8月25日。
長かった夏休みも最終週に差し掛かるという日に、俺は校舎を訪れた。
「これを、理事長へ渡していただけますか」
「……まさか、お前にそんな意思があるとは思わなかった」
蒸し暑い職員室。苦い顔をする茶柱に、書き上げた退学届を押し付ける。
「最初からそのつもりでした。意志は固いです」
茶柱の態度を意に介さず、俺はそう断言した。
それにしてもムシムシして気持ちが悪い。汗が顔に流れてくる。
周りを見回すと、クーラーの温度を28度に設定してあるのが見えた。これが原因だ。
官公庁ならともかく、この学校がそんなけち臭いことをしているとは思わなかった。資金は潤沢にあると思っていたが……もしや、前回の視察で何か言われたか?
「非常に残念だが、そういうことならやむを得ないだろう。確かに受け取った」
「ありがとうございます」
意外とすんなり受け入れてくれて、拍子抜けだ。
去る者は追わず、ということだろうか。まあ、本気で退学しようと思えばいくらでもやり方はあるし、止める意味もないからな。最悪、テストでわざと赤点を取ればいいだけの話である。
「ただ、正式に受理されるのは少し先の話となるだろう。実は今、理事長が停職になってしまっている。2学期から代理が来ることにはなっているが、処理が遅れてしまうのは確実な状況だ」
……ん? 理事長が停職?
俺は首を傾げつつ、その説明を受け止めた。
思い返せばそういうイベントは「あった」気もするけど、このタイミングではなかったような。そう、それこそ綾小路のホワイトルームが絡んでくる件だった記憶がある。
とはいえ、俺という異物が存在する以上、いろいろな面で歪みが生じるのは当然だ。自分の行動が「本来の物語」にどう影響を与えるかなど、全て考えていては頭がパンクしてしまう。こういうものだ、と受け入れることも重要なのかもしれない。
微妙な気分になったまま、職員室を後にした。
この時、俺はまだ知らなかった。
父の言っていた「面白いもの」を見る日が近いということを。
……あの人の逆鱗に触れることの恐ろしさを、理解できていなかったということを。
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夏休みもあと一日となった。
俺と桔梗ちゃんは、クーラーの効いた涼しい部屋でイチャイチャしていた。
「あはは……こんな夏休みになるなんて、想像もしてなかった」
桔梗ちゃんは自虐的に、下船後の生活を振り返った。
そう思うのも無理もない。俺たちがやったことといえば、寝るか、遊ぶか、セックスするか。一応勉強だけはある程度こなしていたものの、ほとんど他者と関わることをせず、生活の全てを二人のみで完結してしまっていた。
「でも、めっちゃ幸せな毎日だったよ」
「そうだよね。本当に楽しかった」
閉じた世界の心地よさ、気楽さを覚えてしまうと、通常の社会生活が億劫になってくる。
「無理だとわかってはいるが、一生こんな生活ができればいいなって思う」
働くこともなく、自分のしたいことだけをする日々。桔梗ちゃんと二人、お互いに愛し合って過ごす生活。今の俺が理想とする生き方そのままの長期休暇であった。
だが、こんなことが許されるのは学生である間だけだ。働かざる者食うべからずとはよく言ったもので、義務を果たさぬ者に与えられる権利などない。どれだけ学生生活をエンジョイしたとしても、最後には労働という名の地獄が待っている。
……今日でいったん終わりか。できれば、もうちょっとだけ自堕落な空間に浸りたかった。
そんなことを考えていると、インターホンが鳴った。
「あれ、誰だろ?」
桔梗ちゃんが玄関へ向かい、訝しげに扉を開ける。
俺たちの空間に割り込んでくる来訪者は、誰なのか……?
「えっ?」
それと同時に、俺の端末が鳴った。何やら嫌な予感がしたので、急いでテーブルに置いていたそれを手に取って、ロックを解除した。
確認すると一通のメールが来ている。
『お願いだ あの子を助けてほしい』
その一行のみ記載されている文面を見て、俺はため息をついた。
差出人は、停職を食らったという話が流れているあの男。
奴がこんなメールを送ろうと思ったこと自体が信じられない。恥ずかしくないのか?
