「はぁ…」
執務室を出た私は小さくため息をついた。
毎日が満員電車で出勤するサラリーマンのように忙しい。
秋月姉さんの治療費を少しでも多く稼ぐ為に秘書艦に立候補してそれが認められたのはいいけど秘書艦としての勤務、艦娘としての勤務、姉さんのお見舞いや看病……と毎日のようにやる事が多すぎる。
提督は秋月姉さんが療養してる事に口先で同情だけはしてくれるが私の為に何かやってくれるわけではない。
損害自体はしょうがなかったことと割り切っている節さえある。
秋月姉さんが負傷した要因の1つだと言うのに……
勿論、姉さんの事は好きだし、早く元気になって欲しいと思っている。
だけど、たまに 姉さんさえいなければ…… と思ってしまう時もあり、その度にその考えを振り切り自己嫌悪に陥る。
秘書艦任務も本音を言えば嫌で嫌で仕方なかった。提督の事は嫌いなのに皆の前では善人ヅラをしなきゃいけないのが嫌だし、そんな彼と執務室に一緒にいるのも嫌だ。加えて書類仕事や面倒な雑務をそんなのは秘書艦の仕事だと言わんばかりに片っ端から押し付けてくる。
本当に腹が立つ。1回ひっぱたいてやりたいぐらい。
なのに、あんな奴に尽くさなきゃいけないのが秘書艦という立場だ。考えるだけで吐き気がする。
無機質なチャイムが聞こえたのを聞いてハッとした。朝礼の時間。
「いけない!急がなきゃ!」
慌てて校庭に向かって走った。
「キャッ!」
「うわっ!」
慌てていたからか誰かにぶつかってしまった。
「すみません。大丈夫……ですか? 」
ぶつかった相手の方から声をかけられた。
「はい。大丈夫です……すみません。忙しいのでこれで……」
見慣れない顔だけど気にしている暇は無かった。適当に返事を返して走るのを再開した。
これが彼との最初の出会いだった。
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その日、執務は順調に進み、昼休み近くになった。提督は、私に執務を押し付けてソファーで戦記物の本を読んでいる。相変わらずのいいご身分だ。
資材の資料を見ていて手が止まった。
「また……ですか……」
「どうした?」
提督が顔を上げてこちらを振り向いた。
「明石さんがまた資材を無断で使っているみたいです。一言……言ってきてもよろしいでしょうか?」
「またあの馬鹿がやってるのか。好きにしろ」
「承知しました」
そう言って私は執務室を後にした。
明石さんへの抗議は今の私の数少ないガス抜きだ。他の方法もあるかもしれないけどこれが一番、手っ取り早いし日々の日課になっている。
向かう途中で今日から新人の整備兵が来ることを思い出した。この暑さなら飲料物が不足しているだろう。
自動販売機で適当な銘柄のスポーツドリンクを買った。軽い差し入れ、という名のポイント稼ぎだけどやらないよりは、やった方がいい印象を与えれると思う。
本当はこんな事したくないけど、何事も初印象と聞くし、常に八方美人を装わなければならない私には必要な事だ。
工廠のドアを開けるとサウナのような熱気が押し寄せてきた。
新人の整備兵の子が大丈夫か少しだけ不安になる。
中に入ると私の事を凝視する見慣れない顔の青年がいた。何故だろうか? 初見だと思うけど彼に見覚えがある気がする……
「すみません。明石さんはいらっしゃいますか? あれ? 君はたしか今朝ぶつかった……」
声をかけている最中に今朝、ぶつかった青年の事を思い出した。彼だったような気がする。
そうなると彼が新人の整備兵なのかもしれない。
「あっ……えっと……その……」
話すのが苦手なのだろうか? 彼はしどろもどろな態度を見せた。
確信は持てないけど今朝の人と同一人物かもしれないという仮定の元、動くことにした。
「軽いお詫びのつもりですが差し入れです。良かったら飲んで下さい」
「あ、ありがとうございます」
いつもの作り笑顔を見せてスポーツドリンクを渡したけど初見の人にはこれで十分だろう。少なくとも私から悪い印象は受けていないはずだ。
