テスト前日。
綾小路の予定通り、先輩から入手した過去問が配られた。
須藤たちはこれを暗記することで、明日に備える……らしい。
最後の勉強会を終えて、部屋へと戻ってきた俺たち。
俺が疲労感でぐったりとする中、桔梗ちゃんは荒れていた。
「あー……うざい。あのくそ女、まともに教える気がないなら来んなって感じ。さっさと死ねばいいのに。できるなら私が殺してやりたい。私の前に現れないでほしい」
もはや恒例行事となった、堀北に対する愚痴の数々。普段は数分間のうちに収まってくるのだが、今日はいつも以上にイライラが募っているようで、周囲の物に当たり始めた。
まあ、無理もないと思う。勉強会における堀北は、正直なところ邪魔な存在でしかなかったからだ。学力の低い生徒を見下す、その態度……それを受けて、怒る生徒たちを宥める役割を担っていたのが桔梗ちゃんだった。きっと、とてつもない心労があったことだろう。
「わかった。とりあえず、いったん落ち着こう」
「うるさい死ね!」
俺の言葉も聞き入れず、桔梗ちゃんは暴れる。矛先が俺に向いたのか、固く握りしめた手が俺の顔面に飛んできて……このまま行くと鼻に直撃するが、避けるのは簡単だ。
だが、俺は避けなかった。これで彼女のストレスが発散できるのならと思い、あえて拳を真正面から受け入れた。衝撃と痛みが走ったものの、所詮女の子の腕力だ。骨が折れるほどではない。
「あっ……」
こちらの狙い通り、怒りのボルテージが急激に下がっていく。我に返ってくれたようだ。
鼻から血が流れてきた。切ってしまったようだが、この程度で済んだのなら儲けものだ。
……こんな痛み、この子のためと思えば何とも思わない。
「少しは気が晴れたかな?」
「ごめん、ごめんなさい。そんな……」
「あ、鼻血垂れてきた。ちょっとティッシュ取ってくる」
狼狽える桔梗ちゃん。そこまで焦ることもないだろうと思いながら、テーブルに置いてあったティッシュを数枚取って鼻の中に押し込んだところ、すぐに血が止まり始めた。
全然大したことはない。桔梗ちゃんのメンタルが安定することに対して、安すぎる代償だ。
「どうしよう、私なんてこと……」
「俺のことは気にするなよ。桔梗ちゃんがストレスを溜め込んでしまうぐらいなら、その前に俺の身体へぶつけてもらうほうがよっぽどいい。いつでもぶん殴ってくれ」
「ああ……あなたにだけは嫌われたらダメなのに」
フォローするも、なかなか話を聞いてくれない桔梗ちゃん。
「だから、大丈夫だって言ってるだろ。血は止まったし、もう全然痛くないぞ」
「そ、そうだ。えっちしよ。今日は晴翔くんの好きなように、滅茶苦茶にしてくれていい」
混乱しながら胸を触らせてくる。こういうところも可愛いなあと思う。
俺はあたふたする桔梗ちゃんの頭を押さえて、その柔らかい唇をふさいだ。突然のことに驚きながらも、抵抗はなかった。少しずつ身体から力が抜けて、表情が緩んでいく。
数秒してから、舌を絡ませてきた。余裕が出てきたようで何よりだ。
「……落ち着いた?」
二人の唾液がベッドに垂れそうになったので、唇を離した。
すでにいつもの雰囲気に戻っている。
「なんとか。あんたって、どうしてそんなに優しいの?」
「桔梗ちゃんのことを愛しているから」
そう答えたところ、素敵な笑顔を見せてくれた。桔梗ちゃんは半泣きの目を軽くこすり、俺の胸に飛び込んできた。それを受け止めてやると、嬉しそうに身体を震わせた。
「もう、今さら口説かないでよ。ばか」
「そんなこと言ったって、事実だし」
綺麗でふわふわな髪を、梳くようにして撫でてみる。すっと指が通る、なんとも言えない気持ちよさを感じた。
「……私がどれだけ晴翔くんのことを好きか、知ってる?」
「どうだろう。でも、俺の方がベタ惚れしてると思うぞ」
「いや、好きって気持ちは絶対負けてない。付き合い始めてから、毎日強くなってるもん」
可愛く頬を膨らませて、張り合ってきた。
桔梗ちゃんは、俺を正しい方向へと導いてくれる。俺のことを想い、愛してくれる。この子になら何をされてもいいと本気で思う。今後、何があっても俺の気持ちは変わらない。
この世に完璧な人間なんて存在しない。もちろん俺もそうだし、桔梗ちゃんもそうだろう。
しかし、その不完全な部分……他者からは彼女の欠点とも見える部分ですら、愛おしくてたまらないのだ。彼女の持つもの全てが、俺を惚れさせる魅力であるように感じる。
……もしかしたら、この子も同じことを思ってくれているのかもしれない。俺のダメなところでさえ愛してくれているとすれば、嬉しすぎて泣いてしまいそうだ。
はあ……本当に、好きで好きで仕方がない。
さらに胸が熱くなり、彼女に対する愛情が沸き立っていく。
高揚した気分を共有するかの如く、俺たちはお互いの身体を強く抱きしめた。
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あいつが俺の前に再び現れたのは、その夜のことだった。
扉を開けたとき、エレベーターの前に座り込んでいる姿が見えてしまった。
「あ、あの……」
明日がテストということもあり、今日はコンビニ飯で済ませることにした。
桔梗ちゃんの食べたいものを聞いた後、俺は一人で外へ出た。つまり、急いでいる状況である。それを引き留めるような行動にイラッときてしまった。
「またお前かよ。もうやめてくれって、何度言えばわかるんだ?」
俺は大きなため息をついて、次の言葉を待つ。
こいつが話しかけてくるタイミングについて、ふと思ったことがある。決まって俺が単独で行動しているとき、毎度毎度同じようなシチュエーションで出くわしているのだ。
今回についても、以前と似たような状況である。ここまで来ると、彼女がそれを見計らって来ているのは明白だ。もしかして、桔梗ちゃんとの接触を避けたいのだろうか?