無視してやろう、とゴミ箱に送った時のことだった。
「……変な感じがする。ねえ、晴翔くん。今から坂柳さんの部屋に行かない?」
戻ってきた桔梗ちゃんがそう言った。大好きな彼女の言葉にNOというわけもなく、俺はしぶしぶ頷いた。いつまで経っても、うまく断ち切れない関係がめんどくさかった。
その鍵はかかっていなかった。
部屋の扉に桔梗ちゃんが手をかけると、ギィっと音を立てて開く。その瞬間、俺たちは酷い悪臭と鼻のむず痒さに襲われる。たまらず鼻をつまみ、なんとかその不快感から逃れる。
玄関はまともに掃除していないのか、埃が目立っている。ドアの上部には蜘蛛の巣が見える。
正直長居はしたくないと思いながらも、俺たちは靴を脱いで部屋の奥へ歩みを進めた。
そこで見たものは……
「お前っ、何やってんだ!」
「……ああ」
ドアノブにかけられたロープ。輪っかの中に首を通している者こそが、俺の元主人……坂柳有栖であった。ぐしゃぐしゃになった銀髪と、吹き出物だらけの顔が痛々しい。およそ同一人物とは思えないほどの、どうしようもない状態となっている。
情を引くための演技ではないかという考えは、その目を見た瞬間に打ち砕かれた。こいつは、本気で死のうと思っている。学校ではなく、この世から退場しようとしている。
「坂柳さん、どうしてそこまで……」
「私のような人間のクズを、心配しているのですか?……櫛田さんはお優しいのですね」
彼女は桔梗ちゃんの問いかけに、自分を卑下するような発言で返した。
「長い、永遠ともいえるほどの時間でした。その苦痛の中で考え抜いた上の結論です。私はこの世に存在すべきではありません。だって、不良品なのですから……」
ふふっと小さく笑う姿には、もはやかつての面影はない。
ただ死んでいくだけの、可哀想な子供。そう思わせられるほどの悲惨さである。
……ここまでの状態となっても、まだ何もしないのか?
この女に、これ以上の罰を与える必要はあるのか?
そう、俺は自分自身に問いかける。けれども答えは出ない。
桔梗ちゃんの顔を見る。彼女こそ俺のパートナーであり、全てである。この子の意思に反することはしないし、できない。他人の命がかかっていたとしても、その気持ちが揺らぐことはない。
だが……このまま見捨てることが人として正しいのか、俺は自信が持てないでいた。
「……はあ」
迷いに迷う俺を見て、桔梗ちゃんは諦めたように笑った。ひざを曲げて、首にくくられているロープを解く。元主人は驚いた顔で、桔梗ちゃんの目を見つめている。
「坂柳さん、私に教えてほしい。どうすれば、あなたの自殺を回避できるの?望みは何?」
「それは……」
「もしかして、私から晴翔くんを奪うこと?」
「いえ、そんなことは」
「あははっ、さすがにそれはないよね。だったらそのまま死ねって感じだけど……」
目を閉じて、諭すように話す桔梗ちゃん。この状況、この場面でも堂々と自分の主張を貫いている。マジでかっこいいと、惚れ直してしまった。大好きだ。
「あなたから彼を奪うことなど、そもそも不可能です。それに、私が生き長らえたところで何も生まれません。一人では何もできない『偽りの天才』に存在価値などあるのでしょうか?」
「……じゃあ、これならどう?」
話しながら元主人の腕を強引に掴んで、立ち上がらせた。彼女はふらふらとしながら、桔梗ちゃんの身体にしがみついている。
「あんたは今日から私のペット。あんたが私に尽くす代わりに、晴翔くんを貸してやる」
「……そんな」
「ああ、性的なのはダメだけどね。私たちが愛し合うところを、部屋の隅っこで目に焼き付けていればいい。それが、あんたに対する罰となる。死ぬことに逃げるなんて、私は許したくないから」
来なさいよと言いながら、桔梗ちゃんは手を引いていく。そのまま3人で部屋の外に出ると、なんだか心がすっきりしたような気がした。
あくまでも俺のことを第一に考えた結論に、感動して動けない。本当に、桔梗ちゃんと出会えてよかったと思う。
「……ありがとうございます。こんな私ですが、一生櫛田さんに従うと誓います」
「言っとくけど、助けたとは思ってない。私は、晴翔くんの望まない結末を回避したいだけ。あんたが死ぬことはどうでもいいけど、その行為によってこの人の心が傷つくのは嫌なの」
「わかっています。それでも、私は感謝しています。櫛田さんにとっては違うとしても、私からすればその想いは……温かく優しいものです」
「あっそ。晴翔くんもそれでいい?」
そう言って、二人は俺を見た。
俺は少し考えた後、元主人に顔を向ける。
「悪いが、俺はお前を恋愛対象として見ることはできないし、あの過去を水に流したわけでもない。つっても、なんだかんだお前の動向が気になっていたことも事実。心情的には受け入れ難いが、桔梗ちゃんの優しさを尊重するよ」
「……はい、本当にごめんなさい」
「謝罪は聞き飽きたから、やめてくれ。まあ、これからよろしくな……
俺が話し終えた途端、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「やっと……やっと名前を呼んでくれた………」
言われて思い出した。俺が彼女の名前……「有栖ちゃん」と最後に呼んだのは、いつのことだっただろうか。意識はしていなかったが、もしかしたら俺たちが決別した日まで遡るかもしれない。
桔梗ちゃんはため息をつきながらも、足元がおぼつかない彼女をゆっくりと引っ張っていく。こうして見ると、なんだか姉妹みたいだ。
俺たちの部屋に戻るまで、有栖ちゃんはずっと泣き続けていた。
……さて、今後どうなることやら。
雲一つない空を見上げながら、急激に変化するであろう未来へ思いを馳せた。
もっと胸糞悪い展開も考えていましたが、変更しました。
終わりが近づいています。それ以降どうしようか、悩みどころです。
個人的にはこちらの方が楽しいので、思いつきで投下できる場所として残しておこうかと考えています。