはや何も語るまいとして、自ら動こうとはしなかった。当の龍には、それが十二分に饒舌であるように感じられ、そうして典の語ることには、未だ典の信ずるところに龍は来ていないとのことだった。
典が自分の何を信じていたか、本当のところを今にしてわかった。龍は典を探しに来る…… そんな生ぬるいものではなかった。まさに破滅、そしてその先までもを二人添うという覚悟が龍にはあると、典は今も信じている。
「二人して、等しく衣にしなる枝」
彼女は下の句を待っている。返歌をもってして挑発への回答とし、また二人の辞世の句が完成する。飯綱使いとして長らくふいにされてきた、破滅という最後の契約が履行されるのだ。
それから何日経ったか龍は覚えていない。遺体の移ろう状態に都度思いを巡らせて、そうしているうち他の天狗に見つかったようで、鼻が効かなくなりそうなほどの腐臭を必死にこらえながら、文が歩み寄り話しかけた。
「お願いです。戻ってきてください。その……亡骸となったそのお姿をいつまでも晒すことは……ひどい辱めです」
「ああ、人々がわざわざこうして典のことを覗きに来るから辱めたりうるんだよ。それに、あいつはもう捨てた肉体のことなど見ていない。……ほっといてくれないか」
「彼女があなたのことをあらゆる面で支え、また支えられていたことは承知です。しかし死者に引きずられていては一向に前へ進めないじゃないですか」
「進んでいるさ。私は典を追いかけてここまで来た。今も追いかけているのさ。そりゃ前へ進んでいるよ。進むにあたって、もう大天狗としてこの世に生きることはやめた。これから死によって得るものは、どんなものにも代えがたい」
後ろで文がどんな顔をしているのかは知らないし、典を視界から外すくらいならそれを見はしまい。
「……あなた、飯綱に飼われてどうするんですか。飼い主はあなたでしょう」
「飯綱丸が飯綱を使い始めたその時からそうさ。実質飼い主は典で、飯綱丸は代々かわいがられてきたペットに過ぎん。だが飯綱丸は他人の愛を知る一方で、典は飯綱丸しか知らん。……婿を取らんなら私もそうか。あの子を一人にはできんのだよ。間違いなく私を待ってる。疑うなら此岸(あの世を表す彼岸に対して、この世。三途の川の、現世側の岸辺。)まであいつの霊魂でも探しに行ったらどうだ、子供たちと一緒になって鬼にちょっかいかけてるだろうさ」
肉は次々に骨から脱落し、随所で蛆が顔を出している。いくら醜かろうとそれは不要となった肉体をきれいに消し去るその神聖なる過程であることに変わりなく、また遠からぬ未来に自分すらそうなったとき、生きているときでは叶わなかったレベルで互いを一つにできると、龍は考えていた。
「間違っても私たちを家の墓に入れてくれるなよ。もう家を名乗るのもやめだ」
「役員の仕事はどうするんですか」
「もう飯綱丸ではないと言ったろ。私の知ったことじゃない」
「……だって寂しいじゃないですか。個人として」
「管狐を養い始めたその瞬間から、その家の破滅的な終わりは決まっている。私が家の末代であることを決めた以上私は円満に死を迎えることを許されない。そうだろ」
「どうしてもここで死ぬっていうんですか」
「ああ。だが君はそうしない。ずっとそこに立っているだけだ。この腐れる肉の香を受け入れず、いかにして私と共にあると?……もう逝くよ」
此岸、深き激流の手前。白狐が立ち、主を迎えた。
主の返歌を以て今に主従は消える。
「愛し苦しも由旬先まで」
おわり
後書き
「二人して等しく衣にしなる枝 愛し苦しも由旬先まで」
死者はその罪の重さによって渡る川の深さが変わります。怪物がはびこる激流から安らかな橋の上まで。渡った後彼岸に生える衣領樹の枝に自らの衣を懸けます。
それを踏まえて、上の句では共に罪を数えましょうと誘い、下の句では「地獄の果てまで苦楽を共にする覚悟である」と返事をしています。
おまけ その後の文々。新聞
「菅牧典 主と心中」
失踪したという菅牧典を、飯綱丸龍が霧の湖で遺体として発見した。飯綱丸大天狗はその後を追い、彼女を抱えながらそこを一歩として動かず、数日後に脱水で死亡した。死の直前の遺言を汲み、二方は無縁塚に両者の区別なく埋葬された。現世に縁を持つ者を無縁塚に葬った前例は公式には存在しない。飯綱丸大天狗の生前のポストに誰が就くかはこれから他大天狗の協議を踏まえ決定される。