ぱちっと目が覚めた。
時計を見ると4時55分だった。
すでに太陽は昇っているみたいで、テントの中はうっすらと明るくなっている。
すごい。
まるでさっきまで起きていたみたいに眠気が全然ない。
「ふぁー、こんなにすっきりと目覚めたのは久しぶりかな」
これが快眠ってやつか。
こんな山の上なのに質の良い睡眠をたっぷり取れたような気がする。
最近は朝目覚めるとAI天子ちゃんの
女の子の身体を勉強すると天子ちゃんと交わした約束を反故にするつもりはないけど、睡眠環境的にははっきり言って劣悪だ。
「おお寒っ。やっぱり冷え込んでるなぁ」
6月の初夏であってもここは標高2600mなのだ。気温は多分一桁台だろう。もうほぼ冬だよね。
僕は暖かい寝袋から這い出るとすぐにダウンジャケットを羽織った。
テントから外に出ると、清涼な山の空気が肺の奥にまで入り込んできた。
「おはようございます」
花胡先生がガスバーナーでお湯を沸かしていた。
僕よりも早く起きてたようだ。
「あら、和くんおはよう。よく眠れたかしら? 寒くなかった?」
「山登りで疲れてたのか横になってすぐに寝ちゃったので覚えてないんですけど、暖かったような気がします。なんか一晩中人肌に包まれてたみたいというか寝袋の性能がいいんですかね。マットもすごくて今日はなんだか腰が軽いっていうか、筋肉痛もないし」
「あー、和くんおはよう!」
「おはようございます」
隣のテントから一枝先輩と捺那先輩が這い出てきた。
一枝先輩が髪を下ろしてる姿は初めて見たかも。
「おはようございます。一枝先輩、下ろした髪もすごく似合いますね」
「えへへー、そう? じゃあこれから下ろしちゃおうかな?」
「それも勿体ないですよ。僕はポニーテールの一枝先輩もすごく好きですし。あ、捺那先輩もおはようございます。あれ、寝癖付いちゃってますよ? ほらココ」
頭の右でピコンって跳ねてる毛を撫でて形を整えてあげる。
「ん、ありがと和くん」
捺那先輩が目を瞑って僕の手の方に首を傾けたので、そのまま手漉きで捺那先輩の髪を整える。
その様子をニコニコしながら花胡先生が眺めてる。
「そろそろみんな起き始めたかな。コーヒー飲みたい人いる?」
「コーヒー苦いからなぁ」
「山の上でみんなで飲むコーヒーって良くない?」
「ミルクと砂糖たっぷりなら」
「ミルクは無いけど砂糖ならあるわ」
「じゃあそれで」
◇◇◇◇◇◇
「美味〜い!」
「美味しいよね」
「ただの食パンなのにね」
サクサクの食パンと半熟の卵の黄身の味が口の中に広がる。
「おおお〜、めちゃくちゃ美味しいです!」
思わず叫ぶくらい美味しい。
砂糖を入れまくったコーヒーを一口流し込む。
インスタントコーヒーの香りが鼻腔を通り抜けて、胃の中からゆっくりと温かさが広がっていく。
みんなで山の上で食べる朝食って最高じゃないか?
幸い、山小屋のテント場には僕たちしかいない。
少々騒いだところで誰にも迷惑がかからない。みんなでわいわい騒ぎながら朝食を済ませる。
「ではそろそろ蓮倉岳山頂に向けて出発しましょう」
みんなで朝食の後片付けを終えた頃、先生が出発を宣言した。
山頂まで行った後、またこのテント場まで帰ってくるので背中に背負うリュックの中身は最小限にしている。
リュックの中は寒さ対策の上着の予備や手袋そしてスケッチブックと色鉛筆だ。
「テントってこのままでいいんですか?」
残った荷物はテントの中に置いているんだけど盗まれたりしないんだろうか?
