ガチャ。
今、運命の扉が開かれる。
僕はパンツとジャージのズボンを超特急で穿き直し玄関に向かってダッシュすると、ずざざぁとフローリングの上を滑りながら土下座待機した。
「ただいま」
父さんの履いた革靴の音が玄関のタイルの上で硬く鳴り響く。
カツ……カツ……
僕の心臓がきゅーっと縮み上がる。
「ん? 玄関で何してるんだ、和志?」
「お帰りなさいませ、父上。切腹の覚悟はできております」
「はぁ? ……なんか悪いものでも食ったのか? トイレに行ってウンコでもしてこい」
「はっ! 拝命いたします。トイレでウンコをしてきます!」
助かった!!
父さんは
「…………和志、お前時々変になるけど今日は輪をかけて変だぞ? 大丈夫か?」
「はははっ! たった今、大丈夫になりました父上!」
嬉しくなってきてフローリングの床に額をゴリゴリと擦り付ける。
「…………まあいいけどさ。そういえばさっきそこで
「ひぃ!」
僕の口から、アスファルトの上でトラックのタイヤに轢き潰されたカエルのような悲鳴が漏れた。
「うーん……ジャミラって言っても分からないか……ウルトラ怪獣に、こう首がなくて肩に頭が埋もれてるようなフォルムの怪獣がいてさ?」
「ウルトラ……怪獣?」
父さんが両腕を肩の横あたりまで持ち上げてゾンビが盆踊りするようなポーズを取った。
「こんな感じでジャージの上着の中に頭を引っ込ませた状態で俺に向かって突っ込んで来たんだよ」
「は?」
何してんの、己紗。
「いやもうびっくりしてさ。顔は見えなかったけどあの娘って和志のクラスの女子だよな。うちに遊びに来てたのか?」
「う、うん。来てた」
「そうか、和志もなかなか隅に置けないな。それはいいんだけど、その娘、お臍丸出しでパンツもちょっと見えてたし、悪戯にしても訳わからんし、あんまりお転婆しすぎないようにって和志からも言って上げなさい」
「う、うん……」
父さんがマスクを外しながら、土下座する僕の横を通ってリビングに入っていく。
き、切り抜けたのか!
よく分からないけどナイス機転だった、己紗!
心のなかでガッツポーズして天井に向かって無言で雄叫びを上げる。
ドサッ
「ドサッ?」
土下座したまま振り返ると、父さんがリビングの床に倒れていた。
◇◇◇◇◇◇
「
受話器を下ろしてすぐに父さんの横に移動する。
石辺先生に言われたように、うつ伏せに倒れていた父さんをゆっくりと横に向いて寝かせてネクタイを緩める。
嘔吐した場合、気管に詰まらないようにする姿勢らしい。
そうだ、ベルトも緩めておかなきゃ。
僕の目の前で父さんが意識もない状態で、はっはっと激しく息を乱して顔を歪ませている。
僕の両肩に凄く重いものが乗っているような、お腹の奥がぎゅーっとして焦る気持ちだけが空回りしている。
喉がカラカラに乾いてしまっている。
「そ、そうだ。脈を測っておこう」
測ってそれでどうなるのかも分からないけど、何もしないではいられない。
時計の秒針を見ながら父さんの手首に指先を当てて、脈を数える。
1、2、3、4、5………62、63、64、65…………
「110!?」
こ、これ、多いよな?
改めて父さんの顔を見ると、大粒の汗が額に浮かんでいた。
「と、とりあえず汗くらいは拭いておこう」
キッチンでタオルを少し濡らし、冷たいタオルで父さんの顔を拭いて、首筋の方まで拭っていく。
だめだ、これ以上何をすれば良いのか僕には思いつかない。
◇◇◇◇◇◇
ピンポーン♪
来た! 石辺先生だ!