「あれ?涼月さんじゃないですか。どうしたんですか?」
明石さんが奥の方から出てきた。多分だけど何か閃があってそれを優先したくなり整備兵の子に仕事を押し付け引きこもっていたのだろう。
提督と同じで本来やるべき義務をサボるのは相変わらずのようだ。
正直に言うと私は、彼女の事は少し苦手に思っている。理由は、彼女だけは何故か私の本性を知っているから。
他人を下に見つつも媚びて他人を自分に都合よく動かそうとする卑しい人間だって事を……
だけど、秘書艦として言うことは言わなきゃだし、この手の正当な抗議に彼女は言い返してこない。普段のガス抜きも兼ねて言いたいことを思いっきり言ってから工廠を後にした。
工廠を後にする時に、会話の最中から手を止めてずっと私の事を見ていた彼のことが少しだけ気になった。
今日は秋月姉さんの介護がある。私は、ため息をついた。
いつまでこんな日が続くのだろう。いい加減気が狂いそうだった。
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1週間が経った。整備兵の子が私に好意を持っていることには、すぐに気づいた。
用事がある関係で私は毎日、工廠を出入りしているのだが毎回のように彼はチラチラと私の事を見ている。流石に手を止める事は減ったけど私としては見ている暇があるなら目の前の作業に集中して欲しいと思う。
軽く労いの言葉をかけたことがある。それだけの事なのに顔を真っ赤にしていた。この時点で私の中の予測は確信に変わったが私にとってはどうでもいい事だ。
見て見ぬふりを続け、あくまでも秘書艦の私としての付き合いをした。
ただ、なにかの役に立つかもしれないと思い名前だけは記憶しておいたけど……
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子猫を彼が拾った所に出くわしたのは本当に偶然だった。その日は偶然、仕事が早く終わり、なんの宛もなくフラフラと散歩をしてる時のことだった。
彼は、子猫に餌をあげながら困った顔をしていた。多分、どうやってこの子の世話をするのか悩んでいるのだろう。
放っておけばいいのに 私は、内心そう思った。
この子が死のうが生きようが私たちには何の関係もない。ただ、運命がそれを示した、ただそれだけの事。
多分だけど彼は、弱い生き物を見捨てることができない人間なのだろう。
なんでそんな思考回路に至るのだろうか? 私には、理解できない。
もっとも、自分自身の事で手一杯の私には、縁のない話だけど……
秋月姉さんの事が頭をよぎった。
面倒事に関わる事になるけど上手く行けば秋月姉さんの世話を押してくけるかもしれない……
悪魔が私に囁いた。
「お困りですか?」
魔が差したと言うべきなのだろうか? 気がついたら彼に声をかけていた。
せっかく出できた空き時間をこんな事に使うのは嫌だったけど、今後の事を考えるなら安い投資だと思った。
その後は、何もかもがうまくいった。
提督から子猫を工廠裏で飼うことの許可を取ることなんて大したことじゃないし、明石さんからもあっさりと許可をもらえた。
次の日には、彼を秋月姉さんの元へ連れて行くことにも成功した。
「涼」
その日の介護で姉さんに声をかけられた。
「いつもごめんね。こんな私で迷惑ばかりかけて……」
私の気持ちを見透かしたかのような一言。
秋月姉さん、どうして貴女は、そんなことを言えるのですか? 私は、姉さんが思っているほどいい人間じゃないんです。気の迷い余は言え、私は、姉さんの死を願ったことがありますし、今だって手伝いに来てもらった子に役目を押し付けようとしている人間ですよ。
どうか……お願いですから、私に気を遣うようなことを言わないでください……
姉さんに悪気は無かったと思うけど涙が出そうになった。
「お気になさらないで下さい。妹として当然の事ですから」
