リンズ姫がズオウ様にあんなことやこんなことをされて可愛がられちゃうお話 作:buitre
「きっ……、きゃあああああああああ!!!」
視界いっぱいに広がった喜色満面の髭面。起き抜けに濃い顔がどアップになり吃驚のあまり人生で一番の大声で叫んでしまった。空間を切り裂くような悲鳴が響き渡る。
堪らず顔をぶんぶん振り、両手でガタイの良い裸をぐいぐい押し返し、手足をばたつかせた。
何でここにこの男がいるのか。ヒサメはどうしたのだ。やっと会えたのだ。やっと会えて積年の想いを交わそうとしていたのに。でも寸前で邪魔をしたのは全ての元凶の男である。
天上から奈落へ一気に突き落とされた気分である。
「なんで……何であなたがここにいるんですか! ヒサメ、ヒサメは何処ですか!? ねえ、ヒサメは!? ヒサメを何処へやったのですか!? ヒサメと……する所だったのですよ! ヒサメを返してえ!!」
「ククッ。妻よ、そう驚くでない」
リンズはなり振り構わず叫び、死にもの狂いで押し返すが、ズオウは不敵に口端を吊り上げるばかり。全く堪えた素振りは無い。それどころか打って変わって真剣な面持ちになるとにべもなく言い放った。
「リンズよ、何を言っている。お前はここで気を失った。ゆえに介抱してやったまで。よく周りを見てみるのだな」
「えっ………」
取り乱すリンズに対し、言い含めるズオウ。この温度差にはっと我に返った。
周囲の様子を伺うと――
行燈が照らし出す橙に木造りの壁板。だだっ広い湯船。先まで見通せ無い位の湯煙に覆われた通路。反響する湯音。
馴染みのある光景――湯場だった。見渡せる位置に座っていた。ズオウも元通り腰に布を巻いていた。
……漸く思い出した。自分の身に起こった事や置かれた状況を。
そうか……。
急に実感が増してくる。そう言えばズオウに命令されて湯に来たんだった。
では、ヒサメは? 夢だったの? あんなに間近にいたのに?
頭の中が整理出来ずにぼうっとなっていると……。
「………………!」
こうなった直前の出来事が不意に思い出され、瞬時に顔が燃える。
最悪……。
ズオウの不潔なものを撃ち抜かれた額を湯衣の袖でゴシゴシ擦る。あんな真似、人としてあり得ない。カーッと怒りが込み上げる。でも――
付かなかったのだ。アレが。生臭く黄ばんだアレが。
あ、あれ……? やっぱり夢……だったの?
――な、訳無い。だって間違い無くこの身に起きた事だから。気持ち悪い感触が額に残っている。
でもベタベタしていた手指も今はその形跡も無い。
違うの……!?
キョロキョロと周囲を見渡し、何度も目を瞬かせる。
慌てふためくリンズの様子を伺っていたズオウがククッと喉を鳴らした。
「しっかりと覚えていたな。安心しろ。お前が気を失っている間に諸々の処理は済ませておいた。分からなかったろう」
……つまり、ズオウに掛けられたのは本当なのか。奴の好きなようにさせてしまったという事だ。不覚だ。ズオウが言うように、はだけられてしまった身なりも整えられ、恥辱の跡形も無い位に顔面も綺麗さっぱり拭かれていた。でも、唯一真っ白い湯衣の衿元が黄ばんでいたのが惨事の跡を物語っていた。何だか何処となく、生臭い……。気持ち悪い。でも脱ぐ訳にもいかない。
ん………? でも、という事は―――!
