梅雨の時期というのは、常にじめじめしており気分が暗くなりがちだ。
ただでさえテンションが低い俺を、いっそう嫌な気持ちにさせる出来事が起きた。
「あ、あの……櫛田さん」
「どうしたの?」
雨が降りしきる日、元主人が俺たちの部屋を訪ねてきたのだ。
彼女は桔梗ちゃんの顔を見るなり、玄関前で深く頭を下げた。
「彼の助けがないと、私は死んでしまうのです。週に一度だけでも……」
「知らないよ、そんなの……」
こうしてお願いに来るのは、今日が初めてではない。
その度に桔梗ちゃんは機嫌を悪くしながらも、やんわりと追い返している。
正直、もう来るなと言いたいぐらいだ。俺が桔梗ちゃんのストレスをなるべく減らしてあげたいと努力している中、わざわざ怒らせるようなことをしないでほしい。だが、いったん交渉してもいいと許可してしまった以上、なかなか手のひらを返すようなことは言いづらい。
迂闊な発言が俺を縛っている。後悔先に立たずとは、このことだろう。
「私にできることであれば、どんなことでもします。今後、私が入手するプライベートポイントの全額をお渡ししても構いません」
「いらない。何を渡されたとしても、この人の代わりにはならない」
こいつのことを、桔梗ちゃんがこれほどまで嫌っているのは少し意外であった。俺の過去の話を聞いて、こちらの想像以上に強い嫌悪感を持ったのかもしれない。
黙り込んだ様子を見て、桔梗ちゃんは躊躇うことなく部屋の扉をバタンと閉めた。すすり泣くような声が聞こえると、非常に気分が悪くなる。とにかく不快で、俺をこの上なくイライラさせる。
いつもはしばらく泣いてから帰ってくれるのだが、今日は違った。
「……ぐすっ、お願いします。お願いします」
彼女は閉められた扉を開き、とんでもない行動を取った。
膝を折り曲げて、汚れた地面に頭をつけた。土下座というものである。
俺と桔梗ちゃんはその執念にドン引きした。この女の頭の中がさっぱり理解できない。
「あのさ、一つ言っていい?」
「は、はい。何でしょうか」
「あなたが行くべき場所は、私たちの部屋じゃない。そもそも、晴翔くんの介護がないと生きていけないって……差別する意図はないけど、病院でちゃんとしたサポートを受けた方がいい人間だと思う。少なくとも、この学校のやり方には絶対に合わない。早く辞めた方がいいよ」
紛うことなき正論であった。この少女は、俺からの生活介護を受けなければ生活ができないと主張している。それが真だとすれば、こんなハードな学校にいること自体間違っている。ここでの生活は諦めて、然るべき支援の受けられる学校へ行くべきだ。
……でも、できるはずがないとも思う。俺は、こいつの性格をよく理解している。自分の身体能力に強烈なコンプレックスを持っていることも知っている。土下座してもなお失われない、天才としてのプライド。それが邪魔をしている限り、退学という選択肢は取れないはずだ。
「うぅ……」
桔梗ちゃんは、こいつの親父がこの学校の理事長であることを知らない。意識していなかったとは思うが、今の言葉はかなり傷ついたことだろう。自分の父が運営する学校に相応しくない存在であると、赤の他人から突き付けられるショックはどれほどのものだろうか。
「悪いが、俺はもうお前を守ってやりたいとは思えない。桔梗ちゃんもこう言っている以上、自分でどうにかしてもらうしかない。お前が不幸になることを望んでいるわけじゃないが……『過去』と決別し、未来に向かって別の道を歩みたいだけなんだ。どうか、わかってほしい」
俺がそう言うと、彼女はふらふらと立ち上がり静かに去っていった。
