「暗いから……足元、気をつけてね」
淡く光る提灯を持ったあやめに手を引かれながら、赤、白、金と色とりどりの和花が咲く景色の中を、どこか浮ついた足取りで進んでいく。回廊に隣する石庭では、大きな蛍石がほんのりと冷たい光を浮かべており……灯篭によって陰影を誇張された松の木と合わせて、幻想的な和風世界を美しく彩っていた。
逢瀬を隠す背高な屏風を横目に見つつ、花や鳥が描かれた襖を一つ、また一つ、と跨いで夢の奥地へ潜り込む。5分ほど歩いたところで、あやめは提灯を脇に置き……一際目立つ、荘厳で大きな襖を開けて俺を中へと導いた。
「えへへ……♪ 余ね、人間様のために……この建物の中で一番イイお部屋を用意したんだ……♪」
こちらに振り向いたあやめがそう言って、少しだけ目を細めながらはにかんだ。
案内されたそこは、ここまで同様にうす暗い場所だったが……道中の不思議な雰囲気よりも温かい、夕陽色の光に満ちていた。
お高い旅館の座敷のように、い草の香りが心地良い和室だ。風通しもよく、快適な温度を自然に保たれている。行燈のぼんやりとした光が、眼精疲労に苦しむ目を優しく出迎えてくれるようだった。
その安らぎを生む場所の中心部には……タオル地の敷き布団と枕が座している。この様相はまるで……社員たちに無理矢理誘われて行くことになった男の娯楽店――メンズエステにしか見えなかった。
「……やっぱり……人間様はオトナだから、ここがどういうお部屋をイメージしてるのか……わかる、よね……?」
破廉恥なんて言葉で片づけられない、ぶっ飛んだ格好をしたあやめが……そっと触れるように、じれったく感じる柔らかさで腕に抱きついてきた。
衣服越しでも伝わる、あやめの白い柔肌の感触と温もりが俺の頭をめちゃくちゃに搔き乱す。どうにか理性的な対応ができるように足掻く思考とは裏腹に、身体は期待と焦りのせいでガチガチに緊張していた。
布団の脇に置かれたボトルやディスペンサーが意味深な物にしか思えない。あれを塗りたくられて、密着して……くんずほぐれつなボディタッチを堪能する未来を容易に想像できてしまう。
あらゆる面で欲求不満だったからこそ、性欲が前面に出た淫夢を見ることは理解できる――のだが……。
……よりにもよって、お相手をシてくれる嬢に……ずっと推していたアイドルである、あやめを期待してしまうなんて……。
俺は自分の不徳を呪った。自分の中にある純粋だと思っていた愛情が、こんな劣情に負けてしまったのかと絶望しそうだった。
……しかし……男の身体は、自分が思っているほど高尚な存在ではなく、正直に好意と期待を感じてしまうもののようだ。
暑くないはずの部屋で汗を垂らし、ごくりと唾を飲み下すと……あやめは、くすりと笑って腕を抱く力を少しだけ強めてきた。
「……あ、そうだ! まず先にな、人間様に見てもらわないといけないものがあったんよ……忘れてた……!」
抱擁を解いたあやめは、いつものようにポン!と手を叩いて、漆塗りのテーブルの上に置いてあったバインダーを持ってきた。
「これ、同意書な? ここ、そういうお店じゃないんで……約束してもらいたいコトがね、こう、たくさんあるんですね……?」
あやめがモジモジしながら取り出したペラ紙1枚を眺める。そこには、『故意的な性器の露出行為』や『性行為の強要』などの禁止事項や、マッサージによる揉み返しなどの注意事項について書かれている……よくある同意書のようだ。
リアルすぎる形式に戸惑いながらサインをし……ωみたいな口をして、首をゆらゆらさせて、やや緊張した様子で待っていたあやめに紙を返す。
――約束を破ったら、どうなる?