泣きたくなるのをこらえ、私はそう返した。この場で全て、本音を吐いてしまおうかとも思ったけど私には、できなかった。
帰り道、彼に秋月姉さんの世話を押し付けることが出来た。こちらからお願いしようと思っていたのを彼の方からやると言い出したのは嬉しい誤算だったけど大成功だ。
彼が自分からやると言ってくれた時には内心、ほくそ笑んだ。
罪悪感がないわけじゃない。彼を騙しているみたいで気分が悪いし、姉さんを含めて誰かにバレたらという恐怖心もあった。
だけど、少しぐらいわがままを言ってもいいじゃないかと思う。私ばかり苦労しているし、誰も助けてくれなかったから。
明石さんにからかわれるのが嫌だと言ったのも大嘘。本当は善人顔をしながらも本当は他人を下に見てばかりいるという私の本性を知っている明石さんに汚点を攻められるのが嫌だっただけ。
次の日、姉さんに報告に行くとあっさりと了承してくれた。
秋月姉さんは、介護を失敗しても怒らないだろうしそのうち彼も慣れるだろう。
悪魔に魂を売り渡すのも悪いことじゃないなと思った。
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2週間ほどしたある日、仕事終わりの空いた時間にどこに行こうかと考えていたら、明石さんに声をかけられた
「涼月さん、ちょっといいですか?」
「何ですか?」
「今夜、飲みに行きませんか? 1人飲みじゃどうも酒の味がしないんですよね」
明石さんと飲みに? 何を言われるか分からないし、冗談じゃない。それなら、まだ真琴君と二人で飲んだ方がましだ。
「申し訳ありませんがお断りします。秋月姉さんの介護があるので……」
「あれー? おかしいですね。秋月さんの介護は、真琴君が全部やってくれてるんじゃないですか?」
いつもの言い訳で断ろうとしたら明石さんがにやけ顔でわざとらしく言った。
彼への口留めは、無意味だったようだ。もっとも、私の本性を何故か知ることができた彼女が相手に対策が甘すぎたかもしれないけど……
「何が目的ですか?」
彼女を睨みつけた本来の私が冷たい声で聞いた。
「話を聞きたいだけですよ。面白そうなんで。1時間ほどで終わらせますよ。天井の染みの数でも数えていればあっという間です」
「嫌だと言ったら?」
「飲み相手を探してるのでその人にうっかり喋っちゃうかもしれませんね」
「分かりました……お付き合いします」
拒否権は無かった。私は小さく舌打ちをしてそう答えた。
――――――――――――――――――――
仕事帰りの人や仲間内で賑わっている居酒屋の中、私たちはできるだけ隅の席を取った。
「男遊びも程々にした方がいいと思いますよ」
注文が終ると明石さんから声をかけられた。
脅迫して呼び出しておいての第一声は、これか……当然ながら、引くつもりはない。
「私の事なので放っておいて下さい」
「あくまでも涼月さんの事なので私もあまり強く言えませんけどねぇ……いつか手痛いしっぺ返しを喰らいますよ」
「嫌味ですか?」
彼女を睨む。
「聞き方によってはそう聞こえるかもしれませんね。まぁ明石の軽い警告として受け取っといて下さい」
明石さんがクスクスと笑いながらそう答えた。
「彼に姉さんの世話を辞めさせろと?」
「あっ、真琴君のことは気にしなくても大丈夫ですよ。彼、楽しんでるみたいなんで」
「は? 楽しんでる?」
予想外の返答に拍子抜けした。
「彼は正義感が強い子ですね。困ってる涼月さんや秋月さんを助けるのは当然だし楽しいとすら思ってると言ってましたよ。充実感を感じてるみたいです」
「馬鹿じゃないですか?」
明石さんの言葉を聞いて私は、ため息混じりにそう口にした。
「これに関しては同意します。今回は涼月さんだったので良かったですが今後、誰かに騙されないかと考えると不安になりますねぇ…」
全く持ってその通りだ。彼の善人な面と馬鹿さ加減は私の予想の遥か上を言っていた。そのことを本人の前で指摘する気は無いけど……
