プロデューサーは人でなし 作:どろまみれ
天海春香
寒空の暗さの中に、吐き出したそばから溶けてゆく息。
七草にちかはどこを通ってどこへ向かうのか。
公園だ。
街灯の間。
舗装された路を奥へ、奥へ。
右へ、左へ。
上へ、上へ。
ふくらはぎに乳酸。足がだんだんと動かなくなって、立ち止まる。
家からここまで、ノンストップで走って逃げてきてしまった。
とうの姉はというと、口を押さえてうずくまった私を置いて皿洗い。ついにはツマミ作りまで始めてしまったのだ。
姉妹兄弟には不干渉。キリが無いから。七草家ではよくあること。
年が違えば学校で顔を合わせたことすらなく、関わりの薄い家族も多い。
その点姉は、私が問いかけた内容には応えただけマシと言える。
普通の家族とは呼べないが。そもそも普通を知らないので無理もない。
走らなくても歩き続ける。疲れた足で。
「―― っは、っは」
私は彼に何を求めた。
腐臭がする。
知らなかったで済まされる内容か。
七草はづきも何をやっている。
確証はないが。
生物学的なひとつのタブー。
普通ではない ―― それの極まったもの。
背筋でするりと滑り落ちる悪寒。
私は彼に何を感じた。
呆れ。頼りなさ。
悪態ついても傍に居るという、×××。
それは甘えだと姉に断じられ……ああ、と。
飲み込めてしまった。諦めてしまった。
違う。普通とは順番が違ったせいだ。
初めからもっと近場で見てさえいれば。
それでさえ。姉が抱えた過去の話によって遮られてしまって。
「すひっ……! えふ、えほっ!?」
反り返るように首をもたげて空を見る。
街の明かりは雲に反射し薄紫に彩られ。
喉元を通りぬける寒風が、熱を奪って心地よい。
ぽつり。額に冷たさ。
「あ。……雪」
掌をかざすとその上で、ぽつりと降った雪の粒が溶けてゆく。
珍しくはない。ただしこれから冷えてくるのであれば、出てきた家へ戻らなくてはならなくなる。
それは。格好悪い。自分本位な、端から端までどうでもよいと捨て置ける感想である。
しばらく。
ベンチの傍に雪が薄く積もるまで、寄りかかり続け。
どうしよう。そう考えていると。
「―― なんで! どうして!!」
ぱぁん。
静寂をつらぬいて、なにかをぶったような破裂音。
そちらへと。音の下方向へと自然に視線が向く。
誰だろう。
シルエットからして女性がふたり。
公園の奥。
展望台の前。
目を凝らしていると暗さに慣れてきて。
段々と輪郭が明瞭に。
顔が。見えて。
「プロデューサーさんをっ……貴女、は……!!」
振り切った右手を握りしめ、涙を流し、大きな声で糾弾する ―― リボンのない天海春香。
「っ……」
頬を赤く腫らし、押さえずことはせず受け入れ、歯を食いしばった ―― 花束を抱えた黒井詩花。
唖然としてしまった。
どちらも283とは区画が違うが、アイドルとしてトップティアに在籍し続ける……そう。
世にあるファンの俗語を総称すれば。アイドルマスター。そう呼べるふたりだった。
「貴女、はっ……う、う゛……ひぐっ。……しあわせ、に……なって、だって、私は、将来を……大切にして欲しいって……そんな風に、見送って! くれた! ……のにぃ……!」
「……」
はたかれたというのに。詩花は何も言い返すことはせず。
天海春香は。糾弾なんだか祝福なんだか判らない呪詛を羅列し続ける。
「……。……。ごめん、なさい、詩花……ちゃん」
「いえ。こちらこそすいません、春香さん。こうなることは判ってました。でも、話さないでいるということだけは……したく、なかった」
互いに目を伏せたまま沈黙。
うるさい雪がリボンのない頭の上に、抱えられた花束に。
しんしんと落ちては照らす街灯の光の中で、同時に顔を上げた。
「―― うん。弱音はここで終わり、にしちゃいます」
「……」
「おめでとう。プロデューサーさんは凄い人です! あの人のこと、幸せにしてくれなかったら……えと。私は許す許さないなんて決める立場じゃあ、ないですけど。でもでも、詩花さんも、絶対に幸せになってください!」
「はい。必ず」
