私には父がいない。
幼い頃はそのせいで、よく『かわいそう』とか『大変ね』なんて言われたものだけど、でも、私は平気だった。
だってパパって、要するに中年のオジサンのことでしょう? そんな人が家にいないことを、他の人がどうしてそんなに可哀想がるのか、本気で理解できなかった。
だから、私は全然平気だったのだけど……でもあいにく、ママはそうではなくて、
「ごめんね○○ちゃん。うちにはパパがいなくて、ごめんね」
ママは酔っぱらうと、よくそんなことをいっていた。私はそのたびに、『大丈夫だよ。私はママがいれば平気だもん』と慰めたけど、でも全部無駄で、ママは私がどれだけ不幸なのかを、何度も丁寧に説明してくれた。
だからだろうか、その頃の私にとって『父親』とは、ママを悲しませる悪い奴で、ほのかな憎悪の対象ですらあったのだった。
――で、まあそんな不幸話は世界情勢というやつにはまったく関係がなくて、そのころ海では深海凄艦が勢力を拡大し、陸では艦娘適正にめざめた婦女子がつぎつぎに名乗りを上げていた。
そんなある日、私はふと気付いたのだ。
自分が『鈴谷』であることに。
舞鶴は比較的内地の鎮守府で、古いかわりに『当たり』の場所だといわれていた。
それはつまり深海凄艦が少ないとか、練度が高いという意味で、訓練学校では、そういった噂は重大事だった。
でもそれも私にとってはパパの話と一緒で、そんな知らないことで一喜一憂するっていうのは難しかった。だから、『いいなー』と同期に羨ましがられても、なんとも思っていなかった。
でもこうして現地に着いて見てみると、たしかにここは良いところかもしれなかった。
「ふへー、やっとついたよー」
夜行列車で九時間も掛かってたどり着いたそこは、なかなか綺麗な場所だった。
日本海に面した港はひろびろとして気持ちが良く、赤煉瓦の建物は軍需施設と言うよりおしゃれな西洋都市みたいだった。
「ふーん、いいじゃんいいじゃん♪」
私はよしっと気合いを入れて、就任前の最後の装備点検をする。
命令書よし、制服よし、ママ譲りの美人、よし。
最後に荷物を背負いなおして、私はほんの少しだけ怖じ気づく。
この門をくぐったら、私は本当に『鈴谷』になる。○○と呼ぶ人はいなくなり、兵器である艦娘になる。
そのことがほんの少しだけ怖かった。
「ひょっとして、鈴谷ですの?」
そんなときに出会ったのが、熊野だった。
――――――――
びっくりするほどの美人がいた。
腰まで伸びたきれいな髪と、ぱっちりと開いた栗色の瞳。私と同じ制服を着た、お嬢様みたいな綺麗な子。
会ったことはもちろん、見たことだって一度もない人だった。
「え、もしかして熊野?」
それなのに私はこの子が最上型四番艦の熊野で、私の姉妹艦だとすぐに分かった。
「え!? うそうそ本当に熊野なの!? なに、ひさしぶりじゃん! あ、ひさしぶりっていっても、会うの初めてだけどさ!」
「相変わらずですね、あなたは。といっても、わたくしも会うのは初めてですけれども」
私たちはそれこそ仲の良い姉妹みたいにきゃーきゃーいいながら手を取り合って再会を喜んだ。
「うわー。なんか泣けてくるよ~。会いたかったー」
「よく言いますわ。私からしたら、あなたずいぶん遅刻でしたわよ」
いわれて気付いた。熊野はたしかに私と同じデザインの制服を着ているけれど、なんというか着慣れていた。
「もしかして熊野って結構速く着任してた?」
「ざっと三年といったところかしら」
「うわ、それはごめん」
艦娘の配属はランダムなため、姉妹艦でも順番に差があるのだ。
「謝罪にはおよびませんわ。それも今日までですもの。――あらためまして、歓迎しますわ鈴谷。ようこそ舞鶴鎮守府へ。――さ、提督もお待ちですから、まずはご挨拶に参りましょう」
熊野に案内されて、私は建物のなかへと入っていった。
中から見た鎮守府は、なんだか学校みたいなところだった。廊下は板張りで、中庭では訓練中の艦娘たちが汗を流している。