「開いてます! 入ってください!」
言った瞬間、白衣を着た石辺先生がカバンを手に部屋の中に駆け込んできた。
「お父さんは!?」
「ずっとこの状態です。息が乱れてて、意識がないんです」
石辺先生が父さんの横に膝を付いて座り、首筋に手を当てている。
「和志くん? お父さんはどんな風に倒れたの? 倒れた時に頭を打ってたかどうか分かる?」
「す、すいません。父さんが倒れた時に僕は土下座してて見てなかったんです」
「土下座? え? 土下座!? ……家庭の事情はよく分からないけど、まあ見てないなら仕方ないわね」
父さんの口の前に手を翳しながら、石辺先生がなぜか周囲をキョロキョロと見渡し始めた。
「和志くん? お父さんが倒れてから何分くらい経ってるの?」
「じ、10分くらいかと」
「10分……」
僕の返事を聞いて石辺先生の表情が深刻なものに変わり、焦ったように父さんの周囲を歩いて何かを探し始めた。
やがてテーブルの下に落ちていたマスクを見つけて拾いあげると、すぐに父さんにマスクを被せた。
「せ、石辺先生。父さん、息が乱れてるからマスクは邪魔になるんじゃ……」
「いいえ、これでいいの。和志くん、倒れる前のお父さんの様子を教えてくれる? 足を引きずったりフラフラしていたりしなかった? もしくは喋りにくそうだったり?」
「……いえ。足元はしっかりしてたし……喋るのも普段と変わりなかったです」
石辺先生が考え込んでいる。
「お父さんは糖尿の検査を受けたことがあったりする?」
「いいえ、ありません」
「……そう。やっぱりお父さんは私の診療所じゃなく大きな病院で診てもらう必要がありますね。救急車の手配を私の方でするから、和志くんはお父さんの下着やタオル、保険証なんかをカバンに詰めてくれる? 財布や印鑑なんかも用意して。多分入院することになるから大急ぎでお願い」
「え、あ、はい。分かりました」
「あと、しばらくこのリビングには入らないようにしてね」
「え? なぜ?」
「いいから」
「は、はい。分かりました」
◇◇◇◇◇◇
父さんの部屋で下着を何着かと普通の服をカバンに入れて、他にタオルや細々としたもので必要になりそうなやつも放り込んでいく。
父さんの部屋のどこに何があるかなんて分からないから結構時間がかかった。
カバンを持ってリビングに戻ると、父さんの横に座っていた石辺先生が口元をハンカチで拭きながら、僕を振り返った。
「準備ができたのね。救急車はまもなく到着する予定よ。それにお父さんの容態が少し落ち着いたわ」
「ほ、本当ですか?」
慌てて父さんを見ると、意識がなくても苦しそうな表情だった父さんが、呼吸が落ち着いているし、普通に眠ってるように見える。
「よ、よかった……」
「いいえ、良くはないのよ? 予断を許さない状態なのは確かなんだから」
「は、はい」
それから少しして、サイレンの音が近づいてきて宿舎の玄関に救急車が到着した。
救急車から降りてきた女性隊員二人が手際よく父さんをストレッチャーに乗せて、あっという間に救急車に運び込んだ。
「ほら、和志くん。貴方も救急車に乗り込むのよ?」
「あ、そうか!」
倒れた父さんを一人になんてしておけない。
家族は僕しかいないんだ。
「あ、そうだ。石辺先生も一緒に?」
「ごめんなさいね、私は行けないの。診療所があるしね」
「そ、そうですよね」
よく考えたらこれから大きな病院に行くんだ。不安だからって石辺先生を付いて来てくれとお願いするのは無理が過ぎる。
「石辺先生。今日はありがとうございました!」
救急車に乗り込みながら石辺先生に頭を下げる。
僕一人じゃ何もできなかった。
「ええ、気をしっかり持ってね。蓮ヶ集中学校やそちらの関係者にも私の方から連絡を入れておくから和志くんは心配しないでいいわ」
「あ、ありがとうございます」
そうか、学校のみんなにも知らせなきゃいけなかったのか。
──そして、父さんと僕を乗せた救急車は夜の山道を猛スピードで駆け抜けて、静岡の浜松市にある赤卍字病院まで運んでいった。
◇◇◇◇◇◇
父さんはすぐに救急病棟に運び込まれた。
症状については救急車内で救急隊員の人に説明したことが全て病院到着時には医師に伝わっていて僕が改めて説明する必要は無いらしく、僕は病院の廊下で看護師さんに色々と症状以外のことについて説明した。
父さんの健康保険証とお薬手帳を渡すと看護師さんはちょっとびっくりしていた。
「健康保険証はともかく、救急車で運ばれてきた患者のご家族がお薬手帳まで持参してるのは珍しいのよ? 和志くんは子供なのによく気がつくのね」
そう言って看護師さんが僕の頭を撫で始めた。
……そこまで子供じゃないんだけど。
撫でるのやけに長いな?
看護師のお姉さんを下から見上げるとちょっと顔が赤いし妙に嬉しそうにしてる?