「提督なんかよりも真琴君の方がいいんじゃないですか? あの他人に仕事を押し付けてばかりのクズよりは遥かにマシだと思いますよ」
あの気弱な整備兵の子と? 冗談じゃない。たしかに、提督よりはマシかもしれないけど彼は、私好みの人間では無い。他の人に騙されないか不安になるレベルのばかだし、顔も私好みというわけではない。
ましてや秘書艦という立場がそれを許さないだろう。
「提督よりもマシなのは否定しませんがそのつもりはありません。私の立場がりますし、彼に対してその気はありません」
「ハハッ、そう言うと思いました。涼月さんは真面目ですねぇ」
明石さんが笑った。
馬鹿にされているみたいで普通に腹が立つ。私と同じ立場じゃない癖に……
「今、立場が違うのに好き勝手言うなって思いましたよね?」
「……なんでわかるんですか?」
「なんとなくですよ。どうですか? この場で愚痴でもはきませんか? 話を聞くのはそんなに嫌いじゃないので」
「結構です」
弱みを握ろうとしてるのか? いずれにしても受け入れれない話だ。
「別に弱みを握ろうとかそういうつもりはありませんよ。真面目な話をすると今回、話をしたかったのは、涼月さんが心配だったからです」
「私がですか?」
意外な返事が返ってきた。明石さんが私の事を心配しているというのも変な感じがしたけど彼女が真面目な顔をしているのを見ると嘘は、ついてなさそうだ。
「ここ数ヶ月の涼月さん、疲れてませんか? それに、本当は真琴君を騙してることに罪悪感を感じてるんじゃないんですか?」
なんで分かるんだろう? 全部図星だ。素直に はい とは、答えれないけど……
「我慢するのも大切ですが溜めすぎると疲れちゃいますよ。涼月さんのストレス発散相手なんて私ぐらいしかいないですしここで思い切って提督への悪口でも私への文句でも上手くいかない日常でも思いっきりパーッと言っちゃって下さい」
「いいんですか……?」
「はい。明石にしてあげれることは、聞いてあげることぐらいですけどね」
「分かりました……お言葉に甘えさせていただきます」
私は、運ばれてきたグラスを握り締めた。
「あっ、そうだ。本格的に飲みだす前に言っときたいんですが善人面していたいなら彼の事は怒らない方が良いと思いますよ。今の所は上手く回っていますし、今の関係を続けたいならこのままでも良いと明石は思います」
多分、私が彼の口を封じたように明石さんも真琴君に口封じされていたのだろう。相手の顔を立てつつ自分の顔を立てるのが本当に上手い。
やっぱり私はこの人が苦手だ。
「分かってますよ」
そう答えてお酒に口をつけたときにある疑問が頭の中を過った。
「そういえば、もしかしていつもの資材無断運用ってワザとなんですか?」
「あっ、バレちゃいました? 涼月さんのガス抜きになればいいなー、ぐらいの感触だったんですけど」
「余計なことはしないで下さい。仮にも書類上の数が毎回違ってて頭抱えるのは私なんですよ!」
「アハハ……ごめんなさい」
「まったく……!」
口ではそういったけど彼女には、小さな感謝の気持ちを感じた。
その後は、次が休みだったこともあり酔いつぶれるまで明石さんと飲んだ。
事態が改善するわけじゃなかったけど、少しすっきりした気がした。
――――――――――――――――――――
それからは何事もなく日々が過ぎていった。
真琴君に世話を任せつつも秋月姉さんには偶に会いに行く。一時期、大規模遠征で忙しくて会いに行けなかった時があったけどその時は、申し訳なく感じた。
秋月姉さんの体調が良くなることは無かったけど真琴君と楽しそうに話していたり、彼のいないところでも彼を誉めていたりするのを見ると満足してくれているようだ。
真琴君も充実感を感じているみたいだし、元気そうだ。
罪悪感をいまだに感じることがあったけど明石さんの言う通り、うまくいっていればこのままでもいい気がしていた。
だけど、私は気づかなかった。崩壊の足音は、静かにゆっくりと近づいてくるということを……