「わ、あれって雪風でしょ。朝潮に、浦波も!」
知らないはずなのに知っている。私はまた、あの不思議な感覚にとらわれた。
向こうもそれが分かるのか、みんなぴょんぴょん跳ねながら手を振ってくれた。
私はまた泣きそうになる。
この世でたったひとり、母にだけ抱くような感情を、ここでは皆に感じられる。そのことがひどく嬉しかった。
「うわー、なんか本当に不思議。これならすぐ仲良くなれそうだよ」
「それはよかったですわ。さ、こちらでしてよ」
木造校舎みたいな建物の、小さな部屋に案内される。そこには「執務室」とそっけなく書いてあった。
提督というからには、てっきり高いところでふんぞり返っているものと思ったがここでは違うらしい。
「どうぞ」
熊野がノックをすると、加賀さんが返事をしてくいれた。もはや声だけで人が分かるほど、私は鈴谷になっている。
部屋に入る。右手にいるのはやっぱり加賀さん。相変わらずクールな表情。そして左側に赤城さん。私に気付いて小さく手を降ってくれた。
「君が鈴谷か」
そんな二人に挟まれて、ひとりの男の人がいる。痩せ形で、無愛想な表情のおじさんだ。
ある意味では、この人だけが初対面の人だった。艦娘とは違う生身の、私が全然知らない人間。
そのはずだった。
「よくきてくれた。私が提督の長谷部だ」
それなのに、私のなかに奇妙な感覚があった。それはあの、熊野たちに抱いたのと似た既視感だった。まるで親友のような、家族のような、あの感覚を、この男の人にも感じていた。
でもそれは巡洋艦『鈴谷』のものじゃなくて。
「歓迎しよう。善く国家に尽くし、臣民がためにその力を振るいたまえ」
提督が、着任に付随する難しい話をしている。
だけど私はなにも聞いていなかった。
それよりも、この人が自分の父親だという直感と向き合うことに必死だった。
――――――――
艦娘として目覚めた一般人が、偶然父親が勤務する鎮守府に配属される。……はたしてそんなことがあり得るのだろうか?
もちろん確率としてはあるだろう。天文学的な確率でも宝くじに当たる人がいるように、起きることは起きるものだ。
問題はその偶然を誰が知っているかだ。
総督府はこのことに気付いているのだろうか。艦娘になる娘の経歴くらい調べそうなものだが、でもそれだってどこまで調べるのだろう?
ママはパパと籍を入れなかったらしい。それほどあやふやな血縁関係だ。調べていない可能性も十分にあるだろう。
すくなくとも提督に気付いた様子はない。っていうかそれをいうなら私のだってただの直感だ。
むしろこうなってくるとその直感こそが疑わしい。おーい私よ、一度も会ったことないあの人が、どうして父親だって分かるのさ。これで本当に他人だったらお笑いだ。
でも、
『あなたのお父さんはね、とっても無愛想な人だったの』
私にそそぎ込まれた母の言葉、呪いにも似た思い出たちが言う。
『笑っていても、ほんの少しだけ唇があがるくらいで、でもやさしいひとよ』
あの人はお前の父親だ、と。
――――――――
二週間があっという間に過ぎて、私は七度の哨戒任務と二度の実戦を終わらせていた。
任務に、不安なところはなにもなかった。提督の指示は適切だったし、私は私で他のことに気を取られていて、固くなることもなかったからだ。
人間関係も良好で、熊野とも、他の艦娘ともうまくいっている。
……少なくともこんな話をできるくらいには。
「え、じゃあ提督と赤城さんってつきあってないの?」
それは食堂でのことだった。私は空母組の人たちとお夕飯を食べながら、前から気になっていたことを聞いていた。
「あはは、そんなのあるわけないですよ」
赤城さんは花より団子ですよとばかりにカツ丼をおかずに天丼を頬張っている。
「え、でも、ケッコンカッコカリしてるって……」
私は赤城さんの左手に輝く指輪を指差す。
「はい。それがなにか?」
「なにかって、だってケッコンカッコカリって特別な絆で結ばれた二人だけが出来る、本当の結婚と似たような物だって……」
