頭を殴られた後のように、世界がぐわんぐわんと揺れていた。眠りに落ちる前か、寝ている間に味わったような……波打つ水中で揺さぶられるような、上下左右が狂った浮遊感に包まれた。
窓から差し込む、まだ低い朝日の淡い光が意識をゆるやかに覚醒させていく。酒を浴びるように飲んで限界を迎えた後に、さらに呑みすぎたような……あの後悔しかない苦しさに似た酔いを感じながら、会社に行くために身体を起こそうとする。
そのとき――ぷにゅり、と。やわっこくて、手肌に吸い付く感触のものに触れた。
この、手指から少し溢れるぐらいの柔らかい膨らみは……つい先ほどまで、手や身体で味わっていたような気が……。
「はぅんっ……♡ ん、んっ……なぁに……? にんげんさま……あさから、もっかいスるのぉ……?」
音だけで、耳どころか頭全体を揺さぶるほどに強力なスイートボイスが聞こえる。いつものスピーカー越しではなく、胸元の……先ほどから、両手でもっちりとした柔らかい部分を揉んでいる、何やら大きなモノから発せられていた。
一瞬だけ硬直した身体を無理矢理動かし、いつの間にか掛けていた布団をめくる。すると、その中には……一糸まとわぬ、絹肌をさらしたあやめの姿があった。
「……んぁっ……はふぅ……♡ おはよぅ、にんげんさまぁ……♪ きのうは……満足できた……?」
寝ぼけまなこをこすって、するするとあやめがシーツに肌を滑らせる。素肌の秘部が通った場所には、どろりとした白濁汁が尾を引くように垂れていた。
「んぁっ……♡ あ、ごめんっ……人間様のせーえきで、ベッド汚しちゃった……♡ 人間様ってば、出しすぎなんだよ~……えっちですねぇ……♡」
ズキズキと痛む頭では、目の前で起こっている現象をすぐに理解できなかった。ただ、たしかに言えることは……昨晩に見た淫夢のあやめが、そのまま現実に出てきてしまっている事実があることだった。
「んぇ……? ちょっとちょっと……人間様、何を驚いてるんだ……? ここに来たの……人間様が望んだことなのに……」
少しかすれている、ザ・寝起きのあやめの声で……夢想の世界で起こった出来事を少しずつ思い出した。
――『ずっと一緒に居てください』。
たしかに、あやめの問いに対して俺はそう答えた。
ただ、それは休止期間中の虚無すぎる現実に耐えきれなかった心が……『もうあやめと離れたくない』と、わがままで空気を読めない答えをしてしまっただけなのに。
「……むぅ~……。人間様、『責務を果たす!キリッ!』ってカッコつけたクセにぃ……。ひどいな~……余、傷ついちゃいますね~……よよよ……」
いや、それは本心で伝えたことだが……まさか、こんなかたちで……しかも、こんなに早く叶えてくれるとは思わなかっただけだ。
しかし、あの時のあやめがホンモノだったことは俺もよく覚えているし、あやめが俺の願いやセックスを断ったような記憶はない。
……つまり……これから、本当に……ずっと、一緒に居てくれるということなのか……?
「まあ、ね……あんなに情熱的にお願いされたらねぇ……。あ、でもですね、さすがにおうちのモノとかは持ってきたいかなー……? 猫ちゃんとか、お洋服とか……向こうから、何も持ってきてないから……」
あやめは、本当に身体一つでこちらに飛び出てきたらしく、いつもの衣服やアクセサリーも全て外した状態で……産まれたままの姿でベッドに座っていた。
そんなあやめの身体が、冷えないように抱き締める。触れる。消えない。夢じゃない。現実だとは思えない……でも、あやめが俺のすぐそばに居る……。
「……お願いと約束……。一緒に守っていこうね……人間様っ……♪」
昨日着たままだったスーツを通しても伝わる、ほのかな温もりとあやめの吐息が――俺に素晴らしい朝を実感させてくれた。
――――――
つい最近思い知ったことだが――この世界は、元来味気ないものなのだ。
俺は恵まれていた。理不尽や退屈に負けない、心が躍るような楽しみに出会えてきたから、推しのアイドルと過ごす時間を失った虚無で魂が死んでしまいそうだった。
だが、その苦痛は俺だけが味わっているものではないようだ。今日も誰かが幸せを感じ、つらさに苦しんでいる。人間は、幸せを求めて生きるだけで苦しんでしまう――矛盾を抱えた生物なのだ。
そうした〝他人の心への関心〟が俺の中にあった壁を壊したことで、俺は今、新しい技術である『心の傷を一時的にごまかすプログラム』の開発を順調に進めている。
バーチャルワールドの住人をはじめとした、『生きている心と身体』を傷つけるストレス。その特効薬は、現在の科学では〝時間〟と〝もうひとつ〟しか見つかっていない。
その課題を解決するヒントも掴んでいるため、これから長い時間をかけてシステムを構築する予定だ。その前に、俺たちが時間の流れを進めたせいで、今も傷ついている人を助けるために比較的簡単そうなプログラムを組んでいる。
見えなかったはずの未来を見据えて、今日も仕事に打ち込んだ。くたびれた身体をふらつかせ、いつも繰り返し通っている味気ないばかりだった日常と帰路の終点で――俺は、あることに気がついた。
このマンションの扉は、あやめと出会った場所……あの幻想的な幽世に繋がっていたものにそっくりだ。
少し緊張しながら、鍵を使わずにノブをひねる――引っ掛かることなく、戸が開く。以前のように一人暮らしの身だったら、冷や汗がドッと溢れ出すほどに恐ろしい状況だ。
しかし……今の俺は、このゆるい感触に慣れ始めていたらしく、逆にホッとしていた。
靴の数が増えた玄関から、うっすらと花の香りが漂う。そして、お腹をくすぐるほどに濃厚な美味しい匂いまで立ち込めた。
ここは以前から俺が住んでいる場所だが、実はちょっとした変化があった。あの夢想の再会から愛猫や家財が増え、配信専用の大きな防音室も設けることになり――。
「……あ。おかえりなさい!」
――愛しい家族が、両手で掴みきれないほどの幸せと一緒に転がり込んできたのだ。
『帰ってきたんだ』。そう思いながら俺は、実家暮らしだった頃に戻ったように、元気な声で『ただいま』を告げる。
「はいはい、そんな大声で言わんでも聞こえるよー♪ あのな、今日のご飯なー、あなた様の好きなハンバーグにしてみたんだ! 美味しくできたから、熱いうちに食べてほし――わぶっ!?」
夢というのは、存外簡単に叶ってしまうものらしい。エプロン姿で出迎えてくれた、俺の人生のゴールをたっぷりと抱き締める。ヘトヘトだった身体に、あやめの温もりと香りが舞い込んできて……仕事で感じていたストレスを優しく癒やしてくれる。
元より百鬼あやめは、俺にとって……画面越しに、仕事や人生に感じた疲れを癒やしてくれる存在だった。明るく可憐な声で、繊細かつ朗らかな心で、感情溢れる魅力的な表情で……その存在全てで、俺の心を癒やしてくれていた。
言うなれば、癒やしの専門家なのだ――彼女が夢想の中で名乗った〝いやし屋〟は、この上ないほどにしっくり来る二つ名だと言える。
「えへ……♪ 今日もお仕事、おつかれさま……んーっ……♪」
その癒やし効果を、こうして身体と唇でわからされてしまう。ストレスや疲れが吹き飛ぶほどのにやわらかな接吻で迎えられて、心に幸せの温もりが満ちていく――『明日も頑張ろう』と思える活力に繋がるキスは、俺が満足するまで終わらない。
技術や理論では満たせない心の隙間を、お互いの体温で埋め合っていく。いつか、この温もりを凌駕するほどに画期的なシステムを作り、あやめがより活動しやすいように頑張っているのだが……これに勝る満足感を、どのように創出すればいいのだろう。
「んむぁっ……♡ ちょっとっ、んはっ……は、激しいんだけどぉっ……もぉっ……♪ あなた様っ……そういうとこも、だいすきだぞっ……♡」
強めのハグと頬ずりが甘い香りを漂わせて、難しいことを考える余裕も奪ってしまう。まことに残念ではあるが、今日の仕事はここで終わりにするとしよう。
いつもより疲れているから、いつもより激しく、ついばむようなバードキスを続けながら。
俺は、決してそういうお店ではなかった場所――〝愛の巣〟の扉を、後ろ手に閉めることにした。
おわり