「残していくけど、ものすごーく運が悪いと盗まれるわ」
「あぁやっぱりそうなんですね」
登山する人が全員善人なんてありえないしな。
「でもこの荷物を全部抱えて山頂まで行くのはかなり難しいわ。なので置いていきます」
そう言いつつ、花胡先生がテントに気持ち程度の意味でワイヤーロックを取り付けていく。
「……では、蓮倉岳山頂に向けて出発します」
「オー!」
全員で円陣を組んで気勢をあげる。
◇◇◇◇◇◇
「うわ、木がほんとに無くなっちゃった」
「茂みみたいな背の低い木ばっかりだね」
テント場を出て稜線に沿ってしばらく移動すると景色がガラリと変わった。
背の高い木が姿を消して見晴らしが一気に良くなり、そして風が強くなった。
風を遮るものが無くなったのだ。
茂みみたいに背の低い木が絨毯のように山肌を覆っている。
「さむいー!」
一枝先輩が山に向かって叫ぶと、ワンテンポ遅れてヤマビコが返ってきた。
くだらなさに思わず笑ってしまう。
下の方に向けていた視線を空に向ける。
東の空にはすでに夏の太陽がかなりの高さまで昇っていた。
山の上だと日の出が早くなるって聞いてたけど、たしかに早い。
山の斜面を白い雲が駆け上がり、それを朝の光が照らしている。
「……すごい光景」
雲海が真下に広がり、海流のように白い雲が足早に流れていく。
陽の当たる山の斜面は緑に輝き、影の部分は黒かと思うくらい暗くなって、その上を白い雲が流れ去っていくのだ。
「はーー、こんな景色初めて見た」
ため息が出そうなくらい綺麗だ。
だけどが吹き付ける風で身体の熱がみるみる奪われていく。
「みんな、汗をかくのもダメだけど、体温奪われないように上着も着込んでおいた方がいいわ」
「はーい」
ゆっくりと足元を確認しながらみんなで一塊になって山道を進んでいく。
「……改めて曇って水蒸気なんだなって」
「分かる」
山道を歩きながら周囲を観察する。
スケッチのための高山植物をみんなで物色しているのだ。
「でもなんか空気が澄んでる感じしない?」
「それは気圧が関係してるのよ。気圧の低い場所には細かな塵や微粒子はなかなか上がってこれないのよ」
「へー」
「だから遠くまで見通せるの」
空気中に塵が少ないからいつもより遠くまで見通せるのか。
◇◇◇◇◇◇
「かっちゃん、この花まるで線香花火みたい」
己紗が僕に茂みに生えていた高山植物を指差した。
「ほんとだ、星型の白い花が綺麗だね」
白くて細い花びらが多角形に突き出しているのと、丸い蕾のものが密集してて己紗の言うようにまるで花でできた線香花火のようだ。
どうやらこれが気に入ったらしく己紗と天子ちゃんが高山植物の傍に座り込んでスケッチを始めた。
「これ、名前はなんて言うんだろ?」
「それはイケマっていう高山植物ね」
花胡先生が横から覗き込んで答えてくれた。
「花胡せんせー、これってスマホで写真撮って後で絵に描き起こすのってだめ?」
「一枝ちゃん、流石にそれは無いわ」
隣りにいた捺那先輩がすかさずダメ出しをする。
「僕もそう思います、一枝先輩」
一枝先輩は絵が得意じゃないから気持ちはちょっと分かるけど流石に無い。
江莉夏さんと祐里佳さんは少し離れた場所に咲いている紫色の花の前に座り込んでいる。
どうやら全員がしゃがみこんでスケッチを始めたので僕もこのあたりで描きたい花を探そうかな。
「──お、この黄色い花が綺麗だな」
「あら、それはイワベンケイって言うのよ?」
「へー」
スケッチブックの隅に花胡先生が教えてくれたようにイワベンケイって書き、さっそくスケッチを始める。
まずは鉛筆で輪郭を描きながら光の当たる箇所を意識しながら色鉛筆で淡く着色していく。
「……和くんって絵が上手よね。そうだ、みんなが描いた花の絵を教室の後ろに飾りましょうか?」
そう言いつつ花胡先生が僕の隣に座り込んで一緒に描き始めた。
「良いですね、それ」
同じ花を描いてるけど先生とは見えてる角度が違うので、先生と僕の絵はかなり違ってきてる。
同じ花なのに先生と僕は違うものが見えてるんだ。
先生だけじゃないな。