「建前はたしかにそうですね」
赤城さんがあっさりいう。
「ああ、なるほど、鈴谷さんは外からきたんでしたっけ? それだとたしかに分からないですよね。まったく、総督府もなにを考えてケッコンなんて名前をつけたんだか」
やれやれです。と赤城さんは憂いを帯びた表情で穴子丼に手を伸ばす。
「これはあくまで改修装備であって、実際の色恋とは無関係なんですよ。現に加賀さんや金剛さんもしているでしょう?」
「うん。だからここの提督マジやばいなって」
「あはははは、それはさすがに提督がかわいそうでしたね」
赤城さんが説明してくれたところによると、ケッコンシステムの扱いは鎮守府によって千差万別で、本当のケッコンのように重いところもあれば、装備の一部としか見ていないところもあるのだとか。
「ここは後者ですね。せっかく使える資材があるのだから使う。それだけの話です」
「ふーん、そうだったんだ」
「ええ、ですから鈴谷さんにもチャンスは十分にありますよ」
「……へ?」
一瞬なにを言われているのか分からなかった。
「がんばってくださいね鈴谷さん。提督、あれで結構人気ありますから」
――――――――
「……ちょっと聞き込みがんばりすぎたかな」
夜。鎮守府の廊下を歩きながら、私は『うーん』と唸っていた。
あのあと赤城さんに詳しく聞いたところ、いま鎮守府では『鈴谷が提督に一目惚れしたらしい』という噂が流れているのだとか。
なんでそんなことにと思ったけれど、これはよく考えてみたら自分が悪かった。私だって、出会ってばかりの男性を熱心に調べている女の子がいたら。なるほど、惚れちゃったんだなと思うだろう。
「さすがにちょっと控えるかな。……ってか、これ以上調べるのも難しいしなー」
私は、この二週間で調べたデータを思い浮かべる。
長谷部健太。四十歳。出身は信州。軍学校上がりの元戦艦乗り。好きなものは鱈の西京漬けと漬け物全般。趣味はなし。独身。
以上、これだけ。まあ調べたといっても、それはせいぜい聞き込みをしたくらいで、本人に確認をとったものは一つもない。だから私が本当に知りたいことはいまもわからないままだった。
まあそれも別にいっか。と今の私は思う。仮に親子だったとして、それがなんだと言うんだ。顔も知らずに十数年も過ごせば、それはもう他人だ。私の家族はママで十分じゃないか。
「はーやめやめ。……ってか、ちゃんと仕事しないとなー」
今、私は鎮守府の廊下を一人で歩いていた。
あたりはとっくに真っ暗で、駆逐艦なら寝ている時間だった。そんな時間になぜ出歩いているかというと、明日提出の報告書を、食堂に忘れたことに気づいたからだ。
そういうケアレスミスが最近増えている。理由はもちろん、他のことに気を取られているからだ。
「……おっと」
噂をすれば、というわけではないけれど、私は執務室の前を通りがかった。
「ふーん、まだ残業してるんだ」
執務室の扉がほんの少し開いていて、中から光が漏れている。私はそのまま通り過ぎようとした。以前ならちょっと覗いたかもしれないけれど、いまはもうそんな気はなかった。
でもいきなり「ああ!」と、声が聞こえてきて、
「……加賀さん?」
私はぎょっとした。間違いなく加賀さんの声に聞こえた。
でもそれは、なんというか変に色っぽくて、とても加賀さんが出したものとは思えなかった。
私は迷って、結局執務室を覗くことにした。少しだけ開いた扉に顔を寄せる。中はいつもどおりの執務室だった。掃除が行き届いた部屋は清潔で、物が少なく厳格な雰囲気があった。
「あ……ん……んん……」
そこで、加賀さんと提督がキスをしていた。
「………………え?」
なにかの間違いだと思った。だって、あの真面目な加賀さんと提督なんだから。
「ん……っちゅ……はぁ……」
でも間違いじゃなかった。二人はずっとひっついたままで、加賀さんの吐息がますます甘くなっていく。
(ええっ! あの二人ってそういう関係だったの!?)