可哀想だが、桔梗ちゃんとの関係は絶対に譲れない。この愛おしい恋人の信頼を失ってまで、あいつに肩入れする気は全くない。
そもそも、これは当然の反応である。逆の立場で考えてみればいい。
例えば、桔梗ちゃんの男友達が今のように助けを求めてきたと仮定しよう。一緒にいないと死んでしまうから、彼女を貸してくれ……そんなことを言われたら、とてもじゃないが平常心ではいられない。今の彼女と同様、拒否反応を示す自分が容易に想像できる。
自分が嫌なことを、自分の命よりも大切な相手に押し付けるわけにはいかない。この話は、今のやり取りをもって終了としたい。もう、俺があいつに情けをかけることはないだろう。
ある意味、俺は試されている。ここでスパッと断ち切れるかどうかが、人生の分かれ目。これは高城晴翔という人間が独り立ちして、櫛田桔梗という少女と一緒になるための試練なのだ。
「……ありがとう、晴翔くん。あなたは本当に、私だけを見ていてくれるんだね」
「もちろん。これから先、ずっとそうだ」
「嬉しい。最高に嬉しいよ。ここまで愛してもらえるなんて……もう、好きすぎておかしくなっちゃいそう。あなたと出会うために、私は生まれてきたのかもしれない」
出会うために生まれてきた。俺と同じ結論に至ったことに、感動を覚える。
桔梗ちゃんの笑顔。この輝きを失わないためならば、俺はどんなことでもしたいと思う。
じっくりと深いキスを交わした後、俺は彼女をベッドに押し倒した。
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あの日以降、軽井沢は桔梗ちゃんの忠実なしもべとなった。
今日は買い物をしていた際にばったり遭遇したので、一緒に昼を食べることにした。
「ジュース取ってくる。何がいい?」
率先してドリンクバーへと向かう姿は、まさに子分といっていいものだ。
ポイントに余裕がないので、必然的に安いレストランになる。まあ悪くはないが、味も雰囲気も質が良いとは言い難い。デートには使いたくないな。
「ありがとう、軽井沢さん」
「う、うん」
アイスティーを受け取った桔梗ちゃんは、にっこりと笑った。
軽井沢は少し怯えながらも、それに頷いた。
「そうだ、これから恵ちゃんって呼んでもいいかな?」
「……いい、けど。なら、あたしも桔梗ちゃんって呼んでいいの?」
「もちろんだよ。大切なお友達だから、ね?」
お友達という言葉に、結構な圧力を感じた。
「一人だけ違うってのもおかしいし、俺も名前で呼ぶことにするよ。恵ちゃん?」
「あっ……」
なんで、このタイミングで顔を赤らめるのか。そんなことをしたら……
「そうそう、もし私の彼に手を出したりしたら……殺すから。そこはよろしくね」
「ひいっ、ごめんなさい!」
びくっ!と身体を跳ね上げて、恵ちゃんは謝罪した。桔梗ちゃんは、優しく笑いながらこういうことを言うから心臓に悪い。怖すぎて、うっかり俺まで謝りそうになったぐらいだ。
「ふふ、わかってくれたなら大丈夫だよ〜」
ここ最近、外では常にこんな感じである。
ふと、これは営業モードなのだろうかと疑問に思った。雰囲気はふわふわと優しいものの、俺に対する独占欲を隠そうとしない。だからといって、完全に素であるとも言えない……第三の桔梗ちゃんが生まれつつあった。まあ、どれも可愛いからなんでもいいのだが。
「……はあ、マジで二人はお似合いだよね。相性が良すぎるっていうか、誰かが割って入れそうな感じが全くしないもん。ちょっと裏のあるところも似てるし」
「もう、裏があるとか言わないで。いじめちゃうよ?」
「ごめんなさい。それはやめて」
さっきからこのバカは何をやっているのだろう……?