ふと気になって漏れ出た俺の問いに対して……あやめは、わずかに微笑むだけだった。
その儚く咲いた花のような表情には、なんの感情も乗せられていないように思えた。怒りもなければ、喜びも……そう問うた俺への失望や悲しみすら……何もないのだ。
……どうやら……本当に、ここは〝そういう場所〟らしい。恋愛感情のないサービスを提供して、女の子とのスキンシップを愉しんで……それで終わりなのだろう。
あやめのことを純粋に好いてきて、こうして、ふたりきりで会える場所を夢に見たつもりだった。それが、男の性欲まみれの淫夢の中で、中途半端に性欲を満たすだけでゴールに辿り着いてしまうらしい。
……こんなに虚しいこと、他にあるだろうか。所詮俺の好意など、性欲に振り回されるだけの不埒な気持ちでしかなかったのだろうか。
少し前に、自分たちで開発したツールを使い、妄想した『エッチなあやめ』を描いてもらってそれをオカズにヌいたときのような……口の中にエグみと生臭さが残る、どうしようもないほどに虚無すぎる物悲しさを再び感じてしまった。
あの時に感じた好意と性愛の違いを学べなかったのだろうか、こんなにも自分は未熟なままなのか――俺は大きく落胆し、自分の推し活の全てを疑い始めてしまった。
「……人間様。今はね、そんな難しいことを考えないでほしい……っていうのが、余の正直な気持ち、かな……? 人間様に、そんな顔をさせたかったんじゃないから……ね……?」
あやめは少し困った顔をして、俺の凝り固まった眉間をクリクリと揉みほぐす。優しい微笑みで、キュートな八重歯を覗かせて……いつものように、俺の心を上向かせてくれる。
その感情をくすぐるスキンシップのせいで理性の抵抗が軟化したのだろう……初めて風俗店に入ったときのような、昂りすぎた気分によって全身が震える感覚に陥った。
懐かしいほどに熱い衝動……これは性欲の猛りだ。男の欲望の浅ましさに反吐が出る。女体に抱きつかれて、薄布一枚の向こうにやわっこい肉の温もりを感じただけで……錆びついた心の隙間から、むず痒い情熱が溢れ出してしまったのかもしれない。
「これから、あのお布団で……人間様に、余がマッサージするんだけどもね……その……お先にね!シャワーで汗を流させていただこうと思います! あはははっ!!」
あやめにそっくりな人がコスプレをしているだけだ――そう思い込もうとした思考を上から叩き潰すように、あやめが快活でヤケになった声を発した。
その吹っ切るような言い方が、どうにも、ずっと応援してきて、ずっと会いたかった人の愛しい姿にしか思えなくて……下唇と心が、動揺と高揚で荒ぶるように震えた。
ふんふん♪と上ずった鼻歌をうたうあやめは、戸惑う俺の手を引いて……座敷の奥にあった廊下を抜けて、簡素ながら清潔感のある脱衣所に入る。
小物入れやハンガー、金庫まである……「ここで衣服を脱げ」ということなのだろう。本当に、夜の娯楽を詰め込んだようなお店とまるっきり同じだ。
ただ…………どれだけ待っても、あやめは脱衣所の外に出てくれない。それどころか、「なんで脱がないの?」みたいな顔でこちらの目を見続けてくる。「なんで出ていかないの?」とこちらから聞きたいぐらいだ。
「あ……もしかして、ご自身でお洋服が脱げないタイプの人……ですか……?」
――そんなことはない。あやめが出てから着替えるつもりだ。
そう伝えると、「あ、そっか、故意にハダカ見せるのアウトなんだっけ……」と何かを思い出したように、あやめがくるりと背を向ける。
「あの……お洋服を脱いですっぽんぽんになったら、そこにあるタオルを腰に巻いてね! そいでねぇ、終わったら余に声をかけりまっ……ます! 違う!かけてください! 噛んだけど気にしちゃダメだからね!」
けらけらと石畳を歩く下駄のように笑いながら、あやめが俺の身支度を問答無用で待ち始めた。
女の子を待たせるわけにもいかず、大好きな相手を背に感じながら裸になっていく……そんな凄まじい違和感と照れくささの中で、どうにか素肌にタオルを巻き終えた。
「あ、終わりましたかね……? その、余が振り向いたら……『どーん!』みたいなの、余はあんまりアレなんで……信じて、いいんですねっ!?」