「み、見たのですね?」
「何をだ」
「惚けないで下さい。私の、は……裸に決まっているでしょう!」
「何だそんな事か。安心しろ。中までは掛かっていなかった。しっかり拭いて緩んだ所を整えただけだ。それでも起きなかったからな、余程堪えたようだな」
ズオウは面白いものを見たといった風に嗤う。ひどく場違いだ。やはりとんでもない男だ。
「……何ですか」
「
「放っておいてください! 嫌なものは嫌なんですっ」
「であるか。だが驚いたぞ。突然目の前で反応が無くなったのだからな。死んだかと思ったぞ」
いっその事死んでしまって良かったのに……。そうしたらみんなに会えた。
「まあ良い。己の立場を弁える事だ。逆上せたようだったからな。夜風に当ててやろうとここまで連れてきてやったのだ。どうだ、そろそろ体が冷えた頃だろう」
どうりで最後に記憶にある場所とは違った所にいる訳だ。
換気口――ここに唯一ある外気の通り道である。その扉が全開になっていた。意識すると途端にひんやりとした夜風が肌を掠め、火照った体を芯から冷やしていく。気持ちいい。
今、その換気口の傍の壁に凭れ掛かるような体勢で座っていた。
「ククッ。お前面白いな。国王にここまでさせた女はお前が初めてだ。感謝する事だな」
「押しつけがましく言わないで下さい。頼んでいません」
「ほう。ならば素っ裸にして外にほっぽり出すか」
「なっ! ……だぁれが……思い上がるのも――、うっ! ……ごほっげほっげほっ……」
咳込んでしまった。まだ言い終わって無いのに。喉が張り付いて上手く喋れなくなる。こんな時に……。
そう言えば――
介抱……?
つい今し方この身に降り掛かった事は一体何だったのか? あの黒闇や女達や……、色々聞きたい事はあったが、この際どうでもよい。でもこれだけは確認しなければならなかった。この世で一番愛している人。彼は確かに目の前にいた。
咳が出ないよう、声を荒げないように努めて冷静に言う。
「ヒサメは……? ヒサメはどうしたと言うのです」
だが、ズオウは平然と返してきた。トチ狂ったのかと言いたげに眉を顰めながら。
「ヒサメ……? 余は知らぬ」
「えっ!? 何を……? そんな訳無いでしょう!? ふざけた事を――げほっごほっほっ」
相変わらずだったが大声で詰め寄った。そうならないようになんて言ってられなかった。
ヒサメを知らない? そんな訳無い。確かに彼は傍にいたのだから。ありありとした感触を伴って。
そんな苦し紛れの捨て身の詰問も虚しく、ズオウは超然と言ってのけた。少しばかり、苛ついた響きを伴いながら。
「本当に余は知らぬのだ。言ったろう、お前が突然落ちたと。幾度同じ話をさせれば気が済むというのだお前は。その格好、分かるだろう。まだ不服と申すか」
「…………………」
この状況とその前の記憶、さすがに認めざるを得ない。
「それにしても良く眠っていたな」
眠っていた? 総ては夢だったというのか。あんなに近くにいてあんなに温かな感触だったというのに……。
突如湧いた疑念に頭を悩ませていると、ズオウが、「おおっ!」と感嘆の声を上げた。
「ヒサメ……、思い出したぞ。あの余に討ち取られた若人か。敵ながらあっぱれな最期であった」
「っ」
いちいち癪に障るが、取り合うのは駄目だ。この男の思う壺である。
「……帰ります。離して下さい……」
「何を言う。随分な時間余を待たせておいて。もう一度言うが、ここまで余がやってやったのはお前が初めてだ。さて、続きをするか」
……既に終わったのでは無いのか。
思いも寄らず素っ頓狂な声が漏れ出てしまった。
「……は? 続き……?」
「当たり前だ。まだ背が終わって無いだろうが」
背……?