他のみんなと僕でも見えてるものは違うんだろう。
スケッチに限らない。きっと他の色んな事でも多分そうなんだ。
でもこうやって一緒に絵は描ける。
東京の学校で何百人も同級生がいた時より、蓮ヶ集中学校の数人しかいない今の方がなんだかそういうことが分かるようになってきた。
首を上げて花胡先生のスケッチしている絵を覗き込むと、先生が恥ずかしそうにしてる。
一枝先輩よりちょっとマシなレベルだった。
花の絵を何枚もスケッチしながら、なぜだか楽しくてにやにやと笑ってしまう自分を抑えることができなかった。
◇◇◇◇◇◇
「到着〜」
「やったぁ!」
「ほら、山頂の石ってこれだよ!」
「東、見て東! 富士山が見えるよ!!」
「ほんとだ! 雲の中から突き出てるね、富士山」
山の影になって見えなかった東側の風景が山頂に到達して始めて見えるようになった。
雲の向こうに本当に富士山が見えている。
「おおお〜〜見える、見える」
やばい、登山ってこんなに楽しいんだな。
いや、みんなで登ってるから楽しいんだ。
ぐるりと周りを見渡す。
360度パノラマだ。
東に富士山が見え、北は遠く北アルプスが見える。真ん中に見えるのは中央アルプスか。とにかく大きいな、地球が本当に丸く見えるぞ。山の名前なんか分からないけど帰ったら絶対調べよう。
くるりと自分たちが登ってきた西を振り返り、そして南を見た。
「ん?」
「どうしたの和くん」
「南の方なんですけど、あの山の…………ほら、あの辺りおかしくないですか?」
山の向こうの曇に違和感を覚えた。
あの辺りだけ雲の形が不自然だ。
まるでその部分だけ周りから切り取られているように見える。
「……乱気流でもあるんじゃないかしら?」
花胡先生も少し首を傾げてるけど、そうか、風が一方から吹くばっかりじゃないよな。
気にし過ぎか。
「ねえ! 富士山をバックにみんなで写真撮ろうよ」
江莉夏さんが富士山を指差しつつみんなに提案する。
「さんせーい!」
「蓮倉岳山頂の標識を真ん中にしようよ」
「あつまれー!」
みんなテンションが高い。
「誰が写すの?」
そこで捺那先輩の一言でみんなが凍りついた。
写す人だけ写真に入れない。
「全員が交代交代に写して後で合成する?」
一枝先輩がそう言うと、みんなから集中砲火を浴びる。
「合成はないわ」
「なんでそういう発想になるのよ?」
「流石にちょっと……」
見かねた花胡先生が苦笑いしながら提案する。
「石を積み上げてそこにカメラを乗せれば大丈夫じゃない? そうすればタイマーで写せると思うけど」
「あ、そっか」
手に持って写すか、三脚が必要だって思い込んでた。
「いっくよー、はい、チーズ!!」
カシャ!
タイマー設定に従ってみんなの集合写真がきれいに写った。
「おおー綺麗に映ってる!」
「ねぇ、これ大きく印刷して教室に貼らない?」
「いいね!」
みんなのテンションが高いまま落ちてこない。
「ねぇ! もっと写真撮ろうよ!」
「おっけーおっけー、撮りまくろう!」
一枝先輩と捺那先輩が山頂であちこちの方角に向けてポーズを取って自画撮りを始めたので注意した。
「危ないですよ?」
ここは山頂なのだ。
足元を疎かにしたら転びかねない。
◇◇◇◇◇◇
「はい、みんな。下山するわよ」
蓮倉岳山頂ではしゃぎ続ける僕たちに花胡先生が下山を宣言した。
そういえばもうこんな時間か。そろそろお昼だ。
山頂からテント場まで下りだと1時間くらいかかるらしいので、そろそろ下山しないと昼ごはんが遅くなる。
「はーい、花胡せんせー。りょうかーい!」
後は山を下るだけだけど、実は統計的には登る時より下山する時に怪我をするのが多いらしい。
なので集中力を欠きやすくなるスケッチは登りの時にするのだと花胡先生が教えてくれた。
鉄の鎖が渡されている岩場の足元をよく注意しながら降りていく。
今回は僕が先頭で、最後尾は花胡先生だ。
僕より年下の女の子である天子ちゃんがいるので、ペースを早くし過ぎないように慎重に降りていく。
「それでも登る時よりは楽だよね?」