深呼吸を繰り返して、勢いをつけるように振り向いたあやめが……タオルに覆われた股間を見て大げさに安堵する。そのまま、「おぉ~……これはなかなか……け、けっこう鍛えてますね……!」だの「タオルの大きさや素材に違和感とかない?」だのと雑談をしながら、ほとんど裸同士の談笑タイムが続いた。
そのテンションが高い様子のあやめは、緊張しているというより……なんだかこの状況を楽しんでいるように思えて、こちらの落ち着かないドギマギも少しずつほぐれてきた。
それに加えて、あやめのエッチな姿を素直に受け入れる心の準備もでき始めたようだった。
これまで擦り合わなかった〝可憐〟と〝淫靡〟の相反するイメージが、妄想の中で固まっていくような……それこそ、これまでこびりついていた〝百鬼あやめ〟という潔癖な固定観念を壊すような、ブレイクスルーの兆しを思わせる。
沸々と湧き上がる衝動を向けるべき対象として……これまで一途に想ってきた、ピュアな好意と下衆な性欲がドロドロに混ざり合っていく。これは俺にとって未知の感覚で、新しい扉が音を立てて開くような楽しさを感じてしまった。
……今ではあまり公にできない話だが……俺たちが開発した技術の成長には、人の性欲に基づくアダルトコンテンツへの応用による資金とアイデアの獲得もかなり大きかった。エロが技術を進化させるというよりも、エロには人間の既知を超えた発想と感覚が宿っており、それらが技術の至らない部分を指摘するのであると個人的にも考えていたところであって……。
「あれ、人間様……? 余の話、聞いとるー……? 配信者とリスナーは似るって言うけど、そこまで似なくていいんだよ?」
……いけない、つい考え込んでしまった。俺はあやめに謝り、「これからどうすればいいか」を尋ねた。
「あ、うん……これから、ね……? あの……は、恥ずかしいから……人間様には目隠しをするね……?」
あやめは手でちょいちょいと招いて、俺の頭を下げさせ……おもむろに、衣服を縛っていた細い帯をほどいた。
はらり、と広がった襟の隙間から、艶めく白肌が瑞々しい光を弾けさせた。柔らかそうに実ったお手頃サイズの果実がぷるりと揺れて……胸のさきっぽだけを布地で覆っているセンシティブすぎるビキニ姿を、妄想ではなく現実のものとして晒した。
視線を下げていたせいで、あやめの乳房の膨らみを間近で観察できてしまう。アイドル衣装でも意外に存在感を発揮する確かな隆起は、熟した桃のような甘美さをナマで伝えてきた。意外と乳輪が大きめなのか、布地から少しピンク色がはみ出ているような……。
「よい、せっ……と……。これでイイと思うんだけども……目元、苦しくない?」
……ダイレクトに見たあやめの乳房は、網膜に焼き付いたらしい。視界を覆われても、すぐに思い返せるほどに至福な記憶を手に入れてしまった。
「ん……大丈夫そうだな……。それじゃね、ここでひとつ……お風呂で疲れをさっぱり流しましょうかねっ!」
…………おかしい。網膜に焼き付いたはずの肉体美が、動いて見える。それどころか、これから浴室に入るために邪魔な衣装を脱いで……裸体に近いシルエットを晒すように、記憶の映像が進化していく。
攻めすぎなトップスとやる気のないフンドシ姿の鬼神様が、俺の手を取ろうとする――その朧げな光景と、手が何かに触れた感覚がピッタリとリンクする。
そういえば、あやめの帯は薄めの白い生地だった……だから、微妙に透けて見えてしまっているようだ。
「これからお風呂に向かうんで、足を滑らせんように注意だぞっ。こう、足をね……ペンギンちゃんみたいにね、ぺちぺち~って歩くんだよ……!」
足を垂直に下ろして、ぷるぷるっ♡と乳房を揺らしながら、両手を引いて歩いてくれるあやめに申し訳なく思いつつも……目隠しについての無粋すぎる指摘をすることは、俺にはできなかった。
完全に見えているわけでもないし、替えの目隠しがないからこそ自分の衣服の一部を使ったのだろうし……事実を言っても、あやめに恥ずかしい思いをさせるだけのような気もする。いや、きっとそうだろう……そうに違いない……。
性欲全開の自分に嫌気が差しつつも……これからあやめのことを想うたびに、この悩ましげに揺れる肌色のシルエットを思い出してしまったらどうしよう……などとIQが融けた悩み事をしながら、あやめの誘導によってシャワー室へと入ったのだった。