「あ、あら。ごめんね? つ、つい……。そうよね、頭を撫でられるような歳じゃないよね。ごめんね和志くん」
そのままこの看護師のお姉さんにこの後父さんがどうなるのか、教えてもらった。
バイタルが比較的安定してるのでまず頭部のCTスキャンと胸部のCTスキャンを撮影して診断するらしい。
父さんに対して行われる診察について家族である僕が承認する必要があるので承認した。
「父をよろしくお願いします」
と言った後、僕はすることが無くなった。
入院するような経験を僕はしてなかったからなんだけど、病院って宿泊施設が無いものらしい。
看護師のお姉さんが病院の廊下で椅子に座って待っている僕に妙に親切に僕に教えてくれた。
救急車で運ばれてきた患者の付き添いの人なんかは、最初の引き渡しがが終わると、治療が長引く場合は外でホテルを借りたりするらしい。
まあ例外はあるみたいなんだけど。
父さんのことはとても心配だけど、救急車の中では意識が無いことを除けば全然苦しそうにしてなかったので、なんとなく大丈夫なんじゃないかと僕は勝手に思ってる。
病院の廊下で2時間くらい何もできないままひたすら待ってると、あの看護師のお姉さんが僕に近づいてきた。
「和志くん? 東京からこの方たちが
病院の廊下を観察するのに夢中になってた僕が顔を上げると、スーツを来た30代前半の男性と20代半ばくらいの女性が立っていた。
んー面識はないな。
「どちら様でしょうか?」
「私は
そうなのか。
石辺先生の名前が出てるってことは嘘じゃないんだろう。
「父がお世話になっております。息子の和志です」
「いや、よろしく、和志くん。今回お父さんが大変なことになったね。ご家族が子供の君だけだと大変だろうし、ここで一緒に待っていてもいいかな?」
「もちろんです」
心細かったのは確かだ。
実際これからどうすればいいのかなんて僕は何も考えていない。
「さっきそこの自販機で買っておいたんだが、オレンジジュースでも飲むかね? それともお茶の方が良かったかな?」
「いえ、ありがとうございます。頂きます」
お礼を言った瞬間にお腹が鳴った。
……そういえば晩御飯も食べてなかったな、僕お腹が空いてたのか。
今頃気づいた。
◇◇◇◇◇◇
「和志くん? 先生が診断結果を説明するので来てくれる?」
随分時間がたったような、短かったような。
景山さんと篠原さんと廊下で椅子に座りながら、今の父さんの役場の仕事とか、僕が通う中学校について色々離しているうちに結構時間がたっていた。
「私も一緒に聞いて構わないだろうか?」
景山さんがそう言うと、看護師さんが僕の方を見たので頷いた。
HCU(高度治療室)の札がかかった部屋に入っていくと、ベッドが8つ並んでいる大きな部屋に40代くらいのお医者さんが机の前に座っていた。
「ご家族の方ですね。担当医の丸山です。今回、砠さんの胸部CT写真と頭部CT写真を撮影して、後は血液検査を始め、できる範囲の検査を行いました。あ、座ってください」
椅子を勧められたのでちょこんと座る。
景山さんと篠原さんは僕の後ろで立ったままだ。
ちょっと居心地が悪いかもしれない。
「歩行中に突然倒れられたというお話でしたので、まずは脳卒中の初期診断のために頭部CTを撮影しました。ヒアリングでは、予兆としての歩行異常や顔面の筋肉が上手く動かせないというのは無かったみたいなので、脳の血管が詰まって起こる脳梗塞じゃなくて脳出血を疑ってのことです。脳出血の場合はCTで見逃すことはほとんどありませんし」
丸山医師が僕がちゃんと理解できてるのかな? って感じに首を傾げたので僕は頷いておいた。
「分かります。続けてください」
「結果は脳に出血部位はありませんでした。念の為脳腫瘍も診たんですがありません。ああ、脳梗塞の場合は症状が出てから6時間位たたないとCTで見つけるのはかなり難しいので、こちらについては明日MRIで頭部を検査する予定です。次に胸部CTの撮影を行いました。大動脈解離という病気を疑ってのことです」
「大動脈解離?」
初めて聞く病気の名前だ。
「60代、70代の老人に多い病気なんだけど40代でも起こる病気でね。血管の内膜が高血圧や高脂血症、加齢なんかが原因でこうベロリと剥がれちゃう病気なんだ。措置が遅れたらかなりの確率で亡くなられるんで、その可能性を潰しておきたかったからね」
なんとなく分かったので頷く。
「大動脈解離は心臓から脳に向かう血管か、心臓から下、つまり体に向かう血管で起こるんだけど、剥がれた内膜が血管を塞いでしまった場合、あっという間に意識を失ってしまうんですよ」
……なるほど。
「というわけで胸部CTを診てみたんですが異常は発見できませんでした」
「端的にお聞きします。砠司さんの容態は今具体的に今どうなっているのですか?」
景山さんが僕の後ろから丸山医師に問いかけた。
「今は安定していますね。そこのベッドに寝てもらってモニターし続けているんですが血圧、心拍数、血中酸素濃度、呼吸数全て異常なし。ただ、意識障害で意識がありません。ただし今すぐどうこうという状態ではないです」
「……なるほど」
景山さんは顎に手を当てて何やら考え込んでいる。
とりあえず父さんは無事なのか。
「父さんが意識不明になってる原因ってなんなんですか?」
「不明です」
即答されてしまった。
「不整脈が原因の可能性もありますし、脳梗塞の可能性が無くなったわけじゃないので明日、頭部MRIを撮って診断しますが。不整脈の方も最低でも数日入院していただいて、心電図のレコーダー付けて長期間データを取らないといけません。これからの検査次第ですが……意識障害を引き起こす原因らしきものがちょっと見当たらないんですよ」
「……そうなんですか」
冷静なつもりでいても、父さんはどうなるんだ、僕はどうなるんだと心が全くまとまらない。
自分がなんにもできやしない子供なんだと突きつけられている。
自分の肩に誰かが手を置いたので慌てて顔を上げる。
いつの間にかうつむいてしまっていた。
振り返ると篠原さんが僕の肩に手を置いて心配そうな顔をしていた。
「ただ、自発的眼球運動には異常はありませんし、瞳孔の散瞳もありません。脳波もモニタリングしてるんですが意識障害と言っても身体的には熟睡時の状況に近いんですよ。ちょっと見たことが無い症例なので、断言はできないんですが、ひょこっと目覚めてもおかしくないくらいなんです」
僕が落ち込まないように励ましているんだろうか?