いったいいつから? 他の人は知っているのだろうか? いやケッコンしているのだから当然か。いやいやそれは形だけだって赤城さんが、
――赤城さんは、このことを知っているのだろうか?
「……ああ、加賀さんやっと来たんですね」
そんなことを考えていると、当の本人の声がした。
「ずいぶんと遅いから、先に始めちゃいましたよ」
扉の死角から赤城さんが現れた。その声は普段どおりだったが、格好が普通じゃなかった。
赤城さんは全裸だった。
それも、ついさっきまで激しい運動でもしていたように汗をかいて、額に髪が張り付いている。
「ん……ちゅう……」
赤城さんは寄り添うと、そのまま提督とキスをした。
加賀さんが不満そうにいう。
「……ちょっと赤城さん。あなたはもう、失神するくらいしてもらったのでしょう?」
「だからって起こさないのは酷いですよ。ちゃんと三人で楽しみましょう。……あら?」
そのとき、赤城さんがなにかに気づいた様子で、
「もう、加賀さん慌てすぎです。ドアくらいちゃんと閉めてください」
こっちに来る。
(……っ!)
私は慌てて離れた。足音が立たないように、誰にも気付かれないように、暗い廊下を早足で駆けた。
パタン、と背後でドアが閉まる音がした。
――――――――
結局、私は提督を調べる事を止めなかった。
むしろ、いままでよりもずっと本気になって、鎮守府の交友関係まで調べるようになった。すると、出るわ出るわ。
結論から言うと、提督の相手は赤城さん達だけでなかった。少なくとも十人以上、提督は毎日のように相手を変えて、夜を一緒にすごしていた。その内容は艦娘ごとに異なっていて、デートをしたり、遊んだり、なかには一緒に本を読むだけのものもある。
セックスについても、主導権があるのはむしろ艦娘の方で、提督はそれに応えているだけのように見えた。
ここで私ははじめて、男女の関係ってこんなにたくさんあるんだと知った。
男性を支配したい人、男性に支配されたい人。
甘えたい人、甘やかしたい人。
なかには痛くしたり、縛ったり、なんでそんな風になっちゃったの? という関係もたくさんあった。
今日の艦娘も、そういう子だった。
「いや! やめて提督! 離してください!!」
休憩室のソファで、提督が艦娘を組み伏せている。両手を縄で拘束して、乱暴に腰を振っている。
「いやぁ! やだぁ!」
扶桑は、本気で嫌がっているように思えた。
ずいぶんと覗き見をしてきたが、今日みたいなのは初めてだった。
「ひっく……ひっく……」
ついに、扶桑は泣き出した。
私は流石に迷った。……これは、流石に、止めたほうがいいんじゃないか?