「……それと! アイドルとして、私はもっと頑張ります! いつかはきっと自分でも自信を持って、トップアイドルのひとりなんだって言えるように……! だから!」
胸を張る。
いつかの競技会、台上で見た、アイドルマスターとしての姿を掲げて。
「また会いましょう! 競いましょう! 次もきっと、舞台の上で!」
「……はい!」
握手とかはしなかった、けれども。
お互いにらしい笑みを浮かべて。
……浮かべて。別れて。
ひとり。こっちにくる。
逃げなければ。
いや。誰が悪いということはない。
ここは公共の広場なのだけれど。
でも。腰を浮かそうとして。
目が合った。
天海春香。
「……あ、えぇっ!?」
「……あ、と。……すいません」
何故かこちらが謝ってしまった。
悪くないとは思うけれども。ばつの悪さが
・・・
「―― えぇと。お見苦しいところをお見せしてしまって、ごめんなさい。七草にちか……ちゃん」
「こちっ……。こちらこそ、すいませんでした。盗み聞き、したみたいに、なっちゃって」
公園の、さっき居たところとは反対側のベンチまで歩いてきて。
互いに自販機で購入したホットココアを抱えて、謝罪から入った。
どうやらというかやはりというか。
アイドルとしては駆け出しも良い所の私をつかまえて、ベンチに座り直したその理由。
天海春香としては見られた・聞かれてしまったことについて、説明なりを挟んでおかないとならないようだった。
左右を向いて、今度は人が居ないことを確認。
ほうと息をひとつ。
「びっくり、させちゃいましたよね。本当にごめんなさい! みんなの公園であんなこと。しかも……あ!? えとっ、その! そもそもっ、どこから聞いちゃってましたかっ!?」
自分で矢継ぎ早に語っておいて、自分で訂正を入れて、自分で慌てて。
ああ。テレビでよく見る。リボンは無くても、この人は天海春香だなぁ……って思う動作。
どこから。
「……その。詩花さんをはたいたところから……」
「うう゛っ……! ぜ、全部聞かれてたに近いよ……!」
肩をがっくりと落としてしまう。
その通りなのでフォローがし辛い。
「その。いちおう説明をさせてもらいたいんですけど……良いでしょうか? にちかちゃん」
「このままだと流石に気にはなるので、その、天海さんがよければ」
「うう、ありがとうございます……。ほんとにありがとうございます……」
そうして天海春香は話し出す。
小企業ながらにアイドル業界を盛り立ててきた765プロダクション、その軌跡を。
「―― 魔王エンジェルに勝利して。961に移籍した美希ちゃんに勝利して。統合した後もジュピターの皆とか、律子さんのプロデュースとか、そういうのを色々試して。765の皆と、頑張ってきました」
最初から話す必要はないんじゃないか、なんて思ってたけど。
どうやらそうでもないらしい。
「その中心にいつも居たのは、プロデューサーさんでした。私を1番最初に担当してくれた……うん。そう。とっても、とっても大切な人なんだ」
胸に手を当てながら、天海春香は遠くを見た。
相当に昔のことなのだろう。
「……なんとなくわかっちゃうと思うので、話しちゃいます。私、プロデューサーさんのことが好きなんです」
秘密にしてくださいねっ、と。
アイドルらしくお願いをしつつ。
「過去形じゃあ、ありません。アイドルらしくはないですけどね……ふふっ」
諦めの笑みで前を向く。
「プロデューサーさんは、ほんとうに働き者の人で……だから、いっぱい仕事が舞い込んできました。だからアイドル天海春香を、ずっとは担当してくれませんでした。……多分だけど、理由もあるんです」
涙の乾いた頬で振り向き過去を見る。
「私……Sランクのドーム公演が終わったあとに、感極まって言っちゃったんです。もっと側に置いてください……って」
それは。なんというか。
「えへへ……。そのあとにどういう意味だ、って聞かれちゃって。慌てて誤魔化しはしたんですけど。だからこう、それから警戒をされちゃったんだと思うんです。……担当を外れたプロデューサーさんとは、もう、顔を合わせる機会も減っちゃって……」
アメリカに行って。765の他面々をプロデュースして。
星井美希の一件から、実は961にも力を貸したりした場面もあったりして。