倒れる前の記憶を呼び起こす。
そういえばやってなかった。というより、こんなに長時間自分でやらないで待っていたと言うのか。呆れた。
「そんなのご自分でやって下さい」
「散々待たせておいて何を言うか。この期に及んで拒否とは」
「当たり前でしょう! そのためだけに――、って、ごほっ! ごほっごほっげほっ……!」
「またか。ムキになるからだ。お前、ここに飲まず食わずでずっといたからな。渇いているのだろう。咳き込むのも当たり前だ。夜風に当たってもそんなに喋ると無駄だったか」
ズオウがほれ、と差し出してきた。それはリンズの両手でも十分に余るような大きな木椀だった。
「気付けの水だ。欲しいだろう。用意しておいたぞ」
大椀になみなみと注がれた透明な液体。匂いも無い。確かに水のようだ。今何よりも体が欲している物だ。
リンズは奪い取るように受け取った。サッと口を付ける。しかし――
「…………………」
息を止めて飲み込む寸前で逡巡した。そんな事を言って実は変な物が混ざっているのではないか。危ない。この男ならあり得る。
ズオウはそんなリンズの疑惑を見透かしたように、ひとつクッと息をついた。意外にもいつものように小馬鹿にした嗤いでは無く、ニッと口角を上げた笑いだった。
「安心しろ、本当にただの水だ。お前が心配するような物は入っていない。余は相当信用されていないのだな。悲しいぞ、妻よ」
……色々と言いたい事はあるが、もう止めだ。そんな事より、水と言われれば飲みたい位に渇ききっていた。
リンズは椀に口を付け、澄んだ液体を喉に流し込んだ。ゴクゴクと爽快な音が鳴る。
――間違う事無く水だった。それもキンキンに冷えていた。渇いた体の隅々まで沁み渡り、清涼感が全身から突き抜けていく。この心地良さは風に当たるより遙かに高い。
「フフッ、よい飲みっぷりだな。もう一杯どうだ。遠慮は要らぬぞ」
「……貰います」
「素直で良いな。――ほれ」
初めから用意してあったのか、傍にあったもうひとつの大椀を渡してくる。
ズオウに借りを作るなんて……、屈辱だ。でも拒否出来ない程体が欲していたし、止められなかった。欲求のまま二杯目を貰う。
「中々良い飲みっぷりだったな。そろそろ渇きが治まった頃だろう。もう良いか?」
「……いいですっ!」
見世物芸でも鑑賞しているようにニヤつくズオウに気色ばむ。が、借りを作ってしまったのは紛れも無い事実だ。こんな男に。仕方が無かったとはいえ本当に悔しい。
「ん、それは良かった。さて――」
ズオウはリンズから受け取った木椀を脇に置くと、向き直る。
「では、続きをやって貰おうか」
そう言って歩き出し、先程から放置されていた木椅子を持ってくるとドカッと腰を掛けた。
――――無防備に背を晒しながら……。
「そこにあるだろう。それを使え」
リンズが持参した白布が湯船の隅に置かれていた。リンズはそれを黙って手に取ると、ニヤリと彼女にしては醜悪な表情を浮かべた。ここまで来れば引く理由など無い。
むろん背を流すように見せかけて、
「ほれ。ボサッとしとらんで早うやれ」
相変わらずやって貰っているのにズケズケ言いのける。感じ悪い男だ。
でも今日で全てが終わる。漸く……、漸く苦しかった日々から解放されるのだ。
(ふふふっ……。バカな男……)
見てなさい。お前の命はこの後一瞬で散るのだから……。
リンズは黙って進み出た。
**
『リンズ様、これは好機です。湯場で奴の背後を取り、奴が無防備になる時。これを使わない手はありません。奴の後ろ頸に簪を突き刺すのです』
先刻、イロハはそう言った。
湯場に行く前に特製の先端を鋭く研いだ象牙の簪を渡すからひとつに纏めた髪の中に隠し、その時が来たらひと息で仕留めるよう思いっ切り突き刺せと。先程目が覚めた時、髪の中にちゃんと収まっているのが分かった。髪が長くて量も多いから助かった。外からは絶対に見えないようにキチンと纏めたのだ。それが幸いしたか。髪を弄られた感触は無いからズオウにも気付かれてはいまい。
やはり戻らなくて良かった。冷静に考えると、こんな好機は何度も無いし、散々ヤラれておいて諦めるのも腹に据えかねる。
ズオウから見られないのを良い事に、リンズはまた唇を歪めた。
けれど、いざこの場に立つと緊張してくる。白布を持つ手が小刻みに震え、蝋で固まったように体が動かし辛い。鎮まれ。鎮まれ。反対の手で必死に押さえる。
ごくり…
唾を飲む音が聞こえた。落ち着け、焦るな。機会は一度だけだ。殺意に気が付かれては駄目だ。背を洗うつもりで何気なくやれ。失敗は絶対に許されない。頭の中で何度も来たるべき場面を想像する。
――前面をやった同じ要領で背を洗い流し、変わらない素振りを見せ付ける。頸の段になって洗うフリをしながら何気なく、自然と奴が気を抜いた所を何事かと思わせる事無く、素早く渾身の力で頭と頸の間を突き刺す。奴が一瞬ウッと痛苦に呻く。何が起こったのかと振り返る間も無く、前に崩れ落ちる。ドシンと巨体が崩れる。頸の脈に触って消失した事を確認し、ひっくり返して瞳孔が開ききっているのを確認する―――。
何度も予行を重ねていると、自信が出てきたのか次第に心が安定してくる。遂にこの男が無様に死に果てる姿が見られるのが嬉しくて仕方が無い。徐々に余裕が出て押さえつけなくても体が言う事を聞いてくれるようになった。
――…よし、大丈夫!