これまで覗き見をしていて、乱暴な場面はいくつか見てきたが、今日のはとくにひどかった。これではまるで強姦だ。いや、本当にそうかもしれない。
とにかく、止めよう。私が決意をした、そのとき、
「はいどーもー。鈴谷さん、ちょっと待ってくださいねー」
「っ!!」
いきなり話しかけられて、私は腰が抜けそうになった。
「しー、静かにしてください。提督たちの邪魔しちゃ悪いですからね」
そういったのは、青葉だった。
いま、私は廊下からドアを少し開けて覗き見していた。その背後から、にゅっとカメラのレンズが差し出された。
「ちょっと失礼。……うーん、光量が低すぎますね。やっぱり三脚ないと無理かー」
「あ、青葉? あんたなにしてるの?」
「それはもちろん、鈴谷さんとおんなじ、覗き屋です」
「わ、私はそんなんじゃないよ!」
と、言ってから気づいたが、やっていることは同じだった。
ところが、青葉は納得した様子でうなずいていた。
「あー、やっぱりそうですよね。鈴谷さんと私じゃ、ちょっと違いましたか」
「違うって何よ。……ねえ、ちょっと青葉、これってどういうことなの? この鎮守府、どうなってるの?」
「うーん、まあ気になりますよね。ここんとこずーっと覗き見してましたものね」
「……もしかして見てたの?」
「ええ、まあ、それが私の当番ですから」
またシャッターを切る。こんどは私の顔を撮っていた。
「鈴谷さんはどう思いますか? ここの提督のこと」
「どうって、……女の子をとっかえひっかえしてるハーレムの王様?」
「……本当にそう思います?」
青葉が、めずらしく真剣な顔で言う。
「違うっていうの?」
「いえいえ、それも正しいんじゃないんですか? それこそ、たぶんこれがなにかの問題になったら、あの人、全責任を一人で負いそうですからね」
私は訳がわからなくなっていた。
「……ねえ、もうちょっと分かりやすく言ってくれない? 最初から説明してよ」
「うーん。そうしたいのはやまやまなんですが。一応新人さんには一ヶ月は黙っていよう。みたいな決まりがあるんですよ。なのですみませんが、私は質問には答えられません」
よいしょ、と青葉がどんどん機材を取り出していく。暗視カメラに赤外線スコープにと、その装備と比べたら、私は素人もいいところだった。
「……私を止めに来たんじゃないの?」
「いえいえ別に、今回は扶桑さんに悪かったので話しかけましたけど、でも、覗きがしたいならご自由にどうぞ。むしろ同じ趣味の人だったら、歓迎ですよ」
「同じ趣味?」
「はい」
そのとき、私はようやく気づいた。
カメラを回す青葉の頬が赤らんでいる。シャッターを押すたびに、ハァハァと息が荒くなっていく。
「私、これじゃないと、濡れないので」
よかったら一緒にどうです? と誘われて、わたしは慌てて退散した。
青葉はさり際に『詳しいことは熊野に聞け』と言っていた。
――――――――
「珍しいですわね。鈴谷がお茶に誘ってくれるなんて」
休日の午後、私は寮の自室で、熊野と一緒の時間を過ごしていた。
「さ、どうぞ。セイロンティーですわ」
目の前に本格的なアフタヌーンティーが並ぶ。紅茶とスコーン、それにホイップクリームやジャム。
「えへへ、いただきまーす。ん! おいしい!」
「よかった。おかわりもありましてよ」
私は熊野とお茶を楽しんだ。それは本当に楽しい時間で、このまま姉妹でお茶だけしようかなと本気で思ったくらいだった。
「それで? なにかお話でもあるんですの?」
でも、熊野は言った。
「あはは、わかる?」
「ええ、あなたはわかりやすいですから」
わかりやすい。か。
「じゃあ聞くけど。熊野もさ、提督と付き合ってたりするの?」
熊野が一瞬、びっくりしたような顔をした。
「……なるほど、その話ですのね。鈴谷はどこまで知っているのですか?」
私は、提督が何人もの艦娘と関係していること、それと、昨日青葉に言われたことを話した。