ジュピターの移籍や我那覇響、四条高音の出戻りなどは。765の側からかなりの譲歩や協力があったというのは、業界では有名な話。
そもそもパワーの強い961はそのやり口からヘイトを集めるらしく。その辺りを入り口にして、765の事務所は上手に立ち回った……のだ、そうだ。
「プロデューサーさん、事務所には居るのに。担当の頃みたいには接すること、出来ませんでした。だから私……ずっと走ってきたんです。逃げちゃうみたいに。……始めはアイドルになっただけで、夢が叶ったって、喜んでたんだけどなぁ……」
ぎくりと、私の顔も強ばった。
アイドルになることそのものが夢。
天海春香のようなトップアイドルでも、そんな所からスタートするものか。
「そしたらオールスターズみたいな皆が再編されたりだとか、律子さんの弟くんのカミングアウトだとか、色々あって……。いつかプロデューサーさんへの想いも、凝り固まってしまっていて」
後悔しているのだろう。首をふるふると振るう。
「あの人が見てくれているから頑張れる。そう思っちゃってたんです。でも多分、それは私が、後ろを見ていなかったからっていうだけで……」
無理もない。
今の765は、それなりに中規模。もしくは大規模にも足掛けているタレント企業だ。
後ろを見ても人だかり。前を見ても星ばかり。
天海春香は当然、好きなアイドルのひとりだから。七草にちかは知っている。
彼女の歩んできた道は……アイドルとしての歴史は。決して華々しい、輝けるような成績ではない。
間違いなく結果は残している。
しかし彼女がトップたる所以は、そのチャレンジ回数の多さに起因する。
多くの困難に何度でも挑んでいるから。
パフォーマンスを発揮する試行回数そのものを増やしているから。
とても多く、皆にその姿と笑顔を届けるから。
王冠を常に被っているようなアイドルではないのだ。
それでもテレビを点ければ、天海春香は変わらぬ笑顔でそこにいる。
だからこそ人気を博した。
いつでも頑張っていると共感を得た。
界隈の中心に立つべきは彼女であると、満場一致の票を集めた。
故に ―― アイドルマスター。
立ち位置が上であることを、自分では無く、他者から求められた人。
「―― でも、詩花ちゃんは見失っていませんでした」
決して。
そこだけは噛みしめるように、天海春香は話す。
「周りを見て。スタッフの皆さんを見て。ファンの皆を見て。自分を見て。アイドルの皆を見て。……プロデューサーさんを、見て。どんなアイドルに成りたいかもはっきりしていて。だから……私の方が近くに居るのに、961さんの事務所にはなかったあの人を、放さなかった」
もう1度、涙を流してしまいそうな顔に笑みを貼り付ける。
……いや。違う。心から、笑う。
「アイドルになりたかった。頑張って、あのお姉さんみたいに、誰かを笑顔にする歌を歌えるようになった。アイドルになった。だから諦めなくちゃいけなかった。……でも。できることなら」
ほうと吐いた息を、空に向かって見送った。
「普通の女の子みたいに。天海春香としても、もっと近くに、居たかったなぁ……」
見送ったのだ。代わりに雪が降ってくる。ずっと。
「それで。プロデューサーさん、この間は詩花ちゃんと泊まりに行ったんだそうです。それで思わず、詩花ちゃんにあたっちゃいました。……何度も言っちゃうんですけど、にちかちゃん! こんなことに巻き込んじゃって、本当にごめんなさいっ!」
「……あの。いえ。……秘密に、するんで……」
「ふふっ。ありがとうございます!」
天海春香が腰を上げる。
用件は終えた、ということだろう。
尻のほこりを払って立ち上がる。
「えとっ、説明はこれで終わりです。……そういえばにちかちゃんとは、この前の秋の合同フェスでもご一緒しましたもんね!」
「はっ……い。その節は、どうも」
「詩花ちゃん、凄いアイドルですよねっ! だからきっと、プロデューサーさんも幸せにしてくれる……って。私、信じることにします!」
信じることにする、と自分で言って信じられるものなのか。
呆然としている私の前で、天海春香と、がっつり正面から視線が合う。