しかし、腹立たしいことにその分析は結構正確なものだった。観察力は高いのかもしれない。
食べ終えた後、雨が降り始めたこともあり俺たちは部屋へ戻ることにした。
……部屋の前に元主人が座っていた。信じられないといった態度で恵ちゃんを見ている。
「あいつは何者?」
「いいから無視してくれ」
「わ、わかった」
恵ちゃんは怪訝な顔をしながら、俺たちに続いて部屋の中に入った。
どうしたらストーカー行為を止められるのだろうか。迷惑行為として、学校に訴えようか。
……いや、やめておこう。三年間続くのならともかく、たった数か月のことだ。事を荒立てるのは、実害が出てからでも遅くはない。調査のためにいろいろと聞かれるのもめんどくさいし、放っておくのが一番マシかもしれない。気にしないようにすればいいのだ。
徹底的に無視すれば、いつかは諦めてくれるだろう。そう思って、俺は心を落ち着かせた。
俺たちは三人、座って話を始めた。考えてみれば、桔梗ちゃん以外の人間を上げるのは初めてのことだ。それが恵ちゃんになるとは全く予想もしていなかった。
……こいつはもう、友達といっていいだろう。作るつもりはないと言っておきながら、結局はこうなってしまった。自分の適当さ加減には呆れるばかりだが、悪い気分ではなかった。
「そういえば、あんた平田とは別れたの?」
「まだ別れてないけど……ちょっと、さっきとキャラ違くない?」
素に戻った桔梗ちゃんに驚いている。どうも、部屋の中ではキャラを作らない方針にしたようだ。おそらく、外部の目がなければいいと判断したのだろう。
「もし言いふらしたら、酷い目に遭わせてやる。バケツで水をかけられるのが怖いんだよね?」
「やめて、絶対誰にも言わないから。そんな風に脅さなくたって、あたしは弱み握られちゃってるし……桔梗ちゃんを裏切るようなことはしないよ」
そう言って、一つため息をついた。俺としても、特別棟でやったようなことをもう一度やるのは面倒なので、是非とも裏切らないでほしいと願う。
「ふーん。あと、晴翔くんに色目使うのもやめてね。私のだから」
「……怖い彼女だね」
「はあ?」
「ひいっ!」
やっぱりこいつはバカだ。でも、なんというか……いじめ甲斐がある。
桔梗ちゃんがケラケラと笑っているのがいい証拠だ。少なくとも、元主人や堀北とは全然違う対応をしている。存在自体がストレスになるようなことはないのだろう。
三人分の飲み物と、お菓子を用意した。
恵ちゃんはびっくりしたように俺を見た。気が利くタイプだとは思っていなかったらしい。
「それにしても、あんたって頭悪いよね。いじめられたくないんだったら、私みたいに動けばよかったのに。敵ばっかり作って何になるの?」
「……桔梗ちゃんみたいにできるなら、最初からそうしてるよ。あたしにはできないの」
刺々しい言葉だが、決して機嫌が悪いわけではなさそうだ。
人には相性というものがある。例えば桔梗ちゃんと堀北は最悪だし、逆に俺と桔梗ちゃんは……自惚れでなければ、最高に近いものだと思う。
では、恵ちゃんとはどうだろうか。当初はあまり良くないと思っていたが……
「不器用というか、なんというか。下手な生き方してるね」
「良い方法じゃないのはわかってる。でも、寄生することしかできなかった。桔梗ちゃんと違って能力も人望もないあたしが生き残るには、これしか……」
悪くないどころか、良い方に分類されるような気がした。
桔梗ちゃんの毒舌に対して、怒ったりせず素直に聞いている。まあ、こいつが過去に受けてきた罵倒はこんなものではなかっただろうし、耐性があるだけとも言えるが……いい友達になれるかもしれない。かつてのストレッサーが、逆にストレスを解消してくれる存在に変わる可能性がある。
俺にとって、これはかなり意外な結果だった。思わぬ掘り出し物を見つけたような気持ちだ。