「それで、青葉からは『詳しいことは熊野に聞け』って言われたんだけど……」
「わたくしに? なぜ?」
「え? いや私も言われただけだから分からないけれど……」
熊野が紅茶を一口すすって、
「……ああ、なるほど、たぶん気を使ってくれたのね。相手があなただし、それになんだかんだ言って、この鎮守府で最初にあの人と寝たのは私だもの」
「熊野が?」
「ええ、昔の話よ」
熊野がまた、紅茶を飲む。私もスコーンをぱくついた。急かすつもりはなかった。
「提督はね、誰とでも寝るの」
やがて、熊野が言った。
「……それってどういう意味?」
「そのままよ。提督は艦娘の願いだったら、相手がだれであろうと、どんな内容だろうと断らないの。昔、そういう風に宣言したのよ」
それは、この鎮守府が出来てすぐのこと。
提督はすべての艦娘の前で、自分は誰とでも寝るし、去るものは追わない。と言い放ったそうだ。
「正直、最初は何を言っているのだろうって思いましたわ。提督は昔から、あの通りの堅物でしたから、なにかの冗談だろうとみんな思ったの。でも、ある日最初のケッコンカッコカリが結ばれて……その艦娘は、提督のもとへ訪れた」
熊野の胸元で、チェーンに通された金のリングがキラリと光った。
「結論から言うと、提督の言葉は事実だったわ。それが皮切りとなって、彼のもとには艦娘たちが通うようになった。それからはいろいろね、今も付きそっている子もいれば、離れた子もいる」
「……熊野は、どうなの?」
「私はもう、二年は行っていませんわね」
遠い目。私はそこに隠れている感情がなにかわからなかった。
「提督は、なんでそんなことしてるの?」
「さあ。あの人はああ見えてサービス精神がありますから、人によって言うことが違うのよね。だから私にも本当のことはわかりませんわ。わかるとしたら、艦娘側の理由だけ。みんなそれぞれの理由を抱えて、提督とつながっていった……」
それは私も理解できた。ここ三週間ずっとみてきたことなのだから。
「……熊野は?」
「はい?」
「えっと、熊野は、どうして提督とその、……したの?」
「あら、ずいぶんなことを聞きますのね」
「あ、いやその、言いたくないならいいけど……」
「かまいませんわ。別に隠したいことではないもの。ただ、誰にも言ったことがなかったから……」
熊野がまた紅茶をすすった。
「本当のことをいうと、もうよく分からないんです」
「え? わからないって、どういうこと?」
「なぜならあの人を愛したのは熊野ではなく『△△』だから」
最初は誰のことを言っているのかわからなかった。でもすぐに気づいた。△△は、熊野の本名だ。
「ねえ、鈴谷。いいえ、最上型三番艦鈴谷さん。考えてみれば、あなたもわたしも、ずいぶんと哀れな存在ではなくて?」
熊野が、いままでみたことのない表情をしていた。
「ねえ鈴谷。あなた人間だった頃の記憶はある?」
「え? もちろんあるけど……」
「そう。……いえ、わたくしも、記憶をなくしたわけではないわ。……でも、なんて言ったら良いのかしら。たとえば幼い頃の記憶って、もうあまり自分のものとは思えないじゃない? それと同じで△△。それが、私の本名だったのに。もうほとんど他人みたいに感じるの。この体も心も、すっかり『熊野』になってしまった」
熊野が自分の体を抱いた。
「昔はそれがとても怖かった。でもいまはもう、その怖さすらなくなってしまった。……ねえ鈴谷、これって酷いと思わない? お前は艦娘だって突然いわれて、死ぬかもしれない戦いに駆り出されて、いつのまにか人間じゃなくなっている……そんなの悲しいじゃない」
「…………」
「提督は、その悲しさをわかってくれる人だった。そんなところを、△△は愛していたのね」
私はなんと返事をすればいいのかわからなかった。
「これでわかったかしら? 私がなぜ提督に抱かれていたのか。そしてなぜ抱かれなくなったのか」