でもちょっと気が楽になったかも。
そうだよ、悪い方に考えすぎてた。
父さんが永遠に目が覚めないと言われたわけじゃないんだ。
「ふーー」
大きく息を吐いた。
「では明日も父の検査をよろしくお願いします」
「……あれ?」
すごく間の抜けた父さんの声がベッドの方から聞こえてきた。
「………………ここはどこだ?」
まるで長い睡眠から目が覚めただけのように、何度も目を瞬かせ父さんが不思議そうな声を出した。
ベッドから体を起こして、のん気そうに周りをキョロキョロと見渡している。
「あれ? 和志じゃないか? んん? ここどこだ? 何がどうなってる?」
「……良かったぁ。父さん、本当に心配したんだからね」
お腹の辺りがずっとおかしかったのに、父さんののん気な声を聞いただけでそういうのが全部消えて無くなっていった。
「え? あぁ、心配って? え? うわっ景山さん!? なんで!?」
父さんが唖然とした表情で景山さんを見ていた。
「砠さん。目が覚めたようで何よりです。いや、本当に良かった」
「か、景山さん、一体なにがどうなって……」
丸山医師がすぐに父さんのベッドに駆け寄って、ゆっくりと父さんをベッドに押し倒した。
変な意味じゃなくて。
◇◇◇◇◇◇
「……………………では…………?」
「……今回……不幸な…………、………了解が……」
「……それで…………アチラ側……合意………………」
ひそひそと話す声が聞こえてくる。
「なら…………和志は…………と……?」
「知らせ…………負担………。……それでよろし………」
うるさいな。
僕は寝ているのにもっと気を使って欲しい。
「ん゛んっ」
抗議の意味も込めて喉を鳴らしてみる。
「……ました。ええ、その方がいいでしょうね」
あ、話し声が止んだ。
抗議が効いたみたいだ。
ごろん、と簡易ベッドの上で僕は寝返りをうつ。
毛布がいい具合に暖かい。
目の前のこの抱きまくらも暖かくて最高だ。
ぎゅーっと抱きしめて、特に柔らかい部分にほっぺたを押し付ける。
ふにゅって音がしそうなくらい柔らかい。
「ぐー」
お腹が鳴った。
そうだ。
父さんがそろそろ朝ごはんのトーストを焼く時間だ。
たっぷりバターを塗って焼き立てを食べるとすごく美味しいんだ。
「……あれ?」
「やっぱり親子ですねぇ」
「……まあ自慢の息子ではありますが、こんなに手が早いとは思ってませんでしたね」
父さんの声が隣から聞こえてきた。
もう一人はだれだっけ?
なんか楽しそうに笑ってるし。
手放すのが名残惜しいけど、抱えていた抱きまくらから手を離して起き上がった。
「目が覚めたか、和志」
「おはよう父さん。なんで父さんが僕の部屋にいるの?」
「……なんでだろうな?」
「ここは病院の個室です。昨夜から入院することになったのですが、思い出しましたか和志くん」
父さんのベッドの横の椅子に座った景山さんが僕に向かって笑いながら説明口調で状況を語ってくれた。
「入院?」
「父さんがな。和志は今日にでも車で篠原さんに蓮ヶ集村まで送ってもらいなさい。週明けに中間試験があるんだろう?」
「篠原さんて誰?」
「おまえがさっきまで抱きついていたその人だ」
振り返ると、僕と同じ簡易ベッドに病院から借りた寝間着を着てすやすやと寝ている女性の姿があった。