「……」
ゆらりと潤む。沈黙。
これを話すかどうか、逡巡しているのだろう間。
それでも迷いを振り切って。
「にちかちゃんにも、もし、もしもですよ。好きな人……とかが居る、だ、なんて。えとっ、そんなことがあったりしちゃったら。……こんな私みたいにはならないように、後悔しないように、してくださいねっ!」
アイドルらしくはないのに。
それでもアイドルらしく可愛らしい、生娘さのある台詞だなぁ…・・と。
失礼だけれどそんなことを思ってしまう忠告を残して、天海春香は公園を去って行った。
……。
……。
……。
ひとり残されたベンチの上。
冷えきってしまったココアの缶を横に置いて
好きな人。異性という意味だろう。
居ない。間違いなく居ない。
ただ。
姉に打たれた
どう考えても私が意識している人が居るのだと、自覚が成された。
今なら判る。
もっとしっかりして欲しいと思った。
せめて自分の理想に近付いて欲しいと思った。
辛いときはその人にあたっていた。
あんなスカウトをさせたその癖、突き放したり。
自分ばかりがワガママに。ガキくさいお願いを押し付けていた。
全部、受け止めてもらっていた。
受け止めてもらっていた ―― あの臭いが鼻の奥につぅんと、うざったいのに、トリップしてゆく、思い出してゆく。
腹の奥に熱が灯る。
もぞり。
「は、ぁ」
生娘らしさなんて欠片もない感触。
この前自分で自慰した時の、脳裏にいた時の、とんでもない悔しさが再来する。
近しいだとか思っていなくて、手近な男性だから処理に使うには丁度良いだとか、そんな馬鹿なことを考えていた。
悔しい。うざったい。邪魔だ。
ここがどこだとか、そういうのはもうどうでも良い。
「ぁ、あ……ぁぁ、ぁ……」
アイドルだからという蓋なんて、あの天海春香でもという衝撃で、ずっと遠くの手の届かない所まで放り投げられた感。
触っていないくせに乳首がたつのでうるさくて、力強く
もどかしすぎて邪魔すぎて、パンツに手を突っ込んで陰唇をぐっちゃぐちゃに掻き回した。
「うあ、あぁ! ああ! あ!!」
股の間から汁が垂れてきて、天海春香が座って居た場所を水浸しにして。
真冬の公園、展望台。街のイルミネーションを背景に。
汚れた衣服の中に手を突っ込み、激しく動かし、浅ましく叫ぶ。
「い、い゛、ア゛っ!」
歯を食いしばる。ぎりぎりと軋む。
好きではない。好きなんてものではない。
親愛に由来するもの。近いには近いけど、普通は
警戒色みたいな、これには害があるから離れるべきだよと優しく警告をしてくれている、腐卵臭。
「うあ゛……ぎっ! あっ、アッ!」
ふぉんと血の味が薫る。
鼻の奥にこびりついて離れない、七草家の姉妹が失って久しい、近しく暖かな血の臭い。
それが気持ちが良い。イヤなのに安心する。両立してしまっている。
七草にちかは、くっさくて離れるべき生ゴミみたいなものにたかって興奮しているのだ。
まるで
たかが自慰に命でもかけているのだろうか。
生まれてこの方、手を伸ばしたことのない、鬼気迫る表情で股間を弄る。
「ほ、ぉ、イ ―― グ!? オアッ! ア! アァ!!」
真夜中の公園の中心で絶頂する。意味の無い叫びを放つ。
反りすぎてがつりとベンチで頭を打つ。どうでも良い。
気持ちがいい。
すっきりした。
「……。……は、ぁ」
自覚は出来た。そういうことだ。
あの人に生理的に興奮した自分が自分で許せなくて。嫌いなのには変わりない。
「……あ」
でも気付く。
現在。戸籍上。社会通念上。
彼は
姉妹の不浄は許されている。
本当にとんでもなく不義理ではあるが。
七草にちかはこの時、居なくなった両親に初めて、感謝をしたのかも知れない。
姉もこんな気持ちだったのだろう。
年も離れて縁も薄くて。そんな姉の気持ちも、初めて理解出来たように思えた。
「―― いひ」
公園の真ん中。
液体に塗れた部屋着のまま。
鳥肌の上に雪を積もらせて、歯をがちがちと鳴らしながら。
興奮冷めやらぬまま。
仰向けの体勢。手足をわきわきと動かして。はたき落とされた羽虫みたいに。
七草にちかは、2回戦に突入した。
next:七草にちか④