リンズは決意を露わにし、先程のまま張ってあった木桶の泡に白布を浸した。
**
しゅるり。しゅるり。しゅ、しゅ…
膝立ちになって大きな背を左手で擦り上げる。下から上に、また下に……と繰り返す。
リンズの殺意など露知らず、ズオウは気持ちが良いのか全身の力を抜き、無造作に足を曲げ太腿に両手を預けた姿勢になっている。
さっきから黙ったままだったズオウが口を開く。こちらに構わず言いのける。いかにもな独り言だ。
「奴は阿呆だな」
「…………………」
「ミズチの奴だ。奴が此度の戦で負傷したのは聞いただろう。奴め、何故そんなヘマをしたと思う? 言っておくが、戦中では無いぞ。我が軍が勝利し、帰りの道中にて石ころに躓き骨を折ったのだ」
成程。そうだったのか。
この男にしては珍しく憎々しい言いざまだった。
「単にいち雑兵ならまだしも十辰星だぞ。
ズオウの小話はその後も続いた。こんなに雄弁なのも初めてだ。いっその事この隙にがりがり力を入れてずり剝けにしてやろうかと思った。でも、直ぐに諦めた。そんな子供騙しが通用する相手では無い。些細な事でも後の計画の邪魔になるような真似をして自滅したくない。
「しかし上手いなお前。力加減が良い。姫だった割に結構やっていたのか」
「……知りませんっ。黙って洗われてくださいっ」
苛つく。早く殺ってしまいたい。
落ち着け。失敗は許されない。この男の調子に巻き込まれるな。
「ん…………」
意外にもズオウはそれ以上減らず口を叩かず、本当に黙してしまった。湯音に混じってしゅりしゅりと布が擦れる音が大きく聞こえる。
ふとズオウが言う。僅かに俯きながら。
「げに良きものであるな」
勝手に言わせておく。最初から返事を期待していないだろう。
「夫婦水入らずでの風呂だ」
「何ですって!?」
聞き捨てならなかった。間髪入れずに声を荒げてしまった。普段なら意思で無視出来るのに無理だった。こうなった元凶の体なんか洗わされているし、何より夫婦での風呂だなんて夫婦仲を象徴するような単語ではないか! さすがに嫌だった。
「あなたとは夫婦ではありませんっ!」
「ほう。では何だと言うのだ。余の妻だからこそこの待遇なのだぞ。敗れた国の王族など普通畳まれて処刑だからな。お前の父王どものようにな」
「………………っ」
逐一苛つかせてくる男だ。でもここで言い返しても話にならない。
抑えろ。抑えるんだ。
「ところで、今『あなた』と言ったな。先程も呼んでいたが」
「……そうですけど何か?」
「嬉しいぞ。妻よ。実に夫婦らしい呼び名だ」
「~~~~~~ッ」
その『あなた』では無い。……いや、分かっていて嫌がらせで言っているか。もう嫌だ。早くとっとと終わらせたい。
空いている右手で拳を作り、グッと握り締める。雑念を振り切るように集中する。
『姫だった割に上手いな』
余計なひと言が頭にこびりついてしまっている。意外と心にグサリと突き刺さった言葉であった。こんな時だし昔の事だったからずっと記憶の小箱の底にしまい込んでいたが、不意にその蓋が開いたのである。
(この背………)
子供の頃、慣れ親しんだ背。
横幅があって分厚い。筋肉の鎧みたい。
その背に、その堂々とした威風に、遥か昔の記憶が呼び覚まされる。
(父様…………)
そう。この男に屠られた亡き父にそっくりだった。
***
『とうさま、かあさま。わたしおおきくなったらけっこんします』
『おう。どうしたリンズ。なら俺と結婚するか?』
『とうさまにはかあさまがいらっしゃるでしょう?』
『まあ、この子ったら……』