「明日は中間テストですね」
「言われなくとも当然知っている。絶賛勉強中だ」
以前はお前の介護に明け暮れて、ちゃんと勉強する暇もなかったからな。
そう口から出かかったが、それによって話が長くなるのも嫌だったので飲み込んだ。
「晴翔くんが勉強ですか……わからない部分など、ありましたか?」
「特に無い。一通り教科書を読んだら、あとはそれを応用するだけだし」
厳密に言うと、テスト勉強自体はとっくの昔に終えている。学校指定の問題集も解いてみたが、わからない問題は一つもなかった。
今の俺には、過去問を使わなくとも満点近くを取れる自信がある。というか、配られた過去問は教室に捨ててきた。チートで高いスコアを取ったところで、何も面白くないからだ。
ここ最近の俺が取り組んでいるのは、未来を見据えたもの……受験対策である。
学校の授業は、すでに自分が習得できている内容をもう一度なぞるような形になっている。これをつまらなく思うようになったため、授業中に次々と教科書を読み進めていくようになった。
そして、一年生で学ぶべき単元をすべて理解してしまった。そこで俺は二年生以降に使用する予定の教科書を持ち込み、いずれ訪れる大学入試へ向けた勉強を今の段階から始めることにした。
一般入試を受けようと思っている以上、どれだけ勉強しても損はない。また、俺は桔梗ちゃんと同じ大学に行くこと以外は考えていないため、彼女が志望するところに百パーセント落ちない学力を得る必要がある。これが俺にとって大きなモチベーションになっている。
俺の言葉を受けて、急に黙り込んだ。何を企んでいるのか知らんが、早く解放してほしい。
しばらく固まった後、彼女は再び口を開いた。
「……まさか、あなたは。『一度読めばわかる』。そういうことですか?」
「言っていることがよくわからない。ああ、教科書という意味なら、お前の言う通り何度も読み返そうとは思わないな。わかっていることを反復しても面白くないし」
俺は、知識を獲得するという行為の面白さに気づいたのだ。見ただけで覚えられるような公式などに興味はない。新しいことを学び、日々自分の力が上がっていることを確認する。これは本当に素晴らしい体験であり、もっと早く取り組めばよかったと後悔しているほどだ。
「……申し訳ありませんでした。私は、あなたにとって邪魔な存在となっていたのですね」
「さっきから、お前の話は意味不明だ」
「ふふっ。こんな形で私の理論が証明されるなんて、皮肉なものです」
俺の話も聞かず、一人で納得して一人で話を進めていく。気持ちが悪い感覚だ。
焦点が合わない目には、深い絶望が見える。外の暗さも合わさって、不気味さを感じる。
つい後ずさりしてしまった俺の身体に、彼女は縋り付いてきた。
「こうなれば、私はもう死ぬしかありません」
身体がぶるっと震える。その態度から、これが冗談ではないことを理解した。
「やめてくれよ。さすがに、死なれるのは寝覚めが悪いぞ」
「……それを止めてくれる気持ちは、まだ残っていたのですね」
希望が見えたような顔へと変化する。上がったり落ちたり忙しい奴だな。
あー、めんどくせえ。くそったれと吐き捨てた後、俺は元主人の顔を見つめる。
再びため息をこぼして、気持ちを整理する。やはり、今さらこいつのことは好きになれない。
しかし、死んでほしいと思うほど嫌いなわけではない。ここに至って、俺はついに彼女へ救いの手を差し伸べることにした。
「……櫛田桔梗。俺の大好きな恋人だ。あの子の意に反することは、俺は何があってもできない。それはお前が今のように死を仄めかしたとしても、変わることがない事実だ」
「……そうですか」
もう、何となく事情は察していた。おそらく、一人暮らしが成立していない……日常のルーチンワークどころか、外出さえ厳しい状況にあるのだろう。
思い返すと、外へ出る際は必ず彼女の両親か俺のどちらかが付いていた。3歳の頃から高校入学に至るまで、一人でどこかへ行くという経験はしてなかったような気がする。それによって、普通の人間より転びやすかったり、注意力が低かったりするのかもしれない。
こう考えると、葛城が話していた内容とも辻褄が合ってくる。つまり、彼女は一人で生きられない、寄生虫のような存在になっている可能性があるということだ。
「桔梗ちゃんがお前を助けてやりたいと思うのなら、ある程度はどうにかしてやろう。もっとも、タダで引き受けてやるような『優しさ』は持ち合わせていないがな」
「……はい」
「逆もまた然りだ。あの子がお前の存在を受け入れられないと言えば、俺は即座にお前を見捨てる。桔梗ちゃんの意思は、俺の意思でもあるからだ」
自分の正直な思いを、隠すことなく伝えていく。
全ては桔梗ちゃんの意のままに。こいつが野垂れ死ぬことについて、彼女が何とも思わないのであれば問題ない。その場合は容赦なく切り捨てる判断を下すつもりだ。
「だから、まずは……桔梗ちゃんに話を通せ。全てはそれから始まる」
そう言って、俺はその場から立ち去った。
最後に見た彼女の表情は、思ったよりも明るかった。
桔梗ちゃんにだけはあっちよりも圧倒的に優しいです。他は知りません。