「うん……。話してくれて、ありがとう」
「礼には及びません。ただ、ひとつだけ言わせて頂戴。鈴谷、自分の心には素直に行動なさい。他人がどう思うかなんて、気にしないことです」
熊野は、いや、たぶん△△は笑って、言った。
「それがどんな願いであれ、提督は受け入れてくれますよ」
「ん……ありがと熊野」
それから、私達は純粋にお茶を楽しんだ。熊野の思い出話をお茶請けに、楽しい時間をすごしていった。
そして、私はとある計画を立て始めた。
――――――――
提督と一緒にすごす日のことを、みんなは単純に『当番』と呼んでいた。
当番は隔週から不定期までと人によって違っていて、おおむね二ヶ月先まで予定が埋まっていた。
ただ、これは厳密なものではなくて、時期や戦況によって変更されたり、暗黙の了解で優先されることもあった。
私もそうだった。新人の最初の数回は優先される。
その枠を使って、私はすぐに、当番になれた。
「こんばんわ~……」
夜。執務室の扉を開ける。すると書類仕事をしていた提督が顔を上げた。
「よく来たね鈴谷。すまないが、もう少しだけ待ってもらっていいかな」
「あ、うん。全然いいよ~」
執務室に入っていく。もう何度も来ているはずの部屋なのに、なぜかその日は見知らぬ場所に来たみたいだった。
ソファに座って待っていると、提督の仕事はすぐに終わった。
「またせたね。……ふむ、お茶でも淹れようか」
「あ、鈴谷やるよ」
「いや、ここは私にやらせてくれ。なにかリクエストはあるかい?」
「んー。特にないかな。提督のお好みで」
提督が慣れた手付きでほうじ茶を入れてくれた。
「熱いぞ。気をつけて」
「あ、ありがとう……」
提督が、たかが巡洋艦にお茶を淹れている。
それで、私はこれがいつもと違う時間なのだとあらためて気づいた。
「ふむ。若い子にはほうじ茶よりも、ソフトドリングのほうが良かったか?」
「ううん、全然。鈴谷、ほうじ茶好きだし~」
私は熱いお茶に口をつけた。実際ほうじ茶は母の好物で、実家にいたころからよく飲んでいた。
「一応、お茶請けもあるんだが……」
そういって、提督はおずおずとキュウリの漬物を出してきた。
「あ! 鈴谷これ好きー。意外と合うんだよねー」
「よかった。お茶うけに漬物は、私の故郷では普通なのだが、ぎょっとされることもあってな。……鈴谷の出身も信州だったか?」
「ううん、帝都。お母さんが好きだったんだー」
「ではご母堂が同郷だったのかもしれないな」
「えっと、どうだったっけ。あれ? でもたしか関西の方って言ってたような……」
そこまで言って、私は気づいた。
違う。たぶん逆だ。母は別にほうじ茶と漬物が好きだったわけではない。
ただ、ほうじ茶と漬物が好きだったひとが、好きだったのだ。
「鈴谷?」
また、私の中で直感がささやく。目の前の人とのつながりが深くなる。
「……ううん。なんでもない……」
「そうか。……おかわりは?」
「……ありがとう」
提督がいつの間にか空っぽになっていたお茶を足してくれる。
人のこと、ちゃんと見てるんだなと、私は思った。
この短い時間だけでも、提督の印象が変わっていった。
「さて、それで、当番について話があると聞いていたが……」
提督がいきなり、頭を下げた。
「まず、謝らせてほしい。いろいろと気を揉ませてしまって、すまなかった」
「え? いや、全然そんなのいいけどさ……」
「そうか? 鈴谷は豪胆だな。私なら、新しい職場の同僚たちが上司と関係を持っていると知ったら、おおいに不安に思うところだ。……それもあって、新人にはしばらく内密にしていたのだよ」
なるほどなと、私はうなずいた。
「だが、君は優秀だな、これほど早く勘づいた新人はいままでいなかったよ」
「ううん、そんな、偶然だよ」
「……怖いとは、思わなかったのか?」
「うーん驚きはしたけど、怖くはなかったかな。なんだかんだみんな、幸せそうだったから」
「そうか……」