『はっはっはっ! いいぞ、そうだリンズ。お前は賢いな』
『わたしおうじさまとけっこんするんです。とうさまみたいにおせなかをながしてあげるんです』
『はっはっはっはっはは! そうか。いいぞ、リンズ。やってやれ』
『リンズっ、殿方と湯だなんてはしたないですよ。この間で終わりになさい。父上に褒められたからと言って次はありませんよ。あなたはわたくしや姉上、侍女と入りなさい』
『いいじゃねえか。そう固い事言うな。王の俺が誘ったんだ。この間は上手かったぞ、リンズ。またやってくれるか?』
『はい!』
『殿………』
『気にするな。今のうちだけだ。それとな、リンズ。お前は姫だからな。将来は婿だ。この海よりもでっかくて強い、心意気のある男を付けてやる。俺みたいにな。はーっはっはっはっはっ!』
『はい!』
「リンズ、婿が出来たら背を流してやれ。喜ぶぞ~」
『はい! いっぱいやってあげます!』
『よし! また後で風呂だ。リンズ、早速やってくれ』
『はい!』
『あの……』
『だからいいんだよ』
『ねえかあさま。かあさまはとうさまにこいをなさっているのですか』
『まあっ、なんて事を聞くのですっ』
『ははは面白いな。恋か……何処でそんな言葉聞きつけてきた』
『きのうよんだおはなしにかいてありました』
『おう。お前マセてるなあ。そうか、恋か……。そうだな。俺は王子だったからお前とは違うが俺は妃に貰った母に恋したぞ。このでっかい海と同じ位にな、って俺が答えたら駄目だったか。まあ良いよな。はーっはっはっはっはっ!!』
『殿、そのようなお話をリンズの前で……』
『こいなのですね! とうさま、だいすき。かあさま、だいすき。ずっとずっと……だいすき!』
***
呑気に楽しかった頃の記憶を思い出し頬を緩めてしまう。この男の前で。暗殺を行う前にして。こんな時に何をやっているのだ。でも想起してしまう位にそっくりなのである。背格好といい、体格といい。むろん、父は如何なる時でも豪快で鷹揚で男らしく頼もしかったが、この男は執着は酷いし、欲しくなったら何が何でも手に入れようとするし女性好きだし性欲凄いし血も涙も無いしで碌でもない。仇敵で無かったら関わりもしなかっただろう。
それなだけに憎い。この男が蒼海を滅ぼさなければ今でも家族に、民に囲まれて笑って歌って毎日が幸せだっただろう。愛する
ヒサメ……
あなたと出会って恋に落ちてからはあなたを想って毎日歌って、あなたがいなくなってからはあなたを想って毎日泣いていた。
憎い。この男が憎い。国を、民を、大切な者達を殺め奪った仇。そして大事にしてきた秘めやかな“女のいのち”を奪ったこの男。断じて赦さぬ。行き場の無い思いを悶々と抱え、花園の女達の蔑みに耐えながら
――そして、その時は来た。
カッ…
リンズの眼が大きく開かれる。
いつになく眦が吊り上がり、目元に皺が寄る。優美に弧を描いていた口元は著しく裂け、ほっそりとした頸には幾重にも筋が張る。
平素醸し出される春の息吹を思わせる柔和で可憐な少女は何処にもいない。そこにいたのは全身を総毛立たせた並々ならぬ凶相――メラメラと復讐の業火を総身に纏わり付かせた宛ら修羅がごとき鬼女であった。
背を洗う手はそのままに右手を髪の中に差し入れる。素早く立ち上がり簪を逆手持ちで抜き取る。
頭の上部で纏めていた紐がほどけ、バサッと重々しい緋の髪が解放される。
ギラリ…
簪の先端が行燈の光を受けて鈍く輝く。
ズオウの頭と頸の境目に向けて渾身の力で一直線に刺し貫く―――!
―――終わりだ………!! 死ね!!!