「自分がどうしようもなく弱い人間だって、理解してるの?」
「そんなこと、あたしが一番よく知ってる」
「あっそ、情けない奴。だけど……」
一度言葉を切って、桔梗ちゃんは恵ちゃんの頬に触れた。お互いの鼻がくっつきそうなぐらいに顔を近づけて、まっすぐ目線を合わせる。
「中学の三年間と、入学してからの三ヶ月。あなたはよく頑張ったと思う。それは認めるよ」
そう言って、優しく微笑んだ。
「……桔梗ちゃん」
感激したのか、恵ちゃんの目に涙が浮かぶ。誰かに褒められるという経験を、彼女はあまりしてこなかったのかもしれない。
やがて、わんわんと泣き始めてしまった。その様子を見て、桔梗ちゃんは彼女の身体を抱きしめた。子供をあやすように、優しく背中をさすっている。
「精いっぱい、自分を守ろうとしたんだよね」
「あたし、辛かった。怖かったんだ……」
「大丈夫だよ。ここに、あなたの敵はいないから」
恵ちゃんは、いじめのターゲットに選ばれることを避けるために、クラスの中心たる平田へと寄生した。その後は強気なキャラクターとして振る舞い、自分が強い存在であるという印象を周囲に植え付けた。弱い自分を隠しながら、クラス内での立場を確立すべく立ち回ってきたのだ。
もしかしたら、桔梗ちゃんはその考え方に多少のシンパシーを感じたのかもしれない。
涙が完全に止まるまでの間、二人はずっと抱き合っていた。
「落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
恵ちゃんは、桔梗ちゃんから差し出されたタオルで顔を拭いた。
吹っ切れたような表情だ。もう大丈夫だろう。
「当分は近くにいてくれていいよ。でも、いつかは自立してね。恵ちゃんが頼れる友達をたくさん作って、私がいなくても大丈夫だって思えるようになったら……私の『子分』は卒業かな」
あくまでも、桔梗ちゃんは恵ちゃんに自立を促すつもりらしい。一時的な寄生先としての役割は引き受けるが、最後は普通の友達に戻るというスタンスを取っていくようだ。
俺としてもその方が良いと思った。そう遠くないうちに退学する都合上、ずっと一緒というわけにもいかない。後腐れなく去る上で、恵ちゃんの今後の成長は必須である。
「わかった。これからは、あたしもみんなと仲良くできるように努力する」
「よくわかってる。バカのくせに」
「バ、バカじゃないし!」
桔梗ちゃんの交友関係は極めて広い。この子に付き従って行動すれば、自ずと知り合いや友達が増えてくるだろう。この関係は、恵ちゃん独自の人間関係を作っていく上でも効率がよさそうだ。
……こんな子が俺の恋人であるということを、とても誇らしく感じた。
恵ちゃんが帰った後、俺たちは二人で晩ごはんを作った。
無料食材と肉を適当に組み合わせただけの炒め物だが、これが思ったより美味かった。下手に安いところで外食するより、こちらの方がよっぽどいい。
「案外、悪くないものだな」
「そうだね。まあ、晴翔くんと一緒なら……なんでも美味しいけど」
可愛いことを言ってくれる。
きゅんとした俺は、皿を洗いながら桔梗ちゃんのほっぺたにキスをした。
「恵ちゃんはどうだった?」
「うーん、嫌いじゃないよ。ウザかった理由もわかったし、普通に絡むぐらいなら全然大丈夫」
桔梗ちゃんからの好感度が高くなった以上、あいつを雑に扱うことはしない。今後は一人の友達として、それなりに誠意をもって接するつもりだ。
「最後は手放すってことで、いいんだよな?」
「もちろん。二人きりでいられなくなるのも困るし」
言葉から強い意志を感じた。とにかく、俺のことを独占したいみたいだ。
桔梗ちゃんの中では、仲良くなった友達でさえこんな扱いである。嫌っている元主人を助ける可能性など、ゼロに等しいだろう。
(……残念だが、お前の居場所はここにはない)
俺はそう考えた後、視線を手元に戻した。