僕の後ろにいる己紗が話しかけてきた。
「そりゃまあ。でも登山で足を挫くのって登る時より下る時が多いって花胡先生言ってたし」
応急措置のテープはちゃんと持ってきてるけど、怪我なんかしない方がもちろんいい。
後ろを振り返ってみんなの様子を確認する。
遅くても早くても良くないのだ。
先頭の僕がペースを決めるので責任は重い。
「みんな、このペースで大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ〜」
「ちょうどいいよ」
江莉夏さんと祐里佳さんが手をあげて僕に返事する。
振り返ったその先に蓮倉岳の山頂がちょうど見えた。
流れる雲が山頂に向けて駆け上がって、緑と白と岩の灰色が入り混じる。
「また来たいよなぁ……」
「うん、また来ようよ?」
己紗が笑いながら僕に言う。
「それもそうだね、夏休みにまた来ようか?」
そういえば最近やりたいことが増えてきたよな。
「和く〜ん、足止めないで〜」
最後尾の花胡先生が口に手を当てラッパのようにして僕に叫んでる。
「あ、はーい!」
「お姉ちゃ〜ん! かっちゃんがまたみんなで登りたいんだって〜!!」
「いいわね〜! また登りましょう〜!」
花胡先生も楽しそうだ。
うん、また登ろう。
◇◇◇◇◇◇
「帰ってきたぁ〜〜」
教室の扉を開けてみんながぞろぞろと中に入っていく。
背中に背負ったリュックが重い。
あれからテント場まで歩いて、テントや荷物を撤収してさらに登山口まで降りて……迎えの車に乗り込んで学校まで帰ってきたのだ。
もうすっかり夕方だ。
みんな自分の席に座ると、そのまま机に突っ伏した。
「楽しかったけど、疲れたねぇ……」
ほんとにそうだ。
一泊二日なのにまるで一ヶ月くらい山に居たような気分だ。
「はぁ…………」
「花胡先生、今日はもうこのまま解散ですか?」
「……そうねぇ」
花胡先生も疲れたのか、教卓に身体を預けたままさっきから動いてない。
そうだよな、一番大変だったのは先生なのだ。
「……使ったテント用品とかクッカーを洗わないといけないわね」
「もう明日にしようよ」
一枝先輩が顔を机に押し付けたままやる気のなさそうな声を出してる。
「それよりも……一番大切なことをやっておかないといけないわ」
江莉夏さんの呟くような声が耳に入ってきた。
……一番大切なことってなんだっけ?
突っ伏したまま視線を江莉夏さんと祐里佳さんに向けると意味ありげに目配せしている。
「あーそっか。アレか」
一枝先輩と捺那先輩が疲れ切った身体を重そうに起こしている。
「花胡先生〜、ちょっとみんなで保健室使っていいですか?」
「ん、いいわよ? 例のアレ?」
「そうです」
「じゃあ先生も一緒に用意するわ」
椅子をガタガタ言わせながらみんなが席から立ち始めた。
そして江莉夏さんと祐里佳さん、一枝先輩に捺那先輩と己紗と花胡先生が連れ立って教室から出ていく。
「あれ? 保健室でなにがあるんですか?」
「あ、和くんは教室で待っててね? 後で渡すものがあるから」
教室の引き戸のところで花胡先生が笑顔で振り返ってそう言った。
「はぁ…………渡すものですか?」
◇◇◇◇◇◇
「はいどうぞ♥」
先生から手渡されたのは12枚のプレートだ。
重い。
色んな意味ですごく重い。
目を瞬かせながら、花胡先生、己紗、江莉夏さんと祐里佳さん、それに一枝先輩と捺那先輩の顔を一人ひとり見ていく。
全員顔が赤い。
あの時の天子ちゃんと同じ顔をしている。
「これ…………は?」
分かってはいるが聞かずにはいられない。
「やっぱり平等にやらないとね?」
「はあ…………平等、に?」
左隣の席に座っている天子ちゃんを見るとほんの少しだけむくれていた。
ほっぺたを膨らませてる天子ちゃんはすごく可愛い。
「家に持って帰ったら全員分のプレートを起動してね? 先生との約束ね」
「全員…………分………………同時……に?」
プレート12枚分の重みがズシっと腕にかかって、膝がガクガクと笑い始めた。
……登山の疲れかな?
多分そうだ。
きっとそうだ。