提督が黙った。お茶を飲むのでもなく、虚空を見つめている。
「そうだと、いいのだがな……」
「……提督はさ、なんでこんなことしてるの?」
私もお茶を飲んでから、一番ききたかった質問をした。
これこそ、私は『当番』になった理由だった。
提督が何を思ってこんなことをしているのか? パパが、父親が、ママ以外の人を抱く理由、それを私は知りたかった。
提督は即答した。
「無論、深海棲艦に打ち勝つためだ」
でも、その答えは私が全然予想していないものだった。
「え? 深海――え?」
「より正確に言うなら、深海棲艦に打ち勝つ『前に』我々が自滅しないため。だな」
「えっと、ごめんなさい。よくわかんない……」
私が困惑していると、すると提督も、自分で難しいことを言っている自覚があるのか、噛んで含めるように言い直した。
「ん。そうだな、どこから話すか。……これは一般には隠蔽されていることだが、実のところ鎮守府の運営というのは、どこもうまくいっているというわけではなくてね。中には内部崩壊しているところすらあるんだよ」
「え、どうして?」
「どこにでもある話さ。人間関係――つまりは愛憎だ」
提督が、戦略や任務を説明するときみたいに愛を語った。
「艦娘は英霊だが、同時にひとりの娘だ。そして提督もまた、ひとりの人間だ。そこには自然と愛情が生まれ、絆が育つ。……それはときに強力な武器になるが。反面、諸刃の剣でもある。愛情は憎しみに、絆は嫉妬にたやすく変わる。私はそんな凄惨な現場をたくさん見てきたよ」
「そうなんだ……」
「ああ、愛、憎しみ、執着、私はそれらは同じ意味の言葉だと、いまでは思っているよ」
「愛情と憎しみが、一緒?」
提督が、とても悲しい話をしている。
でも私にはその言葉が不思議と納得できるところがあった。
『ごめんね〇〇ちゃん。うちにはお父さんがいなくて……』
そう、口にした母の心に宿っていたのはどんな感情だったのだろう。
愛情か、それとも執着か。
「……いまはそうでもないが、昔はずっとひどくてね、提督が艦娘と心中したり、浮気相手を刺すなんて事件もよく起こっていた」
「え、でもそんなニュース……」
「まあ、表には出せない話だな。それに我々も対策を講じて、そんな事件もほとんど起きなくなった」
「それが、提督がしていることなの?」
「ああ」
提督が黙ってお茶をすする。
「若くして戦に取られた娘らの心を安じ、せめてのもの慰安となる。それが私の役目でもあるのだよ。……こんな冴えない男には、ずいぶんと役者不足ではあるがね」
「そんなことはないと、思うけど……」
「ありがとう。鈴谷はやさしいな」
お世辞のつもりはなかったけれど。提督は『さて』と会話を流した。
「質問の答えは、こんなところだな。すまないが個別の事案については答えられないよ。彼女たちのプライバシーにも関わるのでね」
「あ、それは、うん、別にいいよ」
「よかった。……疑問は晴れたかな?」
「うん。正直、全部は飲み込めてないけれど。だいたいわかった」
「そうか。では、鈴谷はどうしたい?」
提督が真剣な顔で聞いた。
「私?」
「ああ、当番は、当然きみにも権利がある。……本当は、もう少しゆっくりと関係を育むものなのだが、ここまで話してしまったからね。私になにを望むのか、考えてみてほしい。それこそ恋人でも、あるいは一切の関係を断つことも可能だ」
その言葉に嘘がないことを、私はもう知っていた。
提督はときに誰かの恋人で、愛人で、セフレで、王様で、奴隷だった。
あるいはただの友達だったり、趣味の仲間だったり、まったくの他人だったりもした。
――では、私は?
「なに、急ぐ必要はない。こうして茶を飲んで、気が合うか探っていくのもいいだろう。そのあたりは普通の人間関係と同じだ」
「……ううん、大丈夫だよ提督。鈴谷、もう決めてるからさ」
そして私は、帰ることのできない道へと踏み出した。
「鈴谷、提